† 映画 †

恋愛映画『きみに読む物語』における「愛」の予定調和について


きみに読む物語 スタンダード・エディション [DVD]きみに読む物語 スタンダード・エディション [DVD]
(2006/10/27)
ライアン・ゴズリング、レイチェル・マクアダムス 他

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 ニコラス・スパーク原作、ニック・カサヴェテス監督による恋愛映画『きみに読む物語』(2004)は、最早恋愛映画における一つの古典となった『タイタニック』に近い、いわゆる「格差恋愛」を描いている。時代背景は1940年代のアメリカで、ヒロインのアリー・ハミルトンは良家で育った天真爛漫な美貌を持つ御嬢様だ。彼女に一目惚れした一途な青年ノア・カルフーンはホイットマン受け売りの「自由」を愛する、シーブルックで過ごす田舎者だ。二人は同郷で若き日の愛の生活を送るが、アリーの両親が二人の社会的出自のあまりの格差から別れるように宣告する。いわば、両親は二人の甘い恋愛を「一夏の恋」程度に考えていたわけだ。アリーはこれに絶え切れず、人生初めての悲愴を経験するが、別れて以後は同じブルジョワ階級の男性ロンと知り合い、少しずつノアのことを忘れようとしていく。ノアは別れてから一年後、アトランタへ向かい、戦争のために軍隊に入る。そして軍隊を出てからは、かつてアリーと愛し合った田舎の廃屋を完璧なまでに美しく改築して、彼女が好きだった絵描き専門の部屋まで用意してひたすらずっと待っているのだった。この時のノアは、ただ家を改築する労苦のみが、アリーとの別れの悲哀を癒す唯一の行為であったようだ。
 やがてアリーがロンと結婚間近になった日に、彼女は昔深く激しく愛し合ったノアという青年のことを思い出す。“彼は今、何をしているのだろうか……かつて暮らした私たちのシーブルックで……”。運命がアリーをシーブルックへと運ばせ、そこで二人は数年ぶりに再会を果たすのだった。ノアはアリーをボートで無数の美しい白鳥たちが生息している湖畔へと招待する。そこで彼女はこの世界の「崇高」さ、その自然の美に圧倒される。映画でのこのシーンはまさにハイライトで、息を呑むような湖の美しい光景が映し出される。お金ではなく、大地の恵みによる最高のプレゼントを贈られたアリーは、かつての愛情を嵐のように蘇生させ、二人はその夜激しく愛し合う。
 しかし、ロンはこれを許さなかった。誰よりも失望したのは母親で、アリーはいわば二人の男性の間で板挟みになり、深い苦悩と迷いを経験する。ノアにも実はマーサという未亡人の女性がいて、アリーがいない間、彼女と関係は持っていた。それぞれ新しい異性に巡り合っていたということ、そしてかつてアリーの母親も同じような経験をして、最愛の恋人と苦い別れを経験したということ――それらがアリーの判断を鈍らせ、いよいよ彼女は深刻な愁いに襲われる。将来の経済的安定が望まれる裕福な男との形式的な結婚か、それとも自分を本気で愛してくれる情熱的な男との平穏で質素な結婚か――このテーマはトーマン・マンが若干二十六歳で執筆し、その後彼のノーベル賞を決定付ける礎石となった、かの『ブッデングブローク家の人々』のヒロイン、アントーニエの悩みと相関しているだろう。アントーニエの場合、階級が似た裕福な男性を形式的に選択するという苦渋の判断によって、結果的に夫が破産して悲愴なドラマを送ることになってしまう。ここには裕福なブルジョワ階級に出自を持つマン自身による「家柄での結婚」に対する強烈なアイロニーが漂っている。しかし、本当に自分に相応しい結婚相手が素朴で質素な生活をしている一途な男性であるとも限らない。映画や文学では往々にして「真実の愛」が「形式的な結婚」に勝利するという、メロドラマの系譜におけるステレオタイプ化された「美徳の復権」が描かれるわけだが、現実の場合、我々はいかに格差婚が困難を伴うかということも知っておかねばならないだろう。シリアスに形式的な結婚を選び、経済的な豊かさを取った方が幸せになるケースもまた正しい選択として描かれても良いだろう。愛欲と恋の不毛を描出したミケランジェロ・アントニオーニの『女ともだち』では、女性が格差恋愛を理由に、相手の男性と意図的に別れるというシリアスさが光っていた。この映画でも、やはり同じテーマが不可避的に浮かび上がるのである。
 映画の冒頭では、認知症の妻を献身的に介護している老人が登場する。彼は老いた「ロン」なのか、それとも「ノア」なのか? 女性にはあの運命的な一瞬において、どちらの男性を選ぶかという岐路が存在したわけだ。この映画では、老人はノアなのである。ノアはその後、アリーと家族に恵まれ、ひたすらこの美しい妻を愛し続けながら老いていく。そして、二人は添い寝しながら安らかに同じ夜に天に召される。もしかすると、マンはアントーニエ・ブッデングブロークという女性に、この映画でのアリーに近い未来を描き出すこともできたのかもしれない。だが、アントーニエならば「ロン」を選んだのである。そして、これは私の考えだが、「形式的な結婚」がやがて退屈な夫婦生活になり、経済的に満たされてはいるが必ずしも「愛」を感じているわけではないという、その生活における一種の「メランコリア」にこそ、私は潜在的にして不穏な「美」を感じるのである。その美はやがて新しい恋人を作り出し、彼女の平穏な夫婦生活を引き裂き、「悲劇」の構造が輪郭化するに至るだろう。私はこの映画の、一貫して愛が完成されたものとして描かれているという予定調和に、逆に不安を感じたのだ。そこには「愛の迷い」こそ描かれているが、まだ「愛の駆け引き」は前景化してはいない。やはり美は、愛していると見せかけながら夫を決定的に裏切り、愛人の子を宿した、かのラウラ・アントネッリが演じた『イノセント』のヒロインの一瞬の「裏切りの眼差し」にこそ、宿っているのではなかろうか……。








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