† ジャック・デリダ †

なぜ今、現代思想においてデリダの「散種」(ディセミナシオン/Dissémination)が重要か?――ジャック・デリダ『散種』読解

Hedi_Slimane_1513.jpg
Hedi Slimane 1513


 初期デリダの代表作の一つであるフィリップ・ソレルス論「散種」を読了したので記録を残す。表題作を含むデリダの『散種』は哲学書として極めて特異な形式で書かれており、本質的に一義的かつ単線的なリーディングを拒絶する性質を持っている。とはいえ、注意深く読むとやはり骨格となるような共通するデリダのメッセージが見えてくる。以下にそれをまとめておこう。

【ディセミナシオン(Dissémination)】

 『読むことのアレゴリー』の翻訳者である土田知則氏は『ポール・ド・マン』(岩波書店)の中で、デリダもド・マンも共に「テクストの外部は存在しない」というある種のテクスト至上主義の見地に立っていると述べている。テクストの外部がない、というのは、我々のこの書物からは独立した周囲の環境も含めて全てが言語的な生成物であり、我々がそれらを知覚するための認知構造にまで根深く言語が浸透している(身体化)ことであると考えることができる。その場合、三島由紀夫が自身の美意識を表明したエッセイ「太陽と鎧」で述べたような、言語とは別に「自然」の息吹が実在していると考える余地はなくなってしまうだろう。「テクストの外部は存在しない」のであれば、我々が険しい山を何日もかけて登頂し、ようやく目にした初日の出でですら、「テクストの内部」に帰属されることになってしまう。果たして、本当にテクストの外部は存在していないのだろうか? それとも三島が熱く語ったように、我々の身体を運動させることで精神が冴え渡り、そのような境地でのみ吸い込み得る純粋に自然的なaura(ベンヤミン)が、文字とは独立して実在しているのだろうか?
 この問いを考える上で重要なのは、実はソレルスの処女小説『公園』である。ソレルスはこの作品の中で、以下のような印象深い言葉を綴っている。

「空は、輝き光る長い街路のうえで、暗く青い」――とどのつまり、僕はその一句から出発したのだった」(p543)


 なぜこの何気ない一文が重要であるかというと、実はこの一文が『公園』のみならず別の小説『数たち』においても、何か作家のエクリチュールに起爆剤を与える根源的な力の場となってるからだ。デリダは、このようなある小説の中で間違いなく「核」となって他のテクストを生成させ、成長させていく植物の「種」の如きテクストに並々ならぬ注目を寄せている。彼はソレルスのこの明らかに「自然」を純粋に表現しようとしている素朴な、生々しい言葉をsemence(種、精液)、あるいはsemer(種子を蒔いている)などといった表現で捉えている。つまり、ソレルスという作家にとって、「空は、輝き光る長い街路のうえで、暗く青い」という一文は、他のテクストを発芽させるための根源的な「種子」になっているということだ。おそらく、どのような作品にも(小説であれ、詩であれ、厳格で緻密な論文であれ)、このような散り蒔かれた(disséminés)芽に相当するような力を持った一文、あるいは単語の並びなどが存在しているはずだ。
 ソレルスにとって、空と道路について述べた短い生の言葉は、その後のエクリチュールの様々なパフォーマンスへと繋がる「生殖力」、「発芽力」を持った一文だったのである。言い換えれば、それは「空は、輝き光る長い街路のうえで、暗く青い」という一文を、絶え間なく「差異化」させる力であると言っても良い。こうした「芽」と、それが書き手によってテクストに蒔かれていく記号的な関係を、デリダはdisséminante(散種的な、分散的な)と表現するのである。デリダは明らかに植物学的なイメージを重視しており、「種子」、「種」、「芽」などといった語彙を慣用しているが、これは無論、「花粉」というより喚起的な言葉によっても同様の意味を持つことができるだろう。また、彼は一つの小さな一文が、一冊の本という大きなテクストの堆積物を形成するというこの生成的なプロセスを、男性の放つ精子が女性の卵子と出会い、やがてひとつの生命を創造するプロセスにも擬えている。すなわち、disséminanteにおける「種」とは、「精子の拡散力」をも意味することになるわけだ。
 「散種」という名状し難い言葉はそもそもデリダの発案ではなく、ソレルスの小説『数たち』に登場する表現に由来している。以下がその重要な箇所だ。

…回転運動に由来し、私たちの中に横向きに書き込まれた「私たち」という記号の中に一瞬私たちを引き止め……こうして、活気づけられた一民族全体の形、その継手の周囲、セックスと交換の声のまわりに集められた一民族全体の形をとり、翻訳と分割の原動力となり……そういったもの全てが今や私たちによって、私たちを通して動き、眠りの加速から突然姿を現して流れから外に出、私たちによって、私たちを通して、その未来と過去の芽を配置するように思われる……寄せ集められ、散り蒔かれた(disséminés)芽…。(p500)


 『ドラマ』という小説でも、ソレルスは「散種」について以下のように表現している。

…つまり、それを包んでいるのは平板さそのものであると同時に深さ自体でもあり、一貫してあなた方の生のあらゆる細部に呼応し、夜の中を落下する数知れぬ種子を含む空間の理由であり、今から既にあなた方の行為の全体を覆うもの、そしてここでは、非常に正確にあなた方に合図するもの、なるほど貧弱であり、虚偽も真実もなしにではあるかもしれないが、あなた方を破壊し、この線の中核で生きたいという明確な願望を持ってあなた方に合図するものだ)――(p502)


 全ての書物にはsemence(種、精液)が存在する。そして、いわば真っ白なページを「農地」に見立てた場合、作家は農夫ということになる。農夫は土地に芽を蒔く。この幾つかの「種」が、やがて農地を豊かに茂らせ、実らせることになる。したがって、どのような「書物」にもまた、それを成立させる上で「種」となるべき一文が存在するのである。土地を耕し、汗を流す素朴な農夫の姿を、あるいは造園家の身振りをイメージしているのか、デリダはかくして以下のようにエクリチュール(書くこと)の本質を表現することができるだろう。

書くとは、すなわち、接ぎ木するということだ。それは同じ言葉だ。物を言うことはその物の〈接ぎ木されてあること〉に返される。接ぎ木は物の固有性に(後から)ふりかかるのではない。原文が存在しないのと同じように物も存在しない。(p573)


 ここでデリダは、「接ぎ木は物の固有性に(後から)ふりかかるのではない」と述べている。これは要するに、オリジナルな農地など、どこにも存在し得ないということを意味している。何故なら、どのような「芽」も、それが実りの産物である以上、現在の農地に先立つ別の古い農地から収穫されたものだからである。現在の農地は、過去の農地から得られた「種」の恩恵を受けて初めて成立するわけだ。言い換えれば、どのような書物も、先行する過去の書物との間で「散種」的な関係を持っている。
 ソレルスの『数たち』の中には、『公園』のテクストが引用されている。いわばこれは、自作からの引用である。ただし、デリダは少なくともこうした行為を広義の「引用」以上に豊かなものであると考えている。「接ぎ木されたおのおののテクストは、その採取の場に向かって広がり続け、新たな地を希求してその場を変形したりもする」(p574)。ここでデリダが「新たな地を希求してその場を変形したりもする」という驚くべき見解を表明している点を見落とさないようにしよう。実は、接ぎ木している側(引用している側)のテクストが影響を受けるのと「相互汚染」(p574)するかのように、「二つのテクストは互いによって変形」するのである。
 Bという作品を書いている作者が、数年前に書いたAという作品のテクストを引用したり、言及したりする場合、それが単なる参照以上の意味を持つことがある。二つの作品を書いているそれぞれの時点での作者は同一人物であったとしても、考え方や物の捉え方において差異がある。つまり、同じ作者であっても、過去に書いた作品から引用する行為は、いわば自分自身のエクリチュールに内的な変化を生起させることを意味するのだ。デリダはこの主体の微妙な変化を、「上に投げられた主体の縁」での「再生」(p574)と規定している。このテクストの次元で起こっている問題を、やはり造園学的な次元に置換することが本論の場合、読者には求められている。例えば、ある植物を鉢植えで育てていて、そこに似ているが形、色彩が微妙に異なる別の植物をexportation(移植)したとしよう。その時、この植物はまさに「接ぎ木」されたことになり、成長する上で付け足された新しい植物から影響を受ける。それは既に元の植物ではなく、双方の主体間の「縁」に位置しているような、新たな再生である。つまり、他なるものへの生成である。デリダは「移植は多様である」と述べた上で、ソレルスの以下の「散種」の核心に迫るテクストを引用している。

わたしは、あちらこちらと、様々な書物から気に入った文章を摘み食いしてくる。でも、それらをしまっておくためではなくて――なぜならば、そんな保管場所は持っていないのだ――、この本に移し替えるためなのだ。そして本当のところ、それは最初の場所にあった時と同じことで、相変わらず、私のものではない。(p574)


 このテクストを引用した上で、デリダは更に以下のように思考を〈接ぎ木〉している。

幾つかの場所に接ぎ木され、移植によってそのつど修正されて、接ぎ穂はついに自分自身に接ぎ木することになる。とうとうその樹には根がなくなる。この数と平方根の樹と同様に、すべては根なのである。というのも、穂木そのものが固有の身体の全体、いまや「主体の採石場」と呼べるような樹の全体を成しているのだから。(p574)


 ソレルスの文学的なテクストに、極めて詩的ですら哲学的なテクストを積極的に接ぎ木していくデリダは、まさにソレルスというsemence(種、精液)を使って、新しい農地に種子を蒔いている(semer)。では、接ぎ木とは果たして意図的な行為なのだろうか? それとも、我々は何かを書く際には、常に既に接ぎ木しているのだろうか? この我々の問いかけに対して、デリダは以下のように返答する。すなわち、それは「引用符」を使って何かを引用すること、あるいは「余白」を作り出すこと、「棒線を引くこと」、「連結符で繋ぐこと」、「数字を用いること」などによって、我々がテクストをそれ自身から一度切り離し、独立した何かを浮上させようと企てる時に起こっている、と。しかし、デリダの先の見解にも見られたように、テクストとは本来的に移植されることでしか生み出され得ない。テクストにおける生成とは、常に「接ぎ木」だからである。そうである限り、つまりはクリステヴァの「間テクスト性」にも決定的な影響を与えたミハイル・バフチンの「異質生成」の概念でも表明されていたように、「エクリチュール間の異質性、それがエクリチュールそのもの、すなわち、接ぎ木である」(p575)。
 書くことは間テクスト性である、とか、書くことは常に先行するテクストのレディメイドとしてのみ成立する――という考え方にデリダが新たなイメージ喚起力を賦与していることは明らかである。それはデリダが本論で用いている過剰なまでの「比喩」から明らかになる。彼は「植物の生態系」のイメージを、間テクスト性の本質に「接ぎ木」しているのだ。結局、このようにテクストを生成させるメカニズムに生命の進化のプロセスが不可避的に導入されざるを得ないというところに、まさに我々がテクストを生み出すこの「脳」の神経回路が、ニューラルネットワークという複雑に入り乱れた網の目=「森」であることを暗に示しているのではないだろうか。デリダの用いる農夫的な比喩形象は、脳神経医学的なメタファー、あるいはWebの持つ近未来的なネットワークのモデルとも相関するだろう。
 どのような本の種類であれ、あるいは本ではなくそれがページ、あるいは単なるテクストであれ、「エクリチュールはまずもって多数である。でなければ、存在しない」(p575)とデリダは述べる。エクリチュールが本質的に多数的であるというのは、要するにそれが常に異種混淆的な接ぎ木によってのみ生成するものであるということだ。ここでも再び、「テクストの外部は存在しない」という彼の考え方が、まるで謎めいた神殿の銘文のように我々に迫ってくる。いま一度、三島由紀夫の「太陽と鎧」に戻ろう。何故なら、デリダの「散種」をより深く考察する上で、三島の提起した問題は我々に極めて豊かな示唆を与えるからである。三島は前掲書で以下のように「言葉」の世界を「夜」の闇が作り出す、ある種病的で陰気なものであることを告白する。

夜の思考を事とする人間は、例外なく粉っぽい光澤のない皮膚を持ち、衰えた胃袋を持っていた。彼らはある時代を一つのたっぷりした思想的な夜で包もうとしていたし、私の見たあらゆる太陽を否定していた。私の見た生をも、私の見た死をも、否定していた。…しかし、思考は本質的に夜に属するのではないだろうか? 言葉による創造は、必然的に、夜の熱い闇の中で営まれるものではないだろうか? 私は依然、夜を徹して仕事をする習慣を失っていなかったし、私のまわりには、夜の思考の跡を、その皮膚にありありと示している人々がいた。(『三島由紀夫全集』[新潮社]32巻、p74)

 
 三島はこのように、デリダやド・マンが「テクストの外部」に存在するのも「テクスト」であると考えるような思考とは一線を画している。三島はむしろ、このようなテクスト覇権主義、テクスト至上主義的な見解を「夜の思考」として忌避し、「太陽的なるもの」への強い憧憬を露わにする。彼は以下のように、「テクストの外部」に存在する「太陽」を讃美する。

太陽は私に、私の思考をその臓器感覚的な夜の奥から、明るい皮膚に包まれた筋肉の隆起へまで、引きずり出して来るようにそそのかしていた。そうして少しずつ表面へ浮かび上がってくる私の思考を、堅固に安心して住まわせることのできるように、私に新しい住家を用意せよと命じていた。その住家とは、よく陽に焼け、光澤を放った皮膚であり、敏感に隆起する力強い筋肉であった。(同書p75)

 
 三島の体験談によれば、彼はこれまでに「二度」だけ太陽に確かに「出会った」と述べている。ここで彼が「見た」ではなく、あえて「出会った」という極めてaura的な表現を用いていることに注意しよう。それまでは太陽の本質に彼は気付いていなかったが、日本が敗戦した1945年の苛烈な夏のある日に、植物を燦爛と照らす輝ける生きた「太陽」に、彼は「出会った」というのである。二度目は1952年、彼が初めて海外旅行した際の船の甲板の上で、「太陽と再び和解の握手をした」(同書p74)。
 ここで三島が述べている太陽とのほとんど宗教的なレベルでの出会い、和解の持つ意味を、我々はデリダ、ド・マンの理論を核にして熟考せねばならない。ド・マンであれば、おそらくこの三島の発言の高度な比喩化=審美化に注目して、結局太陽との「出会い」をも「言語化」してしまっている三島の「政治性」に敏感に気付くことだろう。三島にとって、太陽とは「テクストの外部」に位置する圧倒的な神秘と生命感覚を漲らせた存在であらねばならなかった。それははるか古より我々を照らし、見つめ、恩恵を与え、時には日照りで猛烈な迫害を加え、エジプトの地では太陽神ラーとして崇拝されてきた、現在も空の上に存在する崇高なるものである。しかし、パラドクシカルなことに、三島は本来記号表現とは無縁であり神聖不可侵であるべき太陽を、やはりそれに感銘した体験を綴ることによってしか我々に示唆できない。実在である三島が出会った太陽と、記号表現として読まれる、そして現に我々が三島由紀夫の著作物として読んでいるこの「太陽」は、別物である。しかし、彼は太陽への熱烈な愛を言語としてしか我々に表現することができない。つまり、三島が太陽を讃美して美的な比喩を多用すればする程、テクストには「イルーシオ/物語化」が生起し、我々はそこに三島の「意図」の内で「盲目」になっていたもの――すなわち、「太陽を語ることの不可能性」を目の当たりにすることになるだろう。一言で言えば、三島由紀夫の著作の総体において、「テクストの外部は存在しない」のである。それは外部の自然をテクスト化している点で、既に「夜の思考」に染まっているのである。
 三島が「夜の思考」を悪魔払いし、「太陽」的なエクリチュール、筋肉の悦びを核に据えたエクリチュールを実現していると自認している時ほど、彼自身が「夜」の盲目的な服従者として完成している瞬間もないだろう。デリダが述べるように、テクストの「外」ですら、実は「内」が反り返って「接ぎ木」されているのである。三島の「太陽」観は、作為的にあらかじめ「書くこと」を前提にしているばかりか、彼自身の認知構造にまで身体化されている社会的・文化的な「言語」体系の制度的産物に他ならない。
 起源となるテクストは常に既に「接ぎ木」されているというデリダの思考は、「読む」という行為について以下のような見解を表明している。

テクストを読むことは、したがって、最新の絵画の表皮の下にもうひとつ別の絵が隠れているのを発見する、あの放射線のようなものである。隠れているのが同じ画家の絵であれ別の画家の絵であれ、それは大した問題ではないが、その画家は材料不足のために、あるいは新たな効果を求めて、古い絵の物質を用い、あるいは最初のスケッチの断片を残しておいたのだろう。そしてこの別の絵の下には、云々。ここでは、話されたにせよ書かれたにせよ、単語でできているように思われるテクストのマチエール(素材)を引っ掻きさえすれば、あなた方は、枠から出てきた一枚の絵の描写にたびたび出会うことになる。その絵は不法侵入された後に、今度はひとつの四辺形の中で、その破れた一辺の上で、別の仕方で枠付けられ、引き継がれている。そこにはあらゆる言語の織物が捉えられており、そしてあなた方もまた捉えられている。あなた方は読みながら描き、書くのであり、あなた方は絵の中にいる。(p576)


 ここでも、デリダはテクストを「絵画」とみなした場合、常にその奥には別のもう一つのそれに先立つクリプト化された絵画が隠れている、と述べている。この「パリンプセスト(重ね書き羊皮紙)」的なメタファーであれ、先述した「接ぎ木」のメタファーであれ、結局表明されているのは同じ一つの原理としてのdifférance(差延)の様々な変奏に他ならない。今我々の目の前にあるテクスト=農地が、常に既にそれに先立つ他なる農地の収穫物である「種」によって「散種」された産物であるという見解は、デリダのルソー論『グラマトロジー』についてで前景化する「差延」の思考と密接に関わっている。音声言語が文字言語の起源に存在するのか、それともその逆であるのか、といった「起源」をめぐる命題に対して、ド・マンと同じくイェール学派の一人であり彼の教え子であったバーバラ・ジョンソンは『差異の世界』の中で以下のように解説している。

例えば、比較的よく知られた例として、音声言語と文字言語の二項対立をめぐるディコンストラクションをあげることができる。ディコンストラクションはまず、伝統的に音声言語に割り当てられていた優越性を文字言語の方に移し替える。しかし、それだけではない。ディコンストラクションは同時に、「エクリチュール」をdifférance(差延)として定義し直している。その結果、エクリチュールは「ページの上のしるし」を意味するだけでなく、音声言語の中にあって、伝統的な観点では普通隠れてしまう側面(非直接性、意味の不透明性、シニフィアンとシニフィエの乖離)の別名ともなる。(バーバラ・ジョンソン『差異の世界』p30)


 上記のバーバラ・ジョンソンの解釈にもあるように、音声言語(パロール)は文字言語(エクリチュール)を内に秘め、いわばエクリチュールに既に「接ぎ木」されているのである。どちらが先であるか、どちらが起源であったのかと問うことの意義は、かくして失効せざるを得ない。何故なら、パロールはエクリチュールを「接ぎ木」しているだけでなく、エクリチュールもまたパロールを「接ぎ木」しているからである。デリダが絵画論『盲者の記憶』で述べた定式をここで引用すれば、「起源は常に廃墟化されている」のだ。
 デリダが「そこにはあらゆる言語の織物が捉えられており、そしてあなた方もまた捉えられている。あなた方は読みながら描き、書くのであり、あなた方は絵の中にいる」(p576)と述べているのは、テクストがテクスト以外の他の何か(例えば恋人との昨夜の談笑、その日の天候、今聴いている音楽から、印象に刻まれている映画の一つのショットまで含めて)によって、常に転位され移し替えられた記号となっているということではないだろうか。そもそも、クインティリアヌスの「記号」概念は、「それによって別のものを表す」ことにある。テクストの外部は、常に既にテクストによって「接ぎ木」されている。言い換えれば、テクストの内部もまた、テクスト以外の別の何かによって常に「接ぎ木」されている。
 
【「外部は内部である」】

 文芸理論の基礎には、「作者」と「語り手」は常に差異化されているという前提がある。ソレルスは小説を書く際、「僕」という一人称を用いていた。この「僕」について、デリダは以下のようにこの差異を前提にした上で述べている。

しかしながら、あなた方に語りかけているのは誰なのか。それは「作者」でも「語り手」でも「機会仕掛けの神」でもなく、スペクタルの一部をなすと同時にそこに立ち会ってもいる「僕」である。彼はいささか「あなた方」に似ていて、算術的な機会仕掛けの中に自らが絶えず有無を言わさず再記入されるのに立ち会っている(それを堪え忍んでいる)。「僕」は代置の操作に委ねられた純粋な通過の場として、最早特異でかけがえのない存在でもなければ主体でも「生」でもなく、ただ、生と死のあいだ、現実と虚構のあいだ、等々にある、ひとつの機能ないしひとつの亡霊に過ぎない。ひとつのテルム(終わり)にして芽、自らを散種する終わり、自らのうちに自らの内に自らの終わりを担っているジェルム(芽)。自らの死が可能だと自負して。スペルム(精液)、つまり、フェルム(農地)。(p521)


 ここでデリダは、ソレルスの一人称「僕」について、まず「代置の操作に委ねられた純粋な通過の場」と表現している。ド・マンも述べたように、「主体とはレトリックの与える効果に過ぎない」のであり、主体=主語は、それぞれのテクストのブロックごとに常に差異化されるのである。ド・マンであれば、全ての作家が「僕」や「私」として用いる一人称の「主体性」について、「言語の絶対的なランダム性の、常軌を逸したメタフォリカルな相関物」と表現するだろう。つまり、「僕」とはランダムに選び取られている、単なるメタファーに過ぎないのである。これは何も、フィリップ・ソレルスという個別具体的な作家における主体性に関してのみ成立する問題ではない。「作者」と「語り手」の分離を前提とする全ての私小説的構造の核心に迫る原理としてデリダの思考が有効であることを我々は指摘せねばならない。
 「僕」――それは、テクストが作り出す一つの「機能」であり、生きているわけでも死んでいるわけでもない、その宙吊りにされた不定形であやふやな「亡霊」として規定される。いかなる小説にも、一貫した「僕」など存在しない。最初のページでの「僕」と、最後のページでの「僕」は既に全くの他者である。それは作者が執筆する時間の長さが、あるいは物語に流れる時間の堆積が主体性に変化を生起させるというより、むしろより本質的に言えば、言語のそれ自体でアレゴリカルにして比喩化=審美化を伴う制度自体が、「僕」を別の何かとしての「僕」へ変化させていくのである。「…置換の通過的な場に過ぎないこの〈僕〉は、結局のところ語られざるをえず、あなた方に立ち会い、あなた方の立ち会いに立ち会い、そうすることで自らに立ち会わせる」(p522)とデリダが述べるように、そこに明確な一貫性、統御的な俯瞰のパースペクティブを設定して安易に総体化することなど不可能なのである。
 想起しよう、ド・マンもまた作者の「意図」は常に「誤読」されると表明していたことを。「意図の伝達不可能性」という言語の構造的な原理について、デリダは以下のように述べている。

このエクリチュールの力の暗室で、我々は「僕」も「あなた方」もそのネガしか持っていなかったことになるだろうイメージたちを現像していた。だから、立ち会いのシミュラークル(見せかけ)が望むのは、「僕」の言説が(あなた方に立ち会い、あなた方の立ち会いに立ち会いながら)、自らを書き記しながらも、それがそうだと言っているところのいわゆる真なるものとは別のものであることである。進行中の物語の真理を言表する代わりに、立ち会いのシミュラークルは、半過去を一点もおろそかにすることなく現在に変換するようなふりをすることで――そんなことは不可能な操作だとそれ自身わかっている――、偽装して、「あなた方」を騙す。(p523)


 ここでデリダは、「僕」の言説は、常に「それがそうだと言っているところのいわゆる真なるものとは別のものである」と述べているわけであるが、これはまさに先述したクインティリアヌスの“per quod alia res inteligitur”(それによって別のものが了解される)という「記号」概念への本質的な立ち返りに他ならない。ド・マンの「アレゴリー」の概念も、デリダの「散種」も、このクインティリアヌスの古典的な記号概念を核にしていることは間違いない。それはまさに、「意図の伝達不可能性」を語るための証左なのである。これは、パース的に言えば、「解釈項」の無限的な連鎖、あるいはソシュールにおけるシニフィアンとシニフィエの分裂、齟齬としても再現前している。
 我々が何か小説を書く時、主人公の「僕」を例えば波打ち際で歩かせることは可能である。しかし、我々自身はどこにいるのだろうか? 無論、海辺で書くこともできるが、喫茶店であったり、図書館であったり、自室のデスクの上であったりするだろう。ソレルスはこの「作者」と「僕」の差異について、おそらく極めて繊細な違和感を抱いている作家の一人であった。まるでこの違和を際立たせるかのように、彼は「書いている私」が今どこにいるのかということを絶えず読者に告白し続ける。これは極めて興味深いエクリチュールの「症例」の一つと呼んでも良いかもしれない。デリダは以下のようにソレルスのエクリチュールの癖を分析している。

まるで『公園』の中であるかのように、『ドラマ』のうちにも『数たち』のうちにも、書物が書かれる環境の全体(寝室、絶えず現れ続ける「古い寝室」、テーブル、ノート、インク、ペン、等々)がたえず再び記入され、再び賭け直されている。そのたびに、エクリチュールは消滅、後退、消去、退隠、自己への巻き付き、燃え尽きとして現出する。(p546)


 ソレルスは実際に『公園』のラストで、自分が今小説を「辛抱強く」書いているという現場から報告している。それは「オレンジ色の表紙のノート」に書き込まれており、「かっちりした字」で綴られている。無論、ソレルスが実際に「オレンジ色」のノートに書いていない場合もあり得るだろう。何故なら、ここで登場する「書き手」もやはり物語の「入れ子」構造における「語り手」と機能的に同一であり、ただ外延が拡張されているだけだからである。
 ソレルスがこのような「書いている現在の私からの報告」を物語に吸収する背景には、デリダが述べるように「テクストの外部」も、やがては文字化され得る潜勢態として把捉されているからではないだろうか。名高いデリダの定式である「テクストの外部はない」について、彼自身以下のように解説している。

テクストの外部はない、とすればそれは、全般化された書記素が常に既に開始されていて、「先行する」エクリチュールの中に常に接ぎ木されているからである。あなた方は、接ぎ木されているという言葉がここに、接ぎ木や移植、長期賃貸借への暗示を散りばめていることを確かに読み取り、そして、その暗示がまた別のところで、あるいはもっと後になってから芽を出すのを見ようとするだろう。テクスト以前には何もなく、既にひとつのテクストでないようなプレテクストはない。同じように、立ち会いの表面が切り開かれ、開口部が開かれ、現前化が現前している時には、既に一つの舞台が存在していたのである。(p526〜527)


 このデリダのテクストは、「テクストの外部はない」という命題について思考する上で極めて重要である。テクストの外部はない、換言すれば、「一切はテクストの内部に存在する」こととして、我々は理解すべきなのだろうか。ここに見られるのは、まずもって「内/外」をめぐる二項対立を脱構築しようとする戦略である。もしも、デリダのこの命題を上記のような古典的な二項対立図式で理解すれば、それはおそらく彼の意図を甚だしく誤解していることになるだろう。何故なら、デリダは『グラマトロジーについて』第一部「文字以前のエクリチュール」の第二章「言語学とグラマトロジー」の小見出しで、以下のような奇妙な表現を用いているからだ。つまり、「外部は内部である」、と。
 この内部「である」の述語に、デリダは「抹消線」を引いている。とすれば、「テクストの外部はない」とは、実は「一切はテクストの内部に存在する」ことを単純に意味しているわけでもないのではないだろうか。何故なら、外部性の否定が内部性の肯定に繋がる時、そこにはAでもあり、かつBでもあり、同時にAではなく、Bでもないという、デリダの「差延」の思考が忘却されているからである。「テクストの外部はない」とは、実はデリダが自らの戦略的概念としての「差延」を短くスローガンとして表明したものだろうが、それは単なる入口としての意味を持っているに過ぎない。実は、「テクストの外部は内部であり、かつ、テクストの内部は外部ではない」という、明らかに齟齬を来した、アレゴリカルな、矛盾を抱えて遊戯的な、二項対立のいずれにも属さない、そういった言語の性質を表明しようと企図したものではなかったのだろうか。
 このことは、実は『散種』所収の重要論稿「二重の会」における原註(7)でも以下のように、まさに『グラマトロジーについて』を再引用する形で補強されている。

アルケー(始原)やテロス(目的)といった価値、これらに依拠した歴史や超越論性といった価値は、まさにこの脱構築批評の主要な標的である。繰り返しておこう。「そんなわけですから、何らかの書字中心主義をロゴス中心主義に対置したり、あるいは一般に何らかの中心を対置することは、けして問題にならなかったわけです。…いわんや、人々が常にエクリチュールと呼んできたものの名誉回復といったものではありません…」。…話声言語は既にこの一般的エクリチュールに属していると考える。だが、このことはエクリチュール概念の変更を前提する。(p289)


 この原註では、異なる二つのテクストから自在に引用され繋ぎ合わされているが、ここでパロールとエクリチュールについて言えることは、そのまま「外部」と「内部」についても妥当する。「テクストの外部はない」ということで、デリダがパロールの内部にエクリチュールという「起源」を見出しているわけでも、その逆でもないだろう。「内/外」をめぐるこの迷宮的な構造からの真の脱出を企図するために、デリダは双方が常にどこかで「接ぎ木」し合い、代補的な関係を結んでいることを指摘しているのだ。「唯一にして現前する固有の〈起源〉というものはない」とデリダが述べる時、それが意味するのはまさにこの内と外の代補性、いうなればリオタールがマルセル・デュシャン論で述べた「蝶番」のシステムと相関するものではなかっただろうか。つまり、蝶番や窓、扉という建築空間における接続部分は、ある空間Aと空間Bを繋ぐ機能を持っている限りで、「Aであり/かつBである」。AにとってはBは外部であるが、BにとってはAは外部となり、そして接合部である「扉」からすれば、AとBは外部であり、同時に内部でもある。まさに、「内/外」という二項対立の脱構築は、磯崎新が『見立ての手法』で展開した「間(ま)」の概念と深い親和性を示すことにもなるだろう。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論稿』に見られる名高い「ジャストロウ図形」も、まさにデリダの「差延」運動のある種の「寓意」として解釈することもできる。




「参考文献」


散種 (叢書・ウニベルシタス)散種 (叢書・ウニベルシタス)
(2013/02/20)
ジャック デリダ

商品詳細を見る



ポール・ド・マン――言語の不可能性、倫理の可能性ポール・ド・マン――言語の不可能性、倫理の可能性
(2012/12/22)
土田 知則

商品詳細を見る



差異の世界―脱構築・ディスクール・女性差異の世界―脱構築・ディスクール・女性
(1990/06)
バーバラ・ジョンソン

商品詳細を見る

 
 
 

 

 






関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next