† ロココ論 †

ロココ的「優美」の完成者、ジャン・オノレ・フラゴナールの「愛の園」について

The Progress of Love- The Confession of Love 1771
The Progress of Love- The Confession of Love 1771

【フラゴナールの「愛の園」への道案内】


【西洋絵画史における「愛の園」の系譜】


 フラゴナールはなぜ、「愛の園」に魅了されたのだろうか?
 これが我々の第一の問いである。なぜなら、このローマ賞で第一位の栄光に与った若き画家に対して、ディドロを含む当時多くの美術評論家たちが「歴史画」の制作者としてのキャリア形成を期待していたからだ。歴史画の本質はその「崇高」さにあり、現在フラゴナールのスタイルとして知られている、あの官能的な秘密の恋愛風景とはほぼ無縁なジャンルだからである。いわば、フラゴナールは周囲の期待に応えず、あえてヴァトー、ブーシェに続く「ロココ的な典雅」に“回帰”した。これを、当時の知識人たちが「時代遅れ」と批判することも無論可能だったし、実際ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人が依頼した《愛の成り行き》四連作(「逢い引き」、「追いかけっこ」、「愛の戴冠」、「友愛」)は、制作されたにも関わらず、彼女がフラゴナールのロココ調を時代遅れとみなし、当時流行し始めていた新古典主義のシンボルであった画家ヴィアンに依頼し直しているほどである(ちなみに、ヴィアンの弟子がかのダヴィッドである)。
 ヴァトー、ブーシェが典雅で優美な世界を描いた時の目的意識は、まさに時代の要請であった。ヴァトーがいわゆる「フェート・ギャラント」(雅宴画)と公的に認められる画風を確立し、上流社会の紳士淑女の風俗・娯楽を画題にし、そのスタイルを更に発展させたのがブーシェであったとすれば、フラゴナールはいわば「最後のロココ画家」である。彼には、時代の要請としての「新古典主義」的なスタイルを逸早く取り入れるだけの環境は整っていたはずであった。にも関わらず、彼は「愛の園」の魅惑的世界を描くことに情熱を注いだ。既に《ブランコ》によって上流社会の男女から圧倒的な人気を集めていたこの画家には、アカデミーの期待する画風を描くよりも、パトロンから支払われる報酬で十分に満足した暮らしができるだけの下地が整っていたのである。

MANDER, Karel van the Elder Garden of Love 1602
カレル・ヴァン・マンデル《愛の園》(1602)

PATER Jean Baptiste Joseph Fête Champêtre 1730
ジャン=バプティスト・ジョセフ・ペーター《野外パーティー》(1730)

 フラゴナール――彼は「愛の園」の画家である。では、そもそも「愛の園」とは何なのだろうか? 
 時代的な背景から「愛の園」の系譜について遡及してみよう。この頃、才気煥発なミュラ夫人(1670-1716)が『田園の旅』(1699)という書物を刊行し、上流階級から注目を集めていた。彼女によれば、「田園」は本質的に「恋愛のために創造された空間」であり、都市や宮廷社会の軋轢、騒々しさから我々を秘密の場所に誘ってくれる聖域に他ならない。都市計画によって近代化が進む過程で、人々は恋人と二人だけで大自然に囲まれながら憩えるような聖域を、「居場所」を心から欲していたのである。こうした当時の人々が自分の「居場所」を切実に希求する心性は、都市生活を営む中で「故郷喪失」(M・ハイデッガー)に曝されている現代人の心性とも深く通底するのではないだろうか。ロココ絵画が今でも多くの人々に夢と希望と陶酔を与えるその人気の高さが、その何よりも証左であろう。ミュラ夫人は、まさにこのような時代を生きる人々の内なる声を具現化していた――これは、彼女と同時代人で、女性たちから多大な支持を集めていたスキュデリーの『ヴェルサイユのさんぽ』(1669)にも表明されている。
 いわば、人々は都市という中心原理ではなく、「辺境」を欲していた。その空間的な具現化こそが、いわばひっそりした秘密の森に囲まれた美しい「愛の園」だったのである。この空間の文学的な起源としては、古代ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』に登場する「プロセルピナのそぞろ歩く常春の園」が挙げられる。あるいは、中世人の恋愛観を知る上での古典的名作である『薔薇物語』にも、「愛の神」が支配する男女の秘密の恋の場としての「愛の園」が登場している。そして、16世紀末になると、クリスパン・デ・パスがロココ時代の画家に先行する《悦楽の庭》を描いている。このように、フラゴナールよりも前の時代に遡れば、既にこのような「愛の園」の観念がヨーロッパの人々の間で芽生え、期待され、表象されることを待っていたことが判然とする。

シャルル=メルシオール・デクルティス《恋人たち》
シャルル=メルシオール・デクルティス《恋人たち》

 ロココ時代にフラゴナールと同じく「愛の園」を描いた画家として有名なのが、上に掲載したシャルル=メルシオール・デクルティスの代表作《恋人たち》である。だが、フラゴナールと色彩感覚を比較すれば一目瞭然になるが、メルシオールの場合背景の森はどこか陰鬱であり、陽光の柔らかさ、踊るような躍動感は存在しない。とはいえ、この絵はどこか物語の「挿絵」に近い効果があり、ロココ時代の愛欲と田園熱を物語る貴重な資料になっている。
 先述したミュラ夫人、スキュデリーの他にも、ルネ・バリーが『悦楽の館』(1642)という書物を刊行し、人気を集めた。この本では、「愛」についての議論を行う際には、「田園」に赴くべきであると説かれている。まさに、「恋愛」と「田園」は一つのものであり、ロココ絵画の中心的なトポスになるように定められていたのだった。ちなみに、ヴァトーはリューベンスを評価し、彼の画風に学んだことでも知られているが、注目していたのは特に《愛の園》(1635頃)だったという。リューベンスの存在は、「ロココ絵画の先駆者」として位置付けることができるだろう。

リューベンス《愛の園》
ピーテル・パウル・リューベンス《愛の園》


【フラゴナールの「愛の園」の光と影】

 ゴンクール兄弟は、フラゴナールを褒め称えて「歓喜を齎す詩」と呼んだ。このロココ絵画を飾る最後の画家のテーマを一言で表せば、「聖なる愛」「俗なる愛」の両極を描き出したということになるだろう。彼が活動したのは、1760年代からフランス革命までであるが、70年代半ばからはロマン主義の先駆(プレ・ロマン主義)とも呼ぶべきスタイルにまで到達している点でも重要である。以下に、フラゴナールの生涯の中で印象的なエピソードを紹介しよう。
 フラゴナールは南フランスのニース近郊のグラスという街で生まれた。父親は手袋製造業者であり、彼の手の器用さは父親譲りの職人気質である。そして、生来の情熱性とアカデミズムへの冷ややかな反発は、血気盛んな南仏気質に拠るものだとも言われている。若い頃にシャルダンに弟子入りするも、この画家とは相性が悪く馴染むことができなかった。そこで彼はブーシェに付き、彼から画業を学ぶことになる。1752年、《黄金の子牛に生贄を捧げるヤラベウム》(1752)という、旧約聖書の「列王記」をモチーフにした歴史画を描き、これがアカデミーから見事「ローマ賞」(当時の若き画学生の憧憬の的であり、この賞に与るとローマへの留学、パトロンからの支援が約束されていた)の第一位を授けられることになる。若き日のフラゴナールは、まさに画家として極めて優秀なエリートの出世道を歩み始めたのであった。
 しかし、ローマに留学した彼はルネサンスの巨匠たち――とりわけラファエルロとミケランジェロ――の偉大過ぎる作品を前にして深い挫折感を抱き、深刻な「創造の危機」に直面する。自分には彼らに拮抗するだけの力量はないのではないか……そんな不安と焦燥と深い劣等感が、この卓越した画力を有する若い青年を襲ったのだった。悩みに悩んだ末に、フラゴナールはルネサンスではなく、マニエリスムやバロックの画家たちに自分の方向性と近いものを嗅ぎ取った。例えば、バロッチ、ピエトロ・ダ・コルトーナ、ティエポロなどである。そして、彼はこうした画家たちの作品を真剣に、情熱を注ぎながら学び始めるのだった。
 ローマでは、廃墟の画家として後世知られることになるユベール・ロベールと仲良くなり、一緒にスケッチに足を運ぶまでの友情を結んでいる。また、芸術愛好家であるサン・ノン師がフラゴナールのパトロンとなり、彼と共にフィレンツェ、ヴェネツィアから北イタリアまでを周遊した。この旅でフラゴナールは見聞を深め、美しい風景や街並に多く触れたと考えられるが、実は研究者たちの間でもこの三年間ばかりは「空白」として不明な点が多い。確実に一つ言えるのは、1765年の時点で既にフラゴナールはアカデミーから準会員として認定され、《ブランコ》のような官能的作風で上流階級から圧倒的な人気を集めていたという事実である。つまり、フラゴナールはサン・ノン師とイタリア旅行中に、後の愛をめぐる連作にも通じるような謎めいた逢瀬を経たのかもしれない。歴史画家としてのアカデミーからの期待に背いてまでも、ヴァトー、ブーシェに連なるロココの「愛の園」の系譜に回帰しようと企てたのには、やはりそれなりの「恋愛事件」があったからではなかろうか。
 フラゴナールは私的な注文だけでも十分に生活できるだけの環境に恵まれていた。有名な《ブランコ》も、宮廷人のサン=ジュリアン男爵が注文したものである。彼は熱烈に愛欲を讃歌しており、麗しい令嬢の足がブランコから覗いているような艶やかな光景を、その道のプロに描かせたいという強い欲望を持っていた。この男爵のエロティックな期待に真摯に応えられる画家は、この時代においてフラゴナール以外には存在しなかった。彼は卓越したデッサン力と精緻な明暗描写によって、「愛の園」を求める上流階級の夢を完全に満たすことができた。時代は既に新古典主義的なスタイルへと変化しつつあったが、全ての貴族が古代ギリシアのシンプルな美に期待を寄せていたわけではない。フラゴナールのような、高貴でありながらメロドラマの最良の美点を兼ね揃えたような画風が貴族のハートを掴んだことは想像に難くない。フラゴナールが何故、これほど男女の甘い恋愛模様をテーマにすることに長けていたのかについては、出生地である「南仏気質」が強調されているきらいがあるが、おそらく他にもあったはずである。
 フラゴナールの研究者たちの間では、プレ・ロマン主義的な側面が感じられるのは特に《アモールへの誓い》であるといわれている。ロココ的な「優美」の美学を、「愛の園」という田園式恋愛のトポスに描出したフラゴナールだが、70年代半ばからは人物よりも「自然」の「崇高」さを追求したような画風へと転じていく。甘くメロドラマチックな恋愛の世界から、人物を遠景に描き込む程度の「自然」へと眼を向けた背景に存在するのは、グランドツアーや古代ギリシアの美の発見だけでなく、1765年に仏訳が刊行されたエドマンド・バークの『崇高と美の観念の起源』の影響も見過ごすことができない。研究者の中では、新古典主義にはバークのいう「崇高」が絵画的な次元において実現されており、その前様式たるロココには、「優美」が相当するという見解が共有されている。元々、フラゴナールはごく早い段階から人物と自然のプロポーションをダイナミックに、それこそ樹木の枝葉までもが「ダンス」するかのように描き出す画風において特徴があった。彼の手にかかれば、どんな場面も舞台の中に投げ出されたかのような衝迫力を持って到来するのである。そんな彼が、やがて自然に眼を転じて「崇高」の美学をテーマにしたプレ・ロマン派へと接続していく(このプロセスを辿った画家としては、他にヴェルネも重要だが)ことになるのである。いくら「愛の園」に耽溺したフラゴナールといえども、最後には素朴で壮大な「自然」のアウラの力の前に跪いたのであった。
 以上、小伝として我々が読んできたように、フラゴナールには大きく分けて三つの時期が存在する。前期フラゴナールは、歴史画への関心を抱きつつも巨匠たちと自分の感性を対話させ、独自のスタイルを構築する上で試行錯誤を繰り返していた。中期フラゴナールは、典雅で優美、かつ高貴でありながらも恋愛の甘い局面を美化した素晴らしい美的世界を描き出すことで多くの貴族たちを虜にした。フラゴナールのスタイルとして今日知られている作品群の多くは、この時期に相当する。この時期で同様の画風で描いていた他の画家としては、シャルル=メルシオール・デクルティスの《恋人たち》も忘れることのできない名作であろう。後期フラゴナールは、時代がシンプルにして質実剛健な美意識を求め始めていたことも相俟って、自然主義的な「崇高」をテーマにしたような画風へと転じる。そして、フランス革命後は周知のように、華やかな時代の「影」を歩くように、彼は忘れ去られた孤独な老画家としての悲愴な晩生を送ることになるのであった。まさに、フラゴナールの芸術にはロココ時代の貴族たちの栄光と、その影さえもが、失われた時代の掛け替えの無いモニュメントとして宿っているのである。我々は今こそ、ロココ時代の「愛の園」という故郷にまで戻らねばならないのだ。
 
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A Gathering at Woods' Edge, ca. 1765–73

風景描写のデッサン。

The Swing 1767
The Swing 1767

 ロココ芸術を愛する私にとって、フラゴナールの描く「愛の園」には特に甘美な魅力を感じる。この作品を観ていて私が感じるのは、まずその日光の柔らかさ、繊細さであり、樹木の躍動感である。フラゴナールの自然の素描を観ると、確かに何か今にも動き出しそうなうねりを感じる。この世界においては、植物までもが優雅なダンスに耽っているかのようであり、枝葉は日光との接吻を欲している気さえしてくる。
 また、この作品のディテールとして印象的なのが、フランス式庭園に特徴的なプシケ像である。彼もまた背に柔らかい陽の光を浴びており、どこかこの雅な貴族の男女に「隠れ処」的な雰囲気を与えている。左方で体を寄せている貴族の若者は、ブランコに乗る高貴な令嬢のスカートの延長上としての植物に埋もれている。この絵においては、スカートには魔力が宿っている。彼女のスカートは植物と一体化しており、いわば青年はその魔力の虜になってしまっているようだ。
 光は前方に照射され、後方はさながら舞台空間のように影で薄暗くなっている。明確に主張したい要素だけを光によって現前させ、その他の従者やプシケ像などは後方へと退いているところが、高度に演劇的でもある。ロココ以前に、バロック時代には既にオペラがこの時代を端的に象徴する視覚・聴覚を動因する総合芸術として誕生しているが、続くロココにおいてはこれがますます発展し、フラゴナールのように見事に一つの「舞台」を創造することに成功している。

The Progress of Love- The Lover Crowned 1771-73
The Progress of Love- The Lover Crowned 1771-73

 フラゴナールにおける「相思相愛」の描写において重要なのは、彼らが「恋愛の聖域」へと隠棲し、そこで互いに微笑みを交わしているという定型である。フランス革命以後、フラゴナールが悲運な状況下にあったことを鑑みると、この迫り来る革命の前に描かれた作品群の持つ神話的価値は極めて深い。この絵において、恋人たちは同じ手紙を読んでいる。それは貴族の男性が描いたものかもしれないし、女性が物語から抜粋した箇所を朗読しているのかもしれない。いずれにせよ、彼らはどこか庭園の秘密の場所で、同じ文章を共有しているのである――これが、フラゴナールの描き出した、いわば「恋愛」のひとつの「原形質」である。それは現代を生きる我々にとっても、異なる形式で同じように分かち合えるものなのであり、この点で本作には「アダムとイヴ」が過ごした時代の、最も輝かしくも甘美な美的洗練が感じられる。彼らは「秘密の愛」、「愛の園」を体現しているのであり、ここには彼ら以外の何者も入ることを許されないのである。

The Progress of Love- The Meeting 1773
The Progress of Love- The Meeting 1773

 フラゴナールの絵は、一般的に女性的であるとか、どこか乙女チックで崇高さに欠けるなどと時に批判されることがしばしばある。だが、そのような批判者はこの画家の描くディテールを注意深く一度御覧頂かなければならないであろう。彼はローマ賞を若干二十歳で受賞した画力の持ち主であり、その細やかな自然観察はそれ自体で極めて強い存在感を発揮している。フラゴナールの作品を観ていると、我々はこの世界の中に魂ごと飛び込んで行くような、何か極めて強い誘因力を感じはしないだろうか。

The Progress of Love- The Pursuit 1773
The Progress of Love- The Pursuit 1773

A Game of Hot Cockles 1775-80
A Game of Hot Cockles 1775

Blind Mans Bluff 1751
Blind Mans Bluff 1751

The Musical Contest 1755
The Musical Contest 1755

The Two Sisters
The Two Sisters"



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