† 映画 †

ナナ・クランフランケンハイムの憂鬱、あるいはライプニッツの最善世界?――ジャン=リュック・ゴダール『女と男のいる舗道』について

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女と男のいる舗道 [DVD]

 ジャン=リュック・ゴダールがヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞、パジネッティ賞の2賞を受賞した名高い『女と男のいる舗道(Vivre sa vie: Film en douze tableaux)』(1962年)を観た。このページでは、既に多くの解説が存在する中で、私が個人的に感じたことを断片的に綴っておきたい。断片的であることは、本作が日常生活を12のフラグメントに分割して構成した形式であることに倣うものでもある。
 アンナ・カリーナ演じるナナ・クランフランケンハイムは舞台女優志望の若い女性である。彼女は女優になるためのコネクションを求めるようなかたちで、写真家の男性と付き合っていた。しかし、願望は満たされることなく、ナナは娼婦として稼ぎ始めることになる。登場する本の中には、「愛欲の袋小路から抜け出す唯一の道」というテクストが刻まれている。映画を観に行くナナの眼前に映し出されるのは、サイレント映画『裁かるるジャンヌ』(1928)である。この「映画の中の映画」には、「勝利は何処に?」というジャン・マシューの問いかけに、ジャンヌが「殉教の場に」と答える一連の「断片」が挿入されている。マシューは更に「救いは?」と尋ねジャンヌは「死」と返すが、このわずか一分にも満たない映像で我々に強烈な印象を残すマシューを演じたのは現代思想の発火源であり続けている、かのアントナン・アルトーの俳優時代の姿に他ならない。
 先述したように、この作品はほとんど脈絡を感じさせることのない断片的な12の章から構成されている。一つ一つの章は、ちょうど原稿用紙4、5枚ほどの「掌編小説」の接合である。一見、時系列に沿って物語の呈を成しているかのように思われるが、実は章のそれぞれはほぼ独立し、いつでも離散可能な状態になっている。この映画に特別な「中心」はなく、どの断片=章もばらばらに連結されたリゾームである。いわば、ナナという一人の女性の生態系をめぐって編み込まれた12の「動く絵」である。
 ナナの社会的な位置はどちらかというと庶民階級の下に近い。彼女は売春斡旋業者であるラウールという若い怪しげな男との仲を深めていく。優雅なパリジェンヌからは程遠く、その生活はむしろ頽廃的で常にメランコリアに見張られている様子だ。十章のタイトルがとりわけ興味深い――「ある男 幸福は楽しくない」。そう、「幸福」とはけして楽しくはない、どこかに憂愁の種子を潜在させたものなのであろう。また、ナナはレストランで偶然出会った哲学者の話を聞いたりする(半ば退屈そうに)。エドガー・アラン・ポーを読んでいる馴染みの若い男性客との会話には、以下のようなものがサイレント形式で挿入されている。「美術館なんてたいくつよ」、「なぜ? 芸術、美――それが人生」……。
 映画のラストは、ナナがラウールに敵対する別の業者に拳銃で撃たれて終わる。終始乾いたクールさの光る作品だが、一つだけ特に印象的な台詞が存在した。ナナは「メランコリアの薬」について、以下のように語っている。「(物事を)あるがままに見ればいいのよ。全ては素敵」――この短い台詞には、私なりに考えることがあった。ライプニッツによれば、この世界で起きるどのような悪い出来事も、全て神が最善の世界のために「必要」だと考えた結果、齎されるものである。我々の身にも、楽しいことばかりでなく辛いこと、時には悲劇的なことも起きるが、それらは全て我々を神にいっそう近付けるために与えられる恩寵の一様態である。このような「最善世界」の考えに立てば、ナナの態度は、むしろライプニッツ哲学を素朴に受容した結果であると解釈することも可能だろう。つまり、全ての出来事が我々にとって「最善」として与えられている以上、それらを「全ては素敵」とみなした方が楽観的ではあるまいか、という一つの指針である。ナナは作中で実在する哲学者と対話もしているが、私には彼の発言よりも、むしろナナが同僚の女性にカフェで語る、この心の処方箋にこそ、何か非常に深い教えを感じたのだった。
 以下に、参考程度に哲学者とナナのお喋りの場面を掲載しておく。

【哲学者とカフェでお喋り】

シャトレ広場 - 見知らぬ男 - ナナは知識をもたずに哲学する
11. place du Châtelet - l'inconnu - Nana fait de la philosophie sans le savoir

※ 出演の哲学者は本当の哲学者ブリス・パラン(Brice Parain, 1897-1971)
※ ナナは(N)、哲学者は(P)と表記

N: なぜ読書するの?
P: 仕事さ。
N: 変ね。何言ってんのかしら。突然こうなるの。何か言おうと言う前によく考えているうちに、いざとなるともう何も言えなくなるの。
P: そんなものさ。「三銃士」は読んだかね?
N: 映画は見たけど、なぜ?
P: つまり…ポルトスという人物が…、これは「二十年後」の話なのだが、太った大男が出てくるだろ。彼は一度も考えたことがない。ある時、地下に爆薬を仕掛けることになった。そして導火線に火をつけ、逃げた。その時、突然、考えた。何を考えたか? なぜ右足と左足が交互に前に出るのかと。そう考えた途端に、急に足が動かなくなった。爆発が起こり、地下が崩れた。彼は強い肩で必死に支えたが、1日か2日後には押しつぶされて死んでしまう。考えたために死ぬんだ。
N: 私になぜ、そんな話を?
P: ただ話をするためだよ。
N: でも、なぜ話をするの? 何も言わずに生きるべきよ。話しても無意味だわ。
P: 本当にそうかね?
N: 分からない。
P: 人は話さないで生きられるだろうか。
N: そうできたらいいのに。
P: いいだろうね。そうできたらね。言葉は愛と同じだ。それ無しには生きられない。
N: なぜ? 言葉は意味を伝えるものなのに。人間を裏切るから?
P: 人間も言葉を裏切る。書くようには話せないから。だがプラトンの言葉も私たちは理解できる。それだけでも素晴らしいことだ。2500年前にギリシャ語で書かれたのに。誰もその時代の言葉は正確には知らない。でも何かが通じ合う。表現は大事なことだ。必要なのだ。
N: なぜ表現するの? 理解し合うため?
P: 考えるためさ。考えるために話をする。それしかない。言葉で考えを伝えるのが人間だ。
N: 難しいことなのね。人生はもっと簡単なはずよ。「三銃士」の話はとても美しいけど、恐ろしい。
P: 恐ろしいが意味がある。つまり…人生をあきらめた方が上手く話せるのだ。人生の代償…
N: 命がけなのね。
P: 話すことは、もうひとつの人生だ。別の生き方だ。分かるかね。話すことは、話さずにいる人生の死を意味する。うまく説明できたかな。話すためには、一種の苦行が必要なんだ。人生を利害なしに生きること。
N: でも、毎日の生活には無理よ。つまり、その…
P: 利害なしに。だから人間は揺れる。沈黙と言葉の間を。それが人生の運動そのものだ。日常生活から別の人生への飛翔。思考の人生、高度の人生というか、日常的な無意味の人生を抹殺することだ。
N: 考えることと話すことは同じ?
P: そうだと思う。プラトンも言っている。昔からの考えだ。しかし思考と言葉を区別することはできない。意識を分析しても、思考の瞬間を言葉でとらえられるだけだ。
N: 嘘をつきやすいこと?
P: 嘘も思考を深めるひとつの手段だ。誤りと嘘の間に大きな差はない。もちろん日常的な嘘は別だよ。5時に来ると言って来ないのはトリックだ。微妙な嘘というのは、ほとんど誤りに近い。何かを言おうとして言葉が見つからない。さっき君が言ってたことがそうだね。言葉が見つからないことへの恐怖。
N: 言葉に自信が持てる?
P: 持つべきだ。努力して持つべきだ。正しい言葉を見つけること。つまり何も傷つけない言葉を見つけるべきだ。傷つけない…、殺さない…。
N: つまり誠実であることね。ある人が言ってたわ。"真実は誤りの中にもある"って。
P: その通り。それがフランスでは理解されなかったことだ。17世紀には、人は誤りを避けることができると信じた者もいたが…、不可能なことだ。なぜカントやヘーゲルなどのドイツ哲学が生まれたか。誤りを通じて真実に到達させるためだ。
N: 愛については?
P: 大事なことは正しい思考と判断の原理。ライプニッツの充足理由律、永久真理に対する事実真理、日常的人生、そういった考えがドイツ哲学で発展した。
事実は矛盾も可能な世界として認識されうる。本当だよ。
N: 愛は唯一の真実?
P: 愛は常に真実であるべきだ。愛するものをすぐ認識できるか。20歳で愛の識別ができるか。できないものだ。経験から"これが好きだ"と言う。あいまいで雑多な概念だ。純粋な愛を理解するには成熟が必要だ。探求が必要だ。人生の真実だよ。だから愛は解決になる。真実であれば。




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