† ポール・ド・マン †

ポール・ド・マンのpara-figural dimensions(パラ−フィギュラルな次元)について

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by Steve Hanks

【パラ-フィギュラルな海辺への旅】

 誰もいない、静謐な夏の夕暮れの波打ち際を歩いている。
 我々はその体験を「純粋に」表現することができるだろうか? 
 いかなる比喩化、イデオロギー化の権力にも抗して、純粋にありのままの海辺の姿を文字で表現することができるだろうか?

 晩期ド・マンの名高いmateriality(物質性)の概念は、『美学イデオロギー』に登場する。ウォーミンスキーを引きながら土田氏は、「美学や美的なものというカテゴリーは、“厳密な哲学的言説が…自分自身を一つの体系として、すなわち一つの論理として完結させようとするとき”に決まって持ち出す常套手段と化している」(p119)と述べ、「美的なもの」を美学という体系化・イデオロギー化された言語装置によって全て還元的に解釈してしまう立場を批判している。これは、ド・マンの「美学」に対する前提となるアプローチであり、極めて重要である。ここで彼が批判しているのは、例えば18世紀のドイツ美学でラディカルに議論された「美的範疇論」のように、美的なものを「美」、「優美」、「悲愴」、「崇高」、「滑稽」、「醜」という図式化された六角形に還元してしまうような「スコラ的性向」(ブルデュー)を指している。ブルデューもまた、哲学という〈界〉が産出する様々な「概念」が、行為者の認知構造を占有してしまうプロセスに鋭敏な自覚を持っており、こうした性向が時に理論をまだ学んでいない人々にふるう権力を「象徴的暴力」と表現している。
 土田氏はこうしたaesthetic ideology(美学イデオロギー)が有する暴力性について、以下のように述べている。

つまり、美学イデオロギーとは、「美なるもの」を比喩的なものの領分に閉じ込める一方で、この「美なるもの」という概念そのものがまさに言語によって比喩的に仮構(物語化)されたもの――作り物――に過ぎないという事実には盲目であり続ける態度のことなのだ。(p120)

 
 美学イデオロギーの持つ欺瞞を暴き出すための概念としてド・マンが提起するものが、先述したmateriality(物質性)である。正確には、the prosaic materiality of the letter(文字の散文的な物質性)と呼ばれるものである。ド・マンのマテリアリティーについて、土田氏は以下のようにヒリス・ミラーを引きつつ解説している。

ヒリス・ミラーがここで言おうとしているのは、名前(固有名)という最も身近でかけがえのないものも含め、通常、何らかの意味を有していると信じられている語や音には本来何の意味も備わっていない、ということである。要するに、意味とはどこまでも無機質な文字(「文字の散文的な=味気ない物質性」)や音の上に恣意的に刻み込まれる「物語」――すなわち虚構あるいは幻想――のようなものに過ぎない、ということである。(p127)


 我々の持つ名前にすら、本来「何の意味も備わっていない」と土田氏が説明しているように、これは「記号表現」と「解釈項」の結合したシステムが、本来人間の認識が作り出している「幻想」であることを示唆するものである。つまり、前回のページでも紹介したように、「〒」を「郵便マーク」であると縄文時代の少年がみなせないのは、こうした意味の体系を認識していないからである。言い換えれば、日本語について何も知らない未開の原始部族の人々に、「〒」の記号を見せた時、ド・マンの言う意味での「物質性」に接近するのではないか、という考えが成立する。土田氏は更に以下のように、マテリアリティーの概念を深く掘り下げるだろう。

マックィランの例を借りて、より具体的に述べるなら、我々は本来的にはいかなる意味も持たないはずのf,i,s,hという文字=物質の集合体に「魚」という意味を恣意的に書き入れ、「魚という比喩全体を幻想として経験している」に過ぎないのである。(p128)


 今や、我々の胸に迫って来る「記号」の無機質な、それ故圧倒的なまでの「物質性」。
 「愛」という言葉が幻想であると言われる時、それは単に我々が経験する恋愛での局面が往々にして悲劇的な終幕を迎えることのみを含意しているだけではないだろう。「愛」というこの言葉だけで、果たして恋愛の多種多様な感情様態を総称することができるだろうか? この、「愛」という圧倒的な記号性=物質性だけで、果たして我々の恋愛が語り得るだろうか?
 記号の物質性に自覚的であることで、「愛」や「正義」、「神」、「悲しみ」、「幸福」などという記号に込められた「意味」もまた我々自身の言語体系の構築物であるということが判然とするだろう。男女が自然に惹かれ合い、あるいは冷酷な運命に抗って相思相愛に至るまでのドラマを、我々は一つの文脈に一般化して「愛」をテーマにしていると言い得るかもしれない。しかし、それは大自然の平原に、「草花」、「草叢」、「葉」、「緑の絨毯」……などと様々な表現を駆使しても、究極的には「記号表現」がいたずらに増殖するだけで「それ自体」を完璧に表現し尽くすことなど本来的に不可能であることを物語るだろう。要するにド・マンは、記号のこのような無慈悲な物質性という現実を、極めてナイーブに、かつ敬虔に受容しているということである。
 土田氏によれば、ここでド・マンが言語の冷たいマテリアリティーに対して登場させるのが、「出来事」という重要な概念である。そしてこの「出来事」という概念は、「意味賦与」以前の純粋な指示対象の本来的な現存を意味している。

ド・マンは「出来事」を認識の外部に闇雲に到来する事態として思念し、それを自らthe thought of material occurrence(物質的な到来の思想)と呼んでいる。つまり、「物質的な到来」とは「美的判断による現象的な認識」、すなわち言語による指示作用や比喩化・象徴化とは絶対的に無縁な「出来事」、有機的な全体化に抗し続ける無機的な力として言いようの無いものである。レイ・テラダの卓抜な表現を借りるなら、ド・マンにとって言語の物質性とは、美学および美学イデオロギーの完成を拒む「X」――未知(数)、予測し難い力――ということになるだろう。(p123)


 ここで注意しなければならないのは、土田氏の解釈によれば、ド・マンにとって「物質性」がネガティブに捉えられているわけではないということだ。「物質性」は、「純粋な物質性」を「出来事」と結んで把捉している文脈からも判るように、いわば「意味」を脱ぎ去った「悟り」の境地のようなものである。いわば、ド・マンは「空を解釈するのではなく、空そのものをただ純粋に見るのだ」と我々に教えているのであり、空が持つ本来的な「美的なもの」の核心に、彼は「純粋な物質性」を見出しているのだ。したがって、「記号表現」の持つ「物質性」と、大自然が持つ本来的な美しい「純粋な物質性」を分けて捉えなければならないだろう。
 注意深く、土田氏の以下の「物質性」の概念の要約部を読んでみよう。

ド・マンにとっての問題はもっと別のところにある。要約的に述べるなら、「有機的統一」という総体的な原理のもと、本来出来事的なものであるはずの美的なものを筋の通った「物語=虚構」のうちに恣意的――暴力的・権力的――に回収してしまうこと、そしてそれをあたかも自然なものとして無自覚に提示・表象してしまうこと、それが問題なのである。したがって、ここで言われている「現象性」とは、手当たり次第に出来する物質的な出来事を有機的に関連づけ、それぞれの目的に見合ったお手盛りの「物語」を現出させることを誘導する概念ということになるだろう。つまり、それはド・マンにとって、美的なものの核心にある「純粋な物質性」と抑圧・隠蔽してしまうことになる問題含みの概念でしかないのである。(p132)



steve-hanks (37)[2]
by Steve Hanks

 大自然に広がる青空を、「思わず海辺に向かいたくなるような爽やかな青空」という記号で指示した時、この記号表現はシニフィアンであるが、指示対象そのものであり「意味の零度」として広がるそもそもの青空自体は、レフェランである。ド・マンは記号による比喩化・象徴化の作業が「物語」を作り出してしまうことを「現象性」と呼称し、青空そのものの自然な姿を「純粋な物質性」と表現している。つまり、「物質性」という概念は、ここでは自然本来のあり方をピュアに示したキータームとしての役割を持っていると考えられる。だとすれば、「記号の物質性」と、美的なものの核心にある「純粋な物質性」では、いわば使い方に二重化が起きているのではないだろうか。
 ここで活きてくるのが、デリダのド・マン論で展開されている「物質性」の解釈である。デリダは以下のように述べている。

…物質性とは物ではなく、感性や知性で把握できる何かではないし、身体の物質でもないのです。物質性とは何かでも、何物でもなく、かの作用=結果であり、働き、強制するrien(無)であり、抵抗する力であるのです。これは美しい形式にも、実質的で有機的な全体性としての物質にも抵抗するものです。(p122)


 土田氏によれば、実はデリダもド・マンにおけるこうした「文字の物質性」と「視覚や聴覚によって感知されるような物理的な基体」=「純粋な物質性」を厳密に区別しようとしている、と述べている。そして、デリダがこの後者の物質性――すなわち「純粋な物質性」――の方を、言語とは無縁な「出来事」、あるいはrien(無)と相関させているという点は極めて示唆的である。いかなる美学イデオロギー、美的修辞にも抵抗する、そのものの本質としての物質性=テクストとは、一体どういうことなのだろうか? ここで我々なりに、デリダのこの区別を踏襲してド・マンの「物質性の二重性」に込められている(であろう)意味の「階層」を図式化しておこう。それは以下のように表記されるはずである。

「文字の物質性」…全ての記号表現は、指示対象とは本来何の関係もない。海で泳ぐ魚たちは、人間から単に「魚」と呼ばれているに過ぎない。

「純粋な物質性」…海で泳ぐ魚たちは、言語の外で瑞々しく生きている。人間がどれ程美しいレトリックや美学理論を駆使した解釈を与えても、魚たちは「純粋さ」を備えた物質性として、そこに存在する。ド・マンの言う「物質性」は、「どんなに曖昧化させイデオロギーによって変形させようとしても…美的判断による現象的な認識に変えることはできない」(p121)ことを含意しているので、それは「純粋な物質性」を指示していると考えられる。


 上記の例では「海で泳ぐ魚」たちが「純粋な物質性」、あるいは「出来事」として使われているが、これを名状し難い「失恋」の体験とか、言語の絶対的な外部にしか位置付けられないほどの「恐怖」の体験などとして想定しておくことも可能である。つまり、「純粋な物質性」とは「出来事」なのだ。出来事は、言語による物語化が起きる前に我々を襲う。我々が「出来事」を文字によって解釈したり、様々な比喩を用いて表現することは可能であるが、「出来事」自体は永久に「語り得ぬもの」として、一回性の人生の中の結節点として、記憶に刻み込まれる。例えば、永久なる別れの風景で女性が相手の男性の横顔を、じっと静かに無言で見つめているのを感じている彼の心情――それは、いかなる言語を駆使しても、何か呈の良い記号表現に回収されてしまうものではない。「出来事」とは、オペラのようにあらかじめ台本が決まっているものですらない。何故なら、デリダが先述したようにそれは「感性や知性で把握できる何かではない」し、「強制するrien」としての性質をも帯びているからである。
 「強制するrien」として到来する出来事は、永久に言語化を拒み続けることになるだろう。出来事によって開いた「傷」を書こうとしても、我々が使う言語は「出来事」の上を滑っていくだろう。それは、まさに「出来事」が持つ冷酷なまでの「純粋な物質性」の開示に他ならない。ド・マンは「出来事」に、必ずしも「美しさ」という意味を纏わせてはいない。むしろ、それは「偶発的なもの」であり、突然の悲劇的な出来事や苦悩の地平にも開かれているのである。
 
 出来事の持つ「純粋な物質性」を抑圧し、それを修辞化ないし理論化されたコンテクストで抑圧・排除(つまりイデオロギーに変形)する装置――それがド・マンのいう「美学イデオロギー」である。無論これはド・マンの「アレゴリー」、「物質性」などの概念にも妥当することであり、彼もそれを自覚していた。いかなるイデオロギー化も受けていない「非現象的な読み」、「非美学的な読み」こそ、ド・マンがmere readingと名付けた読み方である。その志向性があって初めて、我々は初めて純粋な文字の物質性を見据えようとする視座を獲得するだろう。mereの持つ「純粋な」という意味の重要性は、マックィランの以下のテクストにも表明されている。「fishという語の〈意味〉は、それを構成する文字f,i,s,hのどの中にも存在しない」。
 こうして土田氏は、para-figural dimensions(パラ−フィギュラルな次元)について言及する。paraとは「〜に反する」、「〜に防ぐ」の意味で使われている。つまり、パラ−フィギュラルな次元とは、「比喩的なものに反する」読み方(あるいは書き方)を指しているのであり、それはいわばmere readingを示唆する表現である。

steve-hanks (45)[2]
by Steve Hanks

 海辺がある。
 僕らの前に、静かな波打ち際が広がっている……。
 砂浜に古い砂時計が転がっている。


 例えば、パラ-フィギュラルなエクリチュールによって「海辺」を表現することはできるだろうか? 比喩化に抗って、海辺を単純に美化してしまうというありがちな美学的判断に反して、ただ、海辺を、純粋に(mere)、表現することが我々に求められているのだろうか……?
 目下、我々にとって重要な定式は、再三土田氏も繰り返しているように、「言語の指示機能は否応無く逸脱せざるを得ない」(ウォーミンスキー)ということである。そしてこの定式は、パース記号学における「解釈項の連鎖」から解釈することができる。言語は常にシニフィアン/シニフィエという一対一対応関係で把捉することなどできず、常にこの結合は「齟齬」を来すという事実をより合理的に理論化したのは、ソシュールよりもパースの功績が大きい。「記号は、自分が何を言おうとしているのかについては、実際には何も言わない」と、ド・マンは述べている。
 ここで、「AはBである」という図式が存在する。土田氏によれば、「指示対象であるBに何を据えても原理的にはまったく〈自由〉である」という。何故なら、シニフィアンとシニフィエは先述したように、一対一ではなく、常に一対多にならざるを得ないからだ。そして、人はBに恣意的な意味賦与を施し、そこに「権力」を宿らせることも可能である。これを土田氏は「記号の占有」、ないしド・マンの表現を借りてagent of appropriation(領有行為の担い手)などと表現している。意味賦与による〈界〉内での「支配の正当化」(ブルデュー)のことを、ド・マンは「美学イデオロギー」と表現した。言語が行使する権力への分析という点で、ド・マンとブルデューは驚く程一致点が多い。
 ド・マンもやはりブルデューと同じく、Augenschein(眼にそのまま映じる眺め)という、ある種の素朴で純粋なauraの体験を再評価していると考えられる。
 




ポール・ド・マン――言語の不可能性、倫理の可能性ポール・ド・マン――言語の不可能性、倫理の可能性
(2012/12/22)
土田 知則

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