† 存在論 †

過去に一度生起した出来事は未来に再び生起し得るか?ーージョルジョ・アガンベン『バートルビー 偶然性について』読解(2)

Joanna Kustra Portraits
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【バートルビーの"I would prefer not to"(しないほうがいいのですが)の意味】

 アガンベンは、バートルビーの特徴的なリフレイン"I would prefer not to"(しないほうがいいのですが)について、以下のように述べている。

「しないほうがいいのですが」は可能性の全的な回復restitutio in integrumである。それは、可能性を、起こることと起こらないことのあいだ、存在することができることと存在しないことができることのあいだの平衡状態に保つ。これは、存在しなかったものの想起である。(p75)


 前回の記事で言及した、「潜勢力」の概念を把握しておくと、バートルビーの台詞の持つ意味が開示される。つまり、"I would prefer not to"とは、潜勢力、すなわちデュナミスへの隠棲、退隠であり、あらゆる行為へと可能的に開かれていながら、未だそれが成し遂げられてはいない、潜在的な状態への滞留を意味する。これを神学的に解釈すると、あらゆる創造が予定されていながら、未だ創世にまで至っていないデュナミスの状態にある神、あるいは「無」である。バートルビーとは、この「無」の先鋭的な信者であるのだ。
 アガンベンの解釈によれば、神のデュナミスには以下の二種が存在する。

(1)potentia absoluta(絶対的潜勢力)…神はあらゆる出来事を為すことができる。
(2)potentia ordinata(秩序付けられた潜勢力)…神は秩序付けられた意志に適合することしか為せない。


 そもそも、「~しない方が良い」という強制力を、我々の一般社会で発揮しているものの最たる対象とは何であろうか? それは言うまでもなく、「法」である。法に背けば罰せられるし、法の範囲内であれば原理的にはいかなる行為も守られている。つまり、バートルビーの控えめな「~しない方がいいのですが」という弁明は、彼が何らかの「法」を内部化し、その秩序に基づいて意見を発信しているものと解釈することも可能だ。「法」は、前近代においては「神の秩序」として存在していた。もし、メルヴィルが舞台を中世社会に選択していれば、バートルビーの台詞にも神学に基づく独特な威厳が伴っていたことだろう。言い換えれば、アガンベンがバートルビーを神学と接合させて解釈する行為は、「法の下の自由」を生きる現代の資本主義社会における「政治的」次元へと、開かれてもいるわけである。
 バートルビーの"I would prefer not to"は、「然りと否の〈あいだ〉」、決定不可能性、判断中止(エポケー)、あらゆる行為の始原状態における思念を意味している。神は世界を創造することが可能であるが、同時に創造「しない」ことも可能である。バートルビーはこの「しない」方の可能性へと我々を回帰させるのであり、究極的にはそれは我々を宇宙創造以前の、神の「構想段階」(世界のプロット)にまで連れ去るのである。哲学的な潮流との相関としては、バートルビーはかつてのピュロンを代表とする懐疑論者たちの叙法に通底している。

(ディオゲネス・ラエルティオスの伝えるところでは、)懐疑論者たちは…摂理が存在するのが存在しない“より以上ではない”ように、“より以上ではない”が存在するのも存在しない“より以上ではない”。…「より以上ではない」という定式が言っているのは、その定式が存在するのは存在しないより以上ではないということである。…この表現が肯定として提示されても否定として提示されても、我々はその表現を肯定や否定といった意味で用いるのではない。我々はその表現を、無差別的なしかたで、いわば濫用的なしかたで用いる。(p45~46)


 アガンベンはこのように、バートルビーの台詞を懐疑論者たちがよく使っていた“ou mallon”(より以上ではない/ウー・マロン)と相関させている。「より以上ではない」は、修辞学的には「機知・滑稽」を与える表現としての価値があると考えられる。また、神からのアンゲロス(使者)であるという点で、アガンベンはバートルビーをカフカのバルナバスに繋がる存在者としても位置付けている。

【エンリーケ・ビラ=マタスの「バートルビー症候群」への接続】

 デュナミスとは、いわば全ての行為をする「可能性」を秘めている状態である。建築家が建物を建てるための建築案を、頭の中だけで漠然と用意し、まだそれを画面上ないし紙上で具体化していない場合、彼は「デュナミスの内にある」。このような状況においては、ライプニッツの弟子ヴォルフが述べるように、「…意志もまた、最早欲するに当たっての原則を何も持たない。意志は何を欲するにも無差別的である。したがって意志は、欲望するから欲する、というのでもない。実のところ、意志が何かよりもそれ以外の何かを欲するということに、どのような理由もありはしない」(p51)。すなわち、ここまで来て、ようやく我々はバートルビーが患っている「存在論的な病理」の真相に触れるのだ。彼は、全てが可能である以上、最早何をしても「無意味」であると語っているのではないだろうか。だからこそ、彼はいかなる野心的な構想、企画、仕事に対しても、「できればしない方がいいのですが」としか返答しなくなったのである。これは一種の「悟り」の境地に近く、ナラティブの次元ではブランショの「不在」の思考とも通底していると考えられる。また、バートルビーは何をしても「無意味」であると悟ったがゆえに、いわば「自由」でもあるわけだが、この圧倒的な自由が、逆に「不自由」へと反転している。
 アガンベンは、このようなバートルビーの屈折した台詞について、「存在と無の彼方」という、やや食傷気味な表現を用いているが、重要なのはむしろ、バートルビーが「デュナミスの無差別な存在様態」を擬人化した存在であるということである。例えば、バートルビーは現代文学における「書く行為」の再生産原理に深く見入って、最早新しいものをどれだけ書こうとしても、一切は反復に過ぎないことを悟った「作者の死」(バルト)以後の人物であると言えるだろう。彼にはあらゆる物語が、古今東西で耳にした豊富な物語のデータベースが存在しているが、最早「書かないほうがいいのです」という悟りの境地によって、いかなるテクストを書くこともない。何故なら、彼は全てを見知ったからであり、自分の生み出す物語も所詮、レディ・メイドに過ぎないことを知っているからである。こうして、「バートルビーとエクリチュール」というテーマは、エンリーケ・ビラ=マタスの重要な小説『バートルビーと仲間たち』へと接続していくことになる。ビラ=マタスは、書けない状態に陥った(スランプ)作家のことを、「バートルビー症候群」と呼称しているが、ここにアガンベンのバートルビー論を踏まえると、以下のように理解することが可能だろう。すなわち、彼らは単に「書けない」のではなく、「書かない方がいい」ような気がしているのであり、それは彼らが構想しているものが、既に過去の時代において、どこかに必ず「存在している」という確信が、いわば彼らのエクリチュールから現勢化を奪取するのである。現勢化の奪取は、このように全ての可能的なものが、既に過去に一度は生起したという事実を認知して初めて生起する。この限りで、「バートルビー症候群」とは、まさに「作者の死」、あるいはバフチン、クリステヴァへと接続するintertextuality(間テクスト性)の文学的変奏であると言えるだろう。

【セクストゥス・タルクィニウスのピラミッド】

 整理しておこう。バートルビーは、「潜勢力」と「現勢力」とのあいだにおける「宙吊り」である。つまり、存在させないことも、存在させることも可能である状態の内へと滞留し続ける存在である。一言で言えば、彼は「書くこともできるが、できれば書かない方がいい」のである。アガンベンは、このように、あの時起こっていたのかもしれないが、もしかすると起こっていなかったのかもしれない、という意味で「(絶対的)偶然性」として解釈する。
 アガンベンの規定する「偶然性」の概念には、以下の二つの原理が存在する。

(1)過去のデュナミスの実現不可能性(過去はもう決定・修正できない原則)
(2)条件的必然性の原則


 (2)については、「潜在性」の概念を考究した再評価目覚ましい神学者ドゥンス・スコトゥスが次のように規定している。「意志という同一の現勢力において、神は互いに反対物であるものを欲する。神はそれらがともに存在することを欲するわけではない。それは不可能なことだ。そうではなく、神はそれらを、ともに欲するのである。それと同様に、互いに反対物であるものがともに存在することはないが、ただ一つの行為である同一の認識行為においてともに認識される、ということを神が知るのは、同一の直観によって、ないし同一の知によってである」(p62~63)。これは判り易く言えば、神は己が行わなかったことも十分に認知しているということ、すなわち神は「可能的世界」についてもそれらを掌握していることを意味する。可能的世界とは、ライプニッツが述べたように、堕罪が生起せずに安穏にエデンで生活し続けているアダムとイヴの例に代表されるような、いわば「もし~だったなら」の世界である。スコトゥスは、神はこうした可能的世界についても知っており、一つの世界を選択した瞬間に、同じように別の可能性へと派生した可能的世界についても全的に認知すると理解しているわけである。
 アガンベンは、こうしてバートルビー論の最終部で、ボルヘスの師であり後期ドゥルーズの研究対象でもあった、かのバロックの哲人へと向かう。ライプニッツは『弁神論』の中で、「セクストゥス・タルクィニウスのピラミッド」について言及している。このピラミッド全体は神の知性を象徴したもので、いわば「可能的世界」を神の視座を擬似的に再現する形式で表示したものだ。構造は至ってシンプルである。ピラミッドには無限数の小部屋が存在し、それら全てが「可能的世界」の一つ一つを表示している。例えば、ある少年が恋しているクラスメイトにある日の夕暮れ、告白したとしよう。これが事実である場合、それは神が選択した「最善世界」であるので、ピラミッドの頂点で光り輝いている小部屋として描き出される。しかし、この少年が懊悩した結果、想いを秘め隠したままにする道を選んだ場合、それは一つの「可能的世界」として、頂点の部屋の下方に、いわば無限に派生・増殖していく。ある行為を選択し、現勢化させた時点で、行為「されなかった」、すなわちデュナミスに留められたままの可能的な別の無限数の行為が存在しているのであり、これらの行為それぞれに、新しい可能的な小部屋が割り当てられている。したがって、必然的に「可能的世界」をモデル化すると、ライプニッツが思い描いたように「四角錐」の形状を採用するのである。ライプニッツは、「あらゆる可能的なものを、神は永遠全体にわたって含んでいる」と述べている。
 もう少し、この例で思考を続けよう。少年が告白した場合、彼女が「私も付き合いたいと思ってたの」と返す場合と、「ごめんなさい」と返す場合は、いうまでもなく差異化された「可能的世界」へと派生していく。もしも前日に、この少年のことが好きな別の女子が、告白の機会を明日に狙っていたが、たまたま風邪をこじらせて欠席していた場合、この第三の少女の「風邪」をひく行為は、やはり少年の「告白する」行為にも決定的に作用するだろう。もしかすると、少年はこの少女と一度付き合ってみるかもしれないし、断るかもしれない。――つまり、我々がここで眺めている幾つもの「可能性」は、そのままピラミッドが無限に下方へと階層化されていることを意味している。ライプニッツは「ピラミッド」と表現しているが、ドゥルーズ以後を生きる現代社会にあっては、「リゾーム」と表現しても良いだろう。すなわち、「可能的世界」を表示するモデルはツリーではなく、リゾームであり、この根茎は、ある「一つの行為」を始点にしてニューラルネットワーク状に無限に分裂していく。この「一つの行為」も、始点とはいえやはりそれに先行する始点から派生した第二の始点なのであり、このようにライプニッツの「可能的世界」は、ドゥルーズの初期の論稿「無人島の原因と理由」における、「起源」そのものの策定不可能性を巡る思弁へと繋がっていくのである。

【過去に一度生起した出来事は未来に再び生起し得るか?】

 アガンベンのテクストで謎めいていて興味深い箇所は、神が己の選択の正しさを確かめるために、ピラミッドの頂点(最善世界の小部屋)を、それだけでなくピラミッドの階層化された全ての小部屋を、「折にふれて訪れる」と記しているテクストである。そして、そこに「神の悦び」があることを見出している点だ。ここで重要なのは、アガンベンが引用している以下のブランキのテクストである。

過ぎ去った諸世界の一冊一冊が、未来の諸世界の一冊一冊となる。分岐の章だけが希望へと開けている。ここで自分がありえた全てのことが、どこか他の場所で我々の身に起こっているということを忘れないようにしよう。(p77)


 私の記憶によれば、ボルヘスもその時間論においてブランキには注目していた。ここでブランキは、確かに「ここで自分がありえた全てのことが、どこか他の場所で我々の身に起こっている」と述べている。ボルヘスの文学における「時間」概念を深く読解するためにも、このテクストは具体的に考えてみなければならない。ブランキは、過去の出来事が、未来の出来事になり得ると考えている。換言すれば、かつてAに起きたことと、基本的な図式的同一性を維持した状態で、それが千年後のBの身の上に生起する。それはドゥルーズが考えていたように、「同一のもの」の反復ではなく、常に微分的「差異」を孕んだ反復であるだろう。とはいえ、我々がデュナミスの次元において単に構想し、現勢化させなかった無数の「行為」は、別の時代・場所に属する人間にとっては現勢化されることがありえるのであり、おそらくアガンベンは、このデュナミスを巡る奇妙な「遺伝学」に関心を抱いているものと解釈することができる。結局、この考えを厳密に理論化し得たライプニッツのテクストを、アガンベンが最後で引用しているのはそのためであろう。ライプニッツは以下のように表明する。

人類が、現在ある状態に充分に長く持続すれば、個人の生までもが瑣末な細部に至るまで同じ状態で改めて起こるという瞬間が必ずや到来するだろう。私自身も、このハノーファーという名の都市にいて、ライネ河の河岸でブラウンシュヴァイクの歴史の研究に取り組み、同じ友人たちに同じ意味の手紙を書いているところだろう。(p77〜78)


 また、ライプニッツは、自分が書物を書くことは自分が生まれる千年前から確定していたし、千年後も事実として存在していると述べている。この二つの定理から、一体いかなる概念が導出できるであろうか? 注目したいのは、「人類が、現在ある状態に充分に長く持続すれば、個人の生までもが瑣末な細部に至るまで同じ状態で改めて起こるという瞬間が必ずや到来するだろう」という箇所である。これを社会学的に考えれば、二百年前の時代状況と現在が、ある点において著しく類似している場合、そこから未来を予測することはできるだろう。ただし、これはカール・ポパーの言う典型的な「歴史主義の誤謬」であり、ポパーによればいかなる未来を動かす普遍的規則などというものも存在し得ない。未来は「定理・数式」によって決定されるのではない。この点を踏まえると、ライプニッツのテクストにおける「現在ある状態に充分に長く持続すれば」という条件付けが、いわば「社会的背景の相同性」の意味を担っていると解釈することができるのであり、この点で、彼はやはり各時代における社会的な背景を捨象し、人間の行為そのものを極度に抽象化して把捉してしまっていると考えられる。いわば、彼は「とても甘くて美味しいチョコレートムースを食べる」、あるいは「冷たくてしっとりしたストロベリーアイスケーキを食べる」などといったセンテンスにおいて、ただ「食べる」という人間の普遍的行為だけを抽出しており、個別具体的な時代状況に相当する要素を全面的にカットする。こうして、過去のある時点が未来において再現される、というあのボルヘスが好んだ奇妙な「循環論」の誤謬が発生するのだ。厳密には、二つの時点には差異があり、「再現される」とは「反復される」こと、すなわち反復とは差異化であることを踏まえておかねばならないだろう。
 アガンベンは、「回想する」ことについては、ベンヤミンを敷衍しながら以下のように述べている。

回想は、起こったことを完成しなかったものにし、存在しなかったことを完成したものにし、それによって過去に可能性を回復する。回想は、起こったものでも、起こらなかったものでもない。回想は一つの潜勢化であり、物事が再び可能的なものになることである。バートルビーが過去を改めて問いに付し、過去を喚起するのは、この意味においてである。(p74〜75)


 このテクストが興味深いのは、アガンベンが「回想」を、「起こっていなかったこと」、すなわちデュナミスの次元に滞留してしまった幾つもの潜在的な行為を、「回復させること」であると規定している点だ。「回想は一つの潜勢化であり、物事が再び可能的なものになることである」。換言すれば、ある作家が私小説を書く際に、どれほど忠実に過去の出来事を回想したとしても、必然的に潜勢化された作用を受け、記憶は変容を来すのであり、生起したはずの出来事は歪められ、いわば「可能的なもの」へと接続する。これは、まさにプルーストの「無意志的記憶」のナラティブであり、「想起」形式を採用する全ての文学に妥当する概念であると言えるだろう。
 ちなみに、過去の出来事について「回想」する上で最も人間的な特質とは、我々がそれを「後悔」することが可能である点だ。回想はしばしば悔いを伴う。しかし、ニーチェによれば、我々にとって「それはそのようであった」として記憶に留められている記憶は、実は「私はそのように欲した」ものなのであり、いわば大いなる肯定によって克服されるものである。ニーチェは過去を想起する際に、「意志」の概念を結び付ける。一度起きてしまったこと、しかし、それは私が実は自ら選び取っているものなのだ。つまり、その状況下においてその不可避的選択は、神の視座からすれば「最善」なのである。
 

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