† 文芸理論 †

広告テクストが文学に与えるメスメリスム――ジェニファー・A・ウィキー『広告する小説』


広告する小説(異貌の19世紀)広告する小説(異貌の19世紀)
(1996/05)
ジェニファー・A. ウィキー

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 著者のジェニファー・A・ウィキーは、巻末の紹介(1995年当時)によればニューヨーク大学助教授で比較文学、フェミニズム批評など幅広い原論活動を展開している研究者である。高山宏が責任編集を担当している「異貌の19世紀」シリーズの一冊である野心作『広告する小説』(原著1988)の中で彼女は、「広告」をテクストとイメージの一体化したものとして捉えている。イギリスで新聞が急増するのは18世紀からだが、広告産業は19世紀中頃には既に文化に広く浸透し、文学テクストを影から大きく支えていた。例えば自身も純文学と「広告」との間に複雑な葛藤を抱いていたヘンリー・ジェイムズは、19世紀を「広告の時代」と呼称している。広告――それは作品の外からそれを支える、いわば「パラテクスト」である。
 ウィキーは第一章「広告者ディケンズ」で、この作家がそもそもの出発点からしてコピーライターとして分筆を開始したことに注目している。ディケンズの初期作品は、広告的文体で表現されているものも含めて、個々の自己表現を支える広告産業的な本質を称揚するものであり、過渡期の作品においても広告によって齎された言語による社会問題を扱っている。後期になると、広告が広く浸透した社会像を描き出し、いわば「広告の時代」を具現化した作家であることが判る。ディケンズは周知のように、広告産業と結託することによって自己の名声を確立していった作家である。彼は自作のキャッチコピーを書く手助けをし、月刊誌のための広告を選んだり、あるいは自ら書いたりした。ウィキーがディケンズという作家に注目するのは、この時代においてただ彼だけが、社会システムとして組織化された「広告テクスト」の内に、自分の作品の「文学テクスト」との共通点を見出していたからである。ディケンズの作品は中産階級の読者層から高い支持を受けたが、これが結果的に大衆市場におけるジャーナリズムの発展を助長したのだった。そして彼は晩年の最後の十年でも、執筆よりは自作品の「朗読会」を積極的に行うなど、自ら「広告塔」となって作品を売り込む事に心血を注いだ。その朗読会ではディケンズの作品が販売されていたという。ここには明らかに自らの過去の作品を「広告=呪物」として神聖視するフェティシズムが垣間見える。ウィキーが第一章で提示する重要な概念は、corporealization(広告実体化)である。これは、ディケンズの作品に見られるように、広告的文体を文学に吸収し、広告産業と結託した作品の生成を意味している。すなわち、広告テクストと、本そのものの密接で、テクスチュアルな関係を前提にした、広告を予示し、かつ分析する小説のスタイルを意味している。
 第二章では、corporealizationの概念がフーコーのテクストや、広告王P・T・バーナムなどを解釈しながら更に発展させられている。フーコーは文学作品と作家の関係性の中で最も重要な要素として、「作家の名前」を挙げている。「作家の名前は、作品の外見上に残留し、ひとつの作品を他の作品と区別し、作品の形態を定義付け、その作品の存在様態を特徴付ける」(p99)、とフーコーは述べている。ここからウィキーは、作家の「名前」が持つ社会的機能とは一定の言説の範囲を策定し、その作品をその他の二流の書き手からは卓越化させ、価値を与える磁場を提供するものであると理解している。例えば、「ニーチェが書いたからこのテクストは示唆的で深遠な意味を含む」とか、「キーツの手紙だから詩的で豊かな香りを帯びている」などといった、いわば作家名に由来する象徴的な権力である。ここで上位に置かれているのは、個々の作品ではなく、作品そのものを生み出す作家の能力である。ウィキーはフーコーから更に考察を掘り下げるかたちで、「言説的実践を担う真の作家の主要な特徴は、その言説を用いる後続作品の全てが必然的に、その言説を起こした作家の作品の〈再読〉になっている」(p99)とも述べている。これには無論、個別具体的な文学テクストと、作家を全く別々に扱う視座から批判もあるだろうが、ウィキーのいう「再読」の概念は、ド・マンのいう「誤読」の概念と並んで、我々にとっては貴重な示唆を与える。
 ウィキーはコピーライターの父祖であるバーナムの仕事を再評価しつつ、広告は文学テクストの美的な要素を「模倣」して「魔法」を作り出すと述べている。広告テクストが流通する上で、非常に多くの確立された文学的流通形態への接近が現象として見出されるのである。広告は活字のグラフィックな書体から、新聞、パンフレット、挿絵などの書籍にまつわる全ての視覚的要素を模写し、その産業界に吸収していった。広告は、単にある作品を大衆に広めるための判り易いキャッチフレーズを提供するだけのものではない。広告の書き方によっては、「新しい読み方」の鋳型を読者に提供することもまた可能である。この点についてウィキーは、「広告が重きを置くのは、読み手の眼であり、読む主体の方である。…広告は文学が要求してきた以上に、革新的に異なる主体性を持って読まれることを要求してやまなかった」(p134)と鋭い見解を述べている。例えばかつて旧版として一定の評価を得た本が、新装版になって刊行される時に付される「序文」や、書籍の紹介文などのパラテクストは、その時代に適した新しい「読み方」のアプローチを示唆する。これがウィキーのいう「広告が新しい主体性を要求する」ことの真意であり、我々が暗々裏のうちに「キャッチコピー」に誘導された読み方をしてしまっていることを教えてくれるのである。
 ウィキーは「広告が文学を模倣する」という図式を繰り返しているが、より具体的に述べれば、広告テクストはシェイクスピアやマザーグースなどの文学的カノンから自在に、「断片化」して引用することで生成する。短いながらも読者に響く詩的なキャッチフレーズは、往々にして先行する古典からのコピーペーストである(例えばバーナムが生きた時代の煙草会社のよく用いたキャッチコピーは、たいていが名立たる作家たちの名文の断片的引用であった。こうしたテクストを商品に付すだけで、商品価値が上がることを彼らは期待したのである)。広告産業のこうした露骨であからさまなまでの「文学フェティッシュ」は、広告というものが文学テクストを崇拝し、夢見ていたことに由来している。つまり、広告テクストが文学を模倣し、借用するその作法には独特なメスメリスム(ジェイムズは、聴衆が広告に魅了され、作品に肥大した価値を与えることをエロティックな行為であるとみなしていた)が働いているわけだが、ウィキーはむしろ、文学と広告というものの本質的な親和性を示唆していると考えられる。







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