† 展覧会 †

国立国際美術館「What We See ~夢か現か幻か~」展(2013)の私的記録

 このページでは、現在開催されている国立国際美術館主催の展覧会「What We See ~夢か現か幻か~」(2013)の私的記録を残しておく。ここで記録した以外にも出展しておられるアーティストは存在するが、今回は特に印象的だったものをメモしておきたい。

【概要】

 国立国際美術館では映像による作品を中心とした特別展「夢か、現か、幻か」を開催します。
 過去一世紀にわたってかつてないほど技術革新が進み、グローバル化が果たされ、高度な情報が差異なく瞬時に溢れる現代社会に生きる私たちは、目まぐるしいほどの変容を日々経験しています。そのような日常生活を送る上で、「現実」として呈示された事象が時にまるで夢の中での出来事のように思えたり、果てしなく虚構化されたものとして経験することがあります。その一方で「虚構」に示されたリアリティがより強度を増し、「現実」と変わりないものとして作用することもあり、創造されたものとリアリティとの境界が曖昧になっていると感じさせられもします。
 芸術の領域では、リアリティの概念がほとんどの場合リアリズムと結びついてきました。そして写真が登場した時には、絵画に代わりありのままの現実を写し撮る機能を持つとされましたが、既に写真はその機能を常には伴わず、必ずしも現実を真実として留めているのではないことは明らかです。やがて映像表現が登場し、CGなどのコンピューター処理やデジタル技術が駆使されることで、「現実」には存在しない光景がリアリティを持ちながら映し出されたり、例えばドキュメンタリー性を持つ映像が明確な意志のもとに編集され、創作されたりすることで、リアリティを離れ虚構のものとして眼前に示されることもあります。
 このようにいま、「現実」と「虚構」との間に明確な境界線を失いつつある現代社会の有り様を鏡写しにしたかのような映像作品が、次々に登場しています。そして作家たちは、その虚実ないまぜとなった作品の中で「真実」の行方を私たちに問いかけます。「虚構」として創られたものに「真実」は存在しないのでしょうか?はたまた「現実」とは「真実」なのでしょうか?「現実」が「虚構」になることで「真実」はゆらぎ、また「虚構」が「現実」として構築されることで、「真実」が立ち現れようとします。
 本展覧会ではさわひらき、柳井信乃といった2名の日本人作家を含め、国内外の作家10名による映像作品を主に集め展示します。ドイツの作家クレメンス・フォン・ヴェーデマイヤーは、フィリピンで1960年代に実際に起こった「タサダイ族」と呼ばれる未開民族を発見したと世界を騙した出来事を素材にした作品を出品。現実と造られた情報の中から、真実はどこにあるのかを探ります。フィンランドのエイヤ=リーサ・アハティラはキリスト教美術において古くから重要なテーマである受胎告知を取り上げ、人々がいかにイメージを受け取るのかを映像で表現します。また台湾の作家杜珮詩(ドゥ・ペイシー)は、アジアで起こった過去の出来事に関連する60名の写真イメージを引用し、色鮮やかなアニメーション画像と結びつけ、悲劇的歴史の真実と現在を結びつけます。
 情報や映像が氾濫する現代社会において、映像表現に呈示された現実や虚実における本質的な「真実」の所在を考察しようとするものです。

【出品作家】


エイヤ=リーサ・アハティラ Eija-Liisa Ahtila(フィンランド出身、ヘルシンキ在住)
シプリアン・ガイヤールCyprien Gaillard (フランス出身、ベルリン在住)
ヨハン・グリモンプレ Johan Grimonprez(ベルギー出身、ブリュッセル在住)
さわひらき Hiraki Sawa(石川県出身、ロンドン在住)
饒加恩(ジャオ・チアエン) Chia-En Jao(台湾出身、台北在住)
チョン・ソジョンSojung Jun(韓国出身、ソウル在住)
杜珮詩(ドゥ・ペイシー) Pei-Shih Tu(台湾出身、台北在住)
スティーヴ・マックィーンSteve McQueen(イギリス出身、アムステルダム在住)
クレメンス・フォン・ヴェーデマイヤー Clemens von Wedemeyer(ドイツ出身、ベルリン在住)
柳井信乃(ヤナイシノ) Shino Yanai(奈良県出身、横浜在住)
主催:国立国際美術館
協賛:財団法人ダイキン工業現代美術振興財団

(C)国立国際美術館HP http://www.nmao.go.jp/index.html



 【杜珮詩(ドゥ・ペイシー) ≪ヴィジブル・ストーリー≫ 2012年】

Pei-Shih Tu Courtesy of Project Fulfill Art Space, Taipei

 この作品は三幅対のスクリーンに絵本の世界のような密林が描き出されている。色彩が豊かな「動く絵本」だが、登場する人物たちの顔は写真からの切り抜きであり(二十世紀の歴史の犠牲者とされる人々で構成されているようだ)、彼らが平穏な森の中でストレッチをしていたり、静かに瞑想に耽っていたり、絵を描いていたり、学校で授業を受けていたりする。全編にわたって鮮烈な色彩が印象的な映像詩であり、解説によればアンリ・ルソーやヘンリー・ダーガーなどの作品を背景として「引用」しているという。私はこの作品を観ている時、稀有な癒しを感じた。それは何か冷たい都市の感覚から遊離させるような浮遊感を伴う癒し――一種のaura――である。ベンヤミンは名高い「複製技術時代の芸術作品」の中で、以下のようにauraを定義している。

「いったいアウラとは何か? 時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあっても遥かな、一回限りの現象である。ある夏の午後、ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを、眼で追うこと――これが、その山脈なり枝なりのアウラを、"呼吸する”ことに他ならない。この描写を手掛かりとすれば、アウラの現在の凋落の社会的条件は、容易く見て取れよう」(*1)


 私がこの作品に惹かれたのは、ベンヤミンの述べる「ある夏の午後、ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを、眼で追うこと――これが、その山脈なり枝なりのアウラを、"呼吸する”ことに他ならない」という一文を否応無く想起したからである。私が感じた稀有な癒しの感覚も、本作が犠牲者という、おそらく最早誰も生き残ってはいない「死者」たちに捧げられた一つの架空の「楽園」の印象を帯びているためだろう。

※彼女の他の作品はYouTubeでも一部、視聴することが可能である。





【エイヤ=リーサ・アハティラ ≪受胎告知≫ 2010年】

Crystal Eye Ltd, Helsinki
Courtesy of Marian Goodman Gallery, New York and Paris
PhotoAntti Ruusuvuori

 この作品も三幅対形式であり、かつての「祭壇画」を現代において映像にしてみればどうなるのか、という問いへの応答として読解することができる。受胎告知の場面は誰もがそれと判る「劇」として挿入されており、宗教的な神秘が実は「作り出されたもの」であるという虚構性を暴き出しているかのようだ。マリア役の女性は基本的に聖書と同一のテクストを口にするが、ガブリエルから御告げを受けた後は、穏やかな眼差しで驢馬と共に散歩に出かけている。本作において「誰が」登場していないのか?、という問いには、「イエスが」と応えなければならないだろう。

【さわひらき ≪Lineament≫ 2012年】


Hiraki Sawa courtesy of Ota Fine Arts and James Cohan Gallery

 この作品には、おそらく館内で最も多くの人が集まっていた。注目されるだけのことはあり、他の作品には無いような研ぎ澄まされた美意識と幾つかの概念が潜在している。私がこの映像作品を観ていて抽出できた幾つかの操作子を以下にリスト化しておこう。

(1)幽霊性

 モノクロで構成された本作には、少女の戯れる幽霊的な動作や、壁に映った人影などの、どこか不穏な気配が濃密に漂っている。

(2)糸

 本作には、まるで「幽霊」を導き出すための媒介項のようにして「糸」が登場する。糸は壁に空けられた小さな穴からいつの間にかするすると伸び始め、次第に壁全体に不定形な輪郭を与え始める。この糸は、いったい何を象徴しているのだろうか?

(3)歯車

 万物を作動させる諸機械の断片を意図したものなのか、壊れた時計の内部のような回転する歯車が登場する。歯車は壁に埋め込まれて自動的に作動していたりする。「回転」は本作において重要な運動になっており、転がりながらも生き物のように回転し続けるネジなどが随所に登場する。「機械」という無機質な存在は、この世界では息吹を与えられた生命体なのだろう。

(4)小屋の外部

 おそらく本作の舞台となる空間は、記憶喪失の男性が暮らすひっそりした家、あるいは小屋である。注意深く観察すると、窓の外には海辺の波が映し出されていることが判る。海辺の小屋で記憶を喪失した男性が一人、孤独に歯車たちと戯れる物語――本作には筋書きは存在しないが、もし仮に書くとすればきっとそうなるだろう。

(5)顔を「覆う」

 記憶喪失の男性の頭部を、回転するレコード盤が隠す印象的な場面が存在する。この時、室内には神秘的な音楽も流れる。私はこの映像を見ていて、端的に何か不穏な「戦慄」を覚えた。もし、地下鉄のラッシュ時に、擦れ違った会社員の一人が自分の顔を回転するレコード盤で隠蔽していたとすれば、これ程奇怪な光景はないだろう。私がこの映像の断片に特に一種の恐怖感を浮上させたのはそうした想像的な補完のためなのだが、実はこの「戦慄」が、私に何か美的なものとして到来していたのも事実である。不可解な光景を目の当たりにした時に感じる我々の戸惑い、躊躇いには、おそらく何らかの「美」の本質的契機が眠っている。

【シプリアン・ガイヤール ≪Artefacts≫ 2011年】


Cyprien Gaillard
Courtesy Sprueth Magers Berlin London
国立国際美術館蔵

 ガイヤールの作品は、ドローイングなどで既に知っていたので今回の企画展では注目していた。彼はどうやらiPhoneでイラクの様子を撮影したようで、本作はそれらの映像から構成されている。遺跡にも足を踏み込んでいるが、そこで撮影されているのは古代の文字を刻んだ石の断片などであり、ここには何か現代都市の煌びやかな電光板やネオンの文字とも通底する「記号性」を感じずにはいられなかった。廃車が何台も岩の柱のように積み上げられた奇妙な「機械の墓地」も登場する。





「参考文献」


ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)
(1994/03/16)
ヴァルター ベンヤミン、野村 修 他

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「註」

*1)――p69〜70




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