† ロココ論 †

*甘美な芸術で癒されたい貴女のために~ロココ文化の本質について~*

【ロココ・リヴァイバルのために】

 ロココ(17世紀後半~18世紀初頭)は果たして過ぎ去った時代の哀愁を漂わせた優美な名残に過ぎないのであろうか?
 二十一世紀である現代も、実はかつての「ロココ」様式がファッション、インテリア、アクセサリー、デコレーションケーキなどの分野で多様な形で引用されている。フランスでも、1830年代のロマンチック時代、第二帝政時代、アール・ヌーヴォー、そして1940年代の「ニュールック」などの潮流は、全て「ロココ」から多くの影響を受けていた。ロココは単に軽妙洒脱でメルヘンチックなだけではなく、そこにはボードレールが語ったように高貴な「メランコリア」が漂っている。美学的に言えば、ロココは「優美」の最高形式であり、またファッション面では「ローブ・ア・ラ・フランセーズ」の美しいディテールにも見出せるように、高度に「襞」の時代である。この「襞」という概念を先鋭化させた20世紀最大の哲学者の一人ジル・ドゥルーズは、その名も『襞』という後期のバロック(ライプニッツ)論で、明らかにロココ時代のファッション・建築とも通底するような興味深い言説を残している。ロココがフランスでは「後期バロック」のインテリアとして位置付けられていることや、日本を代表する美学者である谷川渥が現代を「ネオ・バロキズム」の時代であると規定していることからも、今後あらゆる思想的なコンテクストで、バロックの後期形式、あるいはそれ自体独立した魅力を放つ「ロココ」様式は、我々に貴重な示唆を投げかけるだろう。


【女性中心の文化】

 ルイ15世の下では、国事が愛妾のブドワール(女性の私室)で議せられたというエピソードにもあるように、18世紀は「女性中心」の文化・芸術が花開いた華麗な時代である。パリにサロンを最初に開いたのはランベール侯爵夫人で、貴婦人たちは男性たちに混じって議論を交わし合った。彼女のサロンは1719〜33年に渡って人を集め、「ビューロー・デスプリ(知識人のサロン)」の典型であった。ジョフラン夫人(マリー・テレーズ)のサロンは、そうした知識人のサロンの模範であった。ここにはモンテスキュー、マリヴォー、ヴォルテールといった一流の知識人から、画家ではブーシェ、ヴェルネ、ブーシャルダンなどが参加し、少年時代の神童モーツァルトが演奏していたという。ルイ15世治世下において、パリだけでも小規模なサロンを開くことのできるカフェが既に600軒以上存在したという。ロココ時代の文化的なメディウム(媒体)は、まさに貴婦人たちを中心にした優雅な「サロン」にこそあったのだ。
 貴婦人たちは白粉、紅、パッチ、ムーシェ(付け黒子)などの化粧のテクニックによって、「白さ」を強調するファッションに美意識を見出した。また、ルイ14世は「香りの王」と讃えられ、15世に及んでは《芳香宮》で毎日異なる馥郁たる香りを愉しんだという。ルイ15世とロココの保護者ポンパドゥール夫人の出会いのきっかけとなったのも、やはり「香り」であった。ルイ16世時代になると、ファッションリーダーとしてマリー・アントワネットが活躍する。
 女性だけでなく、この時代には男性も「刺繍」を愛し、ギャラントリーを重視した。ルイ15世やリュイヌ公の刺繍好きは今日にも知られている。貴婦人たちは「演劇」、「園芸」、「オペラ座舞踏会」(1716年以来)など優雅な趣味を持ち、洗練された礼儀作法で文化的交流を愉しんだ。1770年代以後、貴族階級はパリから離れ地方で二、三日、あるいは二、三ヶ月過ごすことが多くなっていく。これにはフランス革命前の時代の気運としての「宮廷軽視」、アングロマニーの他、ルソー的な自然愛好が挙げられる。


【ロココとは何か?】


「神から与えられた王権の行使者としての役割を演じきることができた最後の王」とも表現される「太陽王」こと、ルイ14世時代の芸術は「絶対王権思想」を理念にしたものでなければならなかった。したがって画家たちは古典主義的画題からテーマを選び、キリスト教信仰の正当性を押し出すことに厳格に勤しんでいた。
ルイ14世の建てさせた《ヴェルサイユ宮殿》はバロック建築の代表作としてカテゴライズされているが、「バロック」は元来イタリアのボルロミーニの激しく屈曲したカトリック教会のファサードに対して揶揄的に用いられた表現がその始まりであり、根はやはりイタリアに存在していることを考えると、フランスではむしろ「バロック」よりも「古典主義」というのが正確かもしれない。事実、ルイ14世時代の政治の影響で、17世紀のフランス芸術は総じて厳格な古典主義が重視されていた。
しかし、次のルイ15世になると、古典主義の窮屈さからようやく解放されて、「情緒的で柔らかく、繊細」、「軽妙・洒脱」、「親しみ易くも自由」を感じさせる優美な「ロココ」様式が花開く。ただし、実質的にロココを推進した立役者はルイ15世ではなく、彼の愛妾ポンパドゥール夫人(1721-64)であり、彼女中心の「宮廷サロン文化」がロココの真骨頂である。
 ロココを「後期バロック」として規定する向きもあるのは、元々この言葉がバロック庭園の人工洞窟「グロッタ」の貝殻装飾を意味するrocaille(ロカイユ)に由来しているからである。1730年以降、バロック建築の内装で、植物の蔓草や美しいレース編みのような「ロカイユ」模様が流行し始め、このことからバロックの一部を「ロココ」を特別に表現することが多い。「ロカイユ」を最初に採用したのは金銀細工師のJ・A・メッソニエの『野菜の書』の見返しページの装丁である。ラジューもロココ的なモニュメントを初期に採用していた。
 ロココであれ、バロックであれ、どちらも当時の名付け役たちは蔑称で呼称しているところに、芸術全般がこの時代まで基本的に「宮廷文化」専属の贅沢品でもあったという事実を感じさせる。とはいえ、現代世界においては、むしろバロックとロココには特別な人気があるのもまた事実である。
ロココという場合、現在では1710~60年ごろまでの「フランス美術」様式を意味することが多いが(ルイ16世の王妃マリー・アントワネットが“ロココの女王”と称されているように、実際には1789年のフランス革命まで実質的に宮廷ではロココが流行していた)、無論どの時代にも様式の類型的同一性に含まれない作品が存在することはいうまでもない。
 スウェーデンでは、1771年即位のグスタフ3世時代を特別に「ロココ時代」とも表現する。


【建築】


Kurfürstl Palais Trier2
《トリーア選帝侯宮殿》(ドイツ、トリーア)

Queluz National Palace 舞踏会の間
《ケルス国立宮殿・「舞踏会の間」》(ポルトガル、ケルス)

 ロココの研究者として知られ、ドイツの文化史家でありプロイセンの貴族階級に出自を持つマックス・フォン・ベーンによれば、ロココ時代のあらゆる館は「二重の顔貌」を持っていた。建築の外面は古典主義的であるが、室内空間は高度にロココ的な優美さを秘めている。これは当時の貴族階級の「内面心理」とも相関している。こうした建築における「外と内の分裂」については、表象文化論の研究者である東大大学院教授の田中純氏が『建築のエロティシズム』で、アドルフ・ロースの作品を挙げながら考察している。ロースの住宅設計でも、外面はシンプルでダンディな印象を与える機能主義的な外観だが、内面は「襞」構造を持った迷路の如き女性原理に支配されている。ロココ時代の建築には、このような「外部と内部の分裂」というテーマが見出される。
 この時代は、ロココと古典主義が争っていた。例えばパリのサン・シュルピス教会は、当初メソニエがロココ風に設計したが、後にセルヴァンドーニが古典主義案を提示してこちらが採用された。ベーンによれば、建築界では1732年の時点で既に当時の人々が新古典主義様式への期待を高めていたという。その決定的な証左こそが、1753年のコンコルド広場の「設計公募」である。ここで採用された応募案のほぼ全てがロココではなく古典主義様式であり、採用されたのも当然こちらであった。建築界での新古典主義の一つのシンボルが、スフロの《サン・ジュヌヴィエーヴ教会》であり、絵画ではダヴィッドがやはりシンボルになっている。
 
ロココの鏡 Schloss Ludwigsburg; Spiegelsaal
《ルートヴィヒスブルク城・「鏡の間」》(ドイツ、ルートヴィヒスブルク)

Annas Church Cracow interior
《聖アンナ教会・インテリア》(ポーランド、クラクフ)

404px-Günzburg_Zu_Unserer_Lieben_Frau_07
《ギュンツブルクの聖母教会・柱廊ディテール》(ドイツ、ギュンツブルク)

ヨハン・ゴットフリート・ビュリンク《中国風茶屋》
ヨハン・ゴットフリート・ビュリンク《中国風茶屋》(ドイツ)

ディテール
ヨハン・ゴットフリート・ビュリンク《中国風茶屋》ディテール

・ガブリエル=ジェルマン・ボフラン《オテル・ド・スービーズ 楕円形の間》
ロカイユ装飾の確立者としてボフラン以外に重要なのは、ジル・マリ・オップノール、ジュスト・オレール・メッソニエである。

後期ロココでは、
・アンジュ=ジャック・ガブリエル《プティ・トリアノン》(ギリシア・ローマ様式の円柱を取り入れている)
・リシャール・ミック《愛の神殿(ヴェルサイユ宮殿アモー内)》(マリー・アントワネットの依頼で建てられた後期ロココの代表的作品)

ドイツでは、
・ヴェンツェスラウス・フォン・クノーベルスドルフ《シャルトッテンブルク城 室内》




【絵画】


charles-de-la-fosse-1640-1716-the-finding-of-moses.jpg
シャルル・ド・ラ・フォッス《川から救われるモーセ》

 ラ・フォッスや、アントワーヌ・コワペルら色彩派はロココ絵画の誕生に重要な影響を与えた。特にラ・フォッスの《川から救われるモーセ》は、「ロココスタイルの聖書画」(雅な宗教画)として、崇高さよりも「優美」さが際立っている。18世紀のフランスの絵画はロココ一色だったのではなく、「フェート・ギャラント」系統、アレクサンドル=フランソワ・デポルトやジョゼフ・ヴェルネ、ユベール・ロベールから後期フラゴナールを中心にした「風景画」系統、グルーズを代表とする市民的な「良俗」を描く系統など、大きく三つに区分される。グルーズにも《少女と鳩》のような典雅な少女を描いた作品も存在している。また、風景画家たちの顧客は主としてイギリスの貴族階級であった。「近代的市民感情」の芽生えを感じさせる二人の重要な画家として、一人はジャン=バティスト・シメオン・シャルダンであり、もう一人は先述したジャン=バティスト・グルーズである。グルーズはダヴィッドが学んだ師でもある。
 18世紀になると「サロン(官展)」が開催され始め、ディドロを出発点とする美術批評というジャンルが成立する。

Jean-Baptiste Greuze
ジャン=バティスト・グルーズ《無垢》

323182.jpg
ジャン=バティスト・グルーズ《少女と鳩》

Jean-Baptiste_Greuze_-_The_Dead_Bird_-_WGA10679.jpg
ジャン=バティスト・グルーズ《死んだ小鳥》

 ギリシア神話をモチーフにしたロココスタイルとしては、フランソワ・ル・モワーヌの《ヘラクレスの神格化》が挙げられる。この時代の肖像画家では、ニコラ・ド・ラルジリエールの《美しいストラスブールの女》や、ルイ15世を描いたジャン=マルク・ナティエ、イギリスでは特にトマス・ゲインズバラが「優美」において際立っている。


・アントワーヌ・ヴァトー

 ロココ絵画の創始者であるヴァトーは屋根葺きの親方の息子として生まれ、貧しく病気がちな画家で、三十六歳で早世した。彼は本来、瞑想的かつ詩的な性格だったが、貴族文化への憧憬を秘め隠していた。彼はまた、シノワズリ(中国趣味)の最初期の導入者でもあり、ゴンクール兄弟によれば、中国はこの時代において「ロココの一地方」として関心を注がれていた。ヴァトーのスタイルである「フェート・ギャラント(雅な宴)」を先取り、彼を逸早く評価したのはシャルル・ド・ラ・フォッスであった。
 ヴァトーの代表作《シテール島の巡礼》は、ダンクールの喜劇『三人の従姉妹』がモチーフになっている。ヴァトーのフェート・ギャラントの後継者としては、ニコラ・ランクレ《踊るカマルゴ》、フランソワ・オクタヴィアン、ジャン=バティスト=ジョゼフ・パテルらがいる。

Jean-Antoine20Watteau-423356 シテール島への巡礼≪雅やかな宴≫
アントワーヌ・ヴァトー《シテール島への巡礼(雅やかな宴)》

ピエロ
アントワーヌ・ヴァトー《ピエロ》


・フランソワ・ブーシェ

 ブーシェはヴァトーに学んだ画家の一人であるが、ポンパドゥール夫人に庇護され、「メートル・ド・プレジール(快楽に奉仕する画家)」と称された。ブーシェの作品にはギリシア的「裸体文化」への回帰が官能性豊かに見出される。ブーシェはヴァトーとは対照的に、スケッチだけでも一万点以上にものぼるその膨大な作品群によって、名声と富の絶頂を築いたロココ画家の代表格である。ブーシェの《エウロペの略奪》の宙空にはアモールたちが飛び交っているが、この曲線的な天使のアーチはロココ絵画の特徴の一つである。マックス・フォン・ベーンの『ロココの世界――十八世紀のフランス』によれば、ブーシェにはヴァトーのような「哀愁と高貴な心」が欠けていたという。彼はどちらかというと世俗的で、ディドロは1761年に「いつも人を惹き付ける〈甘い悪徳〉」とブーシェを評した。代表作として重要なのは、《ヴィーナスの勝利》。

François Boucher
フランソワ・ブーシェ《春》(1755)

・ジャン・オノレ・フラゴナール

 ブーシェの愛弟子であり、ロココ絵画の正統的継承者として特筆される。フランス革命によって王統派(カトリック)が敗北し、「王の死」と共に宮廷文化の優美さが市民たちの槍玉にあげられていく過程で、晩年は失意と孤独、貧困の内に死去したと伝えられる。

The Progress of Love- The Confession of Love 1771
ジャン・オノレ・フラゴナール《恋文》

The Progress of Love- The Meeting 1773
ジャン・オノレ・フラゴナール《逢引》

・モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール

彼はロココの肖像画家として重要であり、特にロココ文化の立役者である《ポンパドゥール夫人》が名高い。

LA20TOUR,20Maurice20Quentin20de-254482 le Portrait de Madame de Pompadour
モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール《ポンパドゥール夫人の肖像》


・ジャン・シメオン・シャルダン


シャルダンはロココ時代の代表的画家とは異なり、アカデミーで学んでいない。
彼はアカデミーにおける画題として重要であった歴史画、神話画ではなく、生涯に渡って「静物画」、「風俗画」を描き続けた。
正統的教育を受けず、当時エリート画家たちの間での通過儀礼となっていたイタリア留学経験もないシャルダンであるが、続く新古典主義時代の代表的な美術評論家ディドロは『1763年のサロン』において、既にこの画家を絶賛している。

「もし私が息子を画家にしたいと思ったら、この絵を買うことだろう。そして彼に“この絵を模写するんだな、くりかえし模写するんだな”ということだろう。だが、おそらくこの絵の模写は、自然を模写するのと同じように困難なことだろう。…これこそ、色彩や反映の調和を了解している人物だ。
おお、シャルダンよ! 君がパレットの上で磨り潰しているのは、白でもなく赤でもなく黒でもない。これらの対象の実質そのものだ。君が画筆の先につけてキャンヴァスの上に置いているのは、大気と光なのだ……」(粟津則雄『自画像は語る』「静物画家シャルダンの場合」p72-73、ディドロのテクスト)


実際、シャルダンの描く絵画には油彩画の持っている絵画性の味わいが滲み出ているように感じられる。
シャルダンは現代でも多くの知識人から多様なかたちで再評価されている画家でもある。例えば、ジャック・デリダが『盲者の記憶』でファンタン=ラトゥールと並んでシャルダンの自画像を論じたことは記憶に新しい。
シャルダンは1771年に最初の自画像として名高い《鼻眼鏡をかけた自画像》を制作しているが、この時既に72歳の高齢であった。若さによる自己顕示の情熱が迸る時代ではなく、何故「温和」そのものであったこの画家が突然、自分の「顔」に興味を抱き始めたのか――まさに興味の尽きない点である。実際、プルーストもこれには注目しており、シャルダンの自画像をユーモラスに皮肉って「老婆のようだ」と笑っている。
美術評論家の粟津則雄氏は、シャルダンを18世紀ロココ絵画におけるひとつの「特異点」として位置付けている。シャルダンは主として静物画、風俗画家として活躍し、確固たる地位を確立するが、肖像画や寓意画なども残されている。ルイ15世やロシア女帝エカテリーナ2世など当時の権力者を始めとした貴族社会から絶大な信頼を得ながら数多くの作品を手がけた、18世紀フランスのロココ絵画を代表する画家の一人である。


Jean20Baptiste20Simeon20Chardin-398432 《若き素描家》
ジャン・シメオン・シャルダン《若き素描家》

シャルダン 《シャボン玉遊び》
ジャン・シメオン・シャルダン《シャボン玉遊び》

jean-Baptiste-Simeon20Chardin-394632  Still-life with the Dead Pheasant and Hunting Bag
ジャン・シメオン・シャルダン《死んだ雉と狩猟用鞄のある静物》


【イタリアのロココ絵画】


 17世紀後半から18世紀までの転換期においては、後期バロック様式の時代であるがヴェネツィアを中心に「脱バロック」の気配が既に感じられ始める。重要な画家としては以下。

rosalba_carriera2.jpg
ロザルバ・カリエラ《絵画の寓意》

Rosalba Carriera- Young Lady of the Le Blond Family
ロザルバ・カリエラ《少年像》

・ロザルバ・カリエラ

 イタリアのロココ女流画家として極めて重要なのがロザルバ・カリエラであり、彼女はパリでも大絶賛され、ローマ・アカデミー会員を務めるなどロココ時代において輝かしい業績を残した。カリエラはヴァトーやコワペルとも交流し、当時16歳のモーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールに及んでは、彼女の淡くブルーがかったグラデーションが特徴的なその優美な絵画空間に魅了されて、三十歳以上年上の彼女に本気で求婚を考えたという逸話が残っているほどである。ラ・トゥールはカリエラから決定的な影響を受けているが、彼もまた人間心理を読み取れる卓越した「魂の画家」であった。

presentation.jpg
ピエトロ・ロンギ《紹介》

・ピエトロ・ロンギ

 画家ピエトロ・ロンギもまた、1730年代にカリエラやヴァトーからその華麗なるロココスタイルを学んでいる。しかし、ロンギには20世紀の画家バルテュスのような不気味さと、ヒエロニムス・ボスのような滑稽な怪奇性も特徴として備わっている。彼はゴルドーニの喜劇からユーモラスな滑稽の醍醐味を学び、特に《気絶》、《犀》などでそれが活かされている。ロココスタイルのロンギの作品では、《紹介》が挙げられる。
 イタリアのロココ画家としては、ヴェネツィアのフランチェスト・グアルディも挙げられる。

・アレッサンドロ・マニャスコ
・ジュゼッペ・マリア・クレスピ
・ティエポロ(弟子のピエトロ・ロンギ)
・カナレット
・フランチェスコ・グアルディ
・ピラネージ



【18世紀のイギリス絵画】


the-morning-walk-painter-by-thomas-gainsborough-1344148904_b.jpg
トマス・ゲインズバラ《ウィリアム・ハムレット夫妻》

sir-john-edward-swinburne-thomas-gainsborough.jpg
トマス・ゲインズバラ《ジョン・エドワード・スウィンバーン卿》


 バロック後期において出現したロココはイギリスでは見られず、風俗画、風景画が中心となる。また1768年に「ロイヤル・アカデミー」が設立され、初代院長にジョシュア・レイノルズが就任した。このアカデミーがその後の「新古典主義」の発展に繋がっていく。他に重要な画家は以下。

・ウィリアム・ホガーズ
・トマス・ゲインズバラ



【工芸】

 ロココ工芸は、工芸史において黄金期と称される華麗な時代である。ロココ彫刻はあまり主要とはならなかったが、工芸の素晴らしさが補って余りあるであろう。

・マイセン(ドイツ)

ドイツのマイセン陶磁器は、西洋白磁の頂点に君臨する世界最高峰の工芸品である。ロココ的色彩は「白」、「薄い水色」、「ピンク色」であるが、マイセンのピンクローズのシリーズはそれだけでロココ様式を体現している。1720年にウィーンから招かれたヨハン・グレゴリウス・ヘロルトらによって、ロココ調の陶磁器としてスタイル化したとされている。

meissen  pot

マイセン  b 時計
マイセン・ロココスタイルの時計

マイセン・ロココスタイルの時計台
マイセン・ロココスタイルの時計

meissen_ clock


・セーヴル焼(フランス)

ドイツのマイセンで技師として働いていたデュポア兄弟がフランスに招来され、ロココ様式の発展に尽力していたポンパドゥール夫人の援助によって王立窯となる。

セーヴル  陶芸

セー ヴル 


【音楽】

装飾音符を多用していることから、「ロココ様式」に含まれる。

・クープラン
・ラモー
・スカルラッティ
・モーツァルト



【現代におけるロココ文化の再現・パロディ――Nina L'Elixir Music Vidéoにおける、「ロココ的な森」】




 ニナ・リッチ(Nina Ricci)は、フランスのファッションブランドであり、1932年にイタリア人デザイナー、マリア・ニナ・リッチ(Maria Nina Ricci)とその息子のロベルトがフランス・パリで創業した。
 この映像作品で登場するエレガントな森は、その薄桃色とクリーム色を基調とした色彩構成から、ロココ的なインテリアとの深い相関を見出すことができる。

2Nina-Ricci-L’Elixir-Eau-de-Parfum

nina-lelixir-bottle-visual-4.jpg

main-nina.jpg





「参考文献」


ロココの魅力―感覚のよろこびと美へのたわむれ (THE GREAT HISTORY OF ART)ロココの魅力―感覚のよろこびと美へのたわむれ (THE GREAT HISTORY OF ART)
(1997/01)
中山 公男

商品詳細を見る



華やぐ女たち―ロココからベルエポックの化粧とよそおい華やぐ女たち―ロココからベルエポックの化粧とよそおい
(2003/09)
津田 紀代

商品詳細を見る



ロココの世界―十八世紀のフランスロココの世界―十八世紀のフランス
(2000/10)
マックス フォン・ベーン

商品詳細を見る
関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next