† 美学 †

「悲愴」の最高形式としての《ラオコーン》――ミケランジェロに与えた衝撃

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【《ラオコーン》をめぐる謎――「オリジナルか、コピーか?」】

 1506年、1月14日に、とある葡萄畑で奇妙な彫刻が出土した。蛇に絡まれた男性の悲痛な眼差しを刻印した大理石製の彫像――世に名高い《ラオコーン》の発見である。しかし、15世紀の公証人の手紙によれば、この彫像を欲した当時の枢機卿によって、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂の地下室に安置されてきたのだという。だとすると、何者かがこの場所から移し替え、その時に地中に埋められたのだろうか? 《ラオコーン》の発見にまつわるエピソード自体、幾つもの謎めいた襞に覆われている。一つ確実に言えることは、プリニウスの全36巻にも及ぶ大著『博物誌』によれば、かつて《ラオコーン》は皇帝ティトゥス(在位79年~81年)の邸宅内に設置されており、その当時から非常に高く評価されていた。プリニウスによれば、《ラオコーン》の作者は三名存在し、ハゲサンドロス、ポリュドロス、アテノドロスであるとされる。この三名は「ロドス島の略奪」(紀元前43年~42年)の際に、ローマへ脱出したという。彼らはこの彫像の他に、《オデュッセウスの船を攻撃するスキュラ》(紀元前30年~20年)も制作しているが、この作品は《ラオコーン》の「顔貌」と非常によく似ている(様式的類似)。したがって、研究者の間では成立年代は紀元前40年~20年であるとするのが現在定説になっている。
 ちなみに、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂の地下室は、かつてティトゥス帝の浴場が存在した場所であるとされている。地下室で《ラオコーン》を発見したのはフェリーチェ・デ・フレーディスという男性で、最終的には教皇ユリウス2世が購入したとされている。しかし、1998年の説によれば、現在我々が《ラオコーン》と呼称している彫像は、紀元前140年頃にペルガモンで制作されたブロンズ像の「コピー」に過ぎないという。確かに、ギリシア・ヘレニズム期の彫像《アルキュオネウスの像》(ペルガモン大祭壇)の蛇に巻かれた身体、うねったポーズ、悲愴な眼差しという点で本作は類似している。しかし、翌年には《ラオコーン》はオリジナルであるという反対意見も提示され、確証は得られていないままである。《ラオコーン》が、ギリシア時代の彫像をローマ時代にコピーした作品であるという可能性が存在することは記憶しておかねばならない。

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【ラオコーンとは誰だったか?】

 アルクティノスの『イリオス陥落』(紀元前六世紀)や、ソフォクレス、リュシマコスなどによって語られてきたエピソードによれば、ラオコーンとはトロイアに存在した海洋神ネプトゥヌスの神官である。伝承によれば、彼はミネルヴァ神殿に捧げられていた巨大木馬に槍を投げ放ち、その罰として子供二人と共に蛇に襲われたという。ウェルギリウスの『アエネイス』第二巻によれば、蛇に襲撃された時、ラオコーンは「総毛立つような叫びを天に向かってあげた」とされ、彫像ではこの「瞬間」が克明に表現されている。彼の身体は二重に蜷局を巻かれているが、トロイア人たちの考えによればこれはミネルヴァの怒りによるのだという。とはいえラオコーンは生前に、「木馬の中にはギリシアの兵士が潜んでいる」と告げており、そこから実際にギリシア兵が現れてトロイアを一気に壊滅させたのだった。この時に難を逃れて脱出し、海を渡ったアエネイスが「ローマ」を築いたという伝承が残っているため、ラオコーンはまさに「ローマ」人たちの物語において極めて重要な役割を果たしたことになる。ラオコーンは「危機」を民に告げ知らせた神官であり、ローマの起源となる物語を象徴する存在だったのだ。

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【ミケランジェロが受けた衝撃】

 紆余曲折を経て1506年に発見された《ラオコーン》は、当時のルネサンス時代の芸術家たちに強烈な衝撃を与えた。中でも《ラオコーン》に宿る霊性に逸早く呼応したのが、当時31歳だったミケランジェロである。ミケランジェロがいかに《ラオコーン》に深い影響を受けたかを知るために、《ラオコーン》発見以前と、以後における彼のスタイル上の差異について以下に記録しておく。
 
「ラオコーン発見以前」

 ミケランジェロが《ラオコーン》を発見する以前、彼は《バッコス》を制作している。この作品は紀元前四世紀後半のローマ時代のもののコピーであり、1497年頃に制作された。様式としては後期クラシックスに属するプラクシテレスに近いとされる。彼は《バッコス》のスタイルを一つのモデルにし、その「コントラポスト」(重心を傾けて、張り詰めた筋肉と弛緩した筋肉を並置する彫刻上の手法)に注目していた。多才な天性を備えた芸術家として知られるミケランジェロもまた、ルネサンス時代において「古典」として位置付けられていた作品群から自身を教育したのである。しかしその後、彼が制作した《ダヴィデ》は裸体の青年像であり、これはドナテロなどが制作した伝統的な「着衣」したダヴィデ像(ゴリアテの首、あるいは剣を携えた姿の人物像が主流だった)とは一線を画するものである。ミケランジェロはなぜ、ダヴィデからあえて衣服を脱がせたのだろうか? ドナテロの《ダヴィデ》が「勝利した勝ち誇る青年」であったのに対し、ミケランジェロのそれは「戦闘前の不安と緊張」を表出している。この「不安」こそ、グスタフ・ルネ・ホッケらがいみじくも述べたように、ミケランジェロの建築をして続く「マニエリスム」の社会的背景になる心的要素に他ならない。
 クラシック期のミケランジェロの代表作には、他に《アポロ》が存在する。しかしそこには、まだ《ラオコーン》のような驚くべきダイナミズムは宿っていない。このように、《ラオコーン》発見以前のミケランジェロは、古代ギリシア・ローマ時代の偉大な彫刻を手本にして作品を制作していた。クラシック時代から影響を受けた他の芸術家としては、レオナルドの《最後の晩餐》、ラファエルロの《アテネの学堂》などが代表的である。

「ラオコーン発見以後」

 《ラオコーン》を目の当たりにして天啓を受けたミケランジェロは、マニエリスム的な「屈曲」化に向かう。《瀕死の奴隷》と《反抗する奴隷》は共に1513年頃に制作されているが、この二つは従来のミケランジェロからは考えられないような身体的なダイナミズムを帯びている。二つの奴隷像のポーズは、人間の「もがき苦しむ姿」に他ならない。そこには、《ラオコーン》にも通じる身体の「蛇状曲線」が見出される。ミケランジェロは《ラオコーン》だけでなく、紀元前二百年頃に制作され、その後ローマ時代にコピーされたという《眠るファウヌス》にも深い影響を受けている。この時期に、代表作の一つである《モーセ》も制作されている。ローマ時代との影響関係でいえば、ミケランジェロは《ラオコーン》発見以前はクラシック的であったが、発見以後はヘレニズム時代の作品からそのダイナミズムを学んだと解釈することができる。
 ミケランジェロの《システィナ礼拝堂天井フレスコ画》にも、やはり《ラオコーン》からの影響が窺える。当初、彼は自分の本業はあくまでも彫刻家であるので、画業は断ってきたのだった。しかし、依頼主は彼の才能を買っていたので、自由に描くという条件の下、渋々了承するに至る。しかし制作はあまり捗らず、当時のミケランジェロは「何の得るところもなく時を消費している」という言葉を残している。このフレスコ画の制作は、1508年後半から1512年まで、足掛け四年の歳月を費やした。画題の順序は創世記のプロセスに沿ってはおらず、彼の絵筆が進むものから開始されており、順に「ノア」、「アダムとイヴ」、「イヴの創造」、「アダムの創造」、「天地創造」である。そして興味深いことに、後半のスタイルになるにつれて《ラオコーン》的な「屈曲」を見せ始めるのである。特にこのダイナミズムが顕著であるのは「巫女」の表象であり、《ラオコーン》発見以前の《デルフォイの巫女》がスタティックで、安定しているのに対して、《リビアの巫女》では「ねじれ」、「身体と手にした書物の巨大化」、「色彩の鮮やかさ」、「ダイナミズム」が際立っている。この双方の巫女の差異は、そのまま「ルネサンス」様式とローマ略奪以後に前景化してくる「マニエリスム」との差異にも重なっている。巫女だけでなく、《ヨナ》の表象はまさに《ラオコーン》的である。また、1509年から翌年にかけて制作されたとされる有名な《大洪水》では、ノアではなく「神に見棄てられた人々」に焦点を当てている。ミケランジェロは、選ばれた存在として救い出されるノアではなく、むしろ洪水に吞み込まれて阿鼻叫喚の最中に立つ苦しむ大勢の人々の姿に共鳴したのである。ここには、「危機」と「不安」の時代の芸術であったマニエリスムの先駆者としてミケランジェロが位置付けられる大きな要因が存在している。そしてマニエリスムは、ホッケの解釈によればやはり「危機」と「不安」の世紀であった20世紀を象徴する「シュルレアリスム」の先駆的様式として再評価されたのだった。

【マニエリスムへの影響】

 ルネサンスにおいて支配的であった「調和・秩序」に基づく美的原理は終わりを迎えた。いつ、終わりを迎え、次の様式に移行したのかといえば、1527年5月に起きた「ローマの略奪」にその原因を帰して語る研究者も存在する。しかし、それ以前にマニエリスム的特徴へと接続する大きな「事件」として、《ラオコーン》の発見を位置付けておくべきだろう。ミケランジェロはマニエリスムの先駆であり、我々は《システィナ礼拝堂》のフレスコ画と二体の奴隷像に、その萌芽を見出すことが可能である。ミケランジェロのマニエリスム的特徴は、その後彼の弟子であったジュリオ・ロマーノにおいて十全に開花される。




「参考文献」


彫刻の解剖学―ドナテッロからカノーヴァへ (イメージの探検学)彫刻の解剖学―ドナテッロからカノーヴァへ (イメージの探検学)
(2010/10)
諸川 春樹、喜多村 明里 他

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