† 文芸理論 †

新しい「メロドラマ」と現代文学の可能性――ピーター・ブルックス『メロドラマ的想像力』読解

Sky Ferreira by Mario Testino
Sky Ferreira by Mario Testino

【現代文学における「メロドラマ的方法論」の重要性】

 バルザック、ヘンリー・ジェイムズ、プルースト、そしてルキノ・ヴィスコンティ――彼らには実はその芸術的方法論として共通するスタイルが存在する。このページでは、イェール大学教授(比較文学、フランス文学)のピーター・ブルックスが文芸批評、映画批評において多大な影響を与えた理論書『メロドラマ的想像力』(原著1976年)についての記録を残す。
 メロドラマとは何であるか? ブルックスの解釈によれば、これは「悲劇の死」と「キリスト教的価値観の脱中心化」によって生まれた近代的なドラマツルギーである。メロドラマはその本質においてロマン主義文学に内在する核心となる構造であり、両者は不可分である。先に概略しておくと、今日でもTVドラマや映画、文学、戯曲など多様な形式でメロドラマの「型」が再生産されているが、元々はフランス革命の最中に出現したジャンルであり、1800年~30代に一世を風靡した劇作家ギルベール・ド・ピクセレクールによってそのスタイルが確立した。

【メロドラマの作り方、そのドラマツルギー】

 ボルヘスも文学講義で述べていたように、古今東西全ての物語にはパターン、すなわち「型」が存在する。「型」とは類型であり、類型が存在する以上、全ての物語はカテゴライズ可能である。ブルックスが本書でメロドラマの「型」として重要視していたものを以下にリスト化して掲載する。これは、これから「物語制作」に携わろうとする全ての戦略者にとって、一定の参考価値を有するものであろう。

「メロドラマの登場人物パターン」

・「ヒロイン」
・「ヒロインの父親」
・「ヒロインを苦しめる迫害者」
・「ヒロインを助ける正義感」
・「ヒロインを補佐する脇役たち(侍女、子供、許嫁、農夫など)」

「メロドラマのストーリー上の骨格」

(1)喜怒哀楽における「激情」に「女主人公」が耽溺すること(主人公は女性でなければならない)。
(2)全ての人物たちに、常に劇的で誇張された大掛かりな身振りを取らせること(この規定はディドロに拠る)。
(3)あらゆる読者、観客にとって徹底して「判り易い」ものであること、換言すれば根源的に民主的であること。
(4)善悪を大衆にとって判り易い「二元論」に回収すること。すなわち、「中庸」を排除し、登場人物は「味方」か「敵」か明晰化すること。
(5)日常生活に生起するドラマを美学化すること(悲劇と喜劇の中間)。具体的に言えば、たとえ陳腐な日常ドラマであっても、誇張法等を積極的に駆使することで「崇高」化すること。
(6)物語のラストは必ず「美徳」(味方、善)が勝利すること(それまでに悪役による迫害を生起させる)。


 (1)について更に補足すると、ヒロインの「心理」も、全て「メロドラマの登場人物定型」から記号的配置から導出されるものである以上、ブルックスが述べるように「メロドラマにヒロインの心は存在しない」とも言える。ヒロインは常に「喜怒哀楽」のそれぞれの極から極へと移動し、「中間(平穏)」は存在しない。
 (5)について更に補足すると、「日常ドラマ」という平凡な現象を「崇高」化する過程で、いわば「人生」が一つの様式=作品として生成するに至る。
 続いて、以下にメロドラマ文学の系譜に連なる重要作家をリスト化する(特筆すべき作品は併記)。

「メロドラマ文学の系譜」

・バルザック『谷間の百合』、『ゴプセック』、『ゴリオ爺さん』
・ヘンリー・ジェイムズ『ある貴婦人の肖像』、『大使たち』
・ゴーティエ『泣きじゃくる修道女』
・スタンダール『エルノミからの帰還』
・ディケンズ
・ゴーゴリ
・プルースト
・D・H・ロレンス
・ドストエフスキー
・ユゴー
・大デュマ、小デュマ
・イプセン



 ブルックスが特に注目するのは、バルザックと、彼を批判的に発展させたヘンリー・ジェイムズに他ならない。どちらも世界文学における巨人であり、特にジェイムズは欧米圏の上流階級から今でも根強い人気を誇り(例えば博覧強記な世界的作家ボルヘスの父親はジェイムズ全集を書棚に持つ研究者だった)、往々にして英米文学の最高峰と称される。双方に共通するのは、どちらも道徳的テーマが前景化する点、そして身振りや事物は「隠喩」的に表現される(身振りが別の何かを示す)点であるが、やはり最も重要であるのは「倫理的なもの」を前近代における「隠れたる神」の表象=代理として探し求めるという、その「聖なるもの」への志向性である。彼らが作品において人間性・倫理・道徳を常に大きなテーマとして描き出すのは、キリスト教的道徳律が近代化を経て脱中心化したことを深く受け止めた結果であり、かつての価値観を「聖なる倫理」として、新しい形式で再生産しているところにそのドラマツルギーの魅力がある。
 
【近代的装置としてのメロドラマ】

 メロドラマを生み出した社会的背景についてよく判るテクストは、以下である。

「フランス革命前夜、パリには23館に及ぶ劇場があった。1791年までにそれらの劇場は、好きなものを自由に上演できることになった。様々な見世物が開花し、古典の書き直しがなされ、いたるところから借用がなされ、ドラマ、時事問題を扱ったボードヴィル、ファンタスマゴリア、そして様々なパントマイム――対話もの、英雄もの、歴史もの、妖精もの――さらに時折ミモドラム(台詞なしの劇)までが上演された。フランス革命によって、ディドロが提唱した道徳主義が、直裁的かつ乱暴な形で実現された。劇場はフランス革命の弁論場のように、擬似的に立法機能を割り当てられた。それはこの世に美徳が支配していた時代へ戻るメディアだと考えられた。劇場の言葉は遂行的であると考えられ、自ら喚起する倫理的範疇を観客に押し付けた。劇場は検閲や自己検閲によって、教義上正確であることを強いられた。それは新しい体制が成立するたびに体制を褒め称え、フランス軍の勝利を讃美した。だが劇場は、恐怖政治の一時期を除いて、政治的に縛られることはほとんどなかった。それは多くの面で重きを置かれず、誇張され、感傷的で、とりわけゴシック的であった。陰鬱なシラー的、元祖バイロン的主人公、好色僧、無理強いされた修道女が登場する。こうした劇が一般に人気を博していたということは、1807年にナポレオンの命令が発令される直前に、パリに32館の劇場があったという事実から判る。…この時代は全体として演劇が絶頂期にあり、創造性を保っていた。劇のジャンルは急増した。…ピクセレクールやデュカンジュといった作家たちが人気を博していた。トータン、マルテュ、ルヴェク嬢、アデル・デュプワ、更にはボカージュ、マリー・ドルヴァル、フレドリック・ルメートルといった俳優や女優がアイドル視された」(p127)


 ブルックスによれば、メロドラマの出現は「近代」について文学的に考察する上で極めて重要な参照軸になる。したがって、フランス革命とその後に活躍し始めるピクセレクールらの時代背景を抑えておくことが基本となる。メロドラマが何故大衆文化としてこの時代に生まれてきたのかについて、ブルックスは18世紀後半における「キリスト教的価値観の解体」と、それに依存していた「悲喜劇の失効」という大きな二つの要素を挙げている。それは悲劇からの転落というよりも、近代的な視座が古代ギリシア的な「悲劇的ビジョンの喪失」を感じ始めたことに由来している。このコンテキストにおいて、ラシーヌは最後の悲劇作者であり、ミルトンは最後の叙情詩人、そしてルソーは『告白』冒頭によって近代文学の開始を告げた。ちなみに、ルソーによればメロドラマは「音楽を伴うドラマ」を意味していたが、やがて「大衆ドラマ」という位置付けが共有されていく。
 メロドラマとは、かつてキリスト教的道徳律として中心原理を担っていた「聖なるもの(ヌミナス)」を、文学作品に描かれた「日常の人間関係の中」で「本質的道徳」(倫理)として取り戻そうとする文学形式である。換言すれば、メロドラマが求める聖杯は、「道徳的神秘」である。そして、この「倫理」の中に新たな聖性を見出そうとする流れは、メロドラマの大成者である二人の巨匠――バルザック、ヘンリー・ジェイムズ――によって受け継がれている。
 メロドラマは、初期ロマン主義文学の持つ二つの様態のうちの一つである。もう一つはM・G・ルイスの『モンク』、シェリーの『フランケンシュタイン』などに見られる「ゴシック小説」である。ゴシック小説は、建築史におけるゴシック様式(特に城館)と構造的な類似を持っているといわれている。小説の中にも、ゴシック様式の城と同じく「隠し扉」となる構造が存在し、「螺旋階段」の下へと下っていくことで物語の深層を探って行くことになる。ここには、メロドラマとはまた異なる形式での「ヌミナス」の探求が描かれている。他方、メロドラマには、悪が支配する恐ろしい社会に対する「美徳の勝利」という共通テーマが存在している点で、ゴシック小説よりもポジティブである。

【メロドラマの確立者ギルベール・ド・ピクセレクール】

 ピクセレクールの「美徳のドラマツルギー」は、旧約聖書の預言者の物語にも通底していると考えられる。彼の劇作は、代表作の一つである『ラチュード 囚われの三十五年』(1834年上演)をはじめ、やはり悪には最終的に天罰が下り、ヒロインは「美徳」によってハッピーエンドを迎えるというメロドラマの「定式」が浮かび上がっている。この構造は、最終的に神の意向を実践する預言者たちに対して、悪徳を代理する人物が配置される旧約聖書の物語構造と、その予定調和的な側面において類似していると考えられる。19世紀のある批評家によれば、ピクセレクールの作品は「説教の代替物」として大衆にも認知されていたという。こうしたメロドラマ的方法論は、当時の「大衆演劇」が視覚的効果だけでなく、音楽をも取り入れて総動員された芸術形式を目指していたことからも窺えるように、やがて20世紀を席巻することになる「映画」(当時で言えばトーキー映画)に相続されていくことになる。メロドラマは、何よりもまず総動員された表現主義的メディアにおいて効果を発揮するものである。ピクセレクールの上演においても、「バレエ+テーマ音楽+ドラマの展開」という総合芸術的な様相を呈していた。
 先述した『ラチュード』は、フランス革命を文学的に形象化した作品の一つとして印象的である。舞台は修道院であり、主人公はそこに閉じ込められている。ピクセレクールは、そこからの「解放」としてのフランス革命を謳歌した。このように、メロドラマは「道徳的想像力」の文学形式であり、勧善懲悪という最もシンプルで最も古い形式をあえて踏襲することで、いつの時代にも喪失される傾向を持つ「倫理性」というものの回復を目指し続けるのである。
 ピクセレクール以後、メロドラマという基本的な「型」を持ちつつ、ロマン主義や社会主義的な側面が強い作品など、様々な折衷形式が生み出されるようになっていく。『パリの神秘』(1842〜3)で話題を集めた人気劇作家ウジェーヌ・ショーの作品は、メロドラマにピカレスク(悪漢小説)を組み合わせている。いずれにしても、1800年から30年代に跨がるわずか三十年間というフランス革命後の短い期間で、今日のメロドラマの古典となる作品が爆発的なまでに生産されたということを覚えておく必要があるだろう。彼らは演劇を通して、新しい「信じるべきもの」の形を求めていたのであり、このような大衆演劇は、「近代の心性」を形成していく大きな要素となっていく。





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(2002/01)
ピーター ブルックス

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