† 文芸理論 †

ギリシア悲劇の近代化としての「ロマン主義」と、その核心としての「メロドラマ」――ピーター・ブルックス『メロドラマ的想像力』読解(2)

Gabriel Ferrier Moonlit Dreams -
Gabriel Ferrier- Moonlit Dreams

【ヴィクトル・ユゴーの『クロムウェル』序文について】

「形式としての「劇」の定義そのものが、メロドラマを基盤としているとこれまで述べてきたが、ここで『クロムウェル序文』におけるユゴーの中心概念である「グロテスク」について考えてみても、無意味ではあるまい。ユゴーによるグロテスクという言葉の使い方は、かなり曖昧である。特にグロテスクが崇高の対立物であるという点――〈醜〉の対立物が〈美〉であるように――や、グロテスクは崇高と醜と悪魔的なものの混合形態であるという点については、理解ができるだろうか? グロテスクは組み合わせの結果生じたもの、独特な「中間存在」して提示されることもあれば、崇高を逆にした鏡像、その黙想に際して必要な「休止時間」のように見えることもある。大切なのはグロテスクが崇高と対立する原則として考えられるということである。つまりそれは、正反対の関係という観点に立つ限りにおいて、はじめて思考されうる。グロテスクは本質的には、「お前は神と獣の間の中間存在だぞ」という、人間に対するキリスト教の告知に源を持っている。グロテスク――この美的・道徳的概念は、美と真実らしさをめぐる古典的観念とは徹底的に断絶している――の「発見」は、力強い対照を発見することでもある。ユゴーは「劇」に関してこう述べている。「劇とは、実際には、人生において互いに立ちはだかり、生まれてから死ぬまでに人間に襲いかかる、二つの対立する原則の間の連続的対照に他ならない」。更に、「劇の特徴は、それが現実のものであるということだ。現実はグロテスクと崇高という二者が、まったく自然に組み合わされたものである。この二者は、人生や創造行為において交わるように、「劇」の中にあっても交わる」。――ユゴーの「現実」の定義ははっきりしている。現実とは、原型的にはマニ教の原理に基づく、陰陽の不断の闘争と相互作用の場だと考えられている。世界とは二極の充電からなる磁場である。それゆえ劇は――メロドラマのように――分極化した概念と力から作り上げられる。両極が衝突し、一極からもう一極への激しい揺れがあるために、演劇は興味深いのだ。ディディエが『マリヨン・デロルム』のヒロインについて意味深に述べているように、「なんと、天使は悪魔だった!」のである。以上が劇の条件であり、賭け金である」(p135~136)


 ブルックスのこのテクストはメロドラマ、というよりも我々のこの「日常生活」の存在形式を審美的なレベルで考察する上でも極めて重要なので、注意深く読解しなければならない。まず、ユゴーの「グロテスク」概念について、ブルックスは「グロテスクが崇高の対立物であるという点――〈醜〉の対立物が〈美〉であるように――や、グロテスクは崇高と醜と悪魔的なものの混合形態である」という特徴を挙げている。彼はこの点について「理解ができるだろうか」と判断を保留しているようにも見受けられる。その理由の一つとして、18世紀にドイツで流行した美的範疇論における六つの美的カテゴリーを円周上に配置した、デッソワーの有名な図から解釈すると、「崇高」の対立物が「グロテスク」であると断定することはできないからである。ただ、「グロテスク」という要素が、「崇高」を演出するためのツールとして役立つことならば大いにあり得る。ユゴーにとって、おそらく「グロテスク」は美的カテゴリーの六つから言えば、「醜」に相当する概念であると考えられる。そしてユゴーは、「グロテスク」を「崇高と醜と悪魔的なものの混合形態」であると位置付けている。ここでまずもって理解しておくべきことは、「醜」と「崇高」が相関する、物語上の「装置」として、あるいは「設定」として、「グロテスク」(メニングハウスによれば、ユゴーのいうグロテスクなものとしての「吐き気」には、生理的なもの・審美的なもの・道徳的なもの、の三つの次元が存在する)が定式化されているということである。
 いっそう興味深いのは、ユゴーの「人生観」の一端が窺えるテクストである。ユゴーによれば、我々の生きるこの日常生活の「現実」とは、「グロテスクと崇高という二者が、まったく自然に組み合わされたものである」という。ここに「優美」、「滑稽」などの美的カテゴリーが欠損しているところが、かなりシリアスな現実観であることを印象付けている。更に、ブルックスの解釈によればユゴーは、「現実とは、原型的にはマニ教の原理に基づく、陰陽の不断の闘争と相互作用の場だと考えられている。世界とは二極の充電からなる磁場である」と解釈している。そして、この現実認識をそのまま「劇の展開」にまで応用し、理想化しているのである。メロドラマとの関係性で言えば、ユゴーの考えていた「二極性」とは、美徳の勝利と悪徳の敗北というステレオタイプ化した伝統的文学形式に対する、大いなる肯定であると考えられる。そして、彼はそれを自分の日常とその堆積物としての「人生」一般にまで当てはめていた。
 ユゴーにおける、「天使崇拝」と「悪魔崇拝」、換言すれば「美徳」と「悪徳」、「優美」と「悲愴」、「美」と「醜」などといった二極的ダイナミズムは、物語をスタティックなものにしないための方法論であり、ブルックスはこれを「明暗の配合の妙」という意味で「キアロスクーロ」と表現している。激しく対立し合う二つの要素があり、劇的な衝突・葛藤・内なる自問自答などを経て、最終的に物語は「美徳」の勝利に向かうというわけだ。
 因みに、1832年に刊行されたユゴーの『王は愉しむ』、翌年の『ルクレチア・ボルジア』は、方法が「メロドラマ」的であったために成功した最良の例としてブルックスは位置付けている。

【ギリシア悲劇の近代化としての「ロマン主義」と、その核心としての「メロドラマ」】

 ユゴーの「キアロスクーロ」に象徴されるような形式を持つドラマツルギーはメロドラマのみを指すのではなく、それを含むロマン主義文学の持つ特徴である。そして、ロマン主義とその起源としての「ギリシア悲劇」について、ブルックスは以下のようにジョージ・スタイナーを批判する形で述べている。

「問題は、ジョージ・スタイナーが説くように「人生のロマン主義的ヴィジョンは、悲劇的ではない」、というところにはない。ロマン主義的ヴィジョンに立つならば、ロマン主義は「人間の罪と苦しみ」に対し、「償いの天国」を約束する。キリスト教の(あるいはルソー主義の)贖罪は悲劇と両立しえないというスタイナーの議論は間違っている。思うに、「聖なるもの」との和解は悲劇には不可欠であり、それは古代の『オレステイア』や『バッコスの女たち』と同じ程、近世の『リア王』や『フェードル』においても言える。悲劇を不可能にしたのはキリスト教の繁栄ではなく、むしろその衰退である。それは聖なる神話を包含する、究極の操作システムの喪失と不可分である――スタイナーはそれを別のページでは認めているように思われるのだが。…脱聖化された世界に住む者にとって、犠牲の擬態を行おうにも、もはや誰をはっきりと相手にして良いのかが判らなくなってしまった。聖なる象徴を失った時、劇の隠喩は不確かな構造として残るばかりだ。それゆえロマン主義演劇の企てを象徴するのは、中心の沈黙、口にできない暗闇をめぐって構築された、以上のような芝居である。それは意味の不在というよりも、恐るべき「意味の過剰」であり、崇高(として装飾された)意味である」(p153)


 ここでブルックスは、「悲劇」にはキリスト教と同じく「聖なるものとの和解」、「贖罪」のテーマが色濃く描かれていると解釈している。この点で、贖罪と悲劇は両立できないと考えていたスタイナーが批判されている。そして、「ロマン主義演劇」が生まれてきたのは、キリスト教が資本主義社会の発展に伴う「世俗化」によって脱中心化されたことで、キリスト教のドラマツルギーとも深く繋がり合っていたギリシア悲劇的な「贖罪」の概念それ自体が、いわば宙吊りにされてしまったということである。すなわち、文学史において、ブルックスは「ロマン主義の登場」を「近代」の黎明と結び付けているわけである。その最も大衆的で世俗的な現象こそが、初期ロマン主義の核心的構造としての「メロドラマ」のドラマツルギーに見出される「倫理の復権」だったのであり、ここには失われた「聖なるもの」の再現前化、かつての大文字化された「悲劇」を新たに創造しようとする、キッチュ化した神話の試みが現れていると考えられる。
 ブルックスは、スタイナーの別の記述「テアトル(劇場)的なものがドラマ(劇)的なるものを完全に支配するようになると、メロドラマが生じる。それがフランスのロマン主義悲劇である。すなわち大規模なメロドラマである」(p122)を引用し、「悲劇」と「メロドラマ」の類縁性についての鋭い洞察には一定の評価を与えている。しかし、スタイナーはあくまでもメロドラマを軽蔑すべき世俗的娯楽として位置付けていたきらいがあり、この点をブルックスは「近代」的なコンテキストとメロドラマの出現が不可分であることを強調することによって、いわば批判的に発展させる。ここで想起せねばならないのは、『ヴィスコンティ集成』にも引用されている、ルキノ・ヴィスコンティのさり気ない告白である。彼はそこで、自分の映画が方法論としてはメロドラマに過ぎないことを主張しており、また「映画」そのものも「演劇」の下位芸術に位置付けている(彼の本来の活躍の場は演劇であった)。しかし、興味深いことに彼が「原作」として映画化を選んだ作品の多くは、『ヴェニスに死す』(トーマス・マン)、『イノセント』(ガブリエーレ・ダヌンツィオ)、『熊座の淡き星影』(ソフォクレス『エレクトラ』のアダプテーション)などに見られるように、そのほとんどが「悲劇」のスタイルを持つのである。そして、監督自身がそれらを「メロドラマ」と呼んでいる点に、既に20世紀の映画において「再現前」している「ギリシア悲劇」の濃密な「痕跡」を発見することができるだろう。ブルックスの解釈にもあるように、「メロドラマ」が「初期ロマン主義」の核心である以上、この形式は本質において「悲劇」に起源を持つということである。仮にヴィスコンティが「メロドラマ」を初めから志向していたとしても、我々には「悲劇」に見えたであろうし、彼が「悲劇」だと主張しても、構造的には「悲劇の近代化」としてのロマン主義演劇と相関せざるをえないのである。このように、メロドラマは高度に「悲劇」的なのであり、ピクセレクールなどの古典的な殿堂に宿っていたメロドラマ的な野心は、イタリア映画界において不朽の悲劇的作品を残したルキノ・ヴィスコンティの「メロドラマ的映画」に結晶化していると言えるだろう。



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