† 神秘主義 †

近代ヨーロッパにおける「幽霊」の空間的表象をめぐってーー加藤耕一『「幽霊屋敷」の文化史』読解

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【Fantasmagorieとは何か?】

 近代的な娯楽装置の一つに、Fantasmagorie(ファンタスマゴリー)と呼ばれるショーが存在する。『「幽霊屋敷」の文化史』の著者で、東京大学で建築を学んだ加藤耕一氏によれば、これは「幻灯機によって幽霊を生み出すショー」を意味する。Fantasmagorieという語自体、ギリシア語の「幻」と「私は言う」の合成語である。このショーはフランス革命直後の18世紀末期のパリで、世俗的な近代スピリチュアリズムの興隆と並行して人気を集めた。詩人アルチュール・ランボーは、その詩の中でFantasmagorieを「幻」という意味で用いている。日本の翻訳文献には、この語を「魔術幻燈」などと訳すこともある。現在では、イリュージョニスティックなものを表現する際のひとつのメタファー(幻想的かつロマンティック)として用いられることが多い。また、この一連の機械装置は「映写機」のプロトタイプでもある。幻灯機自体の構想は既に17世紀からあり、アタナシウス・キルヒャーのスケッチした1671年の「ラテルナ・マギカ」にまで遡行することができる。
 Fantasmagorieを用いた最初のショーの開催は、1801年、ロンドンにおけるポール・ド・フィリップ(ポール・フィリドールとも)のものであった。ショーのタイトルも「FANTASMAGORIA」であり、ロンドンを発火源にして人気はパリなどへも飛び火した。Fantasmagorieによって映し出されるのは、往々にして見世物となった「幽霊」、「骸骨」などであり、これらには既に今日の遊園地における「ホーンテッド・マンション」の起源を見出すことができる。Fantasmagorie、それはいわば「死のキッチュ化」に他ならない。
 フィリドールが活躍するおよそ四十年前の1762年、ロンドンではある怪事件が生起していた。「コックレーンの幽霊」と呼ばれるこの事件は、ハイズビル事件らと同じく典型的なポルターガイスト事件であり、後に十歳の少女によるトリックであったことが判明するものである。しかし重要なことは、フランス革命前から既にこうした近代スピリチュアリズムの萌芽となるべき事件が大衆たちの関心を集め、神秘化するための準備ができていたという点なのである。
 フィリドールの開発したFantasmagorieは、その後ベルギーの物理学者エティエンヌ=ガスパール・ロベール(ロベールソンとも)によって改良された。1799年には特許が申請されている。ロベールソンのFantasmagorieは、ルイ16世やロベスピエールなどの歴史的人物の幽霊まで作り出したことで危険視され、わずか三ヶ月で閉幕に追い込まれる事態になった。たかが娯楽的なショーに、これほど当局が目を光らせていたことに当時の大衆の関心の高さが窺える。その後、ロベールソンは旧カプチン会の修道院を見つけ出し、その地下墓地に舞台を移した。この絶好の場所で、彼はグラス・ハーモニカという、独特なゴシック的雰囲気を醸し出す楽器を使って「幽霊屋敷」の原点を確立したとされる。つまり、ディスニーランドやその他有名な遊園地などで今日も人を集める「幽霊屋敷」の起源は、Fantasmagorieに音響機器が結び付いたこのロベールソンのショー(1799年〜1802年)に求めることができるのである。こうした当時の幽霊屋敷は、同時代のゴシック文学とも密接な関わりを持っていた。特にエドワード・ヤングの『夜想』やゴレゴリー・ルイスの『修道士』などは、Fantasmagorie的な雰囲気を放つ、この時代を特徴付ける文化的作品である。
 キリスト教が中心的原理を担っていた前近代までは、「幽霊屋敷」の文化はヨーロッパには存在しなかった。換言すれば、フランス革命による王党派の失墜、オーギュスト・コントらに見出される科学的実証主義の興隆などといった「近代」のパラダイムを特徴付ける思潮の中で、「幽霊屋敷」は初めて世俗化された「娯楽」として出現してきたのである。そもそも、キリスト教神学においては「幽霊」という概念はカトリックにおける「煉獄」と相関しているものの、現世に霊が留まって徘徊するというようなスピリチュアリズムは存在していない。何故なら、キリスト教徒にとって恐怖の対象は「幽霊」ではなく、「悪魔」だからである。しかし、キリスト教的パラダイムそのものが脱中心化したことを受けて、近代スピリチュアリズムの一つの表象としてFantasmagorieに見られるような「娯楽化された幽霊」までもがイメージされるようになった。つまり、「幽霊屋敷」の誕生自体が、近代を特徴付ける出来事の一端として解釈することが可能なのである。

【マダム・タッソーの蝋人形館】

 近代的な幽霊屋敷を考える上で重要なもう一つの要素が、「蝋人形」である。蝋人形は使い方によってはクレメンテ・スジーニの《医師たちのヴィーナス》のような人体模型になりうるが、無論幽霊屋敷のキャストとして娯楽的な使われ方をすることもある。ヴェルサイユ宮殿から公式に「蝋人形師」と認められ、ルイ16世の妹エリザベート専属のアーティストとして活躍したマリー・グロシュルツこと、マダム・タッソーも、幽霊屋敷の誕生秘話を飾る重要な存在である。彼女は医師フィリップ・クルティウスから蝋人形造形の基礎を習得してから、作品制作に勤しむことで着実に知名度を上げていった。しかし、フランス革命の最中で「死体の山」を目の当たりにしてしまったことにショックを受けて、以来デスマスクや「恐怖」を主題にした蝋人形を幾つも制作するようになっていく。彼女は名高いデスマスク職人として、ルイ16世、マラー、ロベスピエールらの「死顔」を制作した。のみならず、彼女は犯罪者の死顔にも関心を持ち、それをデスマスクに仕上げた。彼女の仕事は怪奇的で女性には酷だと言えなくもないが、それがかえって話題を集めたのか、パリ、ロンドンでは何度も展示会が開催されるほどの人気ぶりであったという。
 1802年頃に、彼女は活躍の舞台をロンドンに移し、念願の蝋人形館を造り上げた。ここにはFantasmagorieも用意されており、今日のヨーロッパ式幽霊屋敷の原型として評価されている。その後、彼女は三十年間にわたって北ヨーロッパ中心に各地で展示会を開き、蝋人形師として、あるいは一流のエンターテイナーとしての生涯を閉じた。彼女は「幽霊屋敷の文化史」における重鎮の一人であり、オカルティズムと大衆娯楽の中和した存在として特筆に値する。
 
【ペッパーズ・ゴースト】

 お化け屋敷、幽霊屋敷、ホーンテッド・マンションの原点の一つとして位置付けられるのが、1838年にロンドンに設立された王立科学技術会館である。ここにもやはり「マジック・ランタン(幻灯機)」が設置され、Fantasmagorieが見世物として人気を集めた。また、同時代ではジョン・ヘンリー・ペッパーによる「幽霊出現装置」も話題を呼んだショーの一つである。発明者はヘンリー・ダークスという人物で、二人は1863年に特許を申請している。これは舞台上に存在するガラス板としてのスクリーンに「幽霊」を映し出す錯視芸術の一つであり、当時は「ペッパーズ・ゴースト」として、かの《水晶球》にも設置された。舞台上の演出装置の一つであり、よくディケンズの作品に起用されたという。このダークスとペッパーの二人は、マダム・タッソーやフィリドールらと同じく、幽霊屋敷の文化史において重要な存在である。
 18世紀後半から19世紀前半における、近代的な娯楽装置としての「幽霊屋敷」を構成するものとして、Fantasmagorie、蝋人形、ペッパーズ・ゴーストの三つは、明らかに近代的市民たちにとって新しい世俗化された「霊性」を与える背景になったものであると言えるだろう。












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