† 映画 †

ミシェル・アザナヴェシウス『アーティスト』――映画的文法としての「擬古体」の魅力


アーティスト コレクターズ・エディション [DVD]アーティスト コレクターズ・エディション [DVD]
(2012/10/17)
ジャン・デュジャルダン、ベレニス・ベジョ 他

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 文学的次元における「擬古体」――現代において、意図的に古典的な作法を踏襲すること。その上で、描写・文体面でもその時代の雰囲気を演出すること――これを映画で行うと、どうなるのだろうか? このテーマを考える上で、貴重な資料になりうる名作が、ここにある。ミシェル・アザナヴェシウスが世界的な高評価を得た映画『アーティスト』(2011)だ。この映画は、サイレント映画の方法論を踏襲しており、「台詞」が文字情報として「映像」とは別に提示されている。映像は「音楽」を伴ってチャップリンの諸作品に見られるようにリズミカルに進行していく。アザナヴェシウス監督によれば、本作は「メロドラマ」の構成を取り、はじめはカラーで撮影し、後でそれをモノクロに加工したという。その上で、1920年代の古き良きサイレント映画を、いわば「擬古体」の形式で再現している。ヒッチコック、ラング、フォード、ルビッチ、ムナウ、ワイルダーらの映画から影響を受け、場面的には文芸理論でいうところの、彼らからのAdaptation(解釈を踏まえた翻案)を行っていると思われる。こうした方法論は、一見古典的に見えるかもしれないが、既に古典化した作品を新たに作り替える点では、ウィリアム・マルクスらのいう「後衛」(前衛へのアンチテーゼとしての)とも相関しているだろう。
 物語は1927年から開始する。この年代は、世界最初のトーキー映画であるアラン・クロスランドの『ジャズ・シンガー』が公開された年でもある。主人公はサイレント映画で成功した喜劇王ジョージ・ヴァレンティン(ジャン・デュジャルダン)で、ある日ファンの女性ペピー・ミラー(ベレニス・ベジョ)に出会う。ペピーは女優志望の明朗活発な女性で、オーディションを受けに行く。ちなみに、女優ベレニス・ベジョはアザナヴェシウスの妻だ。デュジャルダンはダンディーな頃のショーン・コネリーと容貌が似ている。彼の執事役には、『L.A.コンフィデンシャル』のジェームズ・クロムウェルが当てられているが、本作では主人公を影ながらサポートする良き執事をひっそりと好演している点も見逃せない。
 時代は既にトーキー映画に移行し、観客は「無声」よりも生きた俳優たちの「声」を聴きたがっている。物語の中で、主人公が活躍していたキノグラフ社はサイレント中止に追い込まれる。冒頭からして底抜けて明るい、ミュージカル映画的な喜劇性に溢れていた映画は、この時点から少しずつシリアスな不穏さに支配されていく。ミステリアスな音楽も含め、本作の映画音楽はルドヴィック・ブルースが担当しているが、これが実に素晴らしい。今や時代は「トーキー一色」となるが、主人公はサイレント映画を自身で撮り続ける――彼にとって、これは自分の信念をかけた闘いなのだ。そして同時に、これはアザヴェシウスが現代映画に対して抱いている「戦略」の具体化でもあるだろう。
 主人公の撮影したサイレント『愛の涙』のラストは、まさにサイレント映画そのものの末路を象徴した作品である。ラストで探検家の主人公は流砂に埋もれていき、ヒロインが茫然自失して終幕する。一方、ペピーはトーキー映画で目覚ましい躍進を遂げ、人気女優としての着実なキャリアを形成していく。観客入りがどうしようもなく悪かった主人公の邸宅に、ペピーが心配して尋ねてくる。そこで、ヴァレンティンが彼女に言う台詞に、きっと全てが現れている――"But you ware right.Make for the young…"
 1931年になると、ヴァレンティンはすっかり没落し、ペピーは大スターとしての地歩を堅固なものにしていた。その一年後には、遂に主人公はかつての威光をすっかり失い、場末の酒場で落伍者のように落ちぶれている。映画界を媒介にして描かれる社会の移り変わりの速度、古き良き時代への「哀愁」を感じずにはいられない。ここで思い出したいのが、ゴダールの『はなればなれに』(1964)の冒頭で描かれている、英語教室での描写だ。教師はT・S・エリオットを解釈しながら、「classique=moderne」という図式を示す。「現代的であるためには、古典的であれ」――この重要な提言は、本作そのものと深く通底している重要なメッセージだ。
 ヴァレンティンは零落して、幻覚にまで苦しめられるようになっている。その印象的な場面が、スクリーンに映った自分の影を悪罵するところだ。ヴァレンティンから口汚く罵られた「ヴァレンティン自身の影」は、落ち込んでスクリーンの「外部」へと去っていくのである。こういうイリュージョニスティックな描写は他にもあり、例えばペピーが何十人にも分裂していく、昼下がりのキノグラフ社の通りの場面(実はヴァレンティンの見ている悪夢)もそうだ。自分の影まで喪失した主人公は、遂にこれまでのフィルムに火を放つ。しかし、飼い犬がディズニー映画並みの活躍ぶりを発揮して、主人の命をなんとか救う。ペピーはといえば、成功しても彼にずっと「恩」を感じ続けている。最終的に、ペピーの呼びかけで二人は「共演」を果たす。タイトルは『愛のきらめき』で、これはヴァレンティンが『愛の涙』を乗り越えたことを意味しているだろう。
 以上、ストーリーをざっと素描してきたが、本作を観ていて私が感じたのは、やはりゴダールのあの図式に他ならない。本作はその意欲的な実現であり、この方法論を取ったアザナヴェシウスのスタイルには我々も見習うべきものが多くある。またストーリーに関して、彼は典型的な「メロドラマ」の手法を取っているが、この点についてヴィスコンティも自身の作品群をこの範疇に含めていたことと比較しておくべきだろう。『アーティスト』に見られるプロセスは、「喜劇的なもの」、成功者としての「優美」な形式から、その地位を失い「悲劇」へと降下していく流れである。他方、ヴィスコンティは「悲劇」のまま映画を終わらせる点で、メロドラマを更に深刻な「神話」的次元にまで発展させる。アザナヴェシウスは主人公に再び「復活」を、すなわち「優美」への再導入を行う点で、伝統的なメロドラマの手法に忠実である。同じ「メロドラマ」を慣用したプロットでも、悲劇的なものを最終的にどう扱うかによって、更に幾つかのパターンに分別することができるだろう。





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