† 文芸理論 †

21世紀の来るべきロマン主義文学のために必要な古典としての、ヘンリー・ジェイムズのメロドラマ的エクリチュール――ピーター・ブルックス『メロドラマ的想像力』読解(3)

Charles Baugniet (Belgian , 1814-1886) – Springs New Arrivals
Charles Baugniet (Belgian , 1814-1886) – Springs New Arrivals

【ヘンリー・ジェイムズのメロドラマ】

 前期ヘンリー・ジェイムズの作風として特徴的なのは、ゴシック文学の重厚で厳かな伝統に、大衆演劇的なメロドラマのドラマツルギーを導入している点である。こうした特徴は、代表作のひとつである『アメリカ人』において見出すことができる。後期ジェイムズの代表作『大使たち』が内面心理のメロドラマであるとすれば、『アメリカ人』は主人公が外面的に様々な行動を取り、血腥い社会的因習に巻き込まれていく行動中心のメロドラマだといえる。ジェイムズ研究者の多くにとっては最早前提となっているが、ジェイムズを研究する上で、リアリズムから逸脱したバルザックの文学的様式を見過ごすことは不可能である。フランス革命以後の大衆の「趣味」形成に大きな役割を果たしたメロドラマの系譜について研究したピーター・ブルックスによれば、若きジェイムズにとってバルザックとは以下のような存在として認知されていた。

バルザックはノスタルジアを通して「物事に見事に対処できる最後の作家」であり、小説が「衰弱した遺産」を回復するためには是非その教えを学ばなければならない天真爛漫の巨人だと、考えられている。ジェイムズは、「バルザックの想像力のみが役に立った」こと、観察者と幻視者は切り離せないこと、バルザックの高度な表象モードは彼の主題と切っても切れないメディアであることを、躊躇なく認めている。…ジェイムズはこう記している。「バルザックは荒々しい言葉を用い、貪るように自分の主題を掘り下げてきた。そのため彼の天敵の攻撃すら、退屈な夜会でやる気もないままに紹介される交際のように思えてくるのである」。この一節は、ジェイムズ本人の多くの小説において開拓された環境を暗に示しており、メロドラマのモードの必要な高まりと延長が意識され受け入れられていることを示している。(p210)


 このように、ジェイムズは「バルザックの想像力のみが役に立った」とすら述べており、その文学をいかに新しい形式で引き継ぐかにおいて思案していた。したがって、ジェイムズを読み、その方法論を現代文学における「前衛」に、古典的なものの新たな形式での再生産として企てる者は、不可避的にバルザックという古典にも取り組む必要がある。事実、現代は内容空疎な、60年代のフランスのヌーヴォー・ロマンの技術的水準に達していないような形式優位の小説が、ゴシップ記事さながらに大量生産されている時代である。このような空疎な前衛主義、偽りのラディカルさから乖離するためには、伝統的な近代文学の系譜に位置するバルザック、及びジェイムズを読解し、その遺産を引き継ぎ、新たなナラティブを構想するということがやはり必要となっている。
 さて、ジェイムズがピクセレクールらを始祖とするフランスのメロドラマ演劇にも関心を寄せ、純文学において評価を得る一方で、世俗的名誉をも求めていたという点は指摘しておかねばならない。その上で、ブルックスの言うように、メロドラマとは元々ロマン主義文学の核心に位置する物語構造であるということも知っておかねばならない。ジェイムズが「ロマンス」について定義しようとする時、それは同時に「メロドラマ」について語っている箇所でもある。ブルックスは、ジェイムズのロマンス論の核心について、以下のように適切に述べている。

ジェイムズが「強烈な体験の夢」と呼ぶものは、「なんでもないように見えて、内的に神秘的にのみ扱われ、人生と名誉にとって極めて危険を含むような」ありふれた出来事の中にこそ見出される。この下りは、人生に反応して演じられ、人生に強烈さや価値を与える、内的メロドラマ感覚を司るモードへのジェイムズの傾倒を明瞭に映し出している。(p211~212)


 このテクストは、二十一世紀のこれからの純文学について構想する上で極めて有益な示唆に富んでいる。ブルックスはここで、確かに「内的に神秘的」で、同時に「危険」でもあるような物語の核心は、全て「ありふれた出来事の中にこそ見出される」と述べている。既に前回、前々回の記事でもまとめてきたように、ブルックスは「日常生活」(平穏な夫婦生活、牧歌的な恋愛関係、良好円満な友人関係など)にある種の「亀裂」を与える、ありふれてはいるが極めて深刻なドラマの種子に、文学そのものの核心を見出している。前期ジェイムズは、いわば登場人物に多くの動きを取らせ、行動させることで物語を展開していたが、後期になると、意識的に「内的メロドラマ」(内面心理を主人公一人の視点に限定して克明に描き出すスタイル)にシフトしている。したがって、ここでブルックスが述べている点は、特に『大使たち』において具体的に結晶化していると考えて良いだろう。ブルックスは、後期ジェイムズについても以下のように述べている。

作家が自分の中心となる映像を間接的に提示しようとする際に、至る所に開花する、作家としての本能に役立つメロドラマ。ジェイムズは、メロドラマの素材と技法を次々と変えていったが、常にその前提となるものには忠実であり続けた。(p213)

 
 ここで彼のいう「自分の中心となる映像を間接的に提示しようとする」という部分は、言うまでもなくジェイムズが完成させ、その後ウルフやプルーストへと相続されていった「意識の流れ」の方法論の萌芽としての、「映し手」視点の内面描写を指している。具体的にいえば、『大使たち』では主人公ストレザーただ一人に「視点」が限定され、他の登場人物の内面描写はこのストレザーの解釈した類推、判断を通して描き出される。これはウルフのような、常に人物同士で「視点」が「ぶれる」スタイルとは異なり、作品全体に美しい統一感を与える様式として、日本でも中村真一郎などの作家からその美的洗練を認められている。
 このように、ジェイムズ文学は基本的に「メロドラマ」の厳格で高貴な、そして多種多様な実践なのであり、これは『ある婦人の肖像』における「内面の葛藤」を中心とした「良心のメロドラマ」から『ボストンの人々』、『カサマシマ公爵夫人』、そして後期三部作においても一貫している。

ジェイムズが外的メロドラマと内的メロドラマとを採用する理由も同じである。彼は倫理的な葛藤、義務、選択を小説の骨子にし、それらを「人物」の中心と筋の動機にしたいのだ。イヴォール・ウィンターズによれば、「ジェイムズの欠点(であると同時に長所)は、小説家の立場から、登場人物の立場から、倫理的な問題を純粋な状態で理解し、それらを完全に理解しようとすることから生じる」。小説家やその「良心の中心」として振る舞う登場人物たちの欲求に基づき、経験を深め、選択を強調することで、本質的に把握された、純粋な義務と責務としての道徳上の問題が発見され、その理解と表現を通して、最後には登場人物たちの行動の中で劇化できる。(p217)


 ジェイムズの「映し手」視点の極限まで統一されたスタイルは、ストレザーという人物に作家が感情移入しようとする際に、単純に一人称を採用することがあってはならない、という一種の彼なりのdistanction(卓越化)の現れに他ならない。彼は人物に感情移入する上で、「三人称」でもそれが可能であることを、視点をただ一人に限定することで達成したのであり、ここにこそ彼の文学の真骨頂と、一部から「難解」だとして敬遠されてしまう原因があると思われる。

【ジェイムズにおける演劇的文法の重要性】

 ジェイムズは初期から具体的に「場面(シーン)を作る」ことによって、物語を構成していく方法を取っていた。その上で劇場、舞台での演劇摂取は彼に大きな影響を与えたとされている。1896年の『創作ノート』には、「場面の手法が、私にとって完全なるもの、絶対必要なもの、唯一の救いだと悟った」と記録している。ブルックスが述べるように、ジェイムズは演劇上のルールを、劇場で愉しみながら学習することで、その方法論を純文学の世界においても導入しているのである。そこで成り立つのは、文学において実践されたメロドラマ的コードの採用であり、当時は演劇であったものは、現代においてはまさに「映画」や「ドラマ」として再現前している。我々がヴィスコンティの「場面のディテール」や、キアロスタミやリンクレイターの止めどなく続く「場面の接続」といった「映画的文法」を重視するのも、ジェイムズが同時代の「演劇」というメディアから自身の文学的手法の核心を掴んだことと相関している。映画、あるいは演劇、オペラ――こうした視覚的・音響的芸術は純文学の「場面作り」に、構造的なレベルで極めて有益な方法論を与えるということである。そして、ジェイムズだけでなく、バルザックもまた人気劇作家ピクセレクールらに憧憬を抱き、小説家として成功する前はもっぱら世俗的な劇作家としての大成を夢見ていた者の一人だった。
 大衆演劇に注目していたジェイムズ――既に純文学の世界で批評家から一定の高評を博していた彼は、世俗的成功と華やかさを求めてアレクサンドル・デュマを代表とする「家庭的メロドラマ(ウェル・メイド・プレイ)」のプロット・形式について学び始める。デュマと並行して、当時人気メロドラマ劇作家として活躍していたドゥネリュなどの方法論についてもジェイムズは知見を深めた。因みに、ジェイムズはフランス文学を敬愛する厳格なイギリス人であるが、自分と同じく保守的であるイギリス人のために小説を書くのが相当辛かったようで、フランスの大衆演劇には大きな憧憬を抱いていた。これは、イェール大学でフランス文学を講じるブルックスのプロフィールとある程度相関するものとして興味深い。
 いずれにしても、ジェイムズは劇作を通じて「ドラマ」の方法を学習した。今日で言えば、映画館に足繁く通うシネマファンの青年が、そこで培った映画〈界〉での文化資本を、ブルデューのいう「資本種の変換」の操作によって、純文学〈界〉へとレート変換するという戦略とも通底するだろう。いずれにしてもここで強調しておきたいのは、当時のジェイムズにとっての「演劇」におけるメロドラマの力学は、今日でいう「映画」、「舞台」、「オペラ」、あるいはより身近な場所で言えば「昼ドラ」などにおいて、そのメロドラマ的な構造を「分散」させて拡がっているということである。したがって、たとえ通俗的で大衆受けの良いような、語るに落ちるドラマであっても、視座さえしっかり持っていれば、メロドラマというロマン主義の核心となる物語構造を採用した一様態として迫ってくるのである。この点で、ブルックスのメロドラマ論は我々に映画、ドラマを見る眼を変革させる重要な書である。ところで、ジェイムズは芝居用のドラマ作品として、『あちらの家』を書いているが、実はこれは彼自身の手によって短編小説化されている。面白いことに、ジェイムズはこの短編小説から再び芝居を作っているのであり、この二重のプロセスには「演劇」「小説」「演劇」というadaptationを巡る翻案が窺えて興味深い。
 ブルックスは、ジェイムズ文学において発展したメロドラマの新たな構造と、19世紀初頭の初期メロドラマのドラマツルギーの差異について以下のように述べている。

初期のメロドラマの世界と違ってきたのは、我々が認識的に疑いを抱いてしまい、最早どうやって(美徳に繋がる倫理的な選択肢を)選べばいいのか判らなくなったということである。我々は既に無垢な者と邪悪な者とを見分けることができないし、その必要もない。我々はその代わりに、選択の確率そのものに反応しなければならない。(p228)


【ジェイムズの暗黒面】

 ジェイムズは、ナサニエル・ホーソーンに始まるピューリタン的伝統に属している。彼は「呪われた原罪、許されない罪」という、ゴシック・ロマンスに近接した様式を採用していた。特に顕著なのは、「不気味さ」、「審美的な悲愴」の他、裏切りのテーマとしての「ユダ・コンプレックス」(グレアム・グリーン)である。そして『密林の野獣』では特に際立っているのが、人生における「空虚」というテーマである。
 後期作品の一つ『鳩の翼』では、個々の登場人物の葛藤を高め、複雑化させるために社会階層から発生するメロドラマの記号学が採用されている。中でも、ミリー・シールの存在をブルックスは重視しているが、その理由は彼女が「わたしは深淵を欲する」というような傾向を持っているためである。『創作ノート』によれば、ミリーは「冷酷なメドゥーサの顔をした人生」、あるいは人間存在の核に位置する「空虚」を体現した人物として構想されている。『鳩の翼』はジェイムズ文学の中でも、最も「悲劇」に近接した物語であり、ブルックスは本作を「最も完成された良心のメロドラマ」と位置付けている。『黄金の盃』も含め、ジェイムズの描く「人間関係」の理想形式について、ブルックスは以下のようにまとめている。

ジェイムズの小説が例外なく示す中心的要請、人間関係の理想とは、包括的で捉えようのないものである。エリオットを引用してみよう。

では誰なのだ、苦しみを編み出したのは。
〈愛〉だ。
〈愛〉とは親しみのない〈名〉だのだが、
耐え難い焔の下衣を
織る手の影に潜む〈名〉だ。

「親しみの名前」が思いやりである以上、最後に認識すべきなのは、ジェイムズの想像力にあって〈聖なるもの〉を愛でるキリスト教的観念である。だからといって、彼をキリスト教的道徳主義者だと考え直す気にはならないが、近代という意識がロマン主義と共に1、2世紀前に到来する以前に、摩滅し崩れた神話の痕跡を、彼がいかに分ち持っているかは、知っていても良い。ジェイムズが表象しているのは、その「良心」の最後期における重要な発展であり、次のような認識である。すなわち、近代社会から救い出されるものの中で、かかる一元的信仰体系ほど一貫したものはありえない。倫理的要請と道徳的絶対というものがあり、見事に調律された感性であれば、隠喩的把握によってそれと関わることができるし、また関わるべきでもある。倫理的領域に達するには、「良心」を強化するしかない。これは、倫理的葛藤の選択の表象化が道徳的神秘に一致しているので、無意識の心の素材を呼び出さねばならない。葛藤の表現は、分極化し高められたメロドラマのモードによってのみ語られる。だがそのメロドラマは、知覚、洞察力、知識への闘争として、「良心」そのものの内部にある。(p264)







メロドラマ的想像力メロドラマ的想像力
(2002/01)
ピーター ブルックス

商品詳細を見る



















関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next