† 美学 †

宮崎祐助『判断と崇高』読解(2)――なぜ、今「崇高」が重要か?

Elvina Mae Farkas3
Elvina Mae Farkas

【「構想力にとって常軌を逸したもの(das Überschwengliche)」、すなわち崇高】

 カントのEinbildungskraft(構想力)の概念について、宮崎祐助氏は以下のように解説している。

「すなわち、感覚からとってこられた素材としての「内容を、悟性の概念に(認識のために)調達する」(『人間学』)という機能、『純粋理性批判』に即して言い換えるなら、感性的直観にもたらされた多様を認識の諸要素として取り集め、「一定の内容へとまとめあげる」という総合の機能を、構想力は担うのである。このことの要点とは、構想力が、あらゆる経験に先立って、経験そのものを可能にする超越論的綜合だということである。つまり、この綜合は、「我々に可能な直観の対象への悟性の最初の適用」として(構造的な意味で)、初めて感性と悟性を媒介するのである」(p94)


「構想力は、一方で直観の能力として感性のように作用し(受容的)、他方で綜合の機能として悟性のように作用する(自発的)。構想力の性格を優れて特徴付けているこの二重性は、構想力が結局のところ感性と悟性を媒介するという働きにその本質があるのだとするならば、むしろ当然だと言えるだろう。構想力をこうした中間的能力とみなすこと自体は、アリストテレスが既に『デ・アニマ』においてphantasia(想像力)を、感覚とも思考とも異なるものでありながら両者に依存しているような中間的な作用として規定していたように、何か特殊な見方であるわけではなく、カントもまた形而上学の一定の伝統に忠実だということを示しているに過ぎない」(p95)


「構想力は直観の能力として(下級能力と呼ばれる)感性を起点としながら、結局は『純粋理性批判』では悟性に仕えることで(「悟性が内官に与える総合的影響」として)しか認識一般を可能にすることがない。構想力の根本的に従属的で媒介的な機能は、以下に見るように、実のところ『判断力批判』において理性との関係に置かれる時、極限にまで酷使されることでその本性――筆者はそれを「構想−暴力」と名付けたいと思う――を露わにするだろう。構想力はおそらくそれ自身としては何ものでもないが、まさにその代補的な本質によってこそ、自らの「不安にさせる不可知なもの(das beunruhigende Unbekannte)の威力――その賭け金は構想力の自由である――を最大限に発揮するのではないだろうか」(p96〜97)


 上記の引用箇所は要点であるので、そこからカントの「構想力」の概念を整理しておこう。

(1)感性的直観にもたらされた多様を認識の諸要素として取り集め、「一定の内容へとまとめあげる」という総合の機能。
(2)構想力は、一方で直観の能力として感性のように作用し(受容的)、他方で綜合の機能として悟性のように作用する(自発的)。
(3)『デ・アニマ』におけるphantasia(想像力)と相関する伝統的な概念の一つであり、感覚とも思考とも異なるものでありながら両者に依存しているような中間的な作用。
(4)構想力はおそらくそれ自身としては何ものでもないが、まさにその代補的な本質によってこそ、自らの「不安にさせる不可知なもの(das beunruhigende Unbekannte)の威力――その賭け金は構想力の自由である――を最大限に発揮する。



 この中でおそらく最も重要なのは(4)であり、特に構想力が「極限まで酷使されること」で、その本性としての「不安にさせる不可知なもの(das beunruhigende Unbekannte)の威力」を解放する、という箇所である。では、構想力を極限まで酷使、先鋭化させるといったい何が起きるというのか?

「崇高においては、構想力は美的対象の形式そのものによっては制限を受けないが、まさにそのことが、理性による否定として構想力の自由を奪うという帰結をもたらすだけなのだとすれば、崇高なものの呈示は、実現する以前に破壊されることになってしまうだろう。そうなってしまえば、「構想力にとって常軌を逸したもの(das Überschwengliche)」が「いわば深淵」を開き、そこで構想力は「自分自身を喪失する」ことになるだろう。その能力を理性によって否定されるにも関わらず、それでもなお当の否定性を表出すべく、構想力はどのようにして自らの呈示能力の自発性を確保するのだろうか」(p99)


 ここでようやく明らかになるのは、カントにおいては「崇高」が「構想力にとって常軌を逸したもの(das Überschwengliche)」として規定されているということであり、構想力が自己喪失し、「深淵を開く」場であるということである。アリストテレスの「想像力」の概念から伝統的に受け継がれてきたこの概念自身の限界性、臨界点として、「崇高」が位置付けられるということだ。
 
【「崇高の芸術」は存在可能か?】

 まず、「美」と「崇高」の本源的な差異についてのカントの考えを、宮崎氏は以下のように整理している。

「美は悟性と構想力との関係のもとで説明されており、このとき構想力は、判断対象の形式に即してある悟性概念を呈示する(この呈示によって主観に生じる快が美しいと感じられる)のだが、当の悟性概念が無規定である限りで、構想力は自らの「自由な戯れの状態」を保ったまま悟性と調和する関係に入る。他方、崇高は理性と構想力との関係のもとで規定されており、理性概念(というより理性理念)は構想力にとって直接には呈示不可能な「無限定性」として間接的にしか呈示されえない以上、構想力は理性によって「繰り返し突き放される」なかで理性とWiderstreit(抗争)関係に入る。美が心の「平静な観照の状態」に結び付く一方で、崇高が「反発と牽引の急速な交替」に置かれた心の激しい動きに結び付けられるのは、こうした諸能力間の対照的な関係に由来している」(p97〜98)


 また、カントは以下のように「崇高」について言及している。

「崇高なものの感情を(……)我々のうちに惹き起こすものは、その形式に関して我々の判断力にとって反目的的であり、我々の呈示能力に適合しておらず、構想力にとっていわばgewalttätig(暴力的)にみえる」(p100)


 しかし、宮崎氏はこの「崇高なものの感情」の持つ、構想力に対する「gewalttätig(暴力的)」な性質について、以下のように注意を喚起している。

「しかし、崇高の感情にとって重要なのは、こうした暴力がたんなる破壊的な脅威として反発的に感ぜられるだけではなく、理性理念との関連における誘因作用、つまり「同時に魅力的でもある威嚇的なもの」を伴っており、「不快を介してのみ可能であるような快」としても感ぜられるという点である。そうでなければ、崇高の感情が涌き起こる以前に、我々の感性的能力を脅かすこうした暴力は、どこまでも「辛苦や危険や苦境」といった消極的な価値しか持たないことになるだろう」(p100)


 上記の極めて綿密な宮崎氏のカント読解こそ、ヤン・ファーブルやフランシス・ベーコン、更にはジェニ・サヴィルなどの作品が持つ暴力性に対する根本的な批判になるだろう。私がここで即座に思い浮かべるのは、ファーブルの「傷」についてのインタビューである。ファーブルはそこで、芸術における「美」とは、間違いなく「傷つけられる」という痛みを伴った経験にアーカイブがあり、その傷口を媒介としていわば新しいポイエーシスが生起するというものであった。ファーブルの、特に『わたしは血』などの詩集において現前する体液的なるもの、破壊的なるものといった性質は、おそらく宮崎氏であれば「素朴な崇高」と表現するものではなかろうか。というのは、本書の「崇高論」で宮崎氏が展開している「崇高」は、明らかに「崇高を表明したかのような芸術作品そのものに対する懐疑」という、「二重の批判性」を持つからである。そもそも、「崇高」になりうるような要素を列挙して――大いなる嵐、突然の雷雨、凄まじい地割れ、夥しい死体、猛烈な突風、蛇状に揺らめく火災といった自然主義的な崇高から、暴力的な肉体の変形・歪曲(ベーコン)、更に肉体の圧迫・凝結(サヴィル)――そこから「崇高」を理論的に「構成」する行為は、本来的にいって「崇高」と果たして呼びうるのだろうか? 私がなぜ、これほど「崇高」を「肉」のテーマとして生々しく触知的に把捉するのかといえば、エドマンド・バークが述べていたように、「崇高」の核心が「恐怖」にあることを信じるためである。そして、私にとって「恐怖の芸術」とは、まさに「肉体」の表面に生起する何らかの病理、兆候、デフォルメと関係を持つのである。そうであるがゆえに、意図的に「肉体の恐怖」をテーマにし、この主題の内部において「自閉」してしまっているかのようなサヴィルのような現代画家は、いわば真の「恐怖」に値しないといえるのではないだろうか?
 何故なら、宮崎氏が後述しているように、「崇高」には「美的判断力」そのものを顧慮し、そこから更に一歩跳躍しようとする「自己内省能力」とも呼ぶべき力が属性として存在するからである。そうである以上、「崇高の芸術」は、本来的に成立しないのではないだろうか。存在するのは、「芸術の崇高」であり、「崇高の芸術」は崇高概念の自己閉域化に陥るのではないだろうか。
 カントは、「自然が美的判断において、我々にいかなる暴力も行使しない勢力と見られるなら、この自然は力学的に崇高である」と述べていた。また、自然の勢力の現象について、「われわれが安全な状態にありさえすれば、恐るべきものであればあるほど、かえってますます心を惹き付けるようになる」とも述べている。宮崎氏は、この「力学的崇高」の条件を、自然現象が全く我々の皮膚に何のダメージも与えず(物理的暴力を行使しない)、「美的暴力」によってダメージを与える場合において見出している。この「美的暴力」(ヴィスコンティのいう「審美的サディズム」とも明らかに相関する)の箇所は我々にとって極めて重要なので、骨格となるテクストをそのまま以下に引用しておく。

「しかし、純粋に美的な観点が問題になる限り、自然の勢力は「恐れを抱かれる」ことなしに「furchtbar(恐るべきもの)」として立ち現れる余地がある。そうしたものとして「恐るべきもの」が心の平静を侵害する場合、それは「恐るべきもの」であればあるほど、その勢力の現象性において、かえって心はそれに惹き付けられ、魅力を感じるようになるのだ。「そして我々はこれらの対象をすすんで崇高と呼ぶ」。こうした自然の勢力は、それでも「恐るべきもの」として心を動揺させ、そのつど我々の心的な能力(それ自身勢力を有しているもの)の抵抗を凌駕するという点で、先のカント自身の定義に照らして、やはり暴力として機能している。ここで問題になる暴力は、「恐れを抱かせる」暴力ではなく、いわば「恐るべきもの」の美的暴力だと言うことができるだろう。つまりそれは、自然がたんなる物理的暴力を行使しない限りで、なおも美的判断にとって暴力として現象するところの自然の勢力なのである」(p102)


 このテクストにおいて私にとって一つ、重大な気掛かりとなっているのは、カントも述べている「自然がたんなる物理的暴力を行使しない限りで」という表現である。字義通りにそのまま素朴に一度読んだ時、私はカントにとって「自然」は「展示的価値」(ベンヤミン)しか持たないのではないか、という疑念を抱いた。周知のようにベンヤミンは美術館に代表される展示的価値よりも、前近代的な「礼拝的価値」としての触知性、一回限りの価値を持った神秘の現前すなわち「アウラ」を、近代化に伴って喪失されていったものとして提起した。この文脈を踏まえると、カントのいう「自然がたんなる物理的暴力を行使しない限りで、なおも美的判断にとって暴力として現象するところの自然の勢力」というのは、まさに「展示された自然」であり、いわば植物園という制度的な施設内部での「人工的竜巻」に相当するものではないだろうか? 何故なら、我々にいかなるダメージも与えぬ自然など存在しないからである。ウェルギリウスが『農耕詩』で語ったように、全ての農夫の手は土によって美しく穢されている。
 私の問いは以下である。すなわち、美的暴力は、物理的暴力なしでしか生起しないのだろうか? 私は少なくともそう思えない。というのは、テーヴェライトが『男たちの妄想』の中で述べていたように、兵士的男性にとって戦場が「美」になり得ることを知っているからである。つまり、「物理的暴力を行使しない限りで」という前提条件付きの「崇高」などはない、というのが私が読んでいて考えた点であり、ここには「判断力」の持つ内省的な力を向ける必要があるだろう。カントのいう「力学的崇高」が、急迫する現実での圧倒的な暴力の可能性に審美的価値を捨象してしまう限り、これは「崇高」の核心にまでは達していない概念であると言わねばならない。
 おそらく、重要なのは宮崎氏の『判断と崇高』第二部の「崇高」論の「構成」ではないか。このページは最初の論稿「構想―暴力」(Ⅱー3)をまとめながら、私自身が考えたことも踏まえて記録しているものだが、この後に「吐き気」(Ⅱー4)の論稿が、続いて「物質的崇高」(ⅡーInterlude)と接続している。順序的に言って、「力学的崇高」は転覆させられる宿命にあるのであり、むしろメニングハウスを参照軸にした「吐き気」に、「崇高」そのものの「臨界点」としての重要な価値が見出せるのである。

【美的暴力が「感動的な適意」を持つに至る瞬間】

 カントのいう「暴力」は、物理的暴力ではなく、「構想力に対する」暴力であり、彼自身にとってそのような崇高さを持つ場とは、端的に「ローマの聖ピエトロ寺院に一歩踏み入れた」瞬間だったようだ。つまりカントは、皮膚が砕けて血が噴き出す瞬間の、例えばマティアス・グリューネヴァルトの《磔刑》には、「崇高」を結び付けていない。だが、当然のことを書いておくが、聖ピエトロ寺院に一歩足を踏み入れれば、たとえ我々のようにカトリックでなくとも、誰でもたいてい、その建築学的意匠を前にしてなんとなく厳かな感覚になるのである。もし、カントがその時の感覚を語るために「崇高」論を書き上げていたとすれば、それは芸術的にはおそらく何の価値も持っていない。むしろ我々にとって重要なのは、ベーコンやサヴィルのように暴力の現前に独特な救済の感覚を見出すような稀有な個性が存在してしまっているという事態なのであって、我々はこの特殊性から「崇高」とは何かにアプローチしたいわけである。寺院を美しい、崇高だと言う程度なら、誰にでもできる。だが、寺院を木っ端微塵に破壊する原子爆弾の炸裂が美しい、崇高だというのは、難しい――この、かつて大江健三郎がある暴力的事件に触れて言及し、問題視された発言のアレンジメントにこそ、何か「崇高」の最も禍々しい臨界点のような気配を感じるのである(大江の発言は、「死んだ人間を足で踏む行為は容易い。しかし、生きている人間にそれをするのは難しい」である)。
 その前に、宮崎氏の述べる「美的暴力」についての解釈の総括部分を引用しておこう。

「この議論の要点は、美的総括としての構想力の暴力が、構想力がみずからの能力のリミットにさしかかる局面において最大化しそれ自体として突出してくるということである。だがそこから強調されなければならないのは次の点だ。すなわち、このような暴力の最大化を美的総括の顕在化として取り出しうるとしても、それは構想力が自ら総括しうる直観の最大量にまで酷使されることで、自身の限界を超えてしまい、その結果当の総括に失敗する限りにおいてであるという点、つまり構想力の総括的暴力は、そうしたリミットの侵犯と超出において構想力自身の抵抗に出会うという点である。この抵抗において浮き彫りにされるものは、結局のところ、構想力が呈示せんとして呈示しえなかった絶対的な全体の理念であり、総括の暴力に対するいわば反作用とみなされるべき理性の力である」(p109〜110)


 宮崎氏の第二部「崇高」論における論述の流れとして、まずカントの「構想力」の概念が提示され、それが同じくカントの「構想力にとって常軌を逸したもの(das Überschwengliche)」、すなわち「崇高」によって、いわば外部へと解き放たれる=侵犯する。続いて、前景化してきたカントの「崇高」概念が、今度はメニングハウスや『アンフォルム』などを参照軸として、「吐き気」によって更に外部へと解き放たれる=侵犯する。元々、「構想力」概念の見直し自体が、古典的な「美」の概念に対する懐疑から生まれてきたことを鑑みると、これは「美」「崇高」「吐き気」という、18世紀のドイツ美学における「美的範疇論」における円周上の美的カテゴリーのうちの三つをめぐって旋回していることが判明する。

無 題

 では、現代の「美学」(もしそう呼びうるとすれば)の「崇高」の先にあるのは「吐き気」なのか? 「吐き気」の先には、再び「美」が再来するのだろうか? つまり、「吐くこと」そのものの「美」、近代美学における残余=反吐としての「美」……?
 さて、カントは「崇高」について、以下のように述べている。

「構想力が、この感情(美的暴力に対する反作用)のうちでその極大に達し、それを拡大しようと努力するにも関わらず、自分自身のうちに逆戻りし、だがこのことによってある感動的な適意へと置き移される」(p110)


 宮崎氏は、この過程における「感動的な適意」を、「崇高」の美的感情であると規定している。
 





判断と崇高―カント美学のポリティクス (新潟大学人文学部研究叢書 (5))判断と崇高―カント美学のポリティクス (新潟大学人文学部研究叢書 (5))
(2009/04)
宮崎 裕助

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