† キリスト教神学 †

ジロラモ・サヴォナローラの説教における「崇高」について

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フラ・バルトロメオ《サヴォナローラの肖像》(1498年頃)

 ジロラモ・サヴォナローラ (Girolamo Savonarola, 1452年9月21日 - 1498年5月23 日) が1495年1月13日に行った説教についての記録を残す。彼の発言には激越な霊性が宿っていたことがテクストを通じて伝わって来る。フィレンツェは二人称「おまえ」で批判の対象となる。フィレンツェの民に呼びかけるための目を醒まさせるようなナラティブのパターンには、例えば以下のようなものがある――「今日、正しい人は一体何人いるというのか」、「神はこのことで怒っておられるのである」、「今日、誰も信じてはいない」、「神の咎(むち)が迫っていることを知れ」……。教文館から刊行された『中世の説教』にはトマス・アクィナス、ボナヴェントゥラ、フィオーレのヨアキム、マイスター・エックハルトなどの説教が収録されているが、その中でもサヴォナローラのそれは極めて異様で衝迫的である。これは私の直観であるが、サヴォナローラの説教は、非常に危険で激烈であるがゆえに、美しい。おそらく、この本の中でこれ程当時説教壇に立った人物の息吹が雷撃の如く伝わるものは他にない。サヴォナローラの語りかけには、汲み尽くし得ない黙示録的な魅力が宿っている。
 例えば、当時の聖職者への批判は、以下のように語られていた。

神の諸教会堂で何をしているか、出かけてよく見なさい。どれほどの信仰心を持って人がそこにいるのか。今日、神への礼拝は失われてしまっている。おまえ(フィレンツェ)は未だかつてないほどの多くの修道者と高位聖職者がいると言うであろう。もう少し少なかったらと思うほどである。おお、聖職者よ、聖職者よ、おまえのためにこのような嵐が起こったのだ! こんなに多くの悪の原因はおまえだ。今は、我が家に神父を持つ人は幸せと言うが、頭を剃った聖職者たちを我が家に持たない家は幸せだと言われる時が今にもすぐに来ると、私はおまえに言う。(p460)


 想像してみなければならない。実際、我々はこのような説教をこれまで耳にしたことがあっただろうか? これ程の激しい活火山のような熱情の語りを行える人間が、現代にもまだ存在しているのだろうか。だが、これほど魂に急迫してくる語りも、以下の圧倒的な箇所を前にしては平伏す他ないだろう。

わたしはこのことをおまえにこれ以上はっきりと言うことができない。わかってくれ、フィレンツェ。神がおまえにこれらの言葉を言っておられる。さあ、おまえに言う。わたしがこれをお前に言ったのだ。フィレンツェよ。わかってくれ、よく。言葉はこれだ。喜び、踊れ、義人たちよ。真実、心を誘惑に対して備えよ。読書と、黙想と、祈りとをもって。こうして第二の死から解放されよ。穢れたる悪いしもべたちよ。なおいっそう穢れよ(黙示録22・11などの表現に倣う)。おまえたちの腹は葡萄酒で満たされる。おまえたちの腰は淫猥のために溶ける。おまえたちの手は貧しい人の血で汚される。これこそおまえたちの分け前。だがおまえたちのからだも魂も、実はわたしの手中にあり(詩編95、シラ書33などの表現に倣う)、わずかの時の後、おまえたちのからだは、災害が打ち砕く。おまえたちの魂は永遠の火の中に渡そう。他にも明確に示されたことばはこうであった。聞け、地に住む全ての人よ。主はこう言われる。主であるわたしは聖なる熱心のうちに言う。見よ、我が剣をおまえたちに対して抜く日が来る。わたしに向かって回心せよ。我が怒りが満ちる前に。そのとき悩みがおまえたちの上に降り掛かってから平和を求めても見出せない。(p467〜468)


 おそらく、この次元にまで達して、サヴォナローラは霊魂において何らかの「生成変化」を遂げていると考えられる。それは、「火焔のディスクール」とも呼ぶべきものである。それは全てを焼き付くし、燃え盛る。基本的に、現代のカトリック教会の司祭は「穢れた者」にも救いの手を差し伸べるのが常である。彼らは優しく、穏やかに語り、時に叱咤を伴う語りが混じることがあっても、それは我々への「愛」ゆえである。だが、この男は違う。彼は「穢れたる悪いしもべたちよ。なおいっそう穢れよ」とすら述べている。これは突き放し、悪に対する強靭な意志に基づく裁きである。それは一種の、鞭打つことへの欲望である。かくして、説教はサヴォナローラの霊性にまで触れて、ようやくその本来的な場を獲得するだろう。つまり、説教は元々、我々の内面を衝迫させ、回心させることを目的としているのである。それは善い人に対してよりも、悪い人に対して為される場合において、最も「美」に接近する。「だがおまえたちのからだも魂も、実はわたしの手中にあり」――この箇所における「わたし」は、サヴォナローラを指すのか、それとも「主」であるのか。私がこの説教を熟読し読み終わった感想に基づいて言えば、これはサヴォナローラ自身であろう。つまり、彼は「主」を自分に「憑依」させて語っているのである。病んだ悪しきフィレンツェの傲慢な体と魂を掌握しているのは、サヴォナローラでありつつ、同時に「主」でもあるような裁きの主体である。ここに、彼の説教の美の核心が存する。それはエドマンド・バークが『崇高と美の観念の起源』で述べた、the sublime(崇高)の定義に接近したものである。バークによれば、「崇高」は人間にとって「危険」でありつつ、「畏怖」させ、衝迫させるようなものにこそ宿る。例えば、自然主義的な要素に還元すれば、「竜巻」、「火事嵐」、「雷雨」、「灼熱」、「噴火」、「大洪水」などである。バークはここに、「動物の叫び」や「教会の突然の鐘音」なども含めている。サヴォナローラの激越なナラティブは、バーク的な意味において「崇高」の定義を満たす。それはやがて、彼を火刑台へと送り込むほどの美の戦慄であった。

だが、誰も今日、天使たちが人間たちと関わりを持ったり話したりするとは信じないし、神がある一人の男に話をなさるとは誰も信じない。(p470)


 この語りかけも、我々の魂を揺さぶるための叙法の一つである。ここで彼が結局言わんとしている内容とは、「わたし」こそが神から話を聞かされた預言者であるという確信なのだ。サヴォナローラのナラティブは、福音書におけるナザレのイエスのナラティブに類似しているが、彼は自在に詩編や黙示録をも引用しながら語っている。そこに彼の稀有な洗練と、宗教的「天性」が存在する。
 サヴォナローラはこのように、常に「現在」を生きる我々が、信じるか信じないかに分離するように企てる。彼を信じる者は、彼の熱烈な信者にならざるを得ないし、信じない者は彼に鉄槌を下さざるを得ない――これこそ聖書に脈々と表象され続けてきた「預言者」の受難の本質である。
 サヴォナローラは「現在」については何と語っているのだろうか? 読者は、これを彼が活躍していた時点での「現在」として歴史的に解釈することも可能であるが、今、テクストを通して彼の説教を読んでいる時点での「現在」として受容することも無論可能である。

わたしが以前に話した第三の型は黙示録の型で、そこで四頭の馬を見たと言った。一頭は白、もう一頭は赤、第三は黒、第四は青白かった。そして言ったのだが、白い馬は使徒たちの状態を(第一の状態)。赤い馬は殉教者の状態を、これは教会の第二の状態である。黒い馬は異端者の時代を表し、これが教会の第三の状態。そして青白い馬は冷淡な人々の時期、つまり今の時代である。前に言ったことだが、教会の刷新は行われなければならないし、早く行われなければならない。だから神は御自分の葡萄園つまり、ローマと教会とを耕すために他の人に手渡す(マタイ3・41参照)。何故ならローマには少しの神愛も無くなり、悪魔だけが残ったからである。(p462)





「参考文献」


中世の説教 (シリーズ・世界の説教)中世の説教 (シリーズ・世界の説教)
(2012/03)
高柳 俊一

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