† 美学 †

「美」の逆説としての「吐き気」とは何か?――ヴィンフリート・メニングハウス『吐き気』×宮﨑裕助『判断と崇高―カント美学のポリティクス 』読解

The Kiss of the Sphinx by Franz von Stuck
Franz von Stuck 《The Kiss of the Sphinx》

【美学において「吐き気」とは何か?】
 

「不快である。不安である。気持ちが悪い。気色が悪い。気味が悪い。うっとうしい。おぞましい。厭悪する。忌み嫌う。嫌忌する。忌避する。嫌気がさす。反感を覚える。疎んじる。うんざりする。気に入らない。気に食わない。鼻持ちがならない。胸糞が悪い。悪心がする。むかむかする。むかつく。キモい。ウザい。キショい。唾棄する。反吐が出る。虫唾が走る――等々」(p146)


 引用したテクストは、宮崎祐助氏のカント×メニングハウス論が収録された『判断と崇高』からである。これらは全て「吐き気」の情動が有する諸相に他ならない。上記のような感覚にとりわけ強烈に襲われた時、我々は美学上における現代において最もラディカルなテーマとしての「吐き気」の概念に対峙していることになる。
 そもそも、「吐き気」とは何であるのか? カントはその『人間学』の中で、「吐き気」には少なくとも三つのタイプが存在すると規定している。

(1)生理的吐き気(特に嗅覚、味覚)
(2)美感的吐き気
(3)道徳的吐き気



 ヨーロッパの美学において最も重要な存在であるカントが、このように「吐き気」を分類し解釈していたこと自体がまず知られねばならない。カント美学を読解しながら「吐き気」の概念を先鋭化させたドイツの美学者ヴィンフリート・メニングハウス(Winfried Menninghaus 1952-)によれば、「吐き気」とは、人間の「あらゆる能力を統一する戦略的地点」であるばかりか、哲学の抱える根本的な欠陥を埋め合わせる「一つの原初的な哲学的オルガノン」に他ならない。そもそも、カントは「人間の魂の多様な感情」として、「美」と「崇高」と「吐き気」の三つを導入している。18世紀に盛んに研究されたのが「崇高」であり、ルネサンス以来の伝統的美意識を形成してきたのが「美」の概念である。「吐き気」だけは、常にネガティヴで付随的なものとして語られてきたに過ぎなかった。しかし、「吐き気」もまた「趣味の美的洗練」において測定される感覚であり、「哲学の美感的オルガノン」の一つである。
 「吐き気」――それは我々の人生のあらゆる場において突如として出現し、我々を衝迫する。「吐き気」にもやはり強度が存在し、まだ「美」が残存している「弱小の吐き気」から、完全に狂気の世界に足を踏み込んだ「強烈な吐き気」まで、審美的レベルにおいて階層化していると言えるだろう。先述したように、『人間学』の中でカントは「吐き気」を上記の三つに分類している。そして、これら三つの核心となる、ある感覚について以下のように述べている。

吐き気、つまり食べたもの(享受したもの)を食堂の最短経路をたどって外に吐き出す(嘔吐する)という刺激衝動が、一種の強烈な「生命感覚」として人間にあてがわれているのだが、それはこの親密な受け入れが…(中略)…危険となりうるからである。(メニングハウス『吐き気』p213)

 
 カントによれば、「吐き気」は「快と一体化するのが不可能」な感覚であるにも関わらず、我々に強烈な「生命感覚」を目覚めさせるものである。これは「美」が持つ衝迫力よりも、いっそう我々に稲妻のような驚きと、強い不快感を与える。だが、逆説的なことに、「吐き気」を感じている我々は強い「生」に対する自己統覚の必要性を再認識させられる。揺さぶりを与えられ、傷つけられることによって、むしろ反動的に「美」に反転するほどの何らかの強いシンパシーを抱くことがあり得るのである。
 このページでは、メニングハウスの主著であり、現代思想上の観点からその重要性が指摘され続けている、美学において極めてラディカルな書『吐き気』についての読解記録を、できるだけ丁寧に残しておく。本書は、以下のような疑問をかねてから抱いているような読者には格好の美学的テーマを提供するだろう。すなわち、「なぜ恐ろしいものが、往々にして私の魂を安らがせるのか?」、「なぜ、私は美しいものだけでなく、おぞましいもの、グロテスクなものにも好奇心を誘われるのか?」、「私が日常生活において慢性的に感じている憂鬱は、美学においていかなる意義を持つか?」――これらの問いを真摯に考究したい読者にとって、メニングハウス以上の師はおそらく存在しないだろう。

【「美」の逆説としての「吐き気」】

 1751年、シュレーゲルは「吐き気」を「美的なものの限界」として初めて定義した。美的ではないものを規定することで、逆に「美」が何であるかを策定できる。ここに「吐き気」が「美」に貢献する第一の意義がある。ドイツの美学者、哲学者であるヴィンフリート・メニングハウスによれば、「自ら(あまり)吐き気を催していない者だけが、吐き気の本性に対して認識を持って立ち向かうことができる」(P46)という。また、彼は「快適さが頂点にまで達すると、自ずから(行き過ぎた)飽満としての吐き気に至る」とも述べている。
 周知のように、18世紀のドイツで図式化されたデッソワーの「美的範疇論」には、「吐き気」という項目は存在しない。存在しているのは、「美」、「優美」、「崇高」、「悲愴」、「滑稽」、そして「醜」である。ただ、メニングハウスが規定する「吐き気」は、明らかに「美」の対概念としての「醜」と相関している以上、「吐き気」を「醜」の様態、あるいはその核心として位置付けておくことができるだろう。その上で、彼は「美」が容易に「不快」、「吐き気」に反転すると述べている。これを最も興味深い表現で説明したのはカントの『美と崇高の感情に関する観察』(1766)であった。

「フランスにおいて、あらゆる社交や付き合いに彩りを与えているのが女性である。それゆえ、女性という美しい存在を欠いた社交の場がかなり味気なく退屈なものであることは否定できないだろう。社交の場に美しい彩りを加えるのが女性であるとすれば、それに対して男性は、高貴な彩りを加えるべきであろう。もしそうでなければ、付き合いはやはり同じく退屈なものとなってしまうが、しかしながら、その理由は、女性が不在の場合とは逆に、甘さばかりであることほど吐き気を催させるものはないからである」(カント)。
美なくしては、「味家なく退屈」だが、美だけでも「やはり同じく退屈」であり、さらには吐き気すらも催させる――このような両極のあいだで美学理論は、一つの逃げ道となる定式を掲げる。すなわち、美が美しくあり続けるためには、〈美しくないもの〉・〈美しいだけではないもの〉を自ずから必要とするという、補足されることの必要性をめぐる理論である。(P48~49)



 ここでカントが述べているのは、「美」も過剰に満たされてしまうと、別のものに反転してしまうということだ。これを「飽満の吐き気」とメニングハウスは呼んでいる。実は、この「吐き気」という概念の本質に最初に気付いていたのは、カント以前の時代を生きた、ベネディクトゥス・デ・スピノザの『エチカ』上巻に他ならない。彼は以下のように述べている。

我々が欲望したものを享受するとき、胃は満たされ、身体は異なった状態へと置かれる。それゆえ、もし身体が既に異なる状態にあるとき、食物がなおも現前しているために、その表象像はまだ抱かれているのであり、それゆえ、この食物を食べようとする努力や欲望も抱かれていたとすれば、あの新しい身体の状態は、このような努力や欲望と矛盾することとなり、それゆえ、かつて我々が欲望した食物が現前していることが不愉快に思われるであろう。これが嫌悪、あるいTaedium(吐き気)と呼ばれるものである。(p50)


 恋愛もこれと同じく、「飽満の吐き気」に至ることがある。いわば、何事も度を過ぎると「だるさ」を帯びてくるということだである。では、この吐き気を回避するためにはどうすれば良いのだろうか? カントは以下のように考えていた。

…最も肝心な格率は、後になればなるほど快が高まるように少しずつ味わうよう調整することである。というのも、快に飽きてくると、そのために、贅沢三昧の人間が人生を重荷とさえ感じるときのような、あるいは、塞ぎ虫という名の女性たちが陥るようなムカムカさせる状態が訪れるからである。(p52)


 カントのこの「無限の前・快感」(確定的な快感を常に先送りして、未来に貯蓄すること)の考えを受けて、メニングハウスはそれを「保留というエコノミー」として定式化する。それは、「更に高まる可能性をオープンなままに残しておくことであり、常に梯子を最後まで登りきらないような段階である。この美に関する新たな学問が喧伝するのは、無限にしつらえられた前快感の卓越した技量を持つ名人たちなのだ」(p54)。
 快感を「無限に充足させないこと」――彼はそれを「エコノミー」と表現している。実際、ここで慣用されているのは経済学的な「貯蓄」の美学のメカニズムそのものである。我々に、例えば欲しい洋服があるしよう。その衣服は今月の給料で購入できる次元である。だが、眼を移すと、今自分が欲しいと思っている洋服よりも数段良い洋服が、来月には手が届く。だとすれば、我々は訪れる快を延長させ、なおかつ「この洋服ならとりあえず買える」という状況を確保しておくことで、いわば二つの洋服を同時に所有したかのような「保留というエコノミー」=「貯蓄」に快感を見出すことができる。いつでもあの洋服なら買えるが、もう少しだけ我慢すれば、より大きな「快」が届くのであり、このように「謙虚さ」と「節制」の混じった「快の延長」を行うことで、結果的に可能性(購入範囲)は現在よりも著しく延長されるのである。
 これと同じことが、「美」と「吐き気」の関係性についても妥当する。

すなわち、美とはそれ自体において傾向的に吐き気を催させるものであり、突如として自らが一つの嘔吐剤であることが明らかとなってしまうという危険に自ずから脅かされているのではないか、という推定である。(p54)


 このメニングハウスの考えは、初期カントの鋭い美的嗅覚を相続するかたちで記されている。ここまでで明らかになったメニングハウスの理論を一度整理しておこう。まず、「美」は「吐き気」に反転してしまう性質を持っているだけでなく、美を求めて過度に充足させてしまうと、必然的に「飽満の吐き気」に至るという事実である(例えば、過度の醜形コンプレックスを持つ女性が、マネキン人形そっくりなルックスに自分の容貌を整形してしまうような)。したがって、「保留のエコノミー」で述べられていたように、美とは異質な成分、端的に「不完全なもの」をあえて混入し、美までの到達を「遅延・非充足」の状態にさせることで、我々は「行き過ぎた美=吐き気」に至らず、多くの人にとっては「快」であるところの「美」を維持することが可能となる。この異質な成分の匙加減は、極めてデリケートな審美的問題であるので定式化することはできないが、まずもって覚えておかねばならないことは、「美」と「吐き気」が同じ血を引き継ぐ姉妹概念であるということである。
 以上のように、反美(吐き気)は美にとって「二重に構成的」である。これは、完璧な人間よりも、どこかに人より劣った短所を持つ人間に我々が親近感を寄せる心性とも通底している。美も完璧さを求め続けると「吐き気」に反転してしまう。だからこそ、芸術作品においても、長い吐き気を伴う状態が、遂に解放され、「美」に変身するような場面には、我々は始めから「美」であったような作品よりも、いっそう美しい感銘を覚えるのである。

それゆえ芸術は、美の様々な利点と欠点の双方を、同じようなかたちで制御しなくてはならない。美そのもののうちにある何かが、純粋さや混じりけの無さによって、まさに吐き気を催させるほどの飽満という不快を引き起こさないようにするべく、〈美しくないもの〉によって補足され、汚されることを要求する。学問としての美学および古典主義的な芸術の理想とは、最初からこのような純粋な美がもたらす危険に対する答えとして形成されたものであった。(p56)


 ここでメニングハウスは、「美」が実は「美しくないもの」によって補足されているという関係を示唆している。美が「飽満の吐き気」に至らないためには、何らかの「反美」的要素を吸収させることで、いわば未然に他の何かへと頽落することを回避させるというわけである。彼は更に以下のようにこの定式を補強している。

美を補足するものとされるものが「真剣さ」であろうと「真理」であろうと、いずれにせよ美は、美しくない・美しいだけではない審級を必要とするのであって、それによって美は、我々を「完全に飽満させたり満足させたりする」かわりに、その「魅力」を「長続き」させることができるのである。ヴィンケルマンは、メンデルスゾーンやレッシング、ヘルダーによる同様の省察に数年先んじるかたちで、このような飽満の値を示すものを明確に「吐き気」と呼んでいるのだが、その際にまた、控えめなかたちであるが、性的なものがもたらす吐き気が、「吐き気」一般の範例をなしていると暗示している。(p57)


【ネガティヴな「崇高」としての「吐き気」】

 ここで、いま一度メニングハウスが「カント哲学のトリアーデ」と呼ぶ三つの情動的なオルガノンについて説明しておきたい。カントによれば、「美」、「崇高」、「吐き気」にはそれぞれ、その感覚を齎す上で機能する上級能力というものがあり、それぞれ「悟性」、「理性」、「構想力」が対応している。「吐き気」の上級能力は「構想力」であるが、これらがいかに結び付いているかについては、以下の解釈を参照する必要がある。

第一に、直観の能力としての構想力は、他の二つの能力(悟性、理性)に較べて本質的に、より無媒介的であり、我々の曖昧な身体存在に本質的により近いところにある。そして第二に、まさに道徳的なオルガノンとしての機能を果たすためには、構想力を通じて連想を著しく働かせることが必要である。さもないと、実践的行為を嗅覚や味覚といった感覚との類比において判定することは不可能であろう。ダーウィンもまた、この後、吐き気が「たんに考えただけでも」容易に催されるという吐き気の特殊な性質を強調している。カントが「崇高・美・吐き気を催させるものの感情」を、「理性・悟性・構想力」という三つの能力へとなぞらえることは、その限りにおいて一貫している。それとともに、カントの思考のトリアーデ構造とのこのような関係は、吐き気という「極めて強烈な生命感覚」に対するカントの関心を際立たせているのである。(p226)


 ここで重要なのは、カントにとって「吐き気」は、「美」や「崇高」よりも、「極めて強烈な生命感覚」を賦与するものとして認識されているという点である。「吐き気」、それは「(道徳的)諸原則の補充として、極めて必要である」とカントは述べている。このようなカントの「吐き気」の概念を受容して、メニングハウスは本書の中でも特筆すべき以下の考えにまで至っている。

かくして、「吐き気」とは、ネガティヴな「崇高」である。つまり、吐き気とは、諸々の悪徳を憂慮しつつ予防するオルガノンであり、あらゆる自然障害に対して我々の道徳的使命が優越しているという崇高にして心を震わせる感情を、我々にとって可能な様々なもののネガティヴな対極において支援するものなのである。吐き気は、健全さを維持するために臭いや食べ物の吟味と味見をおこなう「極めて繊細な器官」であり、哲学をも含めて「精神の栄養」についての美的な趣味判断の器官であるだけでなく、「享受を強要する」ところの「悪徳」に美的-生理学的に反発する器官でもあり、それゆえ道徳的なものをネガティヴなかたちで防護する器官なのである。(p225)


 我々が何か害になるものを食べてしまった時、身体は危険を感じてそれを「吐き出す」。この「反吐を出すこと」は、実は身体を防護する生理的機能であって、けして「反吐を出すこと」それ自体にネガティヴな側面は存在しない。それは、むしろ忌避すべきもの・危険なものに触れた瞬間の我々の自然な反応である。したがって、「吐き気」とは、一種の「災厄」を「祓う」ための反応、審級であると位置付けることができる。

メンデルスゾーンによれば、吐き気と構想力との関係は明らかに、排除と抱合という二重の論理に従っている。すなわち、一方において、吐き気という極限的な経験モデルは、たんに「最も曖昧な諸感官」に属するものであって、それによって距離と知性に媒介された表象の領域から厳密に区別されている。しかしながら、他方において構想力は、吐き気をそれとは異なるものへと再編入することができる。すなわち、吐き気を催させるものについての「単なる表象」であっても、非本来的な「連想」や「回想」という様式において、自然と芸術の差異に対する構造的な無関心を始動させるのであり、そのようにして「現実」と「模倣」との区別をも内破するのである。(p77)


【吐き気、崇高における「視覚的構成」】

 ところで、カントは「吐き気」を司る状況能力としての「構想力」について、以下のように述べている。

わたしが美的理念によって理解するのは、多くのことを考えさせる機縁をなすような構想力の表象であるが、しかしながら、この表象に対しては、いかなる規定された思想も、すなわち概念も適合することができず、したがって、どのような言葉もこの表象に完全に到達することも、この表象を理解させることもできないのである。(p58)


 このカントのテクストで重要な、構想力の表象については、いかなる思想も概念も適合できず、ましてやどの言葉もイメージもこれを表現できないという考えは、刊行されると同時に話題を集めているド・マンの『盲目と洞察』の翻訳で名高い宮崎祐助氏が『判断と崇高』の「崇高論」で取り上げていたテーマでもあった。それはつまり、「崇高」を何らかの「対象」に結び付けて解釈してしまって良いのか、という問題と密接に相関している。カントは、そもそも「構想力」を、いかなるイメージも概念も、これを表現できないものであると規定している。
 そもそも、カントは「崇高」を思考する上でAugenschein(眼の眺め)に陥っている。宮崎氏が前掲書で述べていたように、カントは空、海、はては人間の姿形にまでその「対象」を広げていた。これを受容して、ポール・ド・マンは、新古典主義時代において今日最もラディカルなテーマを宿している「近代の断片知」を鋭敏に感じ取っていた芸術家としてのテオドール・ジェリコーとも相関するかたちで、以下のようにdismemberment(四肢切断)のイメージについて語っている。

要するに我々は、自分の足や手や爪先や胸や、モンテーニュがおどけて「わが部分殿」と呼んだものを、詩人が海を地球上におけるその地理的位置から切り離して見るように、身体の有機的統一から切り離して、それ自体として考えなければならないのである。言い換えれば、我々は身体を、ヴィンケルマンよりははるかにクライストに近い仕方で解体し切断させねばならない。もっとも我々が近付いている暴力的な結末は、両者のいずれにも起こったのだが。我々は自分の肢体を、まるで未開人が家を見た時のように、いかなる目的や用途からも切り離して考えなければならないのである。(宮崎祐助『判断と崇高』p162)


 こうしたド・マンの視覚的に把捉された「崇高」のイメージを受けて、宮崎氏は以下のように述べている。

ド・マンがカントの唯物論として最終的に示していることは、美的なもののカテゴリーが身体の寸断や不具が引き起こされるほどにまで徹底化されるなら、建築術的視覚もその美的純粋さにおいて物質的な崇高にいたるということである。物質的な崇高とはつまり、これによってカント美学、ひいてはカント哲学全体――というのも、その体系的分節は『判断力批判』によればひとえに美的なものの解明にかかっているのだから――がそれ自身の企図を解除ないしは脱構築せざるをえなくなるという当のものに他ならない。(前掲書p164)


 ここで重要なのは、カントが「もの」という対象によって「崇高」を限定化し得たように、ド・マンがこれを積極的に「四肢切断」されたジェリコー的なイメージとして受け継いでいるということではないだろうか。つまり、根本的なテーマとなっているのは、「崇高」にAugenschein(眼の眺め)という視覚的システムを導入している点である。これを肯定すると、モローが描いた洗礼者聖ヨハネの切断された「首」の出現は、「崇高」という美学的解釈を賦与することが可能な対象になり得るのではないだろうか。そして、「崇高」が「像」として摘出可能であるのなら、「吐き気」もまた、そのテーマで西洋絵画史を横断できるのではないか(例えばエーコの『醜の歴史』は、「吐き気」を主題にした絵画の集成の一つである)、すなわち、「吐き気」も「対象」から積極的にその哲学的な意味を摘出可能ではないかということである。

先に得られた帰結は、まずもって、視覚の物質性である。つまり、視覚として崇高なものの判断を構成する美的な契機が、その純粋さにおいてある種の物質性を含むということである。この物質性は、美的な判断にとって根本的な両義性として立ち現れた。すなわちこれは、判断の美感性(視覚性)そのものの限界を画すと同時に、改めてその美感性を可能にする契機だということができる。この契機は、先に述べたように、視覚の現象性を根底的に解体すると同時に、その同じ現象性を再構築する綜合の最小限の条件を指し示している。結果、美的なものが孕むこの両義的な契機によって、崇高における否定の論理は、ひとつの完結不可能な構造として理解されざるをえない。というのも、この両義性は、まさに美的なもののカテゴリーの不安定性を意味しているからだ。この不安定性によって美的なものの純粋さは常に侵犯され汚染されることを余儀なくされている。(前掲書p165)


 ここで宮崎氏は、「崇高」をイメージ、あるいは視覚的に構成する操作について、「視覚として崇高なものの判断を構成する美的な契機が、その純粋さにおいてある種の物質性を含む」と述べている。換言すれば、「崇高」であるか否かを判断する時、あるいは我々が何か端的にある事物を直視して「崇高な」感覚に急襲される時、それは往々にして「その純粋さ」においてすら、「ある種の物質性」、すなわち「視覚的な構成」を含有するということに他ならない。判り易く言えば、バークが「美」を考える上で「女性のくびれ」をイメージしていたのと同じく、「崇高」においても、我々はそれを考える上で本質的に「イメージ」という触媒の助けを借りているということである。その証左が、カントの場合、自然主義的な「嵐」や「水鏡」であったわけであり、「崇高」について以上のような視覚的構成が成立する限り、「ネガティヴな崇高」(崇高の裏面)としてのメニングハウスの規定する「吐き気」に、同様の本質的な「物質性」が成立しないはずはない。かくして、我々は「吐き気」の「絵画」、あるいは「映画」のショット、そして普段見慣れた日常世界のそこかしこに遍在する不気味な契機、更には観念上の吐き気、哲学的吐き気、宗教的吐き気、経済学的吐き気など、様々なものを「事物」、「出来事」と密接に接合したかたちで思考していく地平を獲得したのである。
 宮崎氏は更に以下のように続けている。

かくして感性的なもののリミットにおいて超感性的なものが否定的に表出されるという弁証法的な論理は、その否定性が絶対的なものにまで高められることで、超感性的なものへの到達不可能性を示唆するにとどまらず、その到達不可能性をも自らの本質的な構成の条件としていることがわかる。言い換えれば、超感性的なものへの否定的な到達という可能性は、絶対的な到達不可能性によってあらかじめ構造的に媒介されていなければならないのである。そしてこの到達不可能性によって、感性的なものと超感性的なもの、崇高なものと道徳的に善であるものとのあいだの適切な関係は、究極的に決定不可能になる。美が道徳性の象徴であるという点から、かつてシラーが主張したように美的教育によって文化や社会の秩序を陶冶することを目論むとしても、以上の帰結は、倫理と政治の美学化という企てを最終的に不確実なものにするだろう。(前掲書p165~166)


 上記の引用箇所において、「感性的なもの」を物質的な操作としての「キリストの磔刑を描く行為」に、そして「超感性的なもの」を「実際にキリストが磔刑で触知し得た感覚」に置き換えてみよう。そうすると、おそらくここで理解すべき内容がより判然とするのではないだろうか。ここで我々が「画家の絵画制作」というモデルを導入するのは、無論カントが視覚的に崇高を構成したことを受容した上での判断である。

・感性的なもの=画家が磔刑画を描く行為
・超感性的なもの=磔刑においてキリストが触知した感覚


かくして「画家が磔刑画を描く作業」のリミットにおいて「実際にキリストが磔刑で得た感覚」が否定的に表出されるという弁証法的な論理は、その否定性が絶対的なものにまで高められることで、「キリストが磔刑で得た感覚」への到達不可能性を示唆するにとどまらず、その到達不可能性をも自らの本質的な構成の条件としていることがわかる。言い換えれば、「キリストが磔刑で得た感覚」への否定的な到達という可能性は、絶対的な到達不可能性によってあらかじめ構造的に媒介されていなければならないのである。そしてこの到達不可能性によって、「画家が磔刑画を描く作業」と「キリストが磔刑で得た感覚」、崇高なものと道徳的に善であるものとのあいだの適切な関係は、究極的に決定不可能になる。(同文の言い換え)



 すなわち、画家は「絵画制作」によって、少なくとも「実際にキリストが磔刑で得た感覚」としての「超感性的なもの」にまで達する可能性を持つということである。これは「崇高」の場合であり、「吐き気」や「美」においても、同様の構造が成立すると考えられる。

【「ルクレティウスの難破船」のパラドックス、あるいは「津波」の快楽】

 そもそも、何故現代思想において、「崇高」の臨界点としての「吐き気」が注目されているのだろうか? そもそも、美学において「吐き気」とはどのように解釈されるのだろうか? このテーマを深く考察するために、カントの『判断力批判』における「美」と「吐き気」の概念について、メニングハウスは以下のように述べている。

このようにしてカントは、かくも妥協することなく入念に準備した美の「純粋性」に対して、明確なかたちで「毀損」を加えるのであり、あらゆるところでこの「毀損」が不純化による美感的判断力の上昇に寄与している。このような汚染のみが美的経験を無限の充足へと据えるのであるが、そうしたことが可能であるのは、ひとえに、我々を「完全に飽満させたり満足させたりする」――ことによって吐き気へと至らしめる――ような、完全であるとともに明確な把握が、かかる汚染によって無限に先延ばしにされるからに他ならない。それゆえ、美学という新たな学問の中核をなすものとして、しばしば呼び出される美的経験の無限性と完結不可能性は、吐き気というラディカルな有限性に対する対抗手段として理解することができる。すなわち、〈美的なもの〉という領野を外部から定義付け、脅かすのみならず、常に既に内部から浸透してしまっているような吐き気に対する拮抗薬をなしているのだ。規範的な無限性とは、完全な飽満ゆえの吐き気に対する抗嘔吐剤、厄除けでもあるのである。(p59~60)


 「吐き気」――これは元々、17世紀後半のヨーロッパ思想においてテーマになり始めたものである。系譜として、デュボス、バトゥー、バーク、メンデルスゾーン、レッシングに至る、「あらゆる驚愕の描出に対するパラドックス的な快」を研究すること、これが「吐き気」の伝統的な学問上の布置であった。判り易く言えば、メニングハウスが述べるようにこれは「恐怖に対する快」が何故生起するのかを、美学的に考察する。前提として、「身の毛もよだつようなもの」がこの世界には確かに存在しているわけだが、美学的次元ではこれをどのように解釈すべきであるか、これが「吐き気」の美学上の命題である。
 ここで一つ、メニングハウスが紹介している有名なエピソードとして、「ルクレティウスの難破船」について紹介しておこう。これは先述した「恐怖に対する快」を根源的に考察する上での具体例として有効である。例えば、我々が船の沈没を目の当たりにしているとしよう。我々は船には乗っておらず、あくまでも安全な場所から沈没を観察しているとする。この時、我々は「恐怖」だけでなく、一種の「満足感」を覚えるのではないか、というのがメニングハウスがこのエピソードに注目する由来である。我々は確かに泳いで船客を一人でも助け出そうとアクションすることもできる。だが、もしこれが映画のスクリーン上で映し出されているものだとすれば、我々は助け出すことなどしないだろう。むしろ、人々が沈没船と共に海に沈んでいく凄まじい光景を目にして、震撼し、助け出された者に感情移入していた場合、フィクションでありつつも観客として安全な地点から「恐怖」を眺めていることに、一種の安心感、シンパシーを抱いてもおかしくはないのではないか。
 この命題は、我々現代人がなぜ、「恐怖」を「愛する」次元にまで達するのかについての美学的解明に寄与する。身近な例で言えば、あれ程恐ろしいと喧伝されているにも関わらず、時折気まぐれにも恐ろしい映画を見たくなってしまうのは何故か、あるいは恐ろしい事件にかくも好奇心をそそられてしまうのは何故かというメカニズムと深く繋がっている。メニングハウスによれば、「恐ろしい出来事」(残酷な公開処刑なども含めて)には、それを目にする人間から「退屈」さ、「自殺する傾向」を回避させる逆説的な力が存在するという。例えば、我々が暮らしている都市Aの隣の都市Bに、大型旅客機が墜落して住民、乗客含め大多数の死者が出たとする。我々は、たまたま隣の都市で暮らしているから墜落事故の被害を免れたが、もし機長の操作が少しずれていれば、自宅に墜落していたのかもしれない。つまり、我々近隣住民にとって、この「恐ろしい出来事」は、逆説的に「生きている」という強烈な生命感覚を呼び覚ます強大な力を持っているのである。換言すれば、間近で人間が死に、自分だけは偶然にも助かるという現象は、「自己保存の意志」を強化し、慢性的にメランコリアに支配される我々現代人から、生き生きとした瑞々しい「快適な自己統覚」を齎す契機となる――メニングハウスはルクレティウスの「難破船」のエピソードを、このように美学的に“肯定”するのである。ここに、おそらくメニングハウスの美学の有する最も問題的な暗黒面が存在する。メニングハウスは以下のように述べている。

すなわち、恐ろしい諸対象はまず、我々の精神器官に対してとりわけ強烈な刺激を齎すとともに、更にまた、その後、これらの対象がたんに芸術上のイリュージョンに過ぎなかったということに対する喜びと安堵を与える。それに対して、快適な諸対象によって引き起こされる激情の動きは、より穏当なものに過ぎず、その上、そうした対象が実際には存在しないという意識もまた、むしろ幻滅を与えてしまうのである。(p63)


 ここで重要なのは、メニングハウスが「恐ろしい出来事」による刺激を、芸術上のものとして単なるイリュージョニズムに帰している点である。だが、我々が通う学校で、ある男が次々とクラスメイトたちを斬り付け、多数の死者が出たとしよう。得体の知れない犯人による連続殺人は、まさに我々に一瞬、解釈する意志を奪うほどの「衝撃」を与えるのであり、この次元においては恐怖が先行して分析行為は宙吊りになる。メニングハウスは、おそらく倫理的次元での批判を免れるために「芸術作品」としての「恐怖」という条件付きで理論化しているようにも見受けられるが、本来、何の意図もなく恐怖が蒔かれるような場にこそ、我々は唐突に降り立ってしまうのではないだろうか。つまり、ここで重要なのは、芸術ではなく実際の社会での「恐ろしい出来事」が持つ「美的効果」なのであって、これこそをメニングハウスは実は主張しているのではないかと、我々は考えるべきであろう。
 テーマ的に相関する印象的な詩を文学作品に見出してみよう。戦後の日本詩を代表する詩人、入澤康夫の「鴉」という詩には、以下のような特異な感覚が表明されている。

広場にとんでいつて
日がな尖塔の上に蹲つておれば
そこぬけに青い空の下で
市がさびれていくのが たのしいのだ
街がくずれていくのが うれしいのだ
やがては 異端の血が流れついて
再びまちが立てられようとも
日がな尖塔の上に蹲つておれば
(ああ そのような 幾百万年)
押さえ切れないほど うれしいのだ
 
     〔「鴉」、詩集『倖せ それとも不倖せ』1955〕


 
 ここで詩人は、「鴉」へと生成変化して、「街がくずれていくのがうれしいのだ」と述べているだけでなく、その悦びが限度を越えるほどの喜悦であることを強調している――「押さえ切れないほどうれしいのだ」。この詩は、3・11以後の日本の現代思想において、少なくとも「街の崩壊」が「悦び」として解釈され得る可能性を暗々裏に示していると言えよう。そこで否応無く浮上するのは、「遺族の感情」であり、「死者たちの無念」である。彼らのことを顧慮すれば、通常の倫理的感覚を持ち合わせた人間であれば、崩壊しようとする街の悲惨な様子に「美」を見出すことなど不可能である。だが、メニングハウス的に3・11の「瓦礫の街」を、あるいはあの襲い来る「津波」を解釈すると、こうした一般的な図式の顛倒が生起するのではないか。すなわち、人を吞み込み、多くの人間の命を奪うほどの力能を宿しているがゆえに、「津波」は、カントが「嵐」を謳歌したような意味で「崇高」であるばかりか、同時に街を残骸の山へと一変させる点で、「驚愕」を中核にした「吐き気」の極致に他ならない。そして、そうである限り、あの自然災害に「快」を見出す人間がいても、それは美学的にはむしろ強い今日的なラディカルさを孕んだテーマになると言えよう。
 メンデルスゾーンは、この「恐怖」、「吐き気」が「快」へと反転する出来事の持つ美学的な意味について、以下のように述べていた。

我々が怖れを感じる時、一切の希望が失われているようなことは稀である。驚愕は、危険から逃れようとする我々の全ての力を活気づける。憤怒は復讐欲に、悲哀はかつての幸福な心という快適な表象に結び付いているのであり、同情は愛や好意といった優しい感情から切り離されることはない。魂は、あるときは激情の悦ばしい部分に、あるときは厭わしい部分に留まり、自ら快と不快の混合を作り出す自由を持っているのであるが、こうした混合感情は、まったく純粋な満足よりも魅力的である。(p63~64)


 あるいは、バトゥーは1746年に刊行した『同一原理に還元された諸芸術』の中で、既に以下のように表明していた。

不快な諸対象にとって、かくも有利なものとなる模倣の諸効果は、同じ理由により、快適な諸対象に対してはまさに不利益を齎す。印象が減殺されてしまうのである。…このように、他の全ての点において、双方が同一であるならば、心をより満足させるのは、諸芸術においては、快適な諸対象ではなく、不快な諸対象であるに違いない。それゆえ、芸術家たちが成功を収めるのは、快適な諸対象よりも不快な諸対象においてのほうが、はるかに容易いことも見られる。(p63)


 バトゥー、メンデルスゾーン、そしてメニングハウスに見出されるこうしたテーマは、ハイデッガーがその基礎存在論において、「不安」を現存在の核心的な存在様態として規定したことを鑑みても、極めて重要である。ハイデッガーはその芸術論において、「デイノン」(不気味なもの)に審美的な価値を認めている。今、我々の前に浮上しているのは、「怖れ、驚愕、戦慄、同情からもたらされる美的な快適さをめぐる諸理論」である。
 ここで、我々は小澤京子氏の『都市の解剖学』での一文を想起したい。彼女はこの本に収録された論稿の中で、リスボンの大地震が起きた1775年の11月1日について言及している。フクシマと同じように、かつてリスボンでも都市を飾っていたオペラ劇場や大聖堂などが一瞬で廃墟と化した。しかし、わずか二年ばかりでミゲル=ティベリオ・ペデガシュという当時の特派員の一人が、『1775年11月1日の地震と大火によって生じたリスボンのいくつかの、最美の廃墟』というフランス語版の版画集を出版したという。たった二年で、被災地は審美的対象として作品化し得るのである。
 かつて大江健三郎が語ったように、生きている人間を足で踏むのは容易ではない。だが、死んだ人間であれば我々はおそらく「それ」を踏むことができるだろう。そして、生きている人間の命を奪取するほどの圧倒的な力能を秘めた「津波」には、やはり倫理が捨象された地平において、最も危険な「美の神」が宿っているのである。
 間近で起こった圧倒的な恐怖は、我々の「生」の羅針盤を根源的に揺さぶるほどの力を持っている。例えば、たとえ幻覚であっても、他の人間にはけして見えない対象を知覚すれば、彼にとってその体験は生き方そのものにまで変革を迫るだろう。「吐き気」の感覚だけでなく、同時に「恐怖」をも呼び覚ます最適な例は、おそらく「心霊的なもの」であると考えられる。「心霊的なもの」は、震災以後の「霊性」運動の一様態として、十分に注目するだけの意義を持っている。そして、それらに我々が惹かれるのは、「怖いものみたさの美学」として、やはりヨーロッパで17世紀後半から主題化され始めた「吐き気」の系譜と相関しているのではないだろうか。

【「美」、「吐き気」、「崇高」の関係性】

 メニングハウスは美学的に「吐き気」とは何かを考察するに際して、メニングハウスという先達の業績を特に評価している。ただし、メンデルスゾーンが「不快には歓喜が混ぜ合わさる」(純粋な不快は存在しえない)という時、我々はやはりメニングハウスに抜け落ちている「精神分析」からのアプローチも導入した上で、吐き気に対する「快」という特異な感覚様態を分析すべきであろう。

メンデルスゾーンより後の著作家たちは、フロイトにはるかに先駆けて、吐き気を催させるような無数の現象に対して、まさにそこに人を魅了すると共に反発させるようなアンビヴァレンツがあることを強調し、吐き気のうちに、快との関連の完全な欠如よりはむしろ、拒絶された快から唾棄された快に至るまでの様々な快が存在すると診断することとなるだろう。メンデルスゾーンは、「快との混合」という表現の代わりに、「快との顕著な混合」がないという表現――それは、顕著にではなく隠されたかたちで快が混合されているという想定を完全に許容する――を用いることによって、そのようなアンビヴァレンツの可能性に対する余地を既に残している。(p66)


 このように、メニングハウスは彼に一定の評価を与えているわけだが、メンデルスゾーンは実は「芸術」に「吐き気」は何の関わりもなく、味覚、嗅覚という感覚にのみそれを限定させている。美学の見地からすれば、「吐き気」がするという感覚は、我々が生のただ中にあって、ある強烈な「リアル」に触れているということに他ならない。
 メニングハウスは、「美」と「吐き気」の根本的な差異について、以下のように結論付けている。

美とは錯覚させるものであり、芸術的な記号として、不在のものが実際に存在しているかのようなイリュージョンを生み出すものである。美しい表象が及ぼす効果は、錯覚させればさせるほど、よりリアルで自然なものとなっていく。だが、吐き気を催させるものは、いつでも、また、単なる表象としてでさえ、このような自然の効果を及ぼす。それゆえ、吐き気を催させるものは、美というイリュージョンの理想が保証されており、努力することなく、いつでもそのような理想が達成されているような状態を徴付けているのである。(p79)


 忘れないようにしよう。美学においては、「混じりけのない美」もまた、単に美のみで自足してしまうと、「吐き気」へと内在的に反転してしまう危険性を帯びているということである。重要なのは、おそらく範疇論における他の美的カテゴリーを「美」と同居させることで、「美」それ自体が「飽満の吐き気」に達することを未然に回避するという、まさに微妙な「匙加減」に他ならない。単に美しいだけの姫君よりも、我々は「かつて醜く呪われていた」姫君が、不可思議な呪縛を解放して「美」そのものの化身であるかのような女性に戻る瞬間にこそ、「醜」「美」という、いわば美的カテゴリーの絶妙な変容のプロセスを読み取ることができるのである。すなわち、「美」は「悲愴」となったり、「美」と「滑稽」の要素が一人の人間に共存していたり、あるいは「美」が「醜」へと転ずるところに、芸術的なるもののイデア的な核心を見出すのである。メニングハウスがメンデルスゾーンから敷衍して解釈していることは、まさにこのテーマであり、芸術制作に携わる全ての人間にとって一度は考えてみるべき命題である。
 「美」と「吐き気」――換言すれば、「美」と「醜」について考える上で、ヴィーナスの誕生秘話にまつわるヘシオドスのかの有名な説を紹介しておくべきだろう。ヴィーナスは神々の中でも最も「美」を体現した女神であることはいうまでもないが、実は彼女は切断されたウラノスのペニスが海に飛来し、海面に生じた無数の「血と泡」の塊から創造されたという、強烈なグロテスクさを持つエピソードを秘めた女神でもある。ヴィーナス、すなわち「美」は、その存在の根本原因からして既に「吐き気」を内在させているのである。これを芸術的な次元にまで拡張すると、以下のような考えが展開できるのではないだろうか。すなわち、美として我々を襲うもののヴェールが剥がされた時――この瞬間をメニングハウスは「美(それ自体)の錯覚」と呼称する――「吐き気」が浮上するのである。この限りで、「美」と「吐き気」は常に反転する可能性を帯びている流動的な美的概念である。
 ところで、メンデルスゾーンは「吐き気」と「崇高」の関係性について、以下のように述べていた。

吐き気と最高度に「ぞっとさせるもの」との間の以下のような違いに注意しよう。すなわち、吐き気は、舞台の上のみならず、記述される時や、詩的に描写される時であっても、人を不快にさせるのであり、けして崇高の源泉になることができない。しかしながら、「ぞっとさせるもの」は、詩人が描写の中で思うままに駆り立てることができるのであって、そのような詩人は我々の賞賛に値するだろう。というのも、我々を揺り動かせば動かすほど、ますます詩人は崇高になるからである。(p82)


 メンデルスゾーンによれば、「吐き気」は「崇高」の源泉にはなりえない。すなわち、どれ程「吐き気」を先鋭化させて作品に描き出したとしても、それが「崇高」と解釈されることはない(ただし、「美」と相関することは原理的にはあり得る)。しかし、「ぞっとさせるもの」は、「崇高」の発火源として活用させることができるという。この考えはバークの『崇高と美の観念の起源』においても、「崇高」の源泉が「畏怖」(恐るべきもの)と規定されていることとも相関している。端的に言えば、観客を心底震え上がらせるような力を持つ芸術は、ある意味では成功していると言えるのである。ただしそれは、偽ロンギノスが『崇高について』で展開していたように、「品位」の劣ったものであってはならない。品位、厳格さ、威厳、高貴さ、それらの欠損したところに「崇高」は降り立たない。あくまでも、「ぞっとさせるもの」の本質は「畏怖」であり、畏れられ「敬われる」ことが少なくともその前提である。

【フランシス・ベーコンにおける「驚愕」のパトスフォルメル(情念定型)】

 「ぞっとさせるもの」を強力に内在させ20世紀の油彩画において最も衝迫力を帯びた画家に、フランシス・ベーコンが存在する。この画家の作品、特に圧倒的な暴力を受けて極度に顔が変形してしまい、泣き叫んでいるかのようにデフォルメされた肖像画のトリプティク(三幅対)を見た時の私は、確かにそこにメンデルスゾーンのいう「ぞっとさせるもの」、あるいはバークのいう「畏怖させるもの」を感じた。だが、今彼の作品を改めて観るとどうだろうか? 問題の核心は実はここにある。ベーコンのように、ショックを与えることにおいて突出した才能を発揮した画家の作品における、その「ショック」には実は「耐久時間」というものが存在しているのではないか。ベーコンの作品が、私にとって今や「平凡」であるのは、いわば作品に内在していたスリリングな要素が平面上で分解され、「ベーコン=ある程度のショックは当然与えてくる画家」という心理的機構が意識の内部で働くからである。つまり、ベーコンにおいては、「強烈な驚愕」がいわば「スタイル」となっているがゆえに、直言してしまえば、「すぐに飽きる」のである。ここに、フランシス・ベーコンという画家の持つ最大の弱点としての、メニングハウスの規定する「飽満の吐き気」が存在する。吐き気が様式化した時、それは一種の画一化された制度に成り果てるのであって、ベーコンの作品群はほぼ全てこの「吐き気によって統一された様式」によって、その美的価値を「月並み」なものにしてしまっているのではないか。ヴァールブルクを慣用すれば、ベーコンにおいてはいわば「驚愕」のパトスフォルメル(情念定型)が生起していると考えられる。この点に最初に気付いたのは、おそらくメニングハウスではなくレッシングの『ラオコオン』であった。レッシングは以下のように、今日の「吐き気をテーマにした絵画」に対して強力な批判を展開している。
 

絵画における吐き気を催させるような対象について考えてみよう。そもそも視覚には吐き気を催させる対象はまったく存在しないが、絵画が芸術としてそのような対象を放棄するのは自明のことである、というのは全く異論の余地がないだろう。しかしながら、絵画が吐き気を催させる対象一般を避けなければならないのは、観念連合によって視覚もまた、そのような対象について、吐き気を催させるように感じさせるからである。ポルデノーネはキリストの埋葬を描いた絵画において、会葬者の一人に鼻をつまませている。リチャードソンがこれに同意しないのは、キリストが死んでからそれほど長い時間が経ったわけではないのだから、遺体が腐敗へと至るはずはないという理由のためである。それに対して、リチャードソンが考えるところによれば、ラザロの復活の場合は、彼の身体が既に悪臭を放っていたことは物語にはっきりと書かれているので、何人かの参列者をそのように画家が描くことは許されるという。だが、このような表象は、そのような場合であっても私には耐え難いものに思われる。何故なら、実際の悪臭だけでなく、悪臭という観念だけでも既に吐き気を引き起こすからだ。我々は、鼻風邪をひいている時も、悪臭のする場所を避ける。しかし、絵画が吐き気を催させるものを求めるのは、吐き気を催させるもののためではない。絵画は、詩文学のように、それによって滑稽さや恐ろしさを強めるためである。だが、それは自らの危険において求めるのである。しかし、私がこの場合に醜いものについて記したことは、吐き気を催させるものによりいっそう当てはまる。吐き気を催させるものは、視覚による模倣におけるほうが、聴覚による模倣よりも、その効果が失われることははるかに少ない。それゆえ、滑稽なものや恐ろしいものの構成要素と緊密に混合する度合いもより少ない。驚きが過ぎ去り、最初の好奇心に燃えた眼差しも満たされてしまうと、ただちに吐き気を催させるものは再びすっかり分離し、それ自身の生の姿でそこに現れるのである。(p86)


 このテクストで重要なのは、特に最後の「驚きが過ぎ去り、最初の好奇心に燃えた眼差しも満たされてしまうと、ただちに吐き気を催させるものは再びすっかり分離し、それ自身の生の姿でそこに現れる」という箇所である。もしも美的範疇論のあの六角形に、新しく「驚愕」という美的カテゴリーを導入するのであれば、これは「崇高」や「優美」などとは異なり、その「耐久時間」の観点からも批判を免れないのではないだろうか。というのも、「驚愕」は一目見た時に我々に稲妻を与えこそするが、翌日にはそれを「平凡な曇天の如き散文」に変えてしまうからである。「吐き気」に、もしも「驚愕」が重要な位置を占めるものとして含有されているとすれば、これはやはり審美的な見地からすると、「崇高」や「美」には劣ると言わざるを得ない。ベーコンやサヴィルの絵は、一目見た時には我々の魂に「不快さ」、「グロテスク」を中核にした「驚愕」を与えるが、三ヶ月ほど経過すると、最早彼らにとってはそれが一つの「様式」であり、何か本当の意味で「吐き気」を伴うものとは別のものへと成り下がるのである。

【「吐き気」の正体】

吐き気とは、たんに美の対極をなすものや、美に最も固有の飽満という価値をなすというばかりではない。吐き気は、このような美的なものの両極端においてのみならず、他の情動を混入させるような機能を持つものとして、あるいは、主要な規則にとって必要不可欠なコントラストをなすという価値を持ったもの(parergon)として、美の中心においても登場してくるのである。このように吐き気は、傾向として、ほぼ全てのところで常に見出されるものに他ならない。吐き気とは、複合的で幽霊的な量であり、絶え間なく異なる価値を帯びるシフター(変換器)である――そして、にも関わらず――或はまさにそれゆえに――本来であれば実在しないままに留まるのである。…吐き気は、美的なもののまったき他者として、自らが限界付ける領域に対して、描出不可能で、不可視で、同定不可能であるという傾向を持ったままであり続ける――すなわち、美しい諸形式の世界が我有化することも、統合することもできず、そうすることを欲しないものの空虚な符丁のままに。(p88)


 吐き気という概念は、美学におけるパレルゴン(余白)であり、これまで理論的に主題化されておらず、常に断片的かつ欠損的なかたちで、付随的に思考されてきた。しかし、今や美学は「余白」を希求し始めているのであり、これまでいわば「美」から迫害されてきた従属的な存在としての「醜」、「吐き気」、「不気味なもの」といった悪魔的なものたちにこそ、今日的にラディカルな美学的命題が潜在しているのである。




「参考文献」


吐き気―ある強烈な感覚の理論と歴史 (叢書・ウニベルシタス)吐き気―ある強烈な感覚の理論と歴史 (叢書・ウニベルシタス)
(2010/08)
ヴィンフリート メニングハウス

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判断と崇高―カント美学のポリティクス (新潟大学人文学部研究叢書 (5))判断と崇高―カント美学のポリティクス (新潟大学人文学部研究叢書 (5))
(2009/04)
宮崎 裕助

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