† 存在論 †

ドゥルーズにおける「魔神的なもの」、あるいは「永遠回帰」の概念について――『差異と反復』読解

Nastya Kusakina by Mariano Vivanco3
Nastya Kusakina by Mariano Vivanco

【「魔神的なるもの」の概念】


 ドゥルーズは『差異と反復』の第一章「それ自身における差異」の中で、以下のような奇妙な表現を用いている。

むしろ、すべての事物が、単純な現前(全体=一)の一義性においては存在の中で割り振られる、ということだ。彷徨の配分は、神的であるというよりはむしろ魔神(悪魔)的である。なぜなら、魔神の魔神たるゆえんは、神々が闘うもろもろの戦場の間隙を縫って作戦を遂行するということ、つまり、数々の柵や囲いを越えて跳躍し、もろもろの所有地をごたまぜにしてゆくことにあるからだ。(p70)


 周知のように、ハイデッガーの基礎存在論は第二の主著『哲学への寄与論稿――エアアイグニスについて――』で大きな詩的跳躍を見せ、「存在」の本質を「底無しの深淵」に見出すに至る。ここでいう「存在」とは、例えば「リンゴがある」、「河がある」、あるいは「あの通りには人間がいる」などの表現に見られる、述語「ある」、「いる」の本質(sein)を指している。この世界には実に様々な種類のものがあるが、それらは全て「存在する」という点で一致する。宇宙空間を漂う彗星も、カンブリア紀の生物も、人間の作り出した技術と叡智の結晶も、全て「存在する」――すなわち、それらは「ある」、「あった」ものであり、これからもこのようなものは形式を変えて「あり続けるだろう」。このように、ハイデッガーの主張を待つまでもなく、西洋形而上学の根本諸問題の核心となる概念は、「存在」であり、それは現代思想においても変化していない。その決定的な証左の一つこそが、ハイデッガーと共に二十世紀を代表する哲学者(どちらも天才と時に称されるが)であるジル・ドゥルーズの主著『差異と反復』に他ならない。この書には、ハイデッガー存在論との全面的な対決が暗々裏に遂行されており、第一章にも既にそうした内容が濃密に展開されている。
 ドゥルーズにとって、「存在」とは何であるか? 彼は端的にそれを「差異」であると規定する。彼はドゥンス・スコトゥスを看取して「存在」を一義的なものとして認めつつ、私たち存在者は「存在」に対して多義的であるとする。これは既にスピノザが『デカルトの哲学原理』で提起した、unitas/multitude(一義性/数多性)の図式の再現である。この世界には多種多様な、すなわち多義的なものが存在するが、「存在」そのものは一義的である。ドゥルーズはパルメニデスの詩を解釈しつつ、「二つの〈道〉があるというのではなく、この上なく雑多であり、この上なく変化に富み、この上なく異化=分化した己の全ての様態に関係する〈存在〉の唯一の〈声〉があるのだ」(p69)と適切の述べている。彼が、「存在」は全ての様相にとって同じものであるが、それらの様相はけして同じものではないと述べる時にテーマにしているのは、まさにこの「存在」それ自身の分化=異化であると考えられる。
 では、ドゥルーズはいったい何をもって「魔神的なもの」と表現しているのだろうか? 彼が参照しているのは『オイディプス王』のコロス(合唱隊)の以下のテクストである――「いかなる魔神が、もっとも長き跳躍よりもさらに力強く跳躍したのか」(p70)。彼はこれを明らかに存在論的に把捉している。「魔神の跳躍」とは、「遊牧的(ノマド)な配分が、表象=再現前化の定住的な諸構造の中に忍び込ませる壊乱的なトラブル」を意味する。ドゥルーズがここで対象にしているのは、単なる純粋な「差異」ではなく、むしろ「差異化のプロセス」である。ドゥルーズのイメージにおける差異化の過程が、脳内のニューラルネットワークの構造として想定されているということはカトリーヌ・マラブーらの読解においても指摘されているが、彼はそれを「魔神的」と詩的に表現していると考えられる。この詩的で半ば狂的でもあるレトリックを、どのようにイメージできるのかを、もう少し具体的に読解してみよう。
 以下は、我々の一つの思考ゲームの例である。世界の原初に、仮に一なる「存在」を設置(仮設)するとしてみよう。この「存在」は時間における零点、起源に位置する。他方で、「現在」は多義的なものが存在している。起源においては一義的であった存在が、なぜ多義的になったのか? ドゥルーズが本質的に考察しようとしているのはここであり、彼はこの点について、「ひとつの存在が、たとえ己の能力がどうであれ、己のなしあたうものごとを最後までやってみることによって〈跳躍〉する、すなわち己の諸限界を越え出る場合があるのか否か、ということだけが問題になるのだ」(p70)と述べている。この問いかけは存在論の核心であるばかりか、ライプニッツの名高い以下の問い「なぜそもそも有るものがあって、むしろ無ではないのか?」と本質的に同じである。ドゥルーズは、「存在」が多義化する瞬間を「跳躍」と呼称していると考えられる。この瞬間は「起源」の次点に位置するわけではなく、「現在」も更新され続けている瞬間の連続として到来している。すなわち、この「跳躍」を容認した世界の構造そのものを、彼は「魔神的なもの」と呼ぶ。換言すれば、それは「存在」の内に安らい、自己同一性の不動にして完全なる永遠性に閉じていた「存在」が、何故己を数多化し、多義化し、遍在する道を選択したのか、という問いである。「存在」そのものはキリスト教神学的に言えば「神」の属性の一つであることはアクィーノの聖トマスが既に規定したところであるが、この「存在」を多義化した力=跳躍を、ドゥルーズは「魔神」という「途方もない怪物」(p71)に帰すのである。これは単なるレトリック上の衝迫力を彼が企てた美的効果なのではない。むしろ、「魔神的」な思考は本書第一章における卓越した永遠回帰論をも貫く通奏低音であり、彼の思考の洗練は、このような文学上の詩的表現の応用と思考過程の相乗効果にあると考えられる。

【永遠回帰の存在論について――「輪廻」、「観覧車」、「シミュラークル」】

 本書は初めからある宗教学上の概念を哲学的に分解するような形式で構成されている。この点について考える上で重要なヒントになっているのが、本書冒頭の名高い「はじめに」である。ここで「引用」されている固有名(人物名)がおそらく、本書を導く星座早見になっているので是非紹介しておこう。まず、冒頭は当然「ハイデガー」である――「本書で論じられる主題は、明らかに、時代の雰囲気の中にある。その雰囲気のしるしとして、つぎの四つの点をあげて良いだろう。まず、ハイデガーが、存在論的〈差異〉の哲学にますます強く定位しようとしていること」(p13)。続いて登場するのは新しい永遠回帰の概念を提起した「ニーチェ」である――「ニーチェに続いて、わたしたちは、時間(時代)と永遠性よりも更に深遠なものとして、かの反時代的なものを発見する」(p16)。続いて「サミュエル・バトラー」(p16)、そして異化された哲学者たち、すなわち「哲学的に髭を生やしたヘーゲル」(p17)と、「哲学的に髭をそったマルクス」(同)である。そして、最後に登場する作家こそが、最も重要であり、本書が持つある種神秘主義的な要素を深めている。その正体とは、無論「ボルヘス」である――「周知のように、ボルヘスは、想像上の本を報告することにかけては卓越した力量を持っている。しかしボルヘスがもっと徹底してことにあたるのは……」(p17)。確かに、ボルヘスは「存在」については語らなかった。彼が根源的に物語を媒体として考究し続けたのは、ピュタゴラス学派における「アナムネーシス」(前世想起)、輪廻転生、永遠回帰、循環論、デジャヴュとジャメヴュについて、である。我々の考えによれば、ドゥルーズはニーチェ、ボルヘスの永劫回帰論とハイデッガーの存在論を一つの哲学に収斂させ、総括した哲学者である。この力業を成し遂げたというだけでも、彼の名はおそらく一千年先の哲学者、あるいは神秘家たちからもラディカルに言及され続けることだろう(まるでドゥンス・スコトゥスが二十世紀の哲学者たちの注目を集めたように)。
 ドゥルーズによれば、「存在する」とは「還帰する」ことである。還帰するとは、「差異について言われる同一性」、もしくは「異なるものの回りをまわる同一的なもの」になるということである。ここで彼の規定する意味での「反復」の概念が重要性を帯び始める。「反復」とは、「差異によって生産された同一性」を意味する。先述したように、彼は「存在」の本質を「差異」として規定し、この差異化を生み出す「跳躍」を「魔神的なもの」と表現したのだったが、この限りで存在とは「還帰」である。逆に言えば、「還帰する」ことが差異化を生み出す。更にドゥルーズはこれを踏まえた上での「存在(ある)」は、最早「生成(なる)」であると規定する。ドゥルーズの言う「永遠回帰」とは、そもそも「反復する」ということであるが、その本質は「同一なものを差異から出発して考える」(p76)ところに存するという。還帰するものは、もろもろの極限形式だけであり、それは変化しながら互いの中へと移行する諸形式でもあると述べられている。還帰するもの、それは「可動的な個体化のファクター」(p77)であり、永遠回帰が表現しているのは「すべての変身の共通の存在」(同)である。ニーチェは、このような「変化可能なエネルギー」のことを「高貴なもの」と呼称した。永遠回帰は存在論的に、「存在の一義性」を意味しており、この一義性の現実的な実在化であるという。いわば、ここでドゥルーズが展開しているのは「存在の一義性」が多義化するプロセスに他ならず、その端的な表現として「永遠回帰」が設定されていると考えることができる。
 ここで彼の思考をより深く具体的に把捉するために、二つの例を紹介しておこう。まず一つ目は、ボルヘスが触れてもいるアナムネーシスの問題である。例えば、千年前に生きた人の「生まれ変わり」を自称するような人間が現代に現れるとする。彼、彼女は何をもって「生まれ変わり」であると言い得るのだろうか? 無論、前の人間と現在の人間には時代背景という決定的な「差異」が存在する。この点で大きく隔たっているため、二人は同一人物ではありえない。では、何が「生まれ変わり」であるとみなす判断材料になるのだろうか? 千年前に生きていた人が辿った人生の軌跡を、高度に抽象化してある一つの「図式」に還元した時、これにもしかすると自分と同じ人生のモデルを見出すような人間がいてもおかしくはないだろう。例えば『差異と反復』の原註で何度も言及されている社会学者ガブリエル・タルドの『模倣の法則』には、「人間の本性は単一であり、有機体としての欲求は同一である」、あるいは「人間の本性は根本的に単一である」という人間存在の抽象化が行われている。この場合、時代背景や国家、性別、社会階級などは捨象されているのであり、「生まれ変わり」である判断は抽象化された人生の図式においてのみ遂行されている。もしもこのような人間が、千年前の人間の生まれ変わりであり、事象は永遠回帰していると告げ知らせたとすれば、彼ないし彼女は、少なくともドゥルーズがこの段階までで述べている永遠回帰論の諸条件を満たすだろう。何故なら、時代が離れた二人の人物はそれぞれ既に「差異」を持っている。にも関わらず、一義的な人生の図式を彼らは共有し合っている。この時、彼の意識の中では「存在の同一性」が、多義的に時間を隔てて展開されていると解釈されているわけであり、いわばこれは本質を同じくした「変身」に他ならない。還帰しているものは、この例において「反復」の定義である「差異によって生産された同一性」という条件を満たしている。以上から言い得る一つの定式とは、過去の人物の人生を抽象化した図式に還元した上で、自身の人生の各ターニングポイントがそれらに何らかの共通項を顕著に見出せる場合、両者は「永遠回帰」の存在論的条件を満たすということである。注意せねばならないのは、反復は同一性について言われるものではなく、「差異」を前提にしたものであり、むしろ差異化という「跳躍」によって一義的な存在から「生成」するものだということである。
 二つ目の例は、遊園地における「観覧車」における視野の「差異」の問題である。例えば我々がその日午後二時に初めて観覧車に乗ったとする。我々は「午後二時の景色を目にする」だろう。それから一時間後、我々がやはり「午後三時の景色を目にする」としよう。すると、ここで生起しているのは「観覧車」という共通する一義的な遊具を中心にして、「午後二時」と「午後三時」の風景の見え方が微妙に「差異」化しているという事実である。この例の方が、おそらく先の神秘主義的な例よりもいっそう「反復」の本質に接近できるだろう。それぞれの景色は「同一性」(同じ都市で、同じ角度)を維持しつつも、既に微分的な差異を滑り込ませている。換言すれば、風景は微妙に変化・変身している。他方、還帰するものを次々に生成させているものは「観覧車」であり、これ自体は変化せず、一義的である(とはいえ、観覧車も常に劣化していくし、乗客の顔触れも差異化するわけだが)。この例は、ドゥルーズの「差異と反復」の概念について理解する上での重要な補助線になると我々は以前から考えてきた。観覧車は回帰を生成させる存在であり、そこに我々が乗っている以上、反復した景色を目にするのは必然である。しかし、反復の中にもそれぞれ結節点が存在し、夕陽が沈んだり、どこかで火事が起きたりすると、我々は反復の中に「差異」を感じることができる。よりミクロな視点で眺めれば、我々はより深い次元で「差異」を見出すことも可能だろう。このように、「反復」が「差異」を包含している現象として「観覧車の回転」を把捉することが可能であるが、創造論的にいえば、おそらく概念の順序が逆である。起源に「差異」が到来し、この差異の有する跳躍、あるいは「魔神的なもの」が「反復」を促すのである――これが世界の生成の根本原理であり、細胞分化や進化の歴史にも顕著に見出すことができる。ドゥルーズは正確に、「永遠回帰における車輪は、差異から出発しての反復の生産である」(p78)と述べているが、もしも「反復」の概念を起源に設定した場合、「差異」は各様態に「選別」されていると考えられている。このように、ドゥルーズの規定する「存在」は一義的であるのだが、これは「差異の回帰」すなわち「反復」を意味する。ドゥルーズにもしもハイデッガー的な意味での「存在論」があるとすれば、それは「永遠回帰」を本質とした「差異の回帰」の存在論なのである。
 我々がドゥルーズと「観覧車」の問題に注目する一つの決定的な理由となるテクストは以下である。「神話の構造は、プラトンにおいて明瞭に現れている。その構造とは、二つの動的な機能、すなわち、〈回転し、還帰すること〉、および〈配分すること、つまり割り振ること〉という二つの機能をもった円環である――分け前〔運命〕の割り振りは、永遠回帰の輪廻として回転する車輪に属しているのだ」(p107)。ドゥルーズはここで、プラトンの『パイドロス』、『ポリティコス』などの神話のモデルに「回転する車輪」の構造が見出されると述べている。この箇所は、永遠回帰の存在論とプラトニズムにおける「イデア」の概念が接合されている点でいっそう興味深く、また神秘的である。ドゥルーズによれば、プラトンの『パイドロス』には、「天球の外側に乗って循環するプシューケー(魂)たちによって観照されるイデアたち」(p107)という神話的モデルが見出される。また、『ポリティコス』には、「宇宙の循環的運動を自ら司る〈神―牧養者〉」(p107)という原理がやはり登場する。見落とすべきではないのは、ドゥルーズが「循環するもの」を円、ないし球体として把捉し、その「中心」は常に不動であったという神話の記述を重視している点である。かつては「中心」に「神」や「イデア」が設定されたが、ドゥルーズは現代思想においてその機能を持つ概念を「差異」に見出す。『差異と反復』は、少なくとも第一章において伝統的な神話体系、古代ギリシア哲学の中心原理を相続しつつ、新しい「語彙」によって表象=再現前化している。
 ドゥルーズは永遠回帰を可能にするのは「差異」の選別を可能にする「反復」であると述べるわけだが、永遠回帰というこの円環の中心に存在するのは「差異」であると規定する。永遠回帰の法則に従えば、全てのありとあらゆる事物はけして同一的であることができず、見られる対象だけでなく我々が見る対象の視点も常に多義的であり、画一的ではない。例えば空に浮かぶ雲は刻一刻と姿を差異化させるが、それらを見る我々の内在意識も時間によって差異化する。こうした諸差異の中で、事物は「八つ裂き」(p99)にされていると表現されている。また、永遠回帰という概念は「オリジナル/コピー」という概念の考察にも寄与する。ドゥルーズによれば、「もの」は常に反復されることによってでしか存在し得ないのであり、「もの」はそれぞれ背後に「オリジナル」なものを起源として控えてはいないのである。「もの」たちはただコピーをコピーする。したがって、「もの」は動物であろうと他の何であろうと、常に永遠回帰においてはシミュラークル(見せかけ)の状態として維持されるのである。これは我々、存在了解を有する「現存在」においても妥当する。ハイデッガーは基礎存在論において現存在の情動性に注目し、「不安」を人間存在に特有の明かし得ぬ本質として定義したが、ドゥルーズはこういった心理的概念を捨象する。彼はより大胆に、我々の本質はシミュラークルに過ぎないという事実を前提にしている。
 永遠回帰の存在論から明らかになるのは、「もの」だけでなく「事象」も含め、全ては「反復」しているという構造である。「反復」は「差異」を中心原理として回転する円環である。だとすれば、ボルヘスがいみじくも述べたように、「失う」という動詞は「発見する」という動詞と再帰的関係にあると言えるのではないだろうか? 実はドゥルーズも第一章の記念すべきラストで、以下のように述べている。「どのセリーも他のセリーの回帰によってのみ存在する以上、何も失われはしないのである。全てはシミュラークルへと生成したのだ」(p117)。「もの」は原理的には失われることができない。何故なら、失われた対象は再び回帰して表象=再現前化されるからである。第二章でも、この章の深い考察で獲得されたドゥルーズの概念は形式を変えて再演されている。例えば、以下のテクストはまさに上記のテクストの換言であろう。「常に置き換えられ、また偽装される対象の特徴である〈ジャメ・ヴュ(未視)〉は、その対象がそこから引き出される当の純粋過去一般の特徴たる〈既視(デジャ・ヴュ)〉の中に潜んでいる」(p174)。









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