† ジャック・デリダ †

エジプト神話を読むデリダ、あるいはPharmakeia(パルマケイアー)について――ジャック・デリダ『散種』所収「プラトンのパルマケイアー」


散種 (叢書・ウニベルシタス)散種 (叢書・ウニベルシタス)
(2013/02/20)
ジャック デリダ

商品詳細を見る


 このページ以降、刊行されて以来Twitter上などでも目を見張るほどの注目を浴びている初期デリダの重要著作『散種』についての記録を残す。デリダの存在は、『思想』(2013年7月号/岩波書店)で本格的なポール・ド・マン特集が組まれたことと相関して、いよいよ二十一世紀初頭の現代において重要になりつつあることは周知の事実である。翻訳が困難な怪物的著作と目されていた本書が、訳者の鋭意によって原書出版(1972年)から四十年の歳月を経てようやく刊行されたという事実が、現代でも本書に寄せられる若い読者層から研究者まで含めた圧倒的な関心の巨大さを物語っている。文学に携わろうとする者にとって、本書を読解することは最早必須のイニシエーションであると言っても過言ではない。
 以下にまずまとめるのは、本書収録の重要論文「プラトンのパルマケイアー」についての第一回目の読解記録である。記録を残すに際しては、私以外の読者も読み返して理解し易いようにできるだけ工夫して整理している。

【Pharmakeia(パルマケイアー)とは何か?】

 Pharmakeia(パルマケイアー)とは、pharmakon(パルマコン)とも表記され、「治療薬かつ/毒薬」を意味する。単に「薬物」と訳されることもあり、複数形は「パルマカ」である。それは一種の物質でもあるが、プラトンは『パイドロス』の中で以下のようにソクラテスにこの言葉を使わせている。それはパイドロスが都市から逃げ出せる機会についてソクラテスに示した時に、彼に対してソクラテスが言った言葉に用いられている。――「どうやら君は私を外へ連れ出すpharmakon(薬物)を発見したようだね!」。パルマコンという単語については、デリダも翻訳の困難さに言及している。「治療薬」、「毒薬」、「薬」、「媚薬」等々とこれまで訳されてきたパルマコンは、本質的に「翻訳の恐るべき還元不可能性」を示唆する単語なのである。まず、意味の一義的決定を拒絶するこうした単語が本論において重要な概念として機能していることを指摘しておかねばならない。

【エクリチュールの起源としてのテウト神話】

 プラトンがソクラテスに語らせた伝承によれば、エジプトのナウクラティス地方の古い神々の中に、「イビス」と呼ばれていた聖なる鳥が存在したという。この鳥自身には名前があり、それを「テウト」(古代名:ジェフゥティ、メヒ[Mhy]/ギリシア名;トゥート、トート、テウト/別称・別綴り:フランス語・ドイツ語Thot、新バビロニア語Tihut)という。テウトは人間文明の基礎に当たる様々なアール(技術)を発明した最初の神であるばかりか、「智恵」、「時間」、「法律」を司っている。彼に与えられている神としての称号は、「真実を書くもの、神々の書記、時の主人、選別するもの」である。発明したものとしては、例えば「幾何学と天文学」から、「将棋や双六」といったゲームまでに及ぶ。中でも特筆すべきは、grammata(エクリチュール/文字)の発明であった。
 その頃、エジプト全土は「タモス」という国王が統治しており、彼は「アンモン(太陽神ラーの別名)」を信じていたとギリシア人たちは伝えている。ある日、タモスに会いに行ったテウトは、そこで自らのアールを披露する。テウトは自信に満ちてアールを紹介したが、タモスは逐一それぞれのアールの有益な点、あるいは無益な点について賛否を下した。事が「文字」にまで及んだ時、ソクラテスはテウト神の口振りを真似ながら以下のように述べている。

「王様、この文字というものを学べば、エジプト人たちの智恵は高まり、物覚えはよくなるでしょう。記憶力と智恵はそのpharmakon(パルマコン)を見出したのです」(p113)


 同じ箇所を藤沢令夫氏は以下のように翻訳している(ギリシア語対訳)。

“τοῦτο δέ, ὦ βασιλεῦ, τὸ μάθημα,” ἔφη ὁ Θεύθ, “σοφωτέρους Αἰγυπτίους καὶ μνημονικωτέρους παρέξει: μνήμης τε γὰρ καὶ σοφίας φάρμακον ηὑρέθη.” ὁ δ’ εἶπεν:

「王様,この文字というものを学べば,エジプト人達の知恵はたかまり,物覚えはよくなるでしょう。私の発見したのは,記憶と知恵の秘訣なのですから。」——しかし,タモスは答えていった。



 デリダはここまでのテウト神話の断片について、まずエクリチュールが王へのプレゼント、捧げ物として登場している点に注目する。また、タモスが崇拝していたアンモンは、アモン・ラーと表現される場合があり、その場合「アモン」とは「隠されたもの」を意味している。エジプト神話によれば、テウトはラーの「創造」の企てを、「言語」によって執行する神として位置付けられてる。デリダはここからテウト神を、「シニフィアン(意味するもの)の神」と呼ぶ。プロセスとして、まず太陽神ラーが「命令」を下す。それを、ラーのスポークスマンである月神テウトが「表象」(言語化)するという図式が浮上するわけだ。
 デリダがこの二神について展開している解釈を、我々は以下のように記憶し易い形でまとめておこう。

「太陽神ラー」

・命令は「パロール(発話)」で行う。

「月神テウト」

・ラーの発した命令を「エクリチュール(書く行為)」に変換する。その際、テウト自身が創造した「ヒエログリフ文字」を使用する。
・ラーが「不在」の時、あるいは「消滅」した時はテウトがラーの「代理」の役を担う。


 上記の二神のそれぞれの特徴を分析しつつ、デリダは「月」が「太陽」「~の代わりに」なっていることを発見する。この、「~の代わりに」という月神テウトの位相こそが、デリダの名高い「代補」(supplément)を知る上で極めて重要な図式である。テウトはラーのパロールをエクリチュールによって「再現前」させている。つまりテウトは、「シニフィアンの神」であり、「代補の神」、「再現前の神」というそれぞれの特質を有することが浮き彫りになる。特にデリダが注目するのは、「~の代わりに」というテウトの機能である。デリダは以下のようにこの謎めいた神の仕事を分析している。

二次的な言語活動の神であり言語的差異の神であるトートが創造的発話(パロール)の神になることができるのは、換喩的代替によってのみ、歴史的な転位によってのみ、そして時には暴力的な転覆によってのみである。例えば、この代替は、太陽の代わりに月を置くように、ラーの代わりに(ラーのいるべき席に)トートを置く。かくしてエクリチュールの神はラーの代理人となるが、それは自らをラーに付け加えることによって、ラーをその不在と本質的な消滅において代理することによってである。以上が、太陽の代補としての月の起源、昼の光の代補としての夜の光の起源である。パロールの代補としてのエクリチュール。(p136)


 ここで我々は急ぎ足で『コーラ』との接点について触れておくことは可能だろうか? というのは、本論でデリダが月神テウトに自身が駆使する戦略素の神格化を見出しているのはまず間違いないからである。いうなれば、太陽神の「権力」に対する従属的な神として、「月」、「エクリチュール」が位置付けられている、とデリダは考えている。太陽はいわば父性、ファルス(男根)、ロゴス中心主義的な意味を孕んでおり、月は女性的で、常に太陽の声に忠実に従う付帯者としての意味を帯びている。『コーラ』でも、実はデリダはこの概念化不可能、翻訳不可能な名状し難い言葉を、はっきりと一人の「女性」として「イメージ」している。月神テウトが女神であるか男神であるかに関与せず、我々はデリダの「代補」機能そのものにある種の「女性的イメージ」の香りを嗅ぎ取ってしまうことを認めねばならない。そこには、実は巧妙にクリプト化されている性差の新たな象徴的配置が窺えるのであり、こうした思考の力動性、あるいはセクシュアリティは、デリダ自身が無自覚であればある程、読者にいっそう強く「テウト」=「抑圧された女性」を救い出さねばならないという、ある種の預言者的パフォーマンスを感じ取らせることになるだろう。
 デリダは無論、エジプト神話学の専門家ではない。彼はA.エルマンの本を参照しながら、月神が太陽神の「代理」であり、ある種の「言葉遊び」から生み出されたことを強調する。これらの引用は、全て「~の代わりに」、すなわちシュプレマン(付け足し)、オードブル(前菜)、あるいはデザートなどとも比喩化されている「代補」の戦略素を前景化するために機能している。

ラーが空に存在していたあいだ、ラーはある時こう言った。「トートを私のところへ来させなさい」と。即座にトートがラーのところへ連れて来られた。壮麗なこの神はトートに言った。「私が下方地域の幸運な人々のために光輝くあいだ、私の代わりに空にいるように……。私の代理人よ、お前は私の代わりに存在するのだ。そしてひとはお前のことを、トート、ラーの代理者、と呼ぶだろう」。それからラーの言葉遊びのおかげで、あらゆる種類のことが起きる。ラーはトートに言った。「お前がお前の美しさと光明によって二つの天を腕の中に抱く(ionh)ようにしよう――すると、月が生まれた(ioh)」。さらに先のところでは、トートがラーの代理者として多少劣った位を占めるという事実に触れながら、次のように言われる。「お前がお前よりも偉大なものを発送する(hob)ようにしよう」――すると、トートの鳥であるトキ(hib)が生まれた」(p137)


 ここで興味深いのは、ラーが明らかに「言語遊戯」に耽りながらテウトの諸能力を策定している点である。上記で示されているように、テウトがioh(月)の支配者になったのは、ラーの権能によってテウトに二つの天を腕の中にionh(抱く)力が賦与されたからである。直言すれば、テウトが支配する「月」は、「抱く」という動詞から生成しているのである。そればかりでなく、テウトを象徴する聖なる鳥であるhib(トキ)も、hob(発送する)から閃かれている。つまり、ラーの話す台詞の気まぐれなコンテクストの中から、テウトの諸能力が賦与されているわけである。
 整理しよう。ラーは「王」、「父」、「太陽」だけでなく、「パロール」をテウトに委ね、それをエクリチュールに変換させる力を持っている。他方で、テウトはそれらを「代理表象」させ、「仮面」を付けて振る舞い、ラーを「反復する」という行為からしかラーとは区別され得ない神である。いうなればテウトはいつでもラーの権能を担う準備ができており、かつ、絶対者の側近として透明化しているのである。テウトにとって、ラーは「第二の自己」である。テウトはラーと自己を区別しながらも、常に彼を模倣し、この他者のシニフィアン(意味するもの)として権能の「代理表象」を行い、ラーに従属し、かつ自らを常にラーの鋳型に合わせて組成させ、その身代わりになる。こうしたテウトの、あたかも影絵の如き性格から、デリダはこの神を「父(ラー)の他者」、ないしは「交代の転覆運動」そのものとして概念化する。デリダにとってテウトは「エクリチュールの神」、「シニフィアンの神」などと呼ばれ得るが、その性格は既に述べてきたように「ヘルメスのように狡猾で、捉え難い」ものであり、王の仮面を被ることを好み、その役割をいつの間にか自分のものにすり替えようと企図してもいる隠謀家ですらある。我々は先述してテウトはデリダにとって男性的ではなく、むしろ女性的であると指摘しておいたが、デリダ自身も、やはりテウトを「ジョーカーのような存在」であり、「中性的なカード」であると表現している。ここでレトリックとして用いられている「ジョーカーのカード」は、デリダにおけるテウトのイメージとして極めて重要である。何故なら、この「ジョーカーの身振り」は、本論を含め他二篇を収録した本書『散種』全体のエクリチュールのパフォーマンスを指示する表現でもあるからだ。
 デリダの思想の中枢に位置する最重要概念であり、非−概念的な戦略素でもある「代補」の起源を文学に、あるいは神話に求めた場合、エジプト神話のテウトにまで遡及する。テウトはまさに「代補の神」である。あるいは、デリダが自身の理論的戦略を、プラトンを媒介にしつつテウト神に「意味賦与」しているといえる。
 ここでテウトがタモスに提言した贈り物のエピソードを想起しよう。テウトは確かに、「文字」をpharmakon(パルマコン)として――すなわち「治療薬にも毒薬にもなり得る薬物」として差し出している。「文字」とはアンビバレントなプレゼントとして、あらかじめpharmakonという単語を用いたテウト自身によって予告されていたのだ。では、エクリチュールが「毒薬」になる、すなわち仇になる側面とは具体的に何であろうか? プラトンによれば、エクリチュールは「ヒュポムネーシス(再記憶)」するための手段にとしては便利で合理的なのだが、「ムネーメー(生き生きした記憶)」にとっては効果をあまり発揮できないのだという。確かに、二年前に書いたテクストを読み返す時、我々はその当時の文面について、あるいは書きながら揺り動かされていた感覚様態などについて、「生き生きした」息吹を「追認」することしかできない。それも、文字で表現する場合、言語的な本性によって必然的に比喩化=審美化が生じて、当時の出来事を無意識裡に「脚色」するというような事態が常に起こっていることを踏まえれば、まさにプラトンの言う通り当時の一瞬の「生き生きした記憶」を「再現」する力は文字では弱いと言わざるを得ない。こうしたエクリチュールの本質をネガティブに捉えれば、テウトはラーのパロールをエクリチュールに置き換えてしまうことで、「生きた言葉」を単なるシニフィアンに、ポール・ド・マンの言う「マシン」に失墜させてしまうということになる。
 ここまで辿り着くと、我々はデリダがなぜそもそもエジプト神話のテウト(デリダがこの神を「ヘルメスの原型」と捉えている点にも注意しよう)に注目したのかの真意を掴むことになるだろう。それは、単にプラトンが『パイドロス』で印象深くソクラテスに「エジプト」という起源の土地を語らせていたというだけではなかったわけだ。デリダ自身が生涯をかけて考察した最も大きなテーマの一つは、言うまでもなく「エクリチュール」であった。テウト神話は、まさにこの「エクリチュールの起源」とは何かを知るための鍵となる物語だったのである。我々は太陽神ラー、月神テウトについてそれぞれの特徴を先に簡略化して示しておいたが、今やそこに新たに以下の要素を書き込むことが可能になった。

「太陽神ラー」

・命令は「パロール(発話)」で行う。
・ラーの声は常に「ムネーメーあるいはプシュケーの〈生きた現前の中〉にある」

「月神テウト」

・ラーの発した命令を「エクリチュール(書く行為)」に変換する。その際、テウト自身が創造した「ヒエログリフ文字」を使用する。
・ラーが「不在」の時、あるいは「消滅」した時はテウトがラーの「代理」の役を担う。
・テウトの連れの女神であるセシャトは、「図書館の女主人」として、「書く女」を意味する。
・テウトはラーのパロールを「ヒュポムネーシス(再記憶)」し易いようにエクリチュールで表現する。いわば、ラーの生き生きした霊的な息吹の宿った声を、「記念碑」化し、いつでも「復元」可能な状態に保存する。その上でテウトはヒエログリフ(文字)を用いるが、エクリチュールというそれ自体で閉じた言語体系を採用する限りで、そこには常に記憶の「捏造」が生起するだろう。換言すれば、テウトは実際に起こった「出来事」に、催眠術をかけているのだ。


 こうして、エジプト神話の宇宙創世論にも巣食っている「音声(パロール)中心主義」が完成する。テウト=エクリチュールは、本質的なそのパルマコン(記憶に便利な治療薬としてのプラスの側面と、出来事を比喩化=審美化によって捏造する毒薬的なマイナスの側面)を露わにした。エクリチュールは、生の出来事を常に誤って、歪曲化して、虚構化して、仮面を被らせて伝えてしまうのである。デリダがテウトについて言及する前に、既に本論でこの定式の伏線が張られていることを見落とすべきではない。

書かれたものと真なるものの両立不可能性は、いかに人間が快楽によって自己自身の外に置かれてしまうか、歌の悦楽の中で自己自身に不在となり、自分を忘却し、死んでしまうかについて、ソクラテスが語り始める瞬間にはっきりと告知される。(p101)


 同時に、テウトは「王」であるラーの権能を「代理」しつつも「王」に非ず、というまさにメディウム(媒介項)的で中性的な神的性格をも開示してみせたことになる。
 テウトの「毒薬」としての性格は、『グラマトロジーについて』を脱構築批評の最良の成果とみなすポール・ド・マンの言語観と一致している。ド・マンにとっても、言語とは本質的にその「意図」が伝達不可能なものであり、テクストを「読む」行為もまた常に既に「誤読」であると規定された。言語のこのような構造的原理を、彼は「何か別のものを指し示す」というクインティリアヌスの「記号」の定義と完全に同じ意味を採用しつつ、ギリシア語源に忠実な形で「アレゴリー」と名付ける。ド・マンにおける言語のアレゴリカルな機制とは、まさにデリダのテウト=エクリチュール=パルマコン論と共通する同じ円周上の軌道を巡って展開されているのである。
 テウトのジョーカー的な身振り。エクリチュールの有する本質的なパルマコン。それに自覚的になった上で、なおデリダはいかなるエクリチュールが現代において可能であるかを自らに問い続けた。以下の『パイドロス』でのソクラテスの問いかけは、そのままデリダの困難な絶え間ない問いかけの前奏曲だったのだろう。

「…しかし、書くことは作法に適ったことなのか、それとも無作法なことなのか、書くことがなされても良いのはどのような条件においてなのか、書くことが救いとなるのはどのような条件においてなのか、これこそ我々に残された問いだということ、これは本当ではないかね」(p110)



※「タモス」
モーツァルト二十代初期(1779年)の未完の作品に『エジプト王タモス』(K.345)という付随音楽ある。「太陽」と「夜」の対立という図式で、フリーメーソンの思想を具現化したオペラ『魔笛』が作曲されたのは1791年である。




















関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next