† フランツ・カフカ †

カフカにおけるtraveling narative(旅する物語)について−−三谷研爾『世紀転換期のプラハ−−モダン都市の空間と文学的表象』

Sofia Vergara by Marc Hom2
Sofia Vergara by Marc Hom

【世紀転換期のプラハ】

 フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883年7月3日 - 1924年6月3日)が生きた社会的背景について理解するために、彼の故郷であるプラハについて記録しておく。その上で役立つ貴重な資料となるのが、大阪大学大学院文学研究科教授の三谷研爾氏の『世紀転換期のプラハ−−モダン都市の空間と文学的表象』(2010)である。このページは、本書に対する私の読解記録を中心にしている。
 「百塔の街」プラハは14世紀半ばに、ルクセンブルク家のカレル4世が宮廷をプラハに置いたことにより、ゴシック様式の都として栄えた。その後、時代の変遷と共にバロック様式も取り入れられ、カフカが生きていた時代になるとこの二つの様式が混在した独特な景観を持つ都市として発展していた。とはいえ、当時のプラハは1910年(カフカ27歳)の段階では人口が50万弱であり、これはロンドンが1840年の段階で人口200万、パリが1860年で100万を越す大都市として発展していたことを鑑みると、それほど大規模な都市であるとは言えない。観光地としては、カフカの『城』の雰囲気も感じさせるシュヴァルツェンベルク、シュテルンベルク、チェルニーンら大貴族たちの宮殿や、ボヘミア王権のファイト教会、プラハ城などが特筆される。
 民族的背景を述べると、プラハはフス戦争から三十年戦争までの二百年間は混乱の地であったものの、その間も学芸と通商の都市としての性格は失わなかった。プラハは民族的な社会階層が顕著に現れている都市であり、ドイツ系支配層、ドイツ系+チェコ系、チェコ系下層、そしてユダヤ系といった主として四つの階層による「棲み分け」が起きていた。モルダウ河を挟んで左岸は支配階級が、右岸は貧しい労働者階級という図式である。旧市街は特にユダヤ系の貧民が多く、迷路のように入り組んでいる。19世紀後半の段階で、プラハの中心地はヴェンツェル広場となり、1891年には百周年記念全領邦博覧会が開催されて賑わいを見せたという。
 カフカの『アメリカ(失踪者)』を考える上で興味深いのは、実はプラハのスラムとして有名だったヨーゼフシュタットである。この地域は、日本にも地名そのものがネガティブなイメージを持つ例があるように、プラハ住民にとって否定的な印象を与える場所だった。ここには基本的にユダヤ系移民が生活していたが、一時的に人口が激減し、ほとんど廃墟の呈をなす空き家だけが目立つ中で、チェコ系移民が住み着くようになった。ヨーゼフシュタットは貧民の塒であり、安っぽい娼館が立ち並ぶ衛生上劣悪な土地である。1905年のこの地区のゲットーは、さながら「失われた街」であり、廃墟、孤独、世界の果てといった印象を滲ませる。しかし、衛生化措置が進んでからは、ユダヤ系も増え始め、1907年の時点でカフカの両親もこの地域の新しいアパートメントに移って来る。この場所は、生涯アメリカの地を踏まなかったカフカが資料収集とイメージによって書き上げた『アメリカ』において、主人公カール・ロスマンが最後に辿り着く貧民街の様相を捉える上で、いわば「下書き」となる土地である。面白いのは、カフカが成長する時点のヨーゼフシュタットは既に美化された状態で、かつての澱んで不潔なスラムとしての側面を失っていたということだ。つまり、カフカや彼の友人マックス・ブロートを含め、世紀転換期のプラハの学生たちには、このネガティブな土地に対する一種独特な「ノスタルジー」が働いていたと解釈することができる。
 この時期のプラハの学生の知的関心について述べると、まず挙げられるのが注目を集めていたゲオルゲのサークルである。大学の官僚的システムに対する反動として、カフカもこうしたグループの存在を意識していたことだろう。また、カフカはワーグナーの甥アヴェナリウス主宰の芸術雑誌で、青年インテリの間から評価されていた『ワンストヴァルト』を購読していた。こうした雑誌から、彼はホルツ、マン、ホーフマンスタールらを知った。ギムナジウム時代には、ニーチェを愛読していた。特に『ツァラトゥストラ』は当時のプラハで人気が高く、他にワーグナー、ヴェルディ、イプセン、ムンクなどが関心を呼んでいた。カフカの青年時代の芸術的洗礼について語る上で、当時のこうした思潮は見過ごすことができない。

【19世紀のプラハ文学】

 プラハという都市を舞台にした当時の作家として、カフカ以外に重要な作家としてまず挙げられるのが、怪奇作家として知られるグスタフ・マイリンクである。銀行経営者として働くダンディで派手な青年実業家だったマイリンクは、ビジネスに起因するいざこざに巻き込まれて逮捕されてしまい、後に幻想作家へと転身を果たす。1915年に彼が刊行した代表作『ゴーレム』は、現在の日本の若年層からも大きな支持を受けている作品だが、この舞台となるのが「魔都プラハ」である。興味深いのは、執筆中マイリンクはプラハを既に離れていたことであり、彼がヨーゼフシュタットの旧ユダヤ人街に部屋を借りる主人公を描いているという点だ。プラハは彼の中でネガティブな土地としてイメージされている。「ゴーレム」は、ユダヤ神秘主義を学んだマイリンクの想像の産物であるが、三谷氏は「プラハの旧ゲットーに暮らす人々の暗い情念の具象化」として、この怪物を捉えている。換言すれば、ゴーレムはプラハの「スラム」の擬人化であり、いわば「都市」、「場所」そのものを神話的に「キャラクター」化した存在であると解釈できる。
 パウル・レッピンの『ゼヴェリーン闇を行く』も、この時期のプラハを描いた小説の一つである。主人公は役所で働く若い職員で、夕方になると街路を散策する「遊歩者」である。この小説は一種の「街歩き」を描いており、デカダンス文学としてはチープでありつつも、近代化していくプラハの下町を描いた例として位置付けられている。
 プラハの多民族都市としての性格を描き出したのが、カフカの友人マックス・ブロートである。ブロートは1909年に刊行した『チェコ人の女中』で、チェコ系移民の女性への恋を描いている。チェコ系の女性を恋愛対象として描くという経緯には、ブロートなりのプラハの持つ文化的状況への省察が見出せる。主人公の使うドイツ語と、彼女の使うチェコ語には大きな壁がある。互いに言語も民族も異なる人間が、プラハでは同じ街路を擦れ違う。これは「男」と「女」の恋愛をメタフォリカルに描いたものでもあり、男女もやはり互いに擦れ違い、判り合えないまま、共に時間を過ごし、笑い合い、愛し合う。つまり、地誌学的な次元での「交通」は、文化的な差異を持った男女の「愛の交通」のメタファーとして機能していると、三谷氏は述べている。この点で、「街路」という場における人々の顔の交通、絶え間ない移り変わり、流動性は、「恋愛」を象徴しているというわけだ。また、ブロートのテクストの中には近代化される以前のプラハの街並に独特な愛情を寄せていたことが窺える。三谷氏の本書では素晴らしい写真が掲載されているが、特に「渡り橋」、「国鉄駅」、「小バザール」などは独特な味わいを見せる都市空間の一つだろう。本書の「渡り橋」の写真を眺めている時、私は地元にある淀川河川公園(大阪)の平穏な光景を想起した。おそらく、ブロートもこうした、いかにも街らしい場所ではなく、その周縁に位置する寂寥感と孤独の漂う内省的空間にこそ惹かれていたのであろう。
 ブロートが意識し、カフカにおいて深化した「交通」の概念は、民族の「移民・移住」の問題にも通じている。カフカのみならず、ブロートにとってもユダヤ的なテーマは重要なものだった。三谷氏によれば、ユダヤ文学における「交通」の概念には、「流動性」、「不安定性」といった特徴が見られるという。主人公は、いかなる場合でもけして定常的な目的地には到達できない。これは明らかにユダヤ史における「ディアスポラ」の文学的表現である。とはいえ、ブロートは先の恋愛小説において、チェコ系のヒロインにアメリカへの移動を暗示させ、全体としては目的論的な大団円に収めている。つまり、ブロートはカフカとは違って、物語である以上、すっきりと完結する筋書きを重視していたのであり、「交通」もこの終幕にまで至る変遷として描き出されているに過ぎない。ここで重要なのは、「アメリカ」という場所に対するプラハに暮らすユダヤ系移民たちの羨望を伴うイメージである。これがよく判るのが、女流作家ウィラ・キャザーが1918年に刊行した『わたしのアントニーア』である。この小説では、チェコ系移民の主人公がボヘミアからアメリカのネブラスカへ渡り、そこで平穏な農場を経営し、家族に囲まれて終わる。いわば、「離散」の系譜に連なる文学としては、アメリカに「居場所」を見出してそこでハッピーエンドを迎えてしまう時点で、このテーマの持つ深刻さは希薄化してしまうわけだ。彼らの「流民」的性格、その「移動・交通・流浪」は、最終的には平和な家族に囲まれた大団円に達し、「居場所=住処」を見出して終わる。これはまさに「所有」の物語であり、ストーリーそのものが最初から最後まで「交通」を主題にしているとはいえない。
 マイリンクは別として、ブロート、キャザーといったプラハの移民を描いた作品では、最終的に彼らが場所を所有するか、それが仄めかされて希望的な余韻を孕んで終幕にまで至る。こういった例を踏まえた上で、改めてカフカ文学の持つ恐ろしいまでの深刻さ、その切実さが判然とするのである。


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Franz Kafka

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【『アメリカ(失踪者)』におけるtraveling narative(旅する物語)】

 19世紀的な文学は、オースティン、バルザック、フォンターネ、マンを含め、「所有の物語」であったと位置付けることができる。彼らはドラマティックな紆余曲折を経て、最終的には常に何かを得るに至る。その上で、これまでの受難に満ちた遍歴は全て大団円にまで至るための明瞭な意味を持つ標識であり、物語自体は円環を描くように閉じるのである。しかし、カフカは他の作家とは何かが違っていた。カフカの創造したtraveling narative(旅する物語)は、ストーリーだけでなく、ナラティブ(語りの叙法)それ自体が常に「流動的性格」を持っている。主人公はどこへ行っても、何も獲得することができず、ひたすら追い出され、かと思えば奇妙にも歓迎され、再び唐突に追放され、果てしなく流浪・受難・離散・交通を繰り返す――そこに「居場所」などあろうはずもなく、彼らは歩き、留まり、悩み、迷い、再び歩き出すのだ。こうした文学スタイルの系譜は、カフカからベケットへ、あるいはブランショ、デ=フォレなどにも受け継がれていった。以下に、アンダーソンのtraveling narativeについての概念規定を引用しておく。

「旅する物語は、常に運動しながら読者に一歩先んじ、自己の起源や展開の動因をめぐる問いに触れることがない。だから、読者が物語に追いつくことはできないようになっている。このタイプのテクストの面白さは、テクストそのものが気まぐれで、移ろい易いことだ。旅する物語には、登場人物たちのアイデンティティだけではなく、ふつう彼らのアイデンティティを描き出すために用いられる家系なり家族なりの設定をも不安定にする作用がある。登場人物は何も所有せず、いつも動いていく。次に何が起ころうとしているのか知らないし、そもそも自分がその場にいる理由を問うてみることすらしない。…欲望は、ある特定の対象を所有すること、あるいはそれによって様々な形態の富を蓄積することに没頭しながら、その対象に固定されることがない。欲望それ自体移動的で、群衆に溶け込んだり、往来で迷子になったりしながら、動き続けるのだ」(*1)


 こうした「流動的性格」が顕著に見出されるカフカ最初の未完長編『アメリカ(失踪者)』について記しておく。先述したように、カフカにはアメリカへ旅行に行った経験がない。彼はアメリカ現地の最新情報をプラハで収集し、イマジネーションの力によって独自の「アメリカ」を作り上げた。本作を読解する上でまず前提として知っておくべきなのは、カフカの描いた「アメリカ」が実際のアメリカとは異なり、彼の作り出した虚構都市としての性質を持っているということである。
 ストーリーを紹介しておこう。主人公カール・ロスマンはプラハから来た移民で、まずニューヨークにいる叔父であり、ビジネスで成功したエドワード・ジェイコブのカントリーハウスに向かう。彼は叔父から一時的に「大富豪の子息」のような保護(乗馬、ピアノなど)を受けるが、些細なことをきっかけにして絶縁され、追放されてしまう。ここにまず、第一の「保護追放」というカフカ的な物語の定型が出現している。叔父のいるニューヨークのオフィス街から離れ、ロスマンは次に内陸のラムゼスという街でエレベーターボーイの職を得る。ホテル名は「ホテル・オクシデンタル」、勤務形態は昼夜二交代制で少年には過酷な仕事である。とはいえ、ここで職を見つけたこと自体、「保護」として描かれている。しかし、ボーイ長から再び解雇され、追放されてしまう。ここに、第二の「保護追放」の図式が、より正確にいうと「就職解雇」という喪失の物語が描かれていることに気付く。ロスマンはホテルの男仲間のいる労働者地区の郊外へと向かう。ここで彼は、歌手と同棲している男仲間のひもじい「下働き」として、ほとんど監禁状態にされてしまう。しかし、この貧しい地区でロスマンは隣のバルコニーで暮らしている大学生メンデルに出会う。メンデルは昼はデパートで働き、夜は学業に勤しむという堅実な二重生活を送っており、彼から最低の地位にたとえいたとしても、安易にそれを投げ打ってはならないと社会的な教訓を教わる。物語は未完のため、ここで終わるが、カフカは二種類のプロットを用意していた。プロットAでは、ロスマンではなく歌手のブルネルダが娼館へ向かうことになる。プロットBでは、失職したロスマンがオクラホマ劇場の人員面接に向かう。ここで彼は「技術労働者」という立場で職を得て、いざオクラホマへ向かうという時点で終わっている。この劇場はしかし、ラーズ・フォン・トリアーの『ヨーロッパ』に描かれていたような、どこか奇妙な職場であり、何か「裏」で謎めいた組織と繋がっていることも暗示させる。
 以上、ストーリーラインを素描して判るように、ロスマンは「転職」を繰り返す存在であり、常に「居場所」が根こそぎにされる移民的な受難を一身で担った存在である。主人公ロスマンは、アメリカに渡った当初はニューヨークのオフィス街という「中心地」にいたが、絶えず「追放」されることでいつしか名も知れぬ寂しい労働者地区の片隅としての「周縁」へと追いやられる。つまり、『アメリカ(失踪者)』においてtraveling narativeは、社会階層の移動(下降)とも重なり合っているのだ。ちなみに、『アメリカ(失踪者)』を執筆していた当時のカフカの試行錯誤の様子について、三谷氏は以下のように述べている。

「『失踪者』のテクストの成立事情については、作者自身の日記や手紙などから、かなり詳しいところまで明らかになっている。それによると、カフカが本作に着手したのは1911年末である。だがこの第一稿は1912年8月に破棄され、現存していない。同年9月26日、会心の出来を自負する『判決』を書き上げて三日後、気をよくしたカフカは『失踪者』第二稿の執筆にとりかかる。二ヶ月あまりのあいだ、筆はすこぶる順調に進んだが、カールがホテルを解雇される第六章〈ロビンソン事件〉を仕上げたあたりから、不調をきたした。11月17日、カフカはフェリーツェ宛の手紙の中で、次章が難渋していることを認め、別のささやかな物語に移るつもりだと述べている。これは、12月6日までの三週間ほどのうちに書き上げられた『変身』を指す。…(略)…1914年10月、『審判』執筆のために休暇を取ったカフカだったが、仕上がったのは『流刑地にて』ならびに『失踪者』のひとつの章だけという。この時書かれたのが、〈オクラホマ劇場〉の断片と推定される。その後、カフカがこのアメリカ小説に戻ることはなく、物語は未完成のまま永久に放棄されてしまった」(*2)


 小説を書くためにわざわざ仕事に休暇を出すカフカ。しかし、その休みの期間で書きたい小説は仕上がらず、代わりに『流刑地にて』と『失踪者』の断片ができたという。このエピソードには、カフカの並々ならぬ文学への情熱を感じることができる。

【カフカの内なるzone in transition】


 カフカの『アメリカ』を読解する上で、三谷氏はシカゴ社会学の代表者の一人アーネス・バージェスの都市社会学を参照軸にしている。バージェスらによるシカゴについての調査は、都市空間について以下のような原理を提起している点にその特徴がある。

「…概念的に捉えられた都市空間は、五つのゾーンからなる同心円構造を備えた世界である。中核部分に位置する第一ゾーンは、〈中心ビジネス街(loop)〉で、もっぱら都市の政治的・経済的機能が集積されている。それを囲繞する第二ゾーンが、移民コロニーやスラムなどが集中的にあらわれる〈遷移帯(zone in transition)〉である。…遷移帯のすぐ外に広がる第三ゾーンは労働者や移民第二世代の住宅地、さらにその外を取り巻く第四ゾーンはアメリカ人中間層の住宅地だ。そして、一番外側にあたる第五ゾーンが、通勤者の住む〈郊外(suburbia)〉とされる」(*3)


 周知のように、この同心円状もモデルはあくまでも「シカゴ」という一つの都市空間を類型化したものであり、他の研究者たちから正統的な批判も試みられている。三谷氏も、バージェスには歴史的条件への顧慮が欠けていることを認めている。しかし、三谷氏はバージェスの理論に一定の活用を見出してもいる。この理論を踏まえると、主人公ロスマンは直線的に社会的下層へ下降しているわけではなく、むしろ「遷移帯」の内部で「旋回」していることになる。この「遷移帯」とは、まさに作中でロスマンが最後に行き着く労働者街の郊外である。それは都市の外にあるのではなく、中心を取り囲む第二ゾーンなのだ。
 先述したように、カフカにはアメリカ体験が存在しないので、「遷移帯」の地区を描くに際しては必然的にどこかをモデルにせざるを得なくなる。そのモデルこそが、カフカが生活したプラハの旧ゲットーとして名高いヨーゼフシュタットと、彼の日記にも言及されている労働者の街ジシュコフである。ジシュコフについて、カフカは「帰り道には安らぎを覚える」と、どこか親しみを寄せる表現を使っている。これを踏まえると、我々はカフカが『アメリカ(失踪者)』という「架空の都市小説」において、最終的に作家が現実で体験した「遷移帯」の地域にまで漂着している事実に気付く。そして、カフカはそこに一種のノスタルジーを見出しているのではないだろうか。実際、カフカが大学生になる頃にはプラハのゲットーは衛生化措置により美化され、近代的な都市空間の様相を呈していた。これに寂しさを覚え、古き良き街並に美意識を見出していたのは、カフカだけでなく彼の友人ブローとも然りである。『アメリカ』は、実は「アメリカの都市」を描きつつも、最終的にプラハの古き界隈にまで辿り着く物語として読むこともできるのではないだろうか。その場合、彼のtraveling narativeには、絶え間ない「流動」の中にも、やはり一定の「居場所」的な空間を結節点として見ていたことになる。三谷氏も、カフカの「記憶の中だけで再現されるかつての旧ゲットー」として、『アメリカ』に描かれる最後の地区を位置付けている。そこは華やかでも活気に溢れているわけでもない、むしろ「都市の虚」とでも呼ぶべき廃墟的な場である。
 三谷氏はこのカフカが宿していた「内なるzone in transition」について、以下のように適切に述べている。

「カフカは、自らの内なる遷移帯を生きている。そして『失踪者』は、彼の内面化された社会的地形が移民物語へと変換されて語られたテクストだ。テクストから浮かび上がるモダン都市の空間が社会学的な都市の概念モデルと鮮やかな相似形を描くのは、プラハの社会的・文化的な地勢が、カフカという個人を深く貫いているからに他ならない。そうであればこそ、彼のアメリカ小説は、ひとりの作家の主観的世界をはるかに越えた、都市経験のethnography(地誌=民族誌)足り得ているのである」(*4)


 このように、近代都市について考える上で、「カフカのプラハ/アメリカ」という見地は極めて有益である。ジンメルは既に1903年のエッセイ『大都市と精神生活』の中で、大都市を「主体的文化に対する客体的文化の優位」として把握していた。ここでは、個人は貨幣的経済原理に還元される。近代化のこうした気配を、プラハを描いた作家たちも敏感に感じ取っていた。マイリンクは秘教的な場として「魔都プラハ」として描き出し、ブロートはプラハにおける「交通」を概念化した。ブロートの「交通」概念を発展させたカフカは、ナラティブそのものまでをも絶え間ない「交通」に曝すことで、常に「今・此処」のみを語り、居場所を根こそぎにされ移動を強いられていく「流民」としての人間存在を「近代人」の典型として描き出ことに成功した。カフカは「イメージとしてのアメリカ」という形式を借りて、やはり世紀転換期の近代都市プラハの姿を象徴的に描き出したのだった。カフカ、ブロート、レッピンらに見られた「都市の遊歩者」としての人間のあり方は、『パサージュ論』を執筆していた時期のベンヤミンの姿の生き写しでもあり、W・G・ゼーバルトの『アウステルリッツ』において最も先鋭化された形式で再び表現されることになる。「都市」−−実はこれほど砂漠的で、出エジプトにおけるモーゼの足取りを髣髴とさせる空間はないのだ。
 私が三谷氏の研究に触れていて感じたのは、文学には「都市小説」という明確なジャンルが存在し、そこでは「遊歩」という行為そのものが、いわばアルド・ロッシのいう「集合的記憶」の結晶として現前するということである。カフカの場合、アメリカをイメージ的に洗練し濾過してもいるので、いっそう「近代都市」としての性格が際立っていたのだろう。本書は「都市」と「文学」について研究したい読者にとって最良の本であると同時に、秀逸なカフカ論としても際立っている。
 
 




世紀転換期のプラハ―モダン都市の空間と文学的表象世紀転換期のプラハ―モダン都市の空間と文学的表象
(2010/03)
三谷 研爾

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「註」

*1)p285~286
*2)p280~281
*3)p298
*4)p311






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