† 文学 †

なぜ彼は"I would prefer not to"をこれほど繰り返すのか?ーー現代文学に屹立するハーマン・メルヴィルの代表作『バートルビー』読解

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Baptiste Radufe by Serge Leblon | New Romantics

【バートルビーとは何者か?】

 ハーマン・メルヴィルの『バートルビー』に登場する法律家である「私」は、六十歳前後の男性で、ウォール街××番地に事務所を構えている。彼が雇った代書人バートルビーは事務所に住み着き、そこから一歩も出ることがなく、ジンジャー・ナット(このニックネームの同僚がいる)ばかり食べている。事務所内の評価は「彼のふるまいはまったく普通ではない」、「非常に奇妙」といったものだ。

「バートルビー」と私は言った。「ジンジャー・ナットは外出中だ。郵便局までちょっと行ってきてくれるかね?(郵便局は徒歩でほんの三分のところにあったのだ)私宛のものが何か届いていないか見てきてくれないか?」
「しないほうがいいのですが」
「したくないのか?」
「しないほうがいいのです」(p116)



 原文では"I would prefer not to"(しないほうがいいのですが)だが、これはバートルビーが繰り返す定式となる台詞である。アガンベンは、彼について「禁欲的な怠け者の国」の住人であると評している。彼は、一切を神のように見知った上で、あえて"I would prefer not to"を繰り返しているのだろうか?

「きみは私のところから出て行くのか、出て行かないのか?」と、今や私は突然の激情に駆られて訊ね、彼のほうに近付いた。
「あなたのところから出て行かないほうがいいのですが」と彼は応え、「ない」のところを穏やかに強調した。(p138)


 そもそも、バートルビーはどのような容貌をしているのだろうか?

 私の出した広告に応じて、ある朝、事務所の敷居のところに、動きのない若い男が立った。夏だったので扉は開いていた。今でもあの姿が眼に浮かぶ――蒼白なまでにきちんとした、哀れなまでに立派な、癒しがたいまでに見捨てられた姿! バートルビーだった。(p104)


 第一印象の描写の時点で、具体的ではなく抽象的である。いわば、何か強烈な個性を持っているわけでもなく、バートルビーは路上で擦れ違った平凡な「あの人」に過ぎない。だが、一つだけ印象を挙げるとすると、それは「紳士的ななり」をしているということである。こういう特徴から、私は読みながらマグリットの空中に浮上している匿名的な紳士たちの群れの一人をイメージした。
 バートルビーは常に事務所にいる。法律家によれば、「大西洋の真ん中に浮かぶ難破船の破片」のような男である。こうした特徴から明らかなように、メルヴィルは『バートルビー』を高度に異化しており、その上でバートルビーをミッシェル・カルージュのいう名高い「独身者の機械」に当てはまる人物として描いている。無論、バートルビーは"I would prefer not to"以外の台詞も囁くのだが、それはメルヴィルによって巧妙に、法律家の解釈として地の文に内包されており、その他の会話は非印象的になるように配慮されている。バートルビー、彼は「仕事場の幽霊」であり、いわば都市の孤独を象徴している。

 日曜日は、ウォール街はペトラ(ヨルダンにある古代遺跡)のように人気が絶える。また、日を問わず、夜はいつも空虚である。建物も、週日であれば精勤と生のうなりをあげているが、日暮れにはまったくの空虚がこだまして、日曜日は一日中見捨てられている。ここをバートルビーは自宅にしているのだ。彼こそ、かつて人口密集だったところで孤独を見つめるただ独りの観客だ――いわば、カルタゴの廃墟を思いに耽りながら歩き回るマリウス(古代ローマの執政官。後年、ローマを追われ、当時既に廃墟化していたカルタゴに逃れている)が無垢な者に姿を変えて現れたのだ!(p122)


 20世紀イタリアを代表する建築家の一人、アルド・ロッシは『都市の建築』の中で、ある都市そのものを象徴するような記念碑となる場所を、「都市的創成物」と呼んでいる。バートルビーは、まるでウォール街という地区の「裏面」を、都市的創成物として“擬人化”したような存在者である。彼はどんな人間にも、「自分が何者なのか、どこから来たのか、どこかに親戚がいるのかといったことも教えてくれようとはしなかった」(p124)。印象的なのは、法律家が彼に憐れみと反発というアンビバレントな感情を抱き、習慣にしていたトリニティ教会のミサに参加する意志を喪失するという場面である。「教会に行く」気力を失う――この箇所はアガンベンが言及していないが、メッセージとしては非常に重要である。いわば、バートルビーは法律家からキリスト教信仰の土台を殺ぐほどの、何か虚無的な兆しを帯びているのである。
 法律家は、新約聖書におけるナザレのイエスに近い存在であるという解釈も成立するのではないだろうか。実際、彼はバートルビーを救うために慈善家のように振る舞う。しかし、「イエス」のどのような救いの手にも、この「エルサレムの奇怪な病者」であるバートルビーは、"I would prefer not to"をリフレインの如く反芻するのだ。「助けて欲しい」のではなく、「助けないほうが、いい」というこの神の属性である「全智」的な叙法の哲学的意味は深甚である。やがて、この"I would prefer not to"というフレーズは、部下のニッパーズや法律家にも「伝染」していく(「今のところ、きみは引っ込んでいてくれるほうがいいのですが」(p128))。
 やがて法律家はバートルビーに虚無を抱いて、彼に去ってもらうように伝える。

だが、彼は一言も返答しなかった。廃墟となったどこかの神殿の最後に残った一本の柱のように、彼は他に人影もない部屋のマンん中に独り、口をきくこともなく立ったままだった(p134)


 出て行ったと思っていたバートルビーが実は事務所にいたことを発見した法律家の驚愕について、メルヴィルは素晴らしい以下のようなメタファーを用いている。

私は雷に打たれたようになった。昔、ヴァージニアでのことだが、雲一つない晴れた午後に、ある男がパイプを咥えたまま夏の雷に打たれて死んでいたことがあった。その男は、夢を誘うようなその午後に、自室の暖かい開いた窓のところに凭れかかったまま立っていたが、誰かが触れた途端に倒れたのである。私は一瞬、この男のように立ち尽くした。(p137)


【メルヴィルの反資本主義】

 メルヴィルが、本作を書く上でインスピレーションを受けたと思しき実在の事件が言及されている。これは1841年から翌年にかけてニューヨークで話題になった事件で、印刷所を経営するサミュエル・アダムズが1841年9月、彼に借金をしていた会計士ジョン・C・コルトによって、コルトの事務所で殺害されたというものだ。この事件に、メルヴィルは法律家とバートルビーが二人だけになっている状態で触れている。

…もしあの口論が公的な街路や私的な邸宅で起こっていれば、あのような終わり方はしなかっただろうということだ。家を思わせる人間らしいものが少しでもその場を聖別していればまだしも、そのようなところのまったくない建物の、それも階上に位置する、孤独な事務所という状況だった――それは、絨毯の敷かれていない、埃っぽい、とげとげしい外見の事務所だったに違いない。この状況こそが、救いのないコルトの苛立つ絶望を大いに助長したに違いない。(p140)


 上記にも明らかなように、メルヴィルの反都市的な精神は強い。換言すれば、彼の本作には「オフィス恐怖症」のような一種の病理が働いていて、バートルビーは森の中では楽しげに走り回る男だったのかもしれない、と想像させるほどだ。バートルビーが"I would prefer not to"を機械人形の如く反芻するようになった背景には、当時のニューヨークの大規模な近代機能主義的な性格が相関していると考えられる。例えば、ドイツで機能主義を推進した建築家として名高いヴァルター・グロピウスの集合住宅シリーズを観れば、この建物がいかにのっぺりとしていて、退屈で、無機質で、冷たく、人間の心から多様性を奪うほどのものであるかが判る。無論、極限まで装飾性を排除し、機能だけを先鋭化させる建築は理想的であるとも言えるだろう。しかし、グロピウスの集合住宅が、ひとたびモノクロの写真で何枚も並べられると、その「場」が作り出す雰囲気の「不気味さ」は圧巻である。まるで「幽霊」でも徘徊していそうな、どこか住みたくはない無味乾燥で寂しい住宅に見えるのだ。建築学との相関で言えば、バートルビーの特異な性質は、こうした素朴機能主義の醸し出す「不気味さ」と相関しているように思われる。
 このような機能主義建築の背景として存在するのは、近代資本主義社会における個人の数量化・機能化という問題である。そこでは、人はさながら経済原理としての「貨幣」のように、機能に還元可能な単位的な存在に変換されていく。あるオフィスで働く以上、社員はそこで企業体の「歯車」となるのだ。それは個人が性格、趣味などで評価される世界ではなく、あくまでも「機能・成果」で判断される世界である。このような、イノベーション、創造的破壊などといったシュンペーター的な経済概念によって秩序付けられた社会では、メルヴィルの作り出した“英雄”は生き辛い。換言すれば、彼のバートルビーは、やはり近代資本主義社会の経済システムに対する、一種の痛烈なアイロニーとしての性格を濃密に帯びていると考えるべきである。
 アガンベンのバートルビー論は、主として定式となる"I would prefer not to"を神学的に考察した論稿であるが、そこにはそもそも法律家のオフィスがウォール街という金融システムの中心地に存在しているという、政治・経済的な切り口が抜け落ちている。また、メルヴィルが無機質でどれも同じようなオフィス、ビルディングについて極めてネガティブに描写しているという点は、建築学との接点でもあるが、アガンベンにはこうした視座はない。法律家は「〜すべき」、「〜せねばならない」という、常に成長し結果を出して行くタイプの成果主義者である。一方、バートルビーは「〜しないほうがいい」という、然りと否のあいだの曖昧性を表現しており、人間が取る全ての選択を一つ上の次元から眺めた上で、「どちらでもかまわないから、決めることもない」と開きなおっているかのようだ。メルヴィルの創造したウォール街を、近代資本主義社会の一つの縮図として観てみると、この同心円状の社会空間の中心には、唯一不動の静止地点であるバートルビーが屹立している。彼は常に流動する経済システムそのものを、いわばこの安穏な中心の聖域から観察しているのだ。その証左は、法律家が呆れて彼自身の事務所を変える(つまりバートルビーは前の事務所に居座る)という描写によって暗々裏に示されている。我々は先述して「社会空間」と述べたが、厳密に言えばこれは「神学化された社会空間」であり、中心には常にバートルビーが存在するわけだ。ただ、この中心は空虚として本質的に無意味、かつ根こそぎにされた中心点だということも忘れないようにしよう。
 バートルビーは、ある「空間」(例えば、ある株式会社)をひとたび領土化すると、その領土内部で、絶えず移動し続ける。立方体の内部を動き回る「点」をイメージして欲しい。この点は、まるで病原菌のように、最初は他の仲間と同じように行動するが、少しずつ本性を開示し、やがて他の人間を困らせる。バートルビーもこのような一つの病原菌であり、彼は同じ領土の内部で常に動き回り、相手を攪乱する。ただ、彼自身はこの空間を居場所であると考えており、どこにも動きたくはない。したがって、彼は遊牧者ではない。遊牧しているのは、あくまでも空間内部であって、一つの領土に「寄生」してからなのだ。
 さて、このような厄介者のバートルビーであるが、最後にはどうなるのだろうか? 彼は「霊廟(司法庁舎)」に連行され、拘留される。法律家が心配になって訪問しても、食事を取らなくなる。そして、中庭で彼は三角座りした状態で横向けに石に凭れかかったまま衰弱死するのである。最後に法律家は、この道化=英雄の死を眼前にして、「王たち、参議たちとともに」という意味深長な弔いの言葉を残す。
 
「付記」
 
※1 「人が最も明晰かつ賢明になる刻限の一つは、朝に目覚めた直後である」(p135)
※2 メルヴィルの改行の仕方について。数日経過した場合も、段落だけ改行して、特にページに不必要な空白は作っていない。そして、それでも十二分に読者には読み易いということを付記しておこう。
※3 バートルビーに、仮にピストルを向けた場合、「できれば、殺さない方がいいのです」という返答が来るだろうが、これは単に「殺さないで欲しい」という意味ではないだろう。むしろ、ピストルを向けた「私」自身にとって、殺人者にならない方があらゆる未来の局面において良いことを暗示させるために、「殺さない方がいい」と言う可能性があるところに、彼の神学的な威厳が存する。ただし、あくまでも「できれば」であるので、そのメッセージには控えめな主張でしかない。





バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』
(2005/07)
ジョルジョ アガンベン

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