† エッセイ †

美について/女性について



世界の始まりに、この絵がある。
アリストテレスも、プラトンも、アウグスティヌスも、トマス・アクィナスも、カントも、ヘーゲルも、ニーチェも、フッサールも、ハイデガーも、デリダも、誰も知らないであろう絵。
それゆえに、決定的にクリプト化され、謎そのものである、一枚の創世記の挿絵。





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Luis de la Fuente、それが画家の名前。
私にとって、この絵は怖ろしい。
けして振り向いてくれない彼女、泣いているのか、怒っているのか、笑っているのか、それとも、まだ眠っているのか、誰も知ることはできない。

美は、常に隠れてある。
どんなに彼女に近付こうとしても、絶対に、彼女は私の前には現れない。
「背を向ける女性」。
「謎めいた貴婦人」。
「神秘的な魔女」。
「穏やかな母親」。

この絵は、アダムにとって、常にイヴという女性が概念的には神と同一であることを証明している。
アダムはイヴと交わったが、彼はイヴそのものに触れたわけではない。
アダムは、イヴに対して、アダムとして触れたに過ぎない。
アダムはイヴと化したわけではない。
男性が女性を愛することとは何か?
私にとって、常に謎めいて、それゆえ、絶対的に衝撃的であり続ける主題なのだ。
なぜ、人は、愛する人のために死ねるのか?

イヴを救うために、命を犠牲にする男性としてのアダム、その姿は私の涙腺を弛緩させる。

「愛」について、「愛とは何か?」と問い続けること、それが人間の存在の規定ではないのか?
「愛」と、「愛し合う」ことと、「愛を欲すること」と、「愛に飢えること」は全て異なる。
「愛」はイデアであり、「愛し合う」ことは行為であり、「愛を欲する」者には愛への意志があり、「愛に飢えること」には、おそらく嫉妬と根深い傲慢が潜んでいる。
「純-愛」とは何か?
「狂-愛」とは何か?
「熱-愛」とは何か?

この絵からは、そんなことを考えさせられる。
どれほど世界革新的な概念や理論を創出した思想家であれ、彼が「愛」について無知ならば、生きたことにはならない。
「愛」とは急迫であり、唐突に迫り来る稲妻である。




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これはRoberto Liangが描いた、オレンジ色の女性。
眠りの姿、睡眠しているということ、つまり、夢を見ているということ。
真実の愛と呼ぶに相応しい体験をした人間には、独特の力強さが宿っている。
私にはそれが未知であり、不可知であり、嫉妬を生むものである。
「愛する」ことができても、「愛してはならない」という場合もある。
例えば、相手が既に結婚していた場合――これは極めて重々しい十字架だ。






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愛が「酔い」である可能性もある。
愛としての「陶酔」、否、逆だ、「陶酔としての愛」だ。
相思相愛の者たちは、総じて同じワイングラスに浸かっているような印象を与える。
それは私にとって苦悩を生み出す光景であり、自分が「呪われてある者」と思われるほどの辛い体験である。
愛は、嫉妬の上に成立するということ。
つまり、相思相愛の男女の脇には、常に彼らに嫉妬する「一人のアダム」「一人のイヴ」が存在するということ。
私のことである。




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私は、静かな女性に憧れる。
静かで、けれども気品のある女性に。
そして、泣き虫である女性に。

女性が「泣く」という行為は、おそらくアダムの時代から、常に男性にとっては衝撃的な事件であったろう。
女性の涙が、歴史を形成したといっても過言ではなかろう。

静謐さというのは、心の中に海辺を宿している、ということである。
海辺を知っているというのではなく、海辺である、ということだ。
海辺の家で、ひっそり本を読んでいるような大人しくて、泣き虫で、少しオチャメな女性――こんな女性は、おそらく私の頭の中にしか存在しないだろうが・・・。

長男として生まれた男は、とりわけ、妹も弟も下にいるような青年には、年上の女性が憧憬、夢、敬愛として到来することがある。
年上の女性である、ということ。
自分よりも先に生まれた、その分だけ、常に二歩か三歩、彼をリードする権利を持つということ。
それは素晴らしい関係だと感じる。
私には「姉」がいない。
私がほとんど年下の女性に何の関心も起こさないのは、おそらく「姉」が不在であることと、妹とのコミュニケーションが、弟とのそれよりも多いということに由来するだろう。





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「年上の女性」という言葉には、それだけで、何か魔力があるのを感じる。
「女性」という言葉は、「男性」と同じく、性別を意味する記号に過ぎない。
だが、そこに「年上の」が付くと、それだけで人格を見出すのである。

「年上の女性」が流した涙――それも、自分のために流された涙――そういった根源的な体験が、私にはある。
ハイティーンの終焉、十九歳の頃、働いていた料亭の女将さん(まだ三十歳だったけれど)が流した、あの涙、あの、私の愚かしい少年的な罪悪が作り出してしまった、優しい涙――それが、今でも私に巨大な謎と神秘を持って、到来し続けているのだ。
女将さんには、既に夫がおり、私は身動きが取れないということ。

「美術館つれてってよ」
「女の子の前だと緊張するの?」

ネクタイをとめてくれた女将さん、若くて、着物がよく似合う、長い黒髪の美しい女性だった。
私よりも十歳以上も年上の女性・・・・・・まだ、「甘える」ということが、赦された楽園のような時代。
女将さんに詩集を贈り、最後の別れの日にも、私はやはりそれを贈った。






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愚かであること、これが私の定義である。
だから、私は今でも、年上の女性、彼女との海辺、彼女との寝室、彼女とのシャワー、彼女との花壇、彼女とのカフェテラスに、想いが過ぎり、やがて潰えて滅する。
だがそれはすぐに蘇り、私に「年上の女性」としての神を、呼び覚ますのだ。
「年上の女性の涙」とは、私の楽園喪失の瞬間であり、優しさと受苦を同時に垣間見せてくださった、あの御方と、主イエズスの御業である。

私は春には、洗礼を受ける。
それは、「年上の女性」まで近付くことになるだろうか?
人間には、生まれながらに、「運命の相手」というのが定められている。
定めに背けば、禍である。

おそらく、今、私にとっての運命の女性は、私の知り及ばないところで生きている。
彼女は既に生まれているのだ。
年上なのだから。
そして、やがて私と彼女は出会い、真実の恋に、「堕ちる」。
その時――ああ、その時、私はようやく、カトリックであったことに最高度の恍惚を抱くことができるであろう。
だが、私はこれを書いている間も、常に一人、彼女に近付くことを願うことしかできないのである。





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