† ジャック・デリダ †

「ポール・ド・マン・ルネサンス」の現在、デリダの『散種』が重要な理由――今こそジャック・デリダのソレルス論を読む

Hedi Slimane 369
by Hedi Slimane

【フィリップ・ソレルスのエクリチュールの特徴】

「書かれている〈僕〉と、書いている〈彼〉の階層性」

 デリダによれば、ソレルスのテクストにおいて存在論的な定式としてのil y a(イリヤ/ある)は、常に「切断」されている。彼は現在でも過去でもない曖昧な、宙吊りにされた時間軸としての「半過去」を、「かつての現在ではない」ものとして、すなわち高度に虚構化されたものとして、切断的、断片的に描き出すことを得意とした。以下に、ソレルスが往々にして小説を書く際に採用している独特なナラティブの時間構造について図式化しておく。

(1)物語内の「現在」
(2)「作者」が書いている「現在」(「大現在」とも訳される)



 (1)は、いわば物語の主人公である「僕」という一人称で端的に示されるような時間的階層である。(2)は、(1)の人物「僕」をまさに今書いている作者の時間的階層であり、いうまでもなく「劇中劇」が入れ子構造を持つ以上、(2)が(1)を内包していると考えられる。また、この「作者」は実は作家ソレルスではなく、ソレルスが新たに作り出している「書いている主体」である。こうした入れ子構造においては、「書いている主体」が物語内の「僕」を観察することができる。以下のソレルスのテクストは、まさにその証左の一つになっている。

(初めて海を見ている自分を彼は再び見る――街路の端の灰色、何の感興もない。ただその後になって、それが一挙に岸辺の音を表しており、したがって、存在し、また存在しない水平線の説明になっているとも思えたのだった。)彼がどういう風にとりかかるかといえば、それは次の通りだ。彼は単純なイメージの可能性に呼びかけ、どこといって場所を決めることのできないこの土地――それは同時に彼が見るもの、考えるもの、見たもの、夢見たもの、見あるいは考えることができたはずのものなのだが、――境界を持たず、しかも利用可能な状態にあり、スクリーンとなっている土地の中の、孤立した昔の言葉に呼びかける。(p497~498)


 このソレルスの文体では、「海を見ている自分」=「物語内の僕」が、「彼」=「僕を書いている作者」に「見られている」という被観察的な状況を自覚している。言い換えれば、「彼」からすれば「僕」が見ている海は、存在しているようでありながらも実質的には存在していない。それは「彼」によって、いわば「僕」を通して書かれているだけに過ぎないからである。ゆえにソレルスはこのテクストの少し前で、「なに一つ本当に書かれることはけしてない」(p497)と告白することができたのだろう。

「〈私たち〉という名の人称変換の聖域」

 興味深いことに、ソレルスの「僕」と「彼」は常に転換する。そればかりか、作品にはこの他にも「あなた方」、「私」、などといった人称による語りが存在する。こうした一連の断片化、複数化した人称は、一体どのような「場所」で「転換」されているのだろうか? デリダによれば、それは複数の人称を集合化した「私たち」という特異な「場」なのである。それは人称の統一的場である。そうである以上、実は「書いている彼」も「書かれている僕」も、そこにテクストの位相関係において優劣があるわけでもなく、全ては「切断された断片的主体」として存在せざるを得なくなる。いわば、「書いている僕」も物語の中の脇役として、「僕」と等価に扱われているのだ。こうして、ソレルスの採用する劇中劇の構造の「壁」は、限りなく希薄化していることが見えてくる。
 直接的に本論で言明されているわけではないが、デリダはテクストの持つ戯れ、イリュージョン、審美化=比喩化のプロセスをはっきりと自覚しつつも、どこかに必ず「テクストの聖域」なるものが潜在しているのではないか、というある種の濃密な気配を感じていると考えられる。それは例えば、ソレルスの『数たち』を分析する際の以下のようなテクストにも表出している。

(二)、テクストのどこかにある何ものか、何でもないわけではないが場を持つことのない何ものか、それは最早、語られることも、数えられることも、数を振られることも、番号を付けられることも、解読されることもできない。(p585)


 既に述べたように、デリダはあるテクストが、微分的に差異化された複数のテクストたちを生み出す作用を持つ時、それを「散種」的であると表現している。「私たち」とは、まさに「僕」、「彼」、「あなた方」などの人称を生み出す散種の場なのだ。だとすると、農夫が種を農地に蒔いているその地点にこそ、「聖域」が存在するのだろうか? ここで手掛かりの一つになるのは、ソレルスが『ドラマ』の中で、この書物全体のことを「街」と表現し、自分はそこに「住んでいる」と述べている点である。更にソレルスは、この「街」においては、「自己の〈場所〉を選ぶことは不可能」であるとも述べている。これは、テクストの中の聖域、散種の場について考える上で極めて貴重な材料になるだろう。
 私が考えるに、作家は「街」で「居場所」を遂に見出し得ないことを掟として定められているものの、街の諸要素を建築していく力を与えられている。その時、ある建築がその他の必要な土地を大規模的に刷新するというような現象は常に起こりうるのではないだろうか。換言すれば、ある文が、別の多くの文を派生的に産出するような瞬間があるはずである。この文には、デリダ的に述べれば、「種」が存在する。それは作家によって蒔かれる。――こうした一連の散種的ばイメージ作用から、私は「テクストの聖域」とは、テクストの総体=「街」の建造が、あたかも花粉が激しく飛び散るかのように進行し、派生的な建物を生み出していこうとする、そういった場にこそ存すると考える。それは実はいかなる神秘化の作用も、宗教的な審美化も被っていないテクストであるだろう。だが、その一文が、テクストの骨格を、「街」の土台を、いわばアドリア海の女王(ヴェネツィア)を下から支える海のように代補しているのだ。
 「私たち」とは、まさに人称変換をもたらし、彼ら複数にして単数の存在者たちを散種させた、そのような「街」の「土台」である。「私たち」とは、言葉の深く謎めいた次元において、常にひとつの「場所」なのである。

「全ての街はスクリーンの中で展開される……」

 既に述べたように、ソレルスの小説において「私たち」とは、その他の人称(それぞれの派生的な主体性)へと散種するための根源的な場である。デリダは正確に、以下のように述べている。「〈私たち〉において、人称的動作主の機能は、分封群の匿名の力によって、増殖しつつある勤勉な半過去によって、開かれ、横断される」(p500)。更に興味深いことに、デリダは「僕」、「あなた方」、「彼女」などといったそれぞれの断片化された主体たちを、全て「スクリーン」に分解されたものとして規定している。
 スクリーンとは何だろうか? デリダによれば、「スクリーンとは、それが無ければエクリチュールがあり得ないようなものだが、それはまた、エクリチュールの中に描き込まれた手続きでもある。エクリチュールの手続きは書かれたものの内に映されているのだ」(p511)。我々はここで、ソレルスの小説を精密に解読するデリダのテクストから、以下のような図式を抽出することが可能ではないだろうか。「私たち」とは、ソレルスにおいて複数の人称が収斂する場である。「私たち」において「僕」や「彼」は折り畳まれ、再び展開される。そこは引き出しを多く持つデスクのようなものだ。デリダが全てのエクリチュールが「スクリーン」であると述べる時、そこで含意されているのは、統一的な「私たち」という場で上映されている複数化した映画的装置としての諸人称ではないだろうか。つまり、「私たち」とは物語の構造にとって、いわば「映画館」的な場としてイメージすることもできるのであり、その場合、それぞれのシアターで演じられている各主人公たちは、「私たち」が観ているイリュージョンに過ぎないということになる。これが、デリダがソレルスを読む行為によって獲得した「小説」の根源的な力学である。重要なことは、「私たち」であれ、小説を書いている「彼」であれ、全てはやはりソレルスによって書かれている限り、「スクリーン」の一つに過ぎないということだ。ここには統一的な中心的場があるように見えて、実はそれぞれ離散的で、断片化している。
 小説の本質をイリュージョンであると規定することは、実は文芸理論においてはそれ程斬新な考えではない。むしろ、いかなる私小説であれ、「〈私〉の不可能性」は言語が本質的にアレゴリカルな機制を持つ以上、自然に浮上する概念である。しかし、デリダは、作家の「内面心理」の孤独で切実な独白的テクストも含め、全てはイリュージョンに過ぎないことを指摘して止まない。

何らかの現前性ないし自己への現前を完全で本来的な形で求めようとして行われる内面への回帰は全て仮象のうちで演じられる。何故ならillusion(仮象=錯覚)とは、その名が既に示している通り、常に遊び=演技の効果だからであり、まらそれは、表象不可能なものと表象とのある明確な関係が始まる劇場を持つからである。…テクストは全体として、『ドラマ』のように最初から最後まで演出されており…。(p476)


 作家の内面への回帰までもが全てイリュージョンであるという考えは、ド・マンが『読むことのアレゴリー』のリルケ論で展開した詩人の比喩化=審美化としてのエクリチュールの本性と通底するだろう。続けてデリダは、我々が日々綴る言説一般について以下のように規定する。

…自分の言説といういわゆる確実な出来事において現在形で私という者は、統御の錯覚を持つことしかできないだろう。たとえ彼は操作を主導していると思っていても、その思い込みに反して彼の位置――私は考える、私は存在する、私は見る、私は感じる、私は言う、というように私と言うことができると信じている者(例えば、今、ここでのあなた方)の現在への開き――は絶えず、賽の一振りによって決定されているのであって、偶然が次に容赦なくその法を発展させるのである。(p477)


 小説であれ、論文であれ、詩であれ、一つの統一されたテクストなど存在し得ない、とデリダはここで解釈している。むしろ「私」とは、ド・マンが述べたようにテクストのとあるブロックが読者に与える偶然的な「機能」に過ぎないのだ。本論「散種」
が、ド・マンの理論と大きく重なり、そして「ポール・ド・マン」ルネサンスと呼ばれ改めて彼らへの注目が飛躍的に高まっている現在、我々はここで獲得した概念を今後も重視せねばならないだろう。







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(2013/02/20)
ジャック デリダ

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