† 映画 †

カトリックであることの孤独――エリック・ロメール『モード家の一夜』


モード家の一夜/パスカルについての対談 (エリック・ロメール・コレクション) [DVD]モード家の一夜/パスカルについての対談 (エリック・ロメール・コレクション) [DVD]
(2007/02/24)
ジャン=ルイ・トランティニャン、フランソワーズ・ファビアン 他

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 エリック・ロメールの名を一躍世界に知らしめた「信仰」をテーマにした重要な古典『モード家の一夜』(1968)を観た。本作は真正面から「カトリックであること」に急迫しており、最近ではジェシカ・ハウスナーの『ルルドの泉』でも極めて衝撃的なかたちで「啓示」の本質が描写されていたが、本作は再読の価値を秘めた一級の作品である。何より、私自身が日本ではけして多数派ではないカトリックであるという共通点が、本作の持つ重みをいっそう深いものにしている。
 主人公である「わたし」(ジャン=ルイ・トランティニャン)は、それなりの数の女性経験があるものの、自分が「カトリック」であるという自己主張が強い中年男性である。他に登場するのは、古くからの友人で哲学者のヴィダルと、その女友達で美しい女医のモードの二人である。

【主な登場人物】

「わたし」

タイヤ会社に勤務し、確率論などの数学研究を趣味にしている、どこか孤独な三十四歳の男性。カトリック信仰の持ち主だが、同じ宗派であった数学者パスカルのテクストに共感できず、苛立ちを深めている。女性経験はわりと豊富で、積極的なところもある。クリスマス前の教会の荘厳なミサで、同じ信徒の若い女性フランソワーズに恋をする。

「ヴィダル」

主人公の友人で、哲学者。モードとは関係がある。実はフランソワーズの通う大学の講師でもあり、彼女の愛人でもある。

「モード」

夫と別居中で、娘を育てている女医。特定の宗派を持ってはいないが、「わたし」の存在に興味を抱く。そして、「わたし」がある種の宗教的エゴイズムに捕われていることを暴き出す。


 主要登場人物は以上だが、本作でもう一人重要なのは「わたし」がその雰囲気に惹き寄せられる女性フランソワーズである。
 映画は12月21日のミサから始まる。この時のミサは日本でも降誕祭前のシーズンになると各地で行われる平均的なものだが、司祭が復唱を促す聖句の中に、「ただみことばだけで心癒えん/主よ我は主を受くるに値せず」という非常に美しい印象的な言葉が登場する。ここにはある点で、カトリックとしての信仰生活の核心が宿っているといっても過言ではない。実際、プロテスタント側に属するルターも『生と死の講話』の中で、humilitas(謙遜)を我々に薦めているが、こうした態度はキリスト者にとって模範である。
 「わたし」はパスカルの宗教観に失望している。カフェでヴィダルと会話する際、「人生には意味があるのか、それとも無意味であるのか」という問いが提起される。そして、もし「生きる」のであれば、我々は何らかの「意味」を見出さねばならない、という考えに至る。ここでは、人生で起きている多種多様な出来事を一度全て( )に入れてしまい、白紙にした状態で考え始めようとする哲学的な雰囲気が漂っている。二人はやがてモードの家へ向かう。ここでの三人の対話は、ほぼ止め処なく続く会話の連続であり、撮影担当のネストール・アルメンドロスの静謐なモノクロの効果も相俟って、スタイルとして非常に斬新な印象を与える。「わたし」は、「キリスト教を理解する別の方法があるはずだ」という意見を二人に表明する。彼らはあくまで降誕祭前の祝祭感覚の延長として、さほど厳粛に議論することもなく時には談笑も交えながら話している。パスカル批判から始まり、カトリックと無神論者の考えの差異などが話題になったりしながら、やがてヴィダルが去る。
 残された「わたし」とモードは初対面でありつつも、遠慮がちに寝る。この「寝る」という行為は、文字通りの意味でたんにベッドで二人横になるということであり、それはソファーで寝ると言い出した「わたし」をモードが「寒いでしょ?」と心配したからだ。モードの微笑、その眼差しから察するに、「わたし」と本当に一夜を過ごしても良いと考えていたのであろうが、「わたし」はやはり「カトリック」という鎧を纏ってある種の「不自由」を象徴してしまう。三人の対話はけして楽しい一夜のそれではなく、むしろ彼らは互いに心理的距離を持っており、隔絶された「個」としての孤独を各自担っているようだ。私は彼らの奇妙な宗教的対話に、どこか「不和」の気配を感じた。彼らは友愛関係で結ばれているようでありながら、実は誰とも接続してなどいない。
 「わたし」にとってカトリックであることはプライドであり、救いの本質である。しかし、彼がそれを他者に語り、無神論者と「線引き」してしまうことで彼自身の「不自由」が生ずる。つまり、「わたし」は単に「カトリックという衣裳」を着衣しているのであって、それがこの年齢でも結婚はしていないことの方便となっているわけだ。彼は内心では女性を求めているが、いざ実際に女性と話し始めると、彼女がカトリックであるのか、そうでないのかが気になる。というより、その女性と気が合わなかった場合、彼は「彼女はカトリックではなかったから」好きにはなれなかったのだ、とおそらく信じ込みたいのであろう――これは、着衣された宗教心であって、世俗的なカトリック信徒の典型的な姿に他ならない。真の聖人は宗教的差異に関わり無く、「愛」の教えを万人の魂に衝迫する形式で告知する。しかし、あくまでも仕事、恋愛、プライドなどの問題に頭を悩まされている彼は、結局人間に「差異」を作り出してしまい、誰とも打ち解け合うことなく終わってしまう。彼はパスカルを憎んでいるのではない。むしろ、彼は自分の中にいるパスカルを自己批判しているのである。
 モードは「わたし」のこのような宗教的エゴイズムを女性特有の嗅覚で察知する。「結婚しなさいよ」、「貴方は恋愛の条件をカトリックにしている」などの趣旨を持った彼女の発言は、どれも「わたし」の孤独の解明に寄与している。「わたし」という男は、平穏な家庭を持てない孤独感を、いわば自分はカトリックであるという宗教的アイデンティティによって癒そうとしてきたのだろう。だが、モードの前ではそれは通用しなかった。そして、モードという女性と知り合うことで、「わたし」は急速に行動する意志を漲らせ、フランソワーズに想いを告げるのである。
 五年後、「わたし」とフランソワーズは結婚して海辺で憩っている。そして偶然再会を果たしたモードにフランソワーズが向けた眼差しを見て、「わたし」はあることを悟るのだった。それは、純真無垢でカトリック信徒の美点でもあったフランソワーズさえもが、やはり過去に愛人関係にあった男性との間で人間的な「不和」を生じさせていたという事実である。聖人はこの地上には存在しない――否、むしろ、どんな聖人のように感じられる人間にも、必ず人間である限り何らかの「影」が存在するのだ。そして、その「影」こそが実は美しさの本質でもあるということに、「わたし」はどこか安堵しながら静かな海を前にして直観するのである。聖人ですら、この世の儚さにやはり囚われ、懊悩し、苦しんでいるという司祭の最後の説教にあるように……。
 本作には、再び観たくなるような不思議な魅力が存在する。特に、フランソワーズと結婚してから、「わたし」が彼女の過去の秘密を理解するシーンは印象的だ。また、クロード・ルルーシュの『男と女』では活動的なレーサーを演じたトランティニャンは本作ではシックで、様々な葛藤を抱えた、より生身の等身大の姿で濃密に描き出されている。モードからベッドに誘われた時も、ソファーにあった毛布にあくまでも包まりながら遠慮がちに隣になるぎこちなさの漂う態度に、私は何故か彼に対する親近感と愛情を抱いた。トランティニャンという俳優の容貌のシリアスさは、確かに高級車を乗り回してサングラスをかけている姿よりも、狭い椅子の上で三角座りしながら、脅えたように懊悩とメランコリアに支配されている、そんなヨーゼフ・K的な姿がよく似合う。
 私はこのフランスの名優を愛する。
 



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