† ポール・ド・マン †

ポール・ド・マンの「盲目性」、「誤読」の概念について――『盲目と洞察――現代批評の修辞学における試論』読解

Portia Freeman by Rankin | Wrapped in Lucid Dreams
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 現代思想においてポール・ド・マンへの注目は昨今非常に高まっており、俄に「ポール・ド・マン・ルネサンスの時代」という声も耳にする。このページでは、ド・マンの代表作の一つである『盲目と洞察――現代批評の修辞学における試論』の第七章「盲目性の修辞学――ジャック・デリダのルソー読解」の読書記録を残しておく。

【「盲目性」と「誤読」の概念】


 批評家、あるいは作家たちは、自らが主張しようとしたテーマとは全く別の何かを述べざるを得ない。これは文学言語の本性でもある。例えばカフカは「不条理」を描いた作家として今日、多くの読者に認知されているが、カフカ自身が果たしてそのテーマに自覚的であったか、という問題である。カフカが「不条理」を、あるいはブランショが「非人称性」といった一つの明白なスタイルを確立し得たのは、実は彼らがこれらの方法に気付かぬまま(盲目性に捕われるということ)であったからだ。したがって、作品に対する「洞察」はあくまでも読者にとってのみ存在する。ド・マンは更に、書き手の「盲目性」は、エクリチュールそのものと分ち難く結合しているのではないか、という問いを提起している。書き手が自ら設定したテーマに関して最も盲目になり得る瞬間があるとすれば、それは彼らが自分自身が書いたものについて最高の洞察に達していると自認した瞬間である。
 トドロフは、同じ一冊の本を読む行為は、読むたびにそのつど差異化するものであると解釈している。レクチュールの中で、我々は「ある受動的なタイプのエクリチュールをなぞって」おり、読んでいるテクストから意図的に不要だと判断した箇所を省略したり、あるいは解釈を補強するために付け加えたりしながら読解している。換言すれば、レクチュールは既に常に「誤読」の地平へと差し向けられているのであり、それはエクリチュールの本質と限りなく類縁的だということである。読むこともまた、書くことと同様に頭の中で「表象する内容」を取捨選別しているというわけだ。トドロフは、「批判的な読解」とは、「エクリチュールの顕在的ないし潜勢的な形態」であり、読む行為によってテクスト自体がいわば変容するという考えを表明している。このように、レクチュールは実はエクリチュールの様態として解釈可能である。そしてド・マンは、読解したテクストと、読解されたテクストが往々にして抗争関係に至る可能性があることを示唆している。ここで言う抗争関係とは、元のテクストに対して、それを読んだ記録としてのテクストが何らかの「齟齬」を不可避的に犯しているということである。つまり、レクチュールとは本質的に「誤読」であり、書き手も読み手も共に「盲目性」に取り憑かれているということに他ならない。ド・マンはこのように、レクチュールは本質的に内在的な行為(現象学的直観に基づく「虚構」を媒介にするということ)であり、そうであるがゆえに「齟齬」こそが読みの本質であると結論付けている。作家に対する批評家の言説も、こうして本質的に「言明の盲目性」に捕われるのである。
 ド・マンの思想における「誤読」の概念で重要な前提となる考え方は、「テクストは誤読される必然性を前提としている」というものである。そして、テクストとは本質においてアレゴリー様式(メタファーを慣用するスタイル)としてしか成立できず、それは自らが文字通りに受け取られることで「誤解」されるだろうということを知っている、とド・マンは考えている。以下のテクストは、彼の「誤読」概念を知る上で最良のエッセンスとして機能している。

テクストはそれ自身の様式の「修辞性」を説明しつつ、それ自身が〈誤読〉される必然性をも前提としている。それは自らが誤解されるであろうことを知っており、かつそう主張しているのである。それが語るのは、自らが誤解される物語、その誤解のアレゴリーである。すなわち、旋律がハーモニーへと、言語が絵画へと、情念の言語が必要の言語へと、メタファーが文字通りの意味へと必然的に堕落してゆく物語である。テクストは、それ自身の言語に一致してしまうことで、こうした物語をフィクションとしてしか語り得ないのだが、フィクションが事実と取り違えられ、事実がフィクションと取り違えられてしまうということを十分知っている。そうしたことが、文学言語の必然的にアンビヴァレントな本性なのである。(p232)


 このド・マンのテクストは、我々が何か一冊の本を読む時に往々にして作者の意図に反した「誤読」を行うことがあり得る、という素朴な事実を再認識させる程度のものではない。そうではなく、ここでド・マンが真に告知している定式は、テクストそれ自体が本質において「誤読」されるということである。読む、とは、常に既に「誤読」である。これが文学の本性である。ここで言う文学とは、あらゆるレトリック、詩的な含蓄を含み得る全てのテクスト――すなわち我々が今日「小説」や「詩」、「戯曲」、「エセー」、「評論」として書棚に並んでいるのを確認できる全ての文学作品――のことである。
 重要な点は、「誤読」と「盲目性」の概念が、同じ一つの概念を巡る異表現であるということである。読者は作家のテクストを読む時に必然的に「誤読」を犯すが、作家も同じくあるテーマを前景化させようという戦略に自覚的になることで、パラドキシカルにもそのテーマとは異質なテーマを輪郭化させるに至る。それは作家自身の「盲目性」であると言うことができる。本章の最後で、ド・マンは以下のようにこれらの概念を一つの要点となるテクストへとまとめあげている。以下のテクストは、彼の規定する「文学史の基盤」そのものとして定義されている。

解釈とは誤謬の可能性に他ならない以上、一定の〈盲目性〉がすべての文学の種別性をなすのだと主張することによって、我々がまた再確認することになるのは、解釈がテクストに、テクストが解釈に、絶対的に相互依存しているということなのである。(p241)


 では、「誤読」が特に前景化するのはどのような場合だろうか? 例えばそれは、作家の元のテクストが批評的でありつつも詩的なレトリックを多用したりして、高度にアンビヴァレントである場合である。批評とは常にこうした齟齬を払拭し、できるだけ実証的で合理的なアプローチを採用するものであるが、現代思想において再評価されいるルソーのテクストの場合、齟齬は不可避的に多く生じているようだ。つまりルソーは、その演劇的な身振り、文学性において論述にアレゴリーを導入しているのであり、これがテクストにアンビヴァレントな、多くの解釈の間で「齟齬」を生じさせる原因となっているのである。だが、これは果たしてルソーの思想家としての欠陥を意味するのだろうか? 

【ド・マンのデリダ批判の核心】

 ジャン・スタロバンスキーを読解しつつデリダは、ルソーのエクリチュールにおけるある種の「苦悩」を分析している。ルソーは自分の実人生ではけして満足できなかったことを、フィクションの世界で「回復」しようと企てていた。ルソーのみならず、作家の中のある種の者は、自分の実人生において例えば多くの色恋沙汰と華やかな恋愛遍歴を「断念」することによって(ここで一種の象徴的な死が生ずる)、自分が生み出すフィクショナルな世界の中では、断念した挫折感や憧憬を核にした一つの「代理」、「補強」が生じるというのである。ラクロは実直な軍人で、戦争すら起きない喉かな島で仕事をしていたが、描いた『危険な関係』の内部で主人公は「戦う行為」を、女性との火遊びによって「代理」している。つまり、ラクロの断念は文学的にはエクリチュールのための発火源となり、断念したはずの内容が美化を伴って再生しているわけである。こうしたデリダの考察を受け、ド・マンは文学が「真理」にまで到達するという一般的に信じられている通念を疑問視する。文学は初めから「疑わしい」ものであり、それは作家の意識に巣食ったアンビヴァレントな二面性(あるいは複数の分裂した自己)に基づき、現実では達成できなかった内容を象徴的に代行することで、意図的に現実空間に虚構性を介在させる行為である。そうすることで、作家は初めて挫折を自己超越し、虚構を孕んだ新しいこの現実、すなわち作品を自己保存するのである。ド・マンは、このように文学に向かわざるをえないタイプの人間の内面心理を鋭く分析している。文学とは、実は書き手の自己欺瞞に対して彼自身が「盲目」になることによって、自己をフィクショナルに保存する心理的な根を持った行為である。デリダによれば、ルソーは言葉の世界に対する根本的な挫折、「消失」を「実際に経験した」とされ、この出来事が後の彼の文体にも大きな影響を与えている。
 ルソーは「声」を書き言葉の起源として定義しようとしていた。彼の理論体系は、「自然」、「起源」といったものを礼賛している。しかし、ルソーは「声」を起源として規定しつつも、その合理的な立証を果たせていない。ルソーのこの歪な論証について、ド・マンはデリダから敷衍しつつ、「書き言葉から立ち返って、口頭の発話といういっそう根源的な形式へと遡行しようとするあらゆる試みは、そもそものはじめより、書かれた言葉を経験から疎外してしまうという破綻したプロセスの反復に至る」と適切に述べている。要するに、エクリチュールの起源が「声」であるという、「起源」をある特定の器官(声帯)に限定する考えは批判されねばならない。とはいえ、ルソーが「声」を起源だとみなす論述の仕方にも複雑な「齟齬」が存在している。デリダによれば、結局のところルソーは「根源の代補」という形式を取った複雑さ、錯綜に支配されてしまっている。ルソーがなぜ「声」を起源とみなすことにこれ程の躊躇いを見せていたのかといえば、彼が言語の起源を「声」ではなく「アクセントの代わりをする分節化」という、より抽象的で、「声帯」のみならず「指先」で描かれた絵や、音も絵も伴わない「身振り」という原始的言語の可能性を認めていたからに他ならない。つまり、ルソーは「声」だけにエクリチュールの起源が限定されてしまう自己規定におそらく自身である種の「後ろめたさ」を感じていたからこそ、「齟齬」を生じさせているわけであり、デリダによれば、実際ルソーが提起したかったのは「声」=「起源」という単純な図式ではなかったのである。むしろルソーが主張したかったのは、書き言葉の起源は声であるだけでなく、声の起源がまた書き言葉となるような瞬間が存在したということであり、あるいは声、書き言葉に先行して愛の身振りが、あるいは愛を描いた絵が到来するということである。すなわち「起源」にある意味を策定することは、あくまでも「仮設」に過ぎず、本質としての起源は常に「不在」として保存され続けるということである。換言すれば、「起源」とは螺旋状に「声」、「絵」、「身振り」に伴う人体の諸器官へと遡及し、特定の場に安定しないものなのである。デリダが「根源的な〈外在性〉」を言語の起源であると述べるとき、おそらくその主張したい内容は「起源そのもののスパライラル状の逃走」であったと解釈することができる。特定の「起源」として策定された「意味」は、常に先行する螺旋の上部へと遡及し、「意味」はドゥルーズ=ガタリのいう「脱領土化」のプロセスを経て、無限に逃走し続ける。ゆえに、起源が「不在」であるとかろうじて否定神学的に言い得るのではないか。一言で言えば、「起源」の逃走とは、螺旋状の樹木の枝葉を次から次へと上に舞い上がって行く鳥たちの飛翔としてイメージ可能である。こうした考えが端的に表明されているド・マンのテクストは以下である。

ルソーは破棄された起源に代えて、常にいっそう深い、いっそう原始的な状態を用意しなくてはならないのだが、そうすると今度はこの原始状態が、ますます後方に遠ざかってゆかざるをえなくなるのである。同じパターンがデリダにも出現する。というのもデリダは、始まりと呼ばれるあらゆるものの非起源的な性質を指し示すためにこそ、起源にまわわる語彙を維持することを選択したからである――このことはちょうど、分節化とはまさしく純粋な起源からの生成を妨げる構造のことであるにも関わらず、分節化が言語の起源だと述べられる場合と同様である。現前(起源、自然、意識など)にまつわる語彙が突きつける要求を打破すべくこうした語彙を用いることは論理的な袋小路に陥るのであり、またそうならざるをえないわけだが、これこそ『グラマトロジーについて』の全体を通じて一貫して駆使されている戦略なのである。(p212~213)


 言語の起源を「根源的な代補」として規定したデリダに対して、ド・マンはそれを表明している媒体はあくまでも言語、すなわち書かれたもので「起源」を策定しているに過ぎない、と分析している。「書き言葉の存在を払い除けるはずの魔法の杖は、それ自体言語で出来ている」――ド・マンは、起源についてあくまでも言語的にアプローチしていくデリダに対してそう解釈している。そして、言語の起源を「言語以前の揺籃状態」に位置付けつつも、あくまでもそれを言語によってしか語り得ない限界性こそが、「デリダの議論の核心」であると考えている。ド・マンはルソーが用いるメタファーを用いて、「巨人がいる」という言明について考察している。この奇妙な表現は、心理的には「私は怖い」のメタファーであり、このような感覚の主体は他の誰でもなく体験者自身が所有している。ルソーはこのような例を用いて、置換された意味が文字通りの意味に「先行し」得ることを示そうとした、とド・マンは解釈している。このようなメタファーの次元において、「起源の代補」の概念が前景化しているのである。
 ここで我々は、ド・マンのデリダ読解(正確には、ルソーを読むデリダを読むド・マン)から、「起源」という概念自体が有する「螺旋状の逃走運動」の本質に触れた。しかし、この概念の運動だけに注目するのでは未だ視野狭小である。「起源」にまつわるルソーの思想の「齟齬」と、デリダの読み、そしてド・マンのデリダ読解から導き出せる概念はまだ存在する。それは、ルソーとデリダがテクストの弁証法的なプロセスにおいて犯した「齟齬」に来歴した概念である。一言で言えば、それはconjurer(払い除け)たものが、en contrebande(こっそり密輸入)されるという、人間の「思考」に特有の現象の解明である。実際、ド・マンが既に先の引用箇所でも述べていたように、デリダは言語の起源などいかなる場所、言明、器官にも限定され得ないということを示すために、わざわざ「根源的な代補」が言語の起源であると表現してしまっている。それは神が結局、いかなる言語、概念でも表記不可能であることを示すために、神とは本質における「不在」「である」と規定するような誤ちに他ならない。変化しているのは〈対象〉ではなく、表面的な〈記号表現〉に過ぎないのである。すなわち、ルソーにとって「声」であった起源の策定が、デリダにおいては「分節化」とか、「代補」という別の概念によって幽霊的に再現前しているのである。テクストをパースの記号論によって把捉すれば、「声」も「代補」も共に「起源」という〈対象〉を指示する〈記号表現〉であるに過ぎないことが判然とするだろう。こうして、ド・マンの分析はデリダのテクストの「表面」へ、すなわちレトリックやアレゴリーの関係の分析へと向かっていくことになる。
 ド・マンは、私が読んでいて感じた印象からすると、明らかにデリダのエクリチュールの「演劇性」に惹かれている。しかし、今日日本の若い学生の間でもデリダの魅力をそのように把捉していると思しき読み手は極めて多く見出すことができる。ド・マンは、デリダと同じことがルソーにも妥当すると考えている。二人は共通して、演劇的な身振りを不可避的に採用せざるを得ない思想家だったのだ。また、ド・マンはデリダが『グラマトロジーについて』で「ルソー」と書くたびに、「ルソー解釈者」を指示していたと判断している。デリダはルソーをやはり「誤読」しているのであり、彼のルソー論には内容を恣意的に解釈し、論理を一貫させるために意図的に引用しなかったような重要なテクストの見落としがあるとも述べている。つまり、デリダの解釈したルソーは、あくまでも「一つのルソー」であって、これをド・マンは「偽ルソー」などと半ば意地悪く表現してもいる。ここで何が言えるのかと言えば、デリダという緻密な読解の天性を持った分析者ですら、読解においては「盲目性」に憑かれていた、知らず知らずのうちに――ということなのだ。
 とはいえ、ここで我々は、デリダの文体が持つある種の装飾性については、彼自身がモデル読者(例えば『絵葉書』では、ソレルスの恋愛小説に近いナラティブが顕著に見出され得る)にそうした読みを期待しているという商業的側面があったのではないか、という点も指摘しておいた方が良さそうである。実際、私がデリダの翻訳を知ったのは十代後半の頃だったが、その時なぜ彼に特に惹き寄せられたのかという核心に位置するものこそが、彼の文体の「装飾性」に他ならなかったからである。それはデリダが複数の誤読を期待しているというよりも、彼自身が一種の演劇的な身振りと哲学的な思弁の混合形式に「美」を見出していたからではなかったろうか。
 ルソーとデリダの関係性に類似したものを思想史から探った場合、ド・マンはこれに適応するのはおそらくヴァーグナーとニーチェの関係性であろうと考えている。周知のように、初期ニーチェは熱烈なヴァーグナー主義者であったが、次第に彼を偶像視する自己に疑念を抱き始める。そして彼は自著の中でヴァーグナーを利用したかつての自分を批判し始めるに至るのだが、この真の「理由」について、ド・マンは「自らのテクストにおけるヴァーグナーの存在が、テクスト様式のアレゴリーとしての音楽性の邪魔になったからなのである」(p239)という極めて鋭い見解を提示している。ニーチェは「それは歌うべきであったろう、この新しい魂ともなれば、語るべきではなかったろう」とも述べていた。この部分は、「喪われたものは、次の形式において再現前する」というデリダの宗教論『死を与える』でのフロイトの「喪」の理論を看取した名高い定式、あるいは端的にフロイトに倣って「抑圧されたものの回帰」として位置付けることができるだろう。すなわち、ニーチェはヴァーグナーを抹殺することで内部化し得たのであり、彼にとって一つの偶像の破壊はその取り込み、同化、内化を意味したのである。ニーチェは自らの演劇性の根が、実はヴァーグナーの芸術から多くを負っているということをクリプト化するために、いわば自身をあえて「反ヴァーグナー主義者」として「役作り」したわけである。こうした関係は、ルソーとデリダにおいても見出され得るとド・マンは述べている。

【表象と音楽】

 何故、そもそも現代思想において「表象」や「起源」といった概念が重要なテーマとなっているのだろうか?
 一つ言えるのは、18世紀に活躍したルソーがコンディヤックを評価して、「森の中の自然人」という原始的なトポスにおける人間の「怖れ」の感情にこそ「言語」の「起源」があるのではないか、と考えたからである。ルソーはこの点を以下のように述べている――「生存の必要に迫られて人間は互いに避け合わざるをえなくなるが、情念が彼らを近付ける。最初の言葉は飢えや渇きによるものではなく、愛や憎しみ、憐れみや怒りから生じたのである」(p230)。また、18世紀はグランド・ツアーやイギリスの風景式庭園の成立などに代表されるように、自然主義的な場に美学的な「崇高」が見出された時代でもあった。ルソーも自然生活を評価しており、ここに「起源」を巡る一連の問いの一つの思想史的背景の一端を読み取ることができる。また、18世紀はとりわけ、バロック時代に誕生したオペラ、それに続く大衆演劇の興隆といった文化的背景も相俟って、表象〔representation(再現=上演)〕の概念が注目される要素は出揃っていた。
 ド・マンはデリダのルソー論を読解しつつ、「表象」の概念についての考察を展開している。表象とは、模倣(ミメーシス)されたものの存在論的身分が不問に付されているということであり、それは現前させられるものの「不在」を含意している。18世紀の美学理論における定義に従えば、表象は、「たまたまその時そこには存在しないが、別の場所で、別の時に、ないしは別の意識様式で揺るぎなく存在するという何ものかが呼び戻される」(p215)という、記憶術のための記号のような機能である。表象観念のモデルは絵画であり、「あたかも視られた対象が現前するかのように当の対象を復元し、その現前の継続を確証する」(p215)というものである。判り易く言えば、表象とはいわば「記号」を媒介としたミメーシスであり、それは例えば音楽の演奏を例にとっても説明可能である。作曲家の楽譜をオリジナルな原典としてみなした場合、それが様々な楽団の手によって複数回演奏される行為は、機能的な意味で「ミメーシス」であって、まさにrepresentation(再現=上演)、すなわち「表象」である。この時、作曲家の楽譜は「記号」であり、画家がリンゴの絵を描く場合でも、実在する対象はタブローの上でミメーシスを経て、記号として再生産されている。このように、ド・マンは表象概念を、「模倣可能性を、現前性の普遍的証明として確認する条件」(p217)として定義している。
 更に、ド・マンは「記号」について、その感覚的実質が欠けているのは、意味それ自体が空虚だからであると述べている。「記号は、それが意味する空虚の代替物としてそれ自身の感覚的豊かさを与えるべきものなのではない」(p220)。そしてデリダの解釈とは反対に、ド・マンはルソーが「空虚としての意味」に向かっていたと述べている。ここから、彼はルソーにおける音楽論について以下のように解釈している。

音楽がたんなる構造となるのは、その核心が空虚だからであり、それがあらゆる現前の否定を「意味する」からである。したがって、音楽の構造が従う原理は「充溢した」記号に基づく構造のそれとはまったく異なった原理なのであり、そこでは記号が感覚を指示しようと意識の状態を指示しようと変わりはない。音楽的記号はいかなる実質をも根拠としないため、けっして実在の保証を持ち得ない。(p222)


 ルソーは、「音楽の領域は時間であり、絵画の領域は空間である」とした。音楽は、常に「一瞬」の連続として存在しているが、そうであるが故に「意味」に向かう志向の絶えざる挫折であることを余儀なくされる。音楽は「一瞬」ではなく時間的な幅を持ったメロディーであり、連続性である。「音楽とは、瞬間のなかの非同時性のパターンが通時的なかたちをとったものである」(p224)。ルソーは音楽と絵画の差異について以下のように述べていた。

画家が眼に見えない事物を表すことはできないのに対して、音楽家の主な特権のひとつは、聞こえないものを描き出すことができるということである。音楽という動きによってのみ働く芸術は、休止そのもののイメージを伝達するという驚くべき業を成し遂げることができる。眠りや夜の静寂、孤独、そして沈黙さえも、音楽の描き出す絵の中に入って来るのである。(p224)


 ここでルソーは、音楽は「沈黙」を指示し得るという印象的な言葉を残している。この根底的にパラドキシカルな定式は、ルソーの他のテクスト、「絵画はあらゆる光と色の不在を指示する」や「言語は意味の不在を指示する」にも適用されている、と・マンは読解する。このようなルソー特有の、ある面で非常にブランショのナラティブに近接した文体は『新エロイーズ』の以下のテクストにも見出せるという。「自力でいます御存在(神)は別としまして、存在しないもの以外に美しいものは何一つありません、それ程までに人間界は虚しいのです」。(p225)

【本章の読解から考えたこと】

 ある種の小説家はテーマを担うという戦略を持つ以前に、まず「書く」衝動に襲われる。とはいえ、どのようなタイプの作家であれ、テクストを織り成す上で語彙レベルでの「取捨選別」を意識的に行っている。選択された言葉、登場人物の設定、台詞、物語の構成――これら「小説」の各要素は、全て「表象」されたものであり、いわばページの上に「現前」するものである。だが、「取捨選別」しているということは、同時に「棄却したテクスト」が存在していたことをも意味している。それは「テクスト」という形式を採用しておらず、観念段階で終わったものまで含み得る。こうした「テクスト以前」の、意識内部での不可視の「素描」にも相当するものは、「現前」に対して、「不在」を意味する。しかし、デリダの思考によれば、「現前」しているものには、必然的に抑圧したり、棄却したり、削除したりしたものが、何らかの「痕跡」として幽霊的に浮かび上がるのである。宗教論的なコンテクストを用いれば、キリスト教はデモーニッシュな「オルギア」を批判的なかたちで、自身の教義の内部に含み込んでいる。それは「抑圧」されたかたちで「内部化」されたわけであり、新しい形式で再現前しているわけである。
 このように考えると、全てのテクストは本質において「不在」の場へと追放されたものの「痕跡」、あるいは「幽霊的現前」であると規定することが可能だろう。作家が書かなかった、あるいは意図的に削除したり、知られるべきではないとして秘密裏に追放したような「テクスト以前のテクスト」は、実は新しい形式となって幽霊的に現前しているのである。「不在」の場にこそ、作家の本質があるのは、彼ないし彼女がそこに、まるで一族の秘められた呪詛の刻印の記録を封殺するかのようにして、抑え込んだからだ。悪魔払いしようとする者が、逆に「悪魔」そのものに憑依されるという『マルクスの亡霊たち』でのハムレット的な考え方を想起しよう。
 ド・マンの読解は、デリダがルソーの一体何を採用し、逆に何をそれと知りつつ抑圧したのかを暴き出す。デリダが何に対して「盲目」になっていたのか、彼はそれを明るみに曝すのだ。そして、ド・マンはその隠された「盲目」の部分にこそ、デリダの本質を認めている。「不在」であるものにこそ、眼を向けなければならない。作品の内部ではなく、内部がいかに「外部」を追放して内部と化したのか、その「迫害」のプロセスにこそ敏感にならねばならない。「不在」は常に何らかの抑圧された場である。しかし、「現前」しているものに、「不在」(あるいは「盲目」になっていた事柄)は痕跡化した状態で取り込まれているのだ。したがって、実質的には、テクストは何も奪われていない。失われた死海文書の写本でさえ、聖書の中にそれとは悟られぬ新しい形式で密かに埋め込まれ、幽霊的に現前しているのである。
 今後我々は映画であれ文学であれ、作品を読み解くに際して以下のような視座を持つことができるだろう。すなわち、彼ないし彼女は、その作品において「何を書かなかったか?」である。あるいは、何を意図的に「書こうとしなかったか?」――こうした視座は、現前しているテクストが孕む「不在」、「盲目性」の概念を浮き彫りにしていくだろう。あるいは、我々が実際に何かを制作する場合、いかなるテクストが「作品の外」(欄外、parergon)へと無意識であれ追放されてしまったのか、そのような「テクストの墓場」(ユダヤ教の神殿の地下には実際にゲニーザと呼ばれる書物の安置所が存在する)を作品内部へと逆に折り込み、有機的に吸収したスタイルへの志向性が必要である。我々が「不在」に眼を向け、その方に向かって書く行為を進めていくことでしか「現前」しないテクストというものがある。ブランショの幾つかの作品群には、こうした「不在」にナラティブの目的を仮設することによって生じるナラティブそのものの無限の「頓挫」、一種の「無への退隠」を実現していると言える。
 繰り返そう。映画、絵画、文学――これら芸術において、我々はある作品に「何が描かれていないか」を考えることが必要である。作品の構造を読解しつつも、作品の「外」へと追放され、内部に違和や不自然さを生じさせているような奇妙な暗号を読み解き、そこから制作者が犯した「作為性」にまで足を踏み込まねばならない。ド・マンの本論を読解していて感じたのは、そのような緻密で先鋭的なレクチュール=エクリチュールのメス捌きに他ならない。





盲目と洞察―現代批評の修辞学における試論 (叢書・エクリチュールの冒険)盲目と洞察―現代批評の修辞学における試論 (叢書・エクリチュールの冒険)
(2012/09)
ポール ド・マン

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