† ポール・ド・マン †

ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー』第一部の読解記録

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Hedi Slimane 2216

 ポール・ド・マンの主著として三十年以上完訳が待ち望まれ、刊行以来多大な注目を集めている『読むことのアレゴリー』の第一部を読了したので、その記録を残す。本書のパラテクストには、パスカルの以下の言葉が掲げられている。

速く読みすぎても、ゆっくり読みすぎても、何も分からない。


第一部「修辞(学]」の構成は以下である。

第一章 記号学と修辞学
第二章 文彩(リルケ)
第三章 読むこと(プルースト)
第四章 生成と系譜(ニーチェ)
第五章 文彩のレトリック(ニーチェ)
第六章 説得のレトリック(ニーチェ)



 第二部はルソー論であるが、このページでは目下、ド・マンのリルケ、ニーチェ、プルースト論についてまとめていく。(ゴシック体表記はp78以外すべて筆者による)。


【記号学と修辞学】

 ド・マンの『読むことのアレゴリー』の原著がイェール大学から刊行された1979年当時、文芸論は「閉所恐怖症」、「幽閉」などのイメージで語られるような閉塞的形式主義に陥っていた。ニュークリティシズム以来、アメリカの文芸理論では何も変化が起きていない、と彼は述べている。また、当時のフランスではバルト、ジュネット、トドロフ、グレマスの弟子たちによる、「文学的記号学」が実践されてきた。

パースにとって、記号の解釈は意味ではなく別の記号に関わることである。つまり、記号の解釈は解読することではなく、読むことであり、今度はこの読むことが別の記号へと無限に解釈されていかねばならないのだ。パースは「一つの記号が別の記号を生み出していく」このプロセスをpure rhetoric(純粋修辞)と呼び、確固とした二項対立的な意味の可能性を前提とする純粋文法や、意味の普遍的真理の可能性を要請する純粋論理と区別している。対象が記号を生じさせるのと同じやり方で――すなわち、代理=表象によって――記号が意味を生じさせるというのであれば、文法と修辞を峻別する必要はないだろうが、そうしたことはありえないだろう。(p10)


 ここでド・マンが述べているパースの記号論は、彼の「誤読」の概念の理論的な基礎に相当する。あるテクストを「対象」とみなす時、それを「読む」行為、すなわち「解釈項」は常に差異化される。再読するたびに同じ「記号表現」を持つ一冊の本でも、違った印象を与えるのは、まさに「一つの記号が別の記号を生み出していく」という、パースのいうpure rhetoric(純粋修辞)が成立しているからである。

作者と読者の峻別は、読みによって明らかにされる誤った区別の一つである。脱構築とは、我々がテクストに付け加えた何かではない。そもそも脱構築こそがテクストを構成していたのだ。文学的テクストは、自らの修辞的様態の権威を主張すると同時に否定する。これまでそうしてきたように、我々はテクストを読むことで、作者が最初文章を書く上で要求されたのと同等の厳格さに、読者として一歩でも近付こうと努力していたに過ぎないのだ。詩的エクリチュールは、脱構築の最も進んだ、洗練された様態である。それは、表現的な構造の点では批評的・論証的なエクリチュールとは異なるかもしれない。だが、本質的な違いがあるわけではない。(p20)


したがって、発話内的な文章の文法的修辞化の場合と同様、記号学の修辞的文法化のケースでも、我々は結局、無知という宙吊り状態に据え置かれる。文学テクストの修辞的様態に関する問いは全て、それが本当に問うているのかどうかすら分からない修辞疑問であるのが常である。その結果生じる感情は、無知の不安(一時的なムードや個人的な気質に応じて至福にもなる)であり、対象指示に関わる不安ではない。それは例えば、プルーストの小説におけるマルセルとアルベルチーヌの関係において、言語がなすことへの感情的反応としてではなく、言語の所作を知ることの不可能性への感情的反応として読みが劇化される時、主題的に明らかになる。両者の差異は見かけに過ぎないが、文学は批評と同様、常に最も厳密であり、それゆえ最も当てにならない言語であることを宣告されている(もしくは、そうであるという特権を与えられている)。そして、人はそうした言語によって、自らを名指し、変形するのだ。(p22)


【プルースト論】

 最初に述べておくべき重要な前提は、マルセル・プルーストが創造した「わたし」(マルセルと呼ばれる主人公)は、プルースト自身ではないという事実である。ド・マンはこの両者の「分裂」、「差異」、「齟齬」を本論で精緻な密度で暴き出すことになるだろう。まず、ド・マンはプルーストのナラティブの本質を「無意志的記憶」だとした上で、それはre-reading(繰り返し読むこと)に似ていると述べている。

問題はまさに、文学テクストとは、果たしてそれが描写したり言明したりすることに関わるものなのか、ということである。たとえ理想的な読みとははるかにかけ離れていようと、読み取られる意味と言明されている意味が必ず一致するのであれば、実際のところ問題らしき問題は生じないだろう。あとはただ、マルセルを我々のモデルとみなすことで、この理想的な境地に一歩でも接近していけばいいからである。だが、読むことが真に問題含みのものであり、言明されている意味とその理解が一致しない可能性があるなら、文字通り読むことを描いている小説の一節とて特権視されるべきではないだろう。別のところ、すなわちマルセルの官能的・政治的・医学的・社交的な体験の中に、読むこと特有の諸構造を発見するか、あるいは更に進み、最早テーマ的とは言えない選定原理を利用する必要があるかもしれないのだ。…読むことは、こうした字義=直解主義(literalism)と疑念の不安定な混交の中で開始されなければならないのである(p78)


 『失われた時を求めて』には、私生活への内的退却が見出される。プルーストは、自室での執筆でも想像的に光景を再現できると信じていた。ド・マンはその上で、彼の文学の中心的モチーフは実は「罪と背信」(特に外に出かけて活動することからの引きこもり、労働の忌避による読書と執筆)にこそあると規定する。ブルジョワ階級に属するプルーストの両親は、息子に何か職に就くことを切願していたが、ある評伝によれば彼は図書館で司書としての職務をわずかな期間経験したものの、その「職務怠慢」(執筆したいがための欠勤)によって解雇されている。プルーストが労働を忌避したのは、貴族階級にとっては逆に「仕事を持つ」ことが不名誉であるとされていたアンシャン・レジーム期の慣習を、半ば「見栄」によって採用しようとしていからであると思われる。したがって、彼が作中で家族から働くように促されているような描写を綴っていなくとも、背景として絶えず「ビジネス」から遠ざかり続けた彼のうしろめたい「罪悪感」が作動しているということは念頭に置かねばならない。時折見受けられる、自身のソーシャル・クラスと、家政婦や執事たちが属するような庶民階級との「差異」が露骨に高みから、やや侮蔑的に表明されるのは、実は自身も本当は労働に就かねばならない類のブルジョワ階級であったという「葛藤」の「抑圧」にその根を持っていると見て良いだろう。
 

内側の部屋は「透き通って儚く消えそうな内部の涼しさを、午後の太陽から、震えながら守っていた」。内部世界は外部世界より好ましいと明白に評価され、一連の魅力的な属性は全てが閉ざされた空間の安楽と結び付けられている。まずは、この「太陽神話」小説――晴雨計によって、頻繁に安定した晴天が告げられる――の最も望ましい特性である涼しさ。それは、和らげられた陽射しの穏やかな暗さと結び付けられている(マルセルは植物の木陰にいる時ほど幸福を覚えることはない)。そして、決定的とも言うべき安らぎ。これなくして瞑想の時間は与えられないだろう。だが、マルセルは屋内の孤独に備わるこうした肯定的な要素だけに満足してはいられない。この一節の真に魅力的な力は、内的退却という埋もれた私生活への引きこもりが、犠牲に供されたと思われる全てのものを回復するための、極めて効果的な戦略であることが判明する時、初めて明らかになる。テクストは、内的な瞑想が遠ざけてしまった全てのもの、その瞑想の充足に必要な全ての力=性質に反するもの、つまりは陽射しの温かさや明るさ、安らかな不動性によって決定的に排除されてしまったと思われる活動性さえ、読むという行為によって回復できると主張する。(p80)


 以下は、ド・マンが魅力的だとしているプルーストのテクスト。

私の部屋の仄暗い涼しさは私の休息とうまく調和し、私の休息は(読んでいる書物によって語られ、私の休息を揺さぶりにやって来る筋の波瀾のおかげで)、流れる水の中にいてじっと動かずにいる手の休息のように、外に漲る溢れるような活動性の衝撃と躍動に耐えているのだった。(p83)


 ド・マンによれば、プルーストにとって「自身を読む」行為としての小説執筆は、「現在」の瞬間の「隠喩」になっている。プルーストはreadingするようにwritingしていただけでなく、riadingするように「現実」をも読んでいた。彼のナラティブの基礎にあるのは、以下のような図式である。

fiction writing=self-reading

 それは、樹幹の同心円状の年輪にも似て一連の層を形成している。中断や亀裂が存在しないのは、「断片」の溶接、再統合化の戯れ=作用による。こうした原理は、彼の「比喩」のレベルにも表れている。しかし、テクストは「現実」のanalogon(類同代理物)として完全に機能しきれていない(まるでどれ程貴族社会の優雅な社交界を描いても、マルセルがあくまでもブルジョワ階級に出自を持ち、ビジネスから無限に逃走し続ける青年に過ぎないかのように)。こうした試みは作中で常に失敗を余儀なくされている。ド・マンは、プルーストが実際に体験した「現実」と、マルセルが体験した「虚構」とが「けしてsynthesis(統合)に至ることはない」、と述べている。
 以下の解釈を参照しよう。

単一的な回想の瞬間を物語に拡張したものだと主張する小説にとって、この一節は疑いなく範例的な意味を有している。現在の瞬間を引き続く場面に転置することは、瞬間を語ることとしてのfiction-writing(小説執筆)行為に相応するだろう。こうした行為は、それゆえ、self-reading(自身を読む)行為とも共通の外延を有することになるだろう。この自身を読むという行為によって今や一つに結ばれた語り手と作家は、否定的な側面も全て含めた彼らの現況を――その現況の生成と回顧的に反復=概括することで――十全に理解する。それはまた『失われた時を求めて』の読者に生じ得る反応とも異なりはしないだろう。読者は、このプルーストの小説を仲介に、語りの声を、自身をも包み込む真なる知識の分与者として理解するのだ。「瞬間」と「語り」は相補的かつ対称的であり、変形することなく相互の置き換えが可能な鏡像のようなものになっている。語りは、回想行為や予見行為によって、瞬間の十全な経験を回復することができる。我々は、またしても隠喩という総体化の世界に立ち戻っているのである。読むことが書くことの隠喩であるように、語りは瞬間の隠喩なのだ。(p87)


 上記のテクストには未だ考察の余地がある。ド・マンが述べるようにプルーストのナラティブが「瞬間」の「隠喩」だったとしても、彼の小説は実はある程度の「時間軸」を持ち、主人公は一巻から最終巻までの期間で少しずつ老いているのである(周知のように、「見出された時」は執筆の起源に到来し、この物語は作中内部の時間においては円環を描く)。たとえプルーストが小説を書いているある時点でオペラ劇場で何か非常に感動的な経験をしたとしても、物語内部での「マルセル」はシャルリュス男爵と夕食を取り、彼の会話について色々と考察を巡らしている場面であるというようなことはあり得る。つまり、プルーストの「現在=瞬間」と、作中の虚構化された作家の分身である「マルセル」の「現在=瞬間」は初めから構造的に瓦解する定めである。とはいえ、プルーストが現実から持ち帰った出来事が、「痕跡」としてそれまでは暗澹たる内面を描き出していた箇所に、突如として光明を放つというような効果なら十分に生起し得たはずである。また、同じことだが、プルースト自身が感動した体験を、事後的に小説の中で「マルセル」に追体験させる時、書き手がその時の歓喜を持続している保証はどこにもない。つまり、「無意志的記憶」という、いかにも「方法論」として耳障りの良いスタイルも、実は「わたしはその時~を思い出す」という表現を多種多様に様式化することで、書き手自身の「現在=瞬間」の心的印象を作品に浸透化させ易いようにするための「装置」であったことが判然とするのである。
 以上のような構造的な「破綻」は、作者にとっては実は神経を常に逆撫でされるような「苦悩」でもあったはずである。だが、本来は齟齬を来し分裂しているような二つの時間――「作品外の時間」と「作品内の時間」――が、精妙に「溶け合う」ような喜びをもまた、プルーストは何度か味わってきたはずである。こうした点について、ド・マンは以下のように述べている。

つまり、テクスト内的な動きとテクスト外的な動きのco-presence(共-存)は、けしてsynthesis(総合)に至ることはないのである。こうした意味で、隠喩の字義的意味と比喩的意味の関係は――基本的に、それとは逆の主張がなされる傾向があるにも関わらず――常に換喩的である。(p91)


…アレゴリー中に表象されるであろうものは、全てが読むという行為から逸れ、理解への接近を妨げることになるだろう。読むことのアレゴリーは、読むことの不可能性を語っているのだ。だが、その不可能性は、必然的に、あらゆる指示的な意味を奪われたreading(読むこと)という用語にまで及ぶことになる。プルーストが自身の物語の縁にLECTIO(読むこと)とはっきし示したところで(そして、この小説にはその方向を目指す仕草が数多く存在するのだが)、この語自体が明白なものになることはけしてないだろう。プルースト自身が口にしている法則によれば、〈読むこと〉を読むのは永遠に不可能だからである。恋愛、意識、政治、芸術、男色、料理法など、この小説に登場する全てのものは、それが表象するものとは異なる何かを意味している。それは常に意図されているものとは別の何かなのだ。この「別の何か」を指し示すのに最も適当な用語が〈読むこと〉であるのは明らかだろう。だが、同時に「理解」しなければならないのは、この用語が、理解を求めてやむことのない意味への接近を永遠に阻止している、という事実である。(p98)


小説全体を呪文のように区切る「のちに私が理解することになったのは」という定式的な言い回しは、『失われた時を求めて』の読者にはすっかりおなじみのものになっている。文学批評は、伝統的に、この「のちに……」を文学的・審美的な使命が成就される瞬間、すなわち語り手マルセルと作者プルーストの収斂による経験から書くことへの移行として解釈してきた。だが、実を言えば、作者のアレゴリカルな――つまりは作者抹消的な――比喩である語り手とプルーストのあいだの架橋不可能な距離は、前者がこの「のちに……」を自分自身の過去の出来事として信じられるという点にある。プルーストがマルセルに次のように言わせる時、両者は最も遠い位置にいるのだ。「死よりも前に真実に出会った人々は幸福なるかな。真実と死はとても近くにあるはずなのに、その人々には真実の鐘が死の鐘に先立って鳴ったのだ」。作家としてのプルーストは、真実の瞬間も死の瞬間と同様、けして時間通りには訪れないことを知っている。時間と呼ばれているものは、まさに真実がそれ自体と一致することの不可能性に他ならないからである。この小説は意味の飛翔=逃走を物語る。とはいえ、『失われた時を求めて』自体の意味が絶えず飛翔=逃走状態にあることに変わりはないのである。(p98)


「のちに…」から始まる、過去の解釈を試みる「わたし(語り手)」は「作者(書き手)」とは乖離している。
 ド・マンのプルースト論を読解しながら考えたことは、いかなる評論、論文、そして小説も著者の伝えたい主旨や要諦とは異なる、別の何かを常に不可避的に読者に喚起せざるを得ないということである。『盲目と洞察』での定式を用いれば、全ての言語は本質的に「誤読」の地平に開かれている。例えば、建築学の高度に理論的な書物を紐解く作業の過程で、我々が著者のさり気ない詩的表現から、何か一つの「物語の萌芽」を掴み取るような「瞬間」が存在するかもしれない。その時、我々はその一瞬の喚起されたイメージや、著者の本筋からは逸脱している諸概念、観念などを安易に廃棄してしまうべきではない。ド・マンは、むしろそうしたテクストの持つ修辞的構造が、作品の有機的全体を暗々裏に支配する言語の本性であると述べている。「詩的エクリチュールは、脱構築の最も進んだ、洗練された様態である。それは、表現的な構造の点では批評的・論証的なエクリチュールとは異なるかもしれない。だが、本質的な違いがあるわけではない」(p20)――この一章での貴重な前提は、「批評的・論証的なエクリチュール」が、実は「詩的エクリチュール」=修辞的構造によって支えられていることを明らかにしている。
 「読む」という行為が、新たな解釈項を不可避的に産出させる点で、意識の内部において新たに「書く」ことを意味しているのだとすれば――すなわち、readingが実はwritingの本質的様態だとすれば――我々が「小説」を書くために、「文学」という閉じられた世界のみに価値を見出すことがあってはならないだろう。何故なら、小説以外の「評論」や、数理学の理論書などの読解を通して、我々が新たな「小説」を自然に構想する、という読みの地平は常に開かれているからだ。また、ある著者が伝えたい本筋ではなく、彼が表現した些細な文彩、何気ないレトリックなどに注目することで、そこに著者の意志との「齟齬」、「盲目」を見出すことができるとすれば、それは作品解釈において極めて有益な意義を齎すことになるだろう。

【リルケ論】

 リルケは果たして本当に切実にして孤独な「内面」を描いたのだろうか? ド・マンはまず従来のリルケ研究が採用していた詩人像を紹介する。先行する研究によれば、リルケはキリスト教の神学が世俗化した近代的な神意識を採用し、現代人にとっての実存的救済を示す。その人間形象は、救済への道が準備されていながらも「自己現前の充実性から永遠に切り離されて」おり、「最も脆弱で危険」な存在である。リルケが提示する「救済のディスクール」が時を越えて現代人の魂に訴えかけるのは、読者に向けて言葉が発せられていた以上に、実は詩人自身に語りかけていたからであるとする解釈が、ハイデッガーの1949年の論考以来主流になってきた。『マルテの手記』に見られるような詩人の孤独と苦悩はリルケ自身の生き写しであり、彼の言葉には虚飾など存在しない――すなわち、「内容」と詩的「形式」が完全に一致している――と解釈されてきた。こうして、リルケ研究からはことごとく言語の修辞的構造への視座(リルケがどの程度「文彩」を意識していたか)が省略されてしまうことになった、とド・マンは述べる。リルケは、本当に彼の沈痛な「魂」を言語を媒介にして語っていたのだろうか?
 ド・マンのリルケ論は、彼の批評のアプローチを知る上での好例である。まず、彼は一般的な定説を取り上げ、その考えの中心に位置しているテーマが、本当に「破綻」していないか査読していく。その上で彼が注目するのはリルケのテクストの「表面」、すなわち一見「飾り」として「本質」からは遠ざけられる類の修辞的文面(文彩)である。ド・マンによれば、リルケには実質的に言って、「孤独な内面」など存在していない。もし彼に、詩人マルテのような悲愴な情態が実際に宿っているとしても、それは常に「アポロン的な戦略」によって、あらかじめ「読者」の「期待」を見越して計算され、潤色されている。こうした主張が明瞭に伝わるのは、ド・マンの以下のテクストである。

『悲歌』がメシア的詩篇として読まれるのは避け難い事実である。『悲歌』のテーマ的な主張すべてがそうした要求にお墨付きを与えているだけではない。そのような要求は比喩化の妙技に加勢されているのである。しかしながら、これらのテクストが主張する約束は言語の作用=戯れに基づくものであり、そのような作用=戯れは、詩人がテクスト外的な権威への要求を全て放棄しているという前提があって初めて生じ得る。詩作は、あらゆる文学に内在する逆説に従い、まさに真実への要求=権利をすべて捨て去った時、最大限の信服力を獲得するのだ。『悲歌』および『ソネット』は、リルケの修辞と彼の主張の真意が一致することを証明しようとする際の主要な証拠源になってきた。だが、リルケの比喩的言語という考え方は、彼の言説から真実への要求=権利を全て取り除いてしまうのだ。(p63)


 ここで、ド・マンは、リルケの『悲歌』が、「比喩化の妙技」、「言語の作用=戯れ」に本質を持つものであると述べている。否、それだけでは足りず、彼は全ての詩人の、一見切実に読者の魂に急迫するかに見えるテクストが、全て「修辞学的制度の産物」であり、「真理」とされるものは読者や批評家の期待や詩人自身の戦略によって「虚構」的に生成していることを暴き出す。何故なら、詩作は「真実への要求=権利をすべて捨て去った時、最大限の信服力を獲得する」という一文が示しているように、「真理」の本質はニーチェ論でも展開されることになる、真理の廃棄に、すなわち「虚構」に本質を持つからである。初めから真理を廃棄しているという前提に立っていれば、我々が言語的な「装飾」に費やす情熱は高まるだろう。ド・マンはリルケのテクストに内在する、まさにそうした「矛盾」を摘出している。「文学は批評と同様、常に最も厳密であり、それゆえ最も当てにならない言語であることを宣告されている(もしくは、そうであるという特権を与えられている)。そして、人はそうした言語によって、自らを名指し、変形するのだ」(p22)――これは、「最も当てにならない」言語を駆使して魂の「救済」を企てていた詩人リルケについての新しい視座の提示としても読み得るだろう。

【ニーチェ論】

 まずド・マンは、ニーチェがプラトン、アウグスティヌス、ルソーなどの「雄弁術」を取り入れた思想家の系譜に属していると位置付けている。「雄弁」は、偽ロンギノスが『崇高について』で述べたように、語りにおける民衆に与える喚起力、修辞的要素を重視する。すなわち、「雄弁」は「比喩」に帰属する。そしてリルケ論でも述べたように、彼は「比喩の構造」こそが言語の本質であると規定する。
 実はド・マンのこの見解を既にニーチェは以下のテクストで先取りしていた。

意識的な芸術装置を指し示す際に、「修辞的」と呼ばれるものが言語や言語形成においては既に無意識的な芸術装置として働いていることを証明するのは難しくない。更に言えば、明晰が悟性の光に照らして見ても、修辞とは言語に埋め込まれている諸装置の拡張=改善であることが証明されるだろう。参照点として使用可能な非修辞的・「自然的」言語といったものは存在しない。言語とは、それ自体が完全に修辞的な詭計や策略によって齎されるものなのだ。…言語とは修辞である。それが伝えようとするのはdoxa(ドクサ[臆見])だけであり、episteme(知識=認識)ではないからである。…文彩とは、意のままに言語に付け加えたり、言語から差し引いたりできるようなものではない。文彩は、言語の最も固有な本性を体現しているのだ。ある特別な場合にしか伝達できない本来的意味といったようなものは存在し得ない。(p138)


 言語がその本質において修辞であるとすれば、作者が意図したテーマの本質からいつの間にか逸脱して、比喩としてあくまで装飾的に用いられた表現が、いつの間にか前景化してくる、というような現象は往々にして起こり得ることになるだろう。ド・マンによれば、ニーチェのテクストはその比喩表現においてfoolishness(常軌逸脱)しているという。そのテクストは根本的にアイロニー的・アレゴリー的な性格である。
 

芸術が真実の正しい規範を設定する、というのは本当かもしれない。だが、「真実は殺す――更に言えば、(自らの礎が誤謬であると気付いている限り)真実はまさに真実自体を殺しているのだ」。哲学とは、したがって文学による哲学の破壊についての際限なき省察であることが明らかになる。この際限なき省察は、それ自体が修辞的な形態を有している。というのも、それは自らが非難する修辞的な幻想=欺瞞から永久に逃れられないからである。(p150)


「真実」とは何かについてのニーチェの見解は以下である。

それは、隠喩、換喩、擬人観などの動的な一群、つまりは人間的諸関係の総体であり、そうした諸関係は、詩的・修辞的に高揚・転用・美化され、長きにわたる反復的な利用の末、一民族にとって確固たる規範的拘束力を秘めたものと思われるようになったのである。真実とは、それが幻想であることが忘れられてしまった幻想、使い古されて感覚的な力を失くしてしまった隠喩、肖像が消えてしまって、最早貨幣ではなく単なる金属とみなされるようになった硬貨なのである。(p144)



「矛盾律は真実の基準を内包するのではなく、真とみなされるべきものについての命令を内包しているのである」(ニーチェ)。(p161)



 こうしたニーチェの真理概念について、ド・マンは以下のように述べている。

「矛盾を概念的に禁じることは、……概念は事物の本質を指し示すだけでなく、それを捉えるといった信仰から発している……」(ニーチェ)。この一節には、必然性から偶然性への換喩的脱構築と簡単に表現しうるような記号学的契機が明瞭に現れている。この一節が主張しているのは、ルソーとニーチェ双方にとって、概念化とは何よりもまず言語的=動詞的なプロセスであり、記号論指示様式と実体的指示様式、意味作用と把捉作用の置き換えに支えられた文彩に他ならない、ということである。だが、ここにあるのは数ある脱構築的仕草の一つに過ぎない。そして、それは内在的な理由というよりも、むしろ戦略的・歴史的な理由で選び取られているのである。(p159)



 ニーチェは「真実」を、それが「幻想」であると忘れさせてしまうような力を持った「幻想」、「矛盾律」、あるいは端的に「隠喩」に過ぎないと述べているが、『哲学者の書』では「芸術のみが唯一、〈真実〉を主張可能」だと告げていたのもまた事実である。無無論、この〈真実〉とは作者によって定立=仮定されたものであり、それ自体がドクサでもある。ニーチェのこのような、真理概念を「矛盾」として解釈する立場は、文学言語そのものが根本的に「疑わしい」ものであり、いかなる「真実」とされる主張も実は作者自身の「盲目」の産物であるというド・マンの見解と深く通底するものである。
 また、ド・マンは哲学上の「概念」も実はひとつの「文彩」であり、修辞的制度の産物であることを主張してやまない。哲学上の概念さえもが言語の装飾であるとする見解は、ブルデューが自身の社会科学理論を本格的に論じた『パスカル的省察』において展開されていた、あらゆる行為者の「眼」はハビトゥスの制度的産物であると捉える見方とも通底している。要するに、哲学上の「概念」は、哲学界において生産され、その他の諸界においても用いられることで象徴的な力を発揮する「固有名詞」なのであって、それはあくまでも人間によって仮設されたものに過ぎないのだ。文学の本質がレトリックにある、とド・マンが言う時、同時に含意しているのは文学を対象とする哲学の本性もまた然りであるということに他ならない。特にニーチェは、シュレーゲル以降のポスト・ロマン主義における「比喩」偏重の気風に強い影響を受けていることが確認されている。

相互に自己-破壊的な二つの矛盾した視点を許容し、全ての読みや理解の内に乗り越え難い障害を生じさせるという意味で、レトリックとは一つのテクストである。行為遂行的言語と事実確認的言語のあいだに生じるアポリアは、文彩と説得=雄弁術の間に生じるアポリアの一形態に過ぎないが、後者はレトリックの生成と機能停止を同時に引き起こすことで、レトリックの歴史を見かけだけのものにしてしまうのだ。(p170)


 ニーチェは「論理学」ですら、「真」の定立=仮定として把捉する。これは、「矛盾律は真理の基礎である」と『イデーンⅠ-Ⅰ』で述べたフッサールの見解と一致する。

「論理学は(幾何学や算術と同じく)、我々によって仮構された真実にのみ有効である。論理学は、我々によって定立された存在の図式に従って現実世界を理解しようとする試み、より正確に言えば、我々にとってそれをより定式化し易いもの、計算し易いものにしようとする試みなのである……」(p158)


己の非-在という真実に直面した自己は、炎に引き寄せられた虫けらの如く、その身を焼尽されることになるだろう。だが、こうした自己の消滅を主張するテクストの方は焼尽されることがない。テクストは依然として、そうした主張を生み出す中心であろうとしているからである。中心性の属性と自己の属性は、言語という媒介の中で交換される。自己を否定する言語を中心に据えることは、言葉の彩に過ぎないという自己の無意味さ・空虚さを確認させると同時に、自己を言語的に救出する。自己は、自己を否定するテクストの中に移し替えられた時、初めて自己として存在することができるのだ。(p145)


(ニーチェが先取りしている)行為遂行的言語と事実確認的言語の区別は決定不可能と言うほかない。一つのモデルから別のモデルへの移行を引き起こす脱構築の作用は、逆行=停止不可能である。しかし、それは、いくたび繰り返されようとも、常に宙吊り状態のまま留まっている。(p168)



【「読むことのアレゴリー」について】

 本書の「あとがき」に訳者の土田知則氏によるド・マンの批評の方法論の簡潔な記述があるので紹介しておく。

従来の文学研究は、テクストの内に中心的なテーマを仮構し、それを統一的な意味や論理に収斂しようと努めてきた(批評界の主流は今でもそうした実践に与している)。脱構築批評は、こうした統一的・総体的な読み方に真っ向から異を唱える活動だったと言える。つまり、言語やテクストに内在する逸脱的な諸力――レトリック、アポリア、パラドックス、等々――を前景化することで、テクストを脱-中心的、脱-総体的なものとして分析・読解しようとしたのだ。『読むことのアレゴリー』は、まさにそうした諸力に対する鋭敏な意識に貫かれた論文集である。…全ての論考に通底しているのは、あらゆるテクストは自らの「脱構築」を物語っている、というドラスティック(根源的、ラディカル)な考え方である。本書のタイトルが示唆するように、テクストは全て「誤読」や「読むことの不可能性」を物語る「アレゴリー」として捉えられているのだ。ド・マンの用いる「アレゴリー」というキー・タームには、あらゆる言語に内在する宿命的な機能が凝縮されている。ごく簡単に述べるなら、この用語には、言語が言語である所以、つまり言語は常に自らとは別のものを指し示す――むしろ、指し示さざるをえない――という性質が集約されている。この、常に自らとは別のものを指し示す、という言語の拭い難い性質は、言語が永遠に自らと一致しないという事態を必然的に予想させる。それは、言語の意味は決定的な意味に収斂することなく永久に先延ばしされる、ということに他ならない。(p397−398)


「ド・マンの方法論」

ド・マンはまず、個々のテクストの統一的概念やテーマと思われるものを抽出する。次いで、そうした概念やテーマがテクストに内在する逆方向の論理や主張によって転覆され、機能不全に追いやられてしまう瞬間を暴き出す。…このような現象は単語や文のレヴェルに留まるものではない。それは言語のあらゆる次元に及んでいるのだ。こうした意味の未決性・曖昧性は、必ずしもテクストの良し悪しを決定付けるものではない。…テクストが生産的な読みや再読を惹起し続けるためには、こうした曖昧性や矛盾はむしろ必要条件とさえ言えるだろう。一見、統一的なtexture(織物)に見えたとしても、テクストには織り糸のほつれを生じさせる契機――いわば脱構築的な瞬間――が常に潜んでいる。バーバラ・ジョンソン(ド・マンの高弟の一人)の言う「批評的差異」や「内的差異」は、まさにそうした契機・瞬間を捉えた表現である。テクストはテクスト自身と常に一致しない。テクストはその内部に自らとの差異を生じさせる因子を常に抱え込んでいるのだ。そうした因子が内在しないのであれば、意味、読み、解釈はそこで終結し、テクストは永遠に閉ざされたものになってしまうだろう。逆説的な言い方になるが、テクストのテクストたる所以は、それが十全な読みを許容しないこと、読者がいくら周到な読みを重ねても、それと抵触する読みが必ず出来してしまうことにある。テクストは自らの論理を帳消しにしてしまう力を常に内包している。中心、統一、決定的な意味といったものは、幻想としてしか成立しえない。「アレゴリー」という用語は、まさに読みの構造的な未決性・不可能性を示す――アレゴリー化する――ものとして機能している。つまり、「読むことのアレゴリー」とは、読むことの未決性・根源的な不可能性を語る修辞に他ならない。だが、修辞である以上、このキー・タームもまた単一的な意味に収斂することはない。ド・マンの持ちいる「アレゴリー」という概念は極めて特殊であり、修辞学本来の用語とは最初から偏差を来している。この用語の意味を一つに還元するのはおよそ不可能と言うべきだろう。テクストに内在し、そのテクストを内側から切り崩す因子、テクストの統一性に対立・抵抗し続ける力。我々は、とりあえずそれを「アレゴリー」という語のイメージとして捉えておくことにしよう。(p398-399)


「anacoluthon(アナコルソン)」

ド・マンは「アレゴリー」以外にも、幾つかの修辞学用語を駆使している。あまり注目されることはないが、中でも重要と思われるのが、anacoluthon(アナコルソン)である。この用語は文章の統語構造に見られる分裂・破綻を意味する。…ごく簡単に言えば、頭と尻尾のあいだに統語的・文法的な齟齬が生じることで、文が文としてのまとまりを喪失してしまう現象が「アナコルソン」である。このように、二つの正しい文や命題が並列的に提示されることで論理の矛盾・壊乱が生じるという事態は、「アレゴリー」の機制にどことなく類似している。言い換えるなら、一つの文の中に互いに相容れない論理が出来することで、その文の意味や真意が宙吊りにされてしまうというアナコルソン的な事態は、まさに脱構築的な契機(「内的差異」)そのものを示しているのだ。更に言えば、ド・マン自身の文章にも「アナコルソン」あるいは「アナコルソン」すれすれの表現がしばしば確認される。ド・マンが意図的に破格構文を使用したと考えるのは行き過ぎかもしれないが、彼のエクリチュールには、自身の言語観を映し出すようなちぐはぐな文章が幾つも散りばめられている。つまり、多少とも穿った見方をするなら、ド・マンは自らのアナコルソンめいたエクリチュールによってテクストのアレゴリカルな機制を行為遂行的に提示している、とも解しうるのである。(p399-400)






「付記」

ジョン・オースティンの『言語と行為』から。

※「行為遂行的(performative)発話」について

「明日、君に借りていた本を返すよ」、「それでは、会議を始めよう」などという発話には、まだ現前してはいない出来事の到来が予告されている。つまり、発話の内部にその行為を遂行するというforce(力)が存在する。行為自体は未だ可能態のままだが、発話内には約束によって来るべき出来事を予告する力が存在し、これを発話内行為(illocutionary act)という。行為遂行的(performative)発話は、発話内に込められた力に対して、行為者が実際に約束を守るか否かが評価基準になる。

※「事実確認的(constative)発話」について

「その本は三ヶ月前に刊行された」という発話は、行為者が捉えた事実を平叙的(constative)に述べるものであり、こうした発話を「事実確認的(constative)発話」という。この場合、その本が本当に三ヶ月前に刊行されていたのかという、真偽の程が評価の対象となる。





読むことのアレゴリー――ルソー、ニーチェ、リルケ、プルーストにおける比喩的言語読むことのアレゴリー――ルソー、ニーチェ、リルケ、プルーストにおける比喩的言語
(2012/12/22)
ポール・ド・マン

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