† ポール・ド・マン †

ポール・ド・マン、ジャック・デリダ以後の新しいエクリチュール/レクチュールの可能性について――バーバラ・ジョンソン『差異の世界』

Katie Fogarty by David Slijper | Flowers
Katie Fogarty by David Slijper | Flowers

 「ポール・ド・マン・ルネサンス」である現在、イェール学派の論客が再び熱い注目を浴び始めている。このページでは、ポール・ド・マンに学び、ジャック・デリダの英訳でも知られている現代アメリカを代表する女性批評家バーバラ・ジョンソンの代表作『差異の世界』の「序」、一章「栄光と転落」、二章「厳密なる非信頼性」、六章「猟犬、鹿毛の馬、雉鳩」の記録を残す。特に一章はド・マン、デリダ以後の「書く/読む」行為について模索する上で我々にとって極めて有益な羅針盤を与えることになるだろう。

【新しいエクリチュール/レクチュールのために】

命あるものと命ないもの、肉体的なものと知的なもの、内的なものと外的なもの、この両者がまじわる境界のところに位置する言語は、またいつも両者を分ける権力性を帯びる。この権力性は語り手が行使するだけではない。それは語り手の内部に食い込み、語り手に対しても働きかける。言語をそのように考えるなら、言語はレトリックとして研究するしかないだろう。レトリック。これを「あることを語りながら、別のことを意味する言語」として定義しようと、あるいは「誤解とその治療法の研究」と定義しようと、あるいはまた「特定の事例の中に説得に使える手段を見出す力」と定義しようとも、レトリックの研究が人間の政治と切っても切れない関係にあるのは確かだ。(p21~22)


 ド・マンは、言語の「主体」とは「レトリックの与える効果」に過ぎないと考えていた。サブジェクト(主体=主語)は、同じ一冊の書物の中でも微分的に差異化し、けして統合化された主体性に収斂されるわけではないのである。これは物語の「主人公」についての規定であるとも解釈することができるだろう。ド・マンにとって、それは「言語の絶対的なランダム性の、常軌を逸したメタフォリカルな相関物」なのである。この見解を受けて、バーバラ・ジョンソンは「主体」は作者ではなく、むしろ「テクスト」の側にあると規定する。主体とは、まさにテクスト機械が生み出す一種の「文法」、制度なのだ。ド・マンの卓越した洞察について、ジョンソンは以下のように解釈している。

言語は、人間的なものを構成しているので、それ自体がまったく「人間的」であることなどない。言語は主体の外にも内にもなく、内と外両方に同時に存在している。何かを表現しようとする意図があるとき、その意図の実現可能性を左右するのは人間ではなく言語である。それゆえ、言語を人間主体の意図に還元して解釈することはできない。このことは言語が何ものをも意味しないということではなく、むしろ、見かけの意味を超えたところに、或いは抑圧された隠れた意味(無意識の、詩的な、イデオロギー的な、対抗ディスクール的な意味)を超えたところに、何かの記号に還元できない、まるで言語の規則から生じたに過ぎぬような、更に言うなら「言語の絶対的にランダムなありよう」から生じたとしか思えない、ただ効果を生むだけの機能の残り滓のようなものがいつも存在するということだ。言語はどんな場合にも絶対的にランダムであるとは言い切れないが、しかし言語がランダムなものでないという確証も私たちには無い。(p23)


 デリダやド・マンらに向けられる脱構築批判は、以下のような四つの論理公式に還元することができる。

(1)もし、あらゆる読解が誤読なら、どのような読解も有効性において同じということになる。
(2)もし、客観的な読解などないとしたら、あらゆる読解は主観的な好みに基づくことになる。
(3)もし、絶対的な真理がないなら、全てが相対的である。
(4)批評することと懐疑的であることは同じである。疑問を提出することと否定することは同じである。


 上記の四つの図式は、全て「二項対立」式の論理(無矛盾の原理)に支えられている。しかし、デリダもド・マンも共に「あれか/これか」、「あれでもない/これでもない」といった単純な二文法に束縛された思考からの乖離を企図していた。デリダにとって、エクリチュールがdifférance(差延)として規定されていたことの意義についてジョンソンは以下のように解釈している。

ディコンストラクションは、対立関係を逆転させると同時に造りかえる。そのため、これまで二項対立に基づいて理解されてきたものは、もう通用しなくなる。例えば、比較的よく知られた例として、音声言語と文字言語の二項対立を巡るディコンストラクションを挙げることができる。ディコンストラクションはまず、伝統的に音声言語に割り当てられていた優越性を文字言語の方に移し替える。しかし、それだけではない。ディコンストラクションは同時に「エクリチュール」をdifférance(差延/遅延)として定義し直している。その結果、エクリチュールは「ページの上のしるし」を意味するだけでなく、音声言語の中にあって、伝統的な観点では普通隠れてしまう側面(非直接性、意味の不透明性、シニフィアンとシニフィエの乖離)の別名ともなる。(p30)


 デリダの名高い「テクストの外部はない」という見解について、ジョンソンは以下のように解釈している。

テクストの外には何もないとデリダは述べたわけだが、これは何も、文学作品を歴史とか伝記から切り離して読めということではない。そうではなく、これは、テクストではないといえるものは、何も無い、ということなのだ。つまり、全ては現前のdifférance(差延)と非直接性の支配下に、或いは意味のdifférance(差延)と非直接性の支配下にある、ということ。テクストの外には何もないという言明でさえ例外ではない。この言明がいくら絶対的な確実性を装っていようとも、それを真に受けることはできなくなる。この言明は、そこから導き出される帰結の中に自分自身をも含めなければならないからだ。またもし、テクストの外に何もないとなれば、何かを研究したり、行動しようとしたりする時、その拠り所となる場がいかなるものであれ、それがアプリオリに不適切をみなされることもなくなるだろう。(p32~33)


 ジョンソンは以上を踏まえて、可視化される今後の「新しい読みの地平」の可能性について、以下のように提言している。

…問題は、歴史や伝記を脱構築的に用いるコツを、どう見つけるかということになる。歴史や伝記の中に、答えや原因や説明や起源を求めるのではなく、文学テクストと非文学テクストとが、互いに他を読み合えるような、また、互いに他に働きかけられるような、そんな新しい問いかけ、新しい方法をいかに探るかが問題になる。(p33)


それゆえ、読解の時に従わねばならない命令が一つだけあるとすれば、それは、今自分が行おうとしている種類の読解を疑問に付すようなものを、常に念頭に置くということである。したがって、私としても認めないではいられない――読解の過程で、他者の驚き=不意打ちを真正面から見据え、それを更に増殖させるような読解であればある程、その読解は強力なのだ、と。読者に課せられた不可能だが不可欠な務めとは、驚き=不意打ちに自分自身を開くことである。(p34~35)


 「読む」上でも、そして「書く」上でもジョンソンは、「驚き=不意打ち」を常に意識することの重要性を指摘している。ある種の「思考の雷撃」を伴うエクリチュール、あるいはレクチュールを志向するためには、「方法論」が一度は否定されなければならないとジョンソンは述べている。自分には無いはずだと思っている「無知」を可視化するようなエクリチュール、あるいはレクチュールの地平を開くこと――これは「脱構築批評」の基礎となる所作であるとジョンソンは認識しているようだ。このジョンソンのいう「無知」は、ポール・ド・マンのBlindness and Insight(盲目と洞察)における「盲目」の概念と相関しているだろう。

驚き=不意打ち――私がこの語を強調するのは、優れたディコンストラクターは自分自身が行っていることを絶えず疑問視しなければならないという考え方に反撥するためである。この考え方は確かに真実ではあるが、それだけでは十分ではない。この考え方に従うだけでは、下手をすると脱神秘化の無限後退に陥ってしまい、絶対に疑問視されることのない、まさに揺るがざる問いかけの磁場で、更にもっと洗練された細やかな区別立てが、次から次へと練り上げられてゆくだけとなる。…今日、私たちが為すべきは、私たちが無知について、普通に抱いている静的で生気を欠いた概念を捨て、無知をもう一度評価し直すことである。無知は、それを当然のことと考えられないことにかけては、知識以上の重要性を持つ。無知には、命令じみたところがあって、自分では判っていると思い込んでいるものの性質を変えるよう迫って来る。そこでもし、私がそのような命令を顧みず、無知を知識を中にある空白と考え、高を括ってしまうなら、私は自分の無知を本当に体験してはいないことになる。他者性の驚きが生まれ、他者性に不意打ちされるのは、無知が新しい形式を纏っていきなり活性化し、ある種の命令となって立ちはだかる瞬間である。(p35)


テクストの自己解釈は、読者がなすべきことを、読者のために肩代わりしてくれるどころか、むしろ読者に更に負担をかけるものとみなされるのだ。確かに、読者の読みの戦略をテクストが自らの構造の一部に組み入れて、どのような権威ある読みも覆すことはよく起こる。ド・マンによれば、このようなテクストの巧知こそ、しばしば文学そのものの構成要素である。(p36)


 テクストを自己解釈することによって、本来的には「読者」が批評すべきことをテクスト内部に有機的に吸収する所作――それはまさに「読者」に読みの新しい地平を齎す鍵である。そもそも、ジョンソンはド・マンと同じく「文学テクスト」と「批評テクスト」、あるいは「哲学テクスト」のあいだに明確な境界線を設けていない。その最良のモデルはまさにニーチェのエクリチュールである。ド・マンの見解である「哲学とは既にいつも文学である」という定式を、ジョンソンもやはり共有している。ド・マンは以下のように述べている。

…文学とは、哲学が忘れようとして忘れられない重要な話題である。何故なら哲学が憧れる真実をモデルで示せと言われれば、それは文学に似たものと言う他ないのだから。…となると、哲学は自分のありようを考察すればするほど、文学に近付くことになり、文学という汚名を着て破滅する。…ただ、どうしても認めにくいと思われるのは、このような誤算のアレゴリーが、実は哲学的厳密さのモデルが辿る運命であるということだ。(p43)


 このように、ジョンソンはド・マンから学んで「文学とは哲学の自己侵犯なのだ」と表明している。この文学と哲学の分ち難い交叉配列について、ジョンソンは「確立」(A=B)されつつも、「消去」(A≠B)される、と図式化している。こうした「揺らぎ」、「ノイズ」などとも形容される修辞法は、「ペンダイアディス(二詞一意)」と呼称される。ド・マン以後、現代文学では修辞法についてプルーストを参照軸に熟考することが大きな課題となっているが、ジョンソンは他にも様々な用法を紹介している。ド・マンは特に「アレゴリー」を思想の中核にまで深めることができたが、ジョンソンはこれに付随して「ペンダイアディス」を強調している。例として、少なくとも以下のような修辞技法が存在する。

メタファー(隠喩)
メトニミー(換喩)
カタクリーシス(濫喩)
アポストロフィ(頓呼法)
カイアズマス(交差対句法)
アナコルソン(破格法)
レペティション(反復法)
イリプシス(省略法)
パーソニフィケイション(義人化)



 デリダが考察した音声言語と文字言語の「起源」を巡る命題についても、「鶏が先か卵が先か」という文章に置換して考察することができる。

※以上は、『差異の世界』の「序」、一章「栄光と転落」、二章「厳密なる非信頼性」の記録をまとめたものである。


【『ウォールデン』におけるカタクリティック・シンボルについて】

 ジョンソンはソローの小説『ウォールデン』の中の、lose(失う)という動詞を核にして考察を深めていく(第六章「猟犬、鹿毛の馬、雉鳩」)。対象となるのは作中の以下のテクストである。

ずっと昔ぼくは猟犬と鹿毛の馬と雉鳩をなくし、今も彼らを探している。多くの旅人にぼくはそのことを話し、その手掛かりや、どんな呼び声に答えるかを語った。一人か二人は、猟犬の吠え声や馬の蹄の音を聞いたことがあったり、鳩が雲の向こうへ姿を消すのを見たことさえあると言った。そうした人たちはなくしたのが自分自身であったかのように、この動物たちを見つけ出すことに熱心であるように思われた。(p96)


 この描写は、『ウォールデン』の物語の中でも一際浮いたテクストとしてこれまで多くの研究者を惹き付けてきた。前の文脈から一見孤立しているかに見える奇妙で謎めいたテクストの突然の挿入――ジョンソンは従来の解釈を検討する形でここに再び焦点を当てている。先行研究ではこのテクストは、ソロー自身が無くしてしまったものの象徴であるとされてきた。だとすれば、「猟犬」、「馬」、「雉鳩」は、動物の名を借りているものの、「別の何か」を指示していることになる。その指示内容を、ソロー自身の昔の「恋人」、「兄」、「ありし日の少年」などとみなす解釈がこれまでにも存在した。
 ジョンソンが提示するのは、あくまでも「テクスト」に忠実な態度を取る研究者らしい見解であると言えるだろう。彼女は三種の動物たちの象徴するものが何かを意図的に解明しようとはしない。そうではなく、これら動物をまさに「判りにくいもの、失われたもの」として、つまり何か読者に「何かを象徴しているかもしれない印象を与える効果」を生み出す機能として解釈するのである。実はこのソローのテクストの前段落には、「秘密」という単語が印象的に綴られている。ジョンソンはこの単語を受ける形で、いわば「秘密」をめぐる観念が記号的に「X.Y.Z」として単に表現されているだけに過ぎないと考えているのだ。厳密に言えば、ジョンソンは「象徴」を「特殊」に還元せず(先行研究は基本的に全て象徴が何であるかを解明しようと努力してきた)、あくまでも「象徴」機能としてこの動物たちを把捉している。

『ウォールデン』の大いなる功績は、私たち自身からさえ失われている喪失物を私たちに気付かさせ、無限の特殊個人性を帯びながら個人を越えて拡がってゆく喪失の運動に、私たちを巻き込むところにある。それは自分でもはっきりとは知らないものの痕跡を、あたかもそれを失ったのが、あるいは失う危険に曝されているのが、私たち自身であるかのように、追い求めよと私たちを激しく急き立てる。(p102)


 実際、ソロー自身も「そうした人たちはなくしたのが自分自身であったかのように、この動物たちを見つけ出すことに熱心であるように思われた」と、「読者」の機能を「探してくれた人々」に加担する形で表現してもいるので、まさにジョンソンはこの物語的な機能に忠実であるということになる。言い換えれば、ソローの上記のテクストは、「読者に開かれている象徴」であって、「特殊」に還元不可能な描写になっているのだ。ジョンソンはこれを「いかなる固有名詞的な表現にも置き換えられない比喩」として、カタクリーシス(濫喩)であると規定する。ジョンソンが示唆しているのは、我々が失った対象について「想起」する意識は、常にある意味でカタクリーシスであり、「対応する字義通りの内容を欠いた比喩的代理物」(p103)であるという考えである。
 カタクリティック・シンボル(濫喩的な象徴)は、以下のような想起の形式についても妥当するのではないだろうか。つまり、かつて起きたトラウマが、何らかの比喩や、一つの表現、あるいは単語レベルにまで高度に「代理」されるという構造である。想起はされる度ごとに実際に起きた出来事を変容させる力を持っていると述べたのはフッサールであったが、これは出来事の内容がいつの間にか形骸化し、ただその残滓として「比喩的代理物」のみが残るというジョンソンのソロー解釈と深く相関している。一言で言うなら、実際には何もトラウマになるほどの事件など起きていなくとも、「失う」という感覚への欲望ゆえに、実質を欠いた「喪失の装飾」的表現のみがまるでテクストの「廃墟」のように出現するということを示唆している。
 ソローは意味深げな象徴的表現を、常にテクストの上で「横滑り」させていく点で稀有なスタイルを持った作家であった。作家は信条として「シンプルに書く」ことを意識し、自然に溢れた豊かな描写を展開するのだが、実はソロー自身が伝えたかったメッセージが、いつの間にか「自然描写の高度な審美化」のプロセスによって覆いをかけられているのである。ジョンソンはこうしたソローのアレゴリカルな誤算を、「メタファーが森の中へ向かい、入り込んで行く傾向性」として適切に分析している。結論として、ジョンソンは以下のようにまとめている。

そういうわけで、『ウォールデン』が判りにくいのは、ソロー自身が自分で書いている寓話の直中に文字通り入り込んでしまったからである。そこでは現実それ自体が濫喩と化し、生の現場であると同時に比喩であり、図であると同時に地と化してしまっているのである。そしてその世界にあっては、彼が言うように「事実に真正面から対峙する時、それがあたかも三日月刀であるかのように、その両面に陽の光が照り返すのを見るし、その容赦のない切っ先が心の底、骨の髄まであなたを切り裂くのを感じることになるだろう」。(p107)


 どれほど単純素朴で、贅肉を削ぎ落した文体を志向し、読者に常に「客観的な描写」として受け取ってもらえるように配慮し続けたとしても、「言語」の本性が「修辞」にある限り、ド・マンが述べたように常に作者の「意図」が「誤算」になってしまうような極度に恣意的なメタファーが生成する。これこそが、まさにその作者の特質を開示するポイントでもあるのだ。





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