† 政治学 †

今こそ、マックス・ヴェーバーの代表作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み返そう

Lily Donaldson Anja Rubik by Mario Testino
Lily Donaldson Anja Rubik by Mario Testino

 このページでは現代人のための必読の古典として名高い『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読解する過程で私が作ったノートの記録を残しておく。マックス・ヴェーバーのこの論文が発表されたのは1905年である。解説で訳者の大塚久雄氏が述べているように、本書はヨーロッパにおいてこそ近代資本主義が始まったその来歴を比較宗教学的に迫っていく方法を採っている。かつて中国や日本にも唯物主義は存在したが、宗教的な「禁欲」に根ざす社会システムとしての近代資本主義にはなりえなかった。なぜ、ヨーロッパで最初の資本主義システムが誕生したのだろうか? 本書はこの謎を、宗教改革によって登場したプロテスタンティズムの倫理概念にまで遡行しながら、その生成のメカニズムを探っていく。


【プロテスタンティズムにおける世俗外的禁欲】

 ヴェーバーはまず第一章「問題」において、カトリックとプロテスタントの各性向に関する一般論を紹介している。ヨーロッパではカトリックは非現世的、禁欲主義的であり、プロテスタントは資本主義に親和性が高く、経済的合理主義への愛着を示す傾向を持つ、とされている。こうした宗教的な性向は、ブルデューが述べたように「同族型再生産」(家族内)様式をとって相続されていく。ヴェーバーもまた、「教育によって得られた精神的特性」の中でも、特に「家庭の宗教的雰囲気」が、たとえ成人して自分に身体化している宗教を顛倒させるようなプロセスを経るとしても、影響面で決定的であると考えている。
 しかし、ヴェーバーは上記のような宗派間の差異を批判的に眺めており、カトリックとプロテスタントには相互にVerwandtschaft(親和関係)が存在すると述べている。とはいえ、それぞれの教義上の差異の点からも、プロテスタントの方が資本主義的な原理にコミットメントし易いというのは事実である。例えば、プロテスタントの中でもクエイカー、メノナイトは宗教的に厳格な禁欲主義が、後の世代で事業精神の高度な発達に結実することが往々にして起こりうる。ヴェーバーが我々に強調しているのは、カトリックの方がプロテスタントより禁欲的で非現世的だということではない。そうではなく、実は禁欲主義という観点からすればプロテスタントも極めて厳格にこれを採用しているのであり、それは始祖たるカルヴァン、ルターにおいて現世的なところが微塵も存在しなかった点からも明らかである。では、何故プロテスタントの禁欲主義が、一見まるで相反する水と油の関係にある資本主義の原理を準備したとされているのか? ヴェーバーが本書を書いたのは、まさにこの命題を解明するためである。
 ヴェーバーはこの謎を解き明かすための鍵として、まずベンジャミン・フランクリンの『自伝』に見出される特有の信仰を分析している。フランクリンによれば、自己の資本を増加させることを自己目的と考えるのは、各自の「義務」である。この義務は、summum bonum(最高善)とも表現される。最高善に忠実であるためには、我々は神から賦与されたBeruf(天職)に常にまっとうであらねばならない。資本を増加させることは、ゆえに神への善行と規定される。ヴェーバーによれば、この簡潔なフランクリンの宗教精神こそ、実は「近代資本主義の精神」に他ならない。それは換言すれば、カトリックの宗教的貴族主義のように修道院に隠棲する「世俗外的禁欲」ではなく、徹頭徹尾「世俗内」での「天職」を真面目に遂行する義務として規定されているのである。
 上記の点を社会科学的なアプローチから実証するために、ヴェーバーはドイツの未婚婦人層における職場での労働について分析している。それによれば、仕事の変化に臨機応変で上手く処理していく能力を示したのは、圧倒的に敬虔派のような禁欲的プロテスタンティズムの教義を身体化した女性たちであった。彼女たちにとっては、その職場で働くこと自体が、己に与えられた最高の恵みであり、状況への対応もこれに含まれるのである。すなわち、ベンジャミン・フランクリンにも見られるプロテスタンティズムの「天職」概念とは、ただ善きBerufser füllung(天職の遂行)に努めること、それを神から賦与された自己の最高のAufgabe(使命)だとみなす点に本質がある。
 では、こうした禁欲的な労働精神は、ヨーロッパにおいてどのような社会階層の人々に受容されてきたのだろうか? ヴェーバーによれば、16世紀から近世初頭にかけて、このような「初期資本主義精神」は貴族階級ではなく、むしろ事業によって資本を増加させつつある庶民階級の「成り上がり者」によって共有されてきた。無論、伝統的なカトリック精神を持つ人々(特にフランスの場合、革命前のアンシャン・レジームにおける王党派はカトリックであることを意味している)にとって、このような精神はauri sacra fames(呪われた黄金の飢餓)として批判されるべきものであった。その際に神学的権威として威信を発揮したのは、無論今日のカトリック神学の礎の築いたアクィーノの聖トマスである、とヴェーバーも述べている。トマスにとって、「富への意志」は端的にturpitudo(醜いこと)であり、排斥されねばならない。14、15世紀のイタリア、特にフィレンツェはヨーロッパの中でも経済的発展が目覚ましい都市として栄えていたが、トマス的な考えが支配階級にも共有されていたという点が指摘されている。宗教改革期、特にカルヴァンが登場する以前にも経済的合理主義を標榜する人々は多く存在したが、あくまでも社会システムは従来のカトリック的な教義が支配的であった。
 ここまでのヴェーバーの議論において重要なキーワードとなっているのは、いうまでもなくBeruf(天職)概念である。カトリックとプロテスタントにはこの概念をめぐって決定的な差異が存在したからこそ、ヴェーバーはプロテスタンティズムの全て宗派の中心的教義の集約された最重要概念として、この「天職」を位置付けるのである。元々、このBerufという用語はルターが「ベン・シラの知恵」の書をドイツ語訳する際に採用した用語であり、出自は実はユダヤ教の聖典である旧約聖書にこそある。ヴェーバーが本書でさり気なく「資本主義精神」と「旧約の預言者の(神に対する)合理的行動」に高い親和性を見出すのに、おそらくこの点も暗々裏に影響しているだろう。ルターにとって、カトリック的な修道院生活は「利己的な愛の欠如の産物」であり、現世的義務からの逃避に過ぎないと考えられたことは日本でも広く知られている。しかし、それは神から与えられた「天職」(身分)に各人はいつまでも留まるべきであるという保守的傾向を残すものであった(前期ルターは「職業」を神からの授かり物ではなく、単なる「被造物」とみなしていた)。我々はルターただ一人において、「世俗外義務」から「世俗内義務」へと人々の認識を構造転換させた宗教改革の意義を見出すことはできない。むしろヴェーバーがヨーロッパにおける資本主義システムの生みの親として重視するのは、カルヴィニズムなのである。そして既にこの世俗内での天職を意味するBerufを、聖職におけるBeruf(召命)と同一視していた思想家としては、ドイツ神秘主義の流れを汲むタウラーの名が挙げられている。
 繰り返すことになるが、ヴェーバーはカルヴァン、ルターら宗教改革の旗手たちがなにも資本主義社会の到来を切望するために新たな神学を生み出したと述べているわけではない。あくまでも彼らの倫理的な職業概念が今日の資本主義システムの沃野を切り開くための精神的な下部構造になったということである。実際、カルヴァンにせよ彼らは魂の救済をこそ重視していたとヴェーバーは強調している。そして、今日の資本主義社会に通じる経済的な合理主義的思考は、宗教改革以前から既に世界各国の文明に見出されるのである。

【カルヴァン派の予定説】

 プロテスタンティズムには今日、様々な宗派が見出される。第二章「禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理」で、ヴェーバーはまず禁欲的プロテスタンティズムを大きく以下の四つに分類している。

(1)カルヴィニズム(16~17世紀の西ヨーロッパで支配的)
(2)パイエティズム(敬虔派)
(3)メソジスト(方法派)
(4)洗礼派運動の分派



 因みに、プレスビテリアン(長老派)はカルヴァン本来の教えに最も忠実であるとされる。ヴェーバーが本章で特に焦点を当てているのは、イギリスのカルヴァン派であるピューリタニズムと、(1)のカルヴィニズムである。ピューリタンとは、周知のようにイングランド国教会の改革を唱えたイギリスのプロテスタント(カルヴァン派)であり、日本では「清教徒」と一般的に訳される。アメリカに降り立った「ピルグリム・ファーザーズ」もピューリタンであり、ヴェーバーが彼らに注目するのもイギリス、特にアメリカの資本主義社会の飛躍的な発展が前提として見越されていることは言うまでもない。
 興味深いことに、ヴェーバーはカルヴィニズムを極めて実存的な思想として特徴付けている。彼らは、牧師も、典礼も、教会も、人も、神によってすらも、根源的に救済されることはないという考えを共有していた。何故なら、神の御言葉を人間が学ぶことができても、真に「霊」によって理解することができるのは、「選ばれた者」に限定されるからである。では、一体どのようにして人は自己が救済されているという確信を得られるのであろうか? カルヴィニズムの名高い「予定説」によれば、究極的にはそれは「自己確信」、すなわち「主観的確信の獲得」において他にないと規定される。では、どうすれば「自己確信」に達するのであろうか? その答えこそが、まさに「労働」し、その仕事の過程で「隣人愛」を実践することなのである。ここで重要なのは、「隣人愛」の実践が徹底的に「職場」という世俗内的な空間で果たされるべきであると考えられている点である。この次元にまで達すると、彼らがカトリック的な諸制度を一度全て廃棄したことが自然と理解できるだろう。人からも神からも根源的に救済されていない人間は、最終的に深い「内面孤立化」に至る。カルヴィニズムでは、この「孤立化」の暗黒の中でこそ、真の「神との交わり」が生まれるとされ、こうした内面性はピュウリタニズムの悲観的な個人主義とも深く相関しているとされる。
 人間は社会からも神からも根本的に見放されているという暗黒を吸って、初めてその孤独の中で「神との交わり」を得るという考えは、エミール・シオランの「神の遺棄」の概念とも通底している。しかし、人間はあり余る時間をただ孤独な瞑想の中の「神との交わり」でのみ過ごすことはできない。生きるためには、何かを食べなければならない。そして何より、何をしても許されるという圧倒的な自由の内にいると、サルトルのいう「自由の刑」が始まり、人は時間からも疎外されるに至る。こうした怠惰を防ぐためにも、神への奉仕として「仕事」を持つことが人間の責務だとされるカルヴィニズム、及びピューリタリニズムに通底する労働観は極めて説得的であると言えるだろう。
 自己が果たして救われているのか、といった確信を得るためにはヴェーバーが「審査」と呼ぶ手続きも存在する。それは、旧約時代の預言者やパウロを中心とする使徒と、自分の心を霊的な読書によって比較してみるという行為である。しかし依然、基礎となる「審査」は、そもそも救われているか不安になるという、その不要な心性そのものを浄化する手段でもある「仕事」をするという行為にこそ見出されることは繰り返し強調されている。直言すれば、カルヴィニズムにおいては、自分に適した、そこに神の現存を見出すことが可能な最良の「仕事」を持ち、その職場で自分に与えられたことを遂行していくことこそが、possessio salutis(救いの取得)に繋がるということである。これはヴェーバーの表現を使って換言すれば、すなわち「自分で救いを造り出す」ことが我々の責務であるとされていることに他ならない。天職を見つける努力をすること――それが確実な「救い」の取得に繋がるのだとするカルヴァン派の教えは、この点でまさに資本主義社会の行為者に平均的に見出され得る個人主義的側面へと結実する。「救い」が教会の中の典礼という、常に同一の場に位置付けられるスタティックなカトリック的宗教システムとは異なり、カルヴィニズムにおいては、各自がそれぞれ発見し、開拓した「仕事」=「天職」の中にこそ、かつての典礼を代理=表象する聖なるものが潜在するのである。こうしたカルヴィニズムの特徴を、ルター派がWerkheiligkeit(行為主義)として批判したことは印象的である。
 デカルトの名高い「コギト・エルゴ・スム」は、実はコギトが常に「神」によって支えられているという従来の伝統的キリスト教の価値観から、「我思う、故に我あり」という、「自分で救いを造り出す」カルヴィニズム特有の主体性の確立が示唆されたものとしても機能している。デカルトはこの点でも、いわば初期資本主義システムの到来を告げる思想史的な分水嶺として機能しているわけである。
 先述したように、ヴェーバーにとってルターは未だカトリック的な伝統性の内に存在している。ルター派においては、神とのunio mystica(神秘的合一)こそが「最高の宗教体験」であると規定されるが、プロテスタンティズムの改革派の教えはより世俗に根ざしたものとなっており、finitum non est capax infiniti(有限は無限を包含しえず)という冷めた考えを持っている。つまり改革派は、一個人の心が「神的なもの」と合一することはないとみなすのである。この考えはカルヴァン派でも共有されており、「召命」は常に職を前提にしたeffectual calling(有効な召命)であって、あくまでも個人は「天職」を通じて神に接近していくとされる。その上で彼らは現世の生活を、あたかも旧約時代の預言者たちが神の教えに対して極めて合理的かつ忠実な言動をとったように、経済的な側面において合理化させるのである。
 ヴェーバーは伝統的なカトリックの教えを、「世俗外的な宗教的貴族主義」として捉えている。もしもカトリックで洗礼を受け、教義に可能な限り忠実で神の愛へと素直に接近していこうとすれば、ヴェーバーが述べるように我々が行き着く場所は究極的に司祭、司教、枢機卿といった聖職者間のヒエラルキーか、あるいは「どこまでも修道士(女)のみに限られる」(p206)。それが、ヴァチカンを中心とする世界各国に散らばる教会システムを確立したローマ・カトリック教会の今日的なあり方に他ならない。しかし、カルヴィニズムは「世俗内」的でありつつ、「聖書至上主義」を表明している点をヴェーバーは評価している。特にピューリタンにおいては、やはり旧約におけるソロモンの「箴言」、「詩篇」に見られる合理的な処世訓が重視されている。カルヴィニズムも実は「旧約の敬虔感情」に同化しているのである。既に触れたように、ヴェーバーがカルヴィビニズムと旧約の密接な関係性を指摘している点は極めて重要である。あえて「新約」のパウロではなく、ユダヤ教的なソロモンの「箴言」の方に近代資本主義の主体が有する倫理概念の根本を結び付けているということを忘れないようにしよう。新約が「赦しの神」、旧約が「裁きと熱愛の神」と称されるように、これは実は、初期資本主義的な行為者が、神のみを信じつつ、世俗には極めて合理的かつ数量的に対処する所作を有することをも意味している、と解釈することができるからだ。「隣人愛」を抹消し、徹底的な日常の合理化を押し進められる道にまで、ヴェーバーの議論はあと一歩である。
 ヴェーバーの本書の魅力は、時に生々しいまでの宗教的感情を大胆に導入することで、読者の理解を本質へといっきに急迫させるそのダイナミズムにある。例えば、カトリックは司牧者に依存しなければ「信仰」を成立させることすらできない(ミサは信徒の義務である)が、プロテスタントは、ヴェーバーの卓越した表現を使えば、「自分で自分の脈拍を見た」(p214)。プロテスタントにおいては、教会という固有のスタティックな場ではなく、実社会の、悪しき拝金主義者や無神論者などもごく当たり前のように存在しているようなダイナミックな場であるからこそ、「合理化された倫理的生活態度」が何よりも重視されたのである。言い換えれば、伝統的なキリスト教道徳はExtra ecclesiam nulla salus(教会の外に救いなし)を厳格に信徒に強制していたが、プロテスタンティズム諸派の場合、信徒ひとりひとりの「内なる光」にこそ、すなわち「見えざる教会」の内にこそ「救済」が予定されたのである。これが、カルヴァン派の「予定説」の中枢概念である。こうしたカルヴィニズム、ピューリタニズムに顕著な倫理概念に、ヴェーバーは「近代性」の萌芽を見出しているのである。
 かくして、「仕事」をすることは「禁欲的手段」であるという考えが共有されるに至る。カルヴィニズムが労働する必要のない貴族階級ではなく、近代的市民たち、特に資本主義の行為主体としてシュンペーターが規定した「企業家」の心性に深くコミットメントしたことも、上記のヴェーバーの要諦から理解することができる。ウェズリーの教説においても、「善き行為」なくして恩寵はなし、という信念が採用されていたが、これが「労働」を意味することは言うまでもない。プロテスタントもやはりコミュニティを形成したが、それは教会という信徒しか存在しない安穏で逃避的な場ではなく、徹頭徹尾社会的な組織としての「信団」である。

【リチャード・バクスターに見られる職業倫理】

 これは私の、どちらかといえば審美的な評価になるが、本書の魅力が最高度に深まる箇所は――すなわちその道徳律が確かに資本主義的な行為主体の到来を予告していると否応無く認めざるをえない人物についてヴェーバーが興味深げに語っているテクストであるが――それは無論、17世紀に活躍したピューリタンの牧師リチャード・バクスターのことである。カトリックの私から見ても、ヴェーバーが巧みに引用してみせるバクスターの教説(『聖徒の永遠の憩い』や『キリスト教指針』など)は、キリスト教という宗教システムが生み出したひとつの究極的な形態であると考えられる。私はヴェーバーの分析を通じてこの牧師のテクストに触れて、思わず頬に涙が伝ったことを告白せねばならない。私はそこに、確かにカトリック神学では絶対に到達し得ない、資本主義システムとの最高の「握手」の瞬間を見出した。
 バクスターによれば、キリスト者における最大の罪とは、「時間の浪費」である。神の栄光を増すためには、我々は昼の間に仕事をしなければならない。バクスターが「無価値」であるとして回避したのは、「無益なお喋り」、「無為の黙想」、そして惰性化し単なる習俗となったミサである。バクスターは以下のように我々に告げている。

常に時間を大切にし、毎日自分の時間をなくさぬようにもっと注意すれば、あなた方は自分の金銀を失くさぬようになるでしょう。無駄な気晴らしや衣服、ごちそう、無駄話、無益な交友、それに睡眠などのどれかがあなた方に誘惑となって時間を奪いそうになったら、よくよく注意しなさい。(p297、原註11)


 更にバクスターは驚くべきことに、「黙想」(祈り)は、「行為」(労働)に較べて、より「神に喜ばれることが少ない」とすら述べている。敬虔派にも共通する考えであるが、バクスターも「仕事」を持って働くことこそが「神への礼拝」であると考えていた。神に近付くためには、たった一つの条件しかない――「厳しく絶え間なく働け」。それも、貴族と庶民の社会階級の差異に関わり無く、「絶え間なく働く」ことこそが、「禁欲」であると規定される。ヴェーバーは原註の中で、以下のように彼の力強い説教を幾つか引用している。

直接神への礼拝を行っていない時には、自分の合法的な職業であるビジネス(仕事)に専念するよう力めねばならない。

自分の天職である勤労に励みなさい。

あなた方はそれぞれ絶え間なく働くべき職業を持っており、その働きを止めることが許されるのは直接神に礼拝をしている時だけだ、ということを知らねばならない。(p301、原註1)



 我々はここで思い出さねばならない。「二十世紀最高の小説」とも評されることのあるサルトルの『嘔吐』の主人公アントワーヌ・ロカンタンが、なぜかくも憂鬱にして吐き気を伴う「存在論」的な閉塞感に苛まれていたかを。サルトルが「神の死」後の現存在の疎外された状況を克明かつ濃密に描出しているという一般的通念を、ここで意図的に捨象し、我々はあくまでもバクスターのテクストと、サルトルのテクストの双方を厳格に比較せねばならない。この二十世紀フランスの作家は、以下のように「図書館」という憂鬱な空間で行う「仕事」について、以下のように告白している。

私には自分がまったく空想的な仕事をしているという感じがする。小説の作中人物のほうが、なんといってももっと真実な姿をしており、いずれにしてももっと心を楽しませるものであると確信する。(p25)


私は友人を持っていない。私の肉体がこれほど剥き出しであるのは、そのためだろうか。まるで――そうだ、まるで、人間の住んでいない自然のように。

私はもう仕事をする興味がない。夜を待つことの外に、もうなにもできない。(p32)

このカフェの奥から何かが、この日曜日のばらばらの瞬間の上にあと戻りしてきて、それらの瞬間を互いに接合し、それにひとつの意味を与える。私はここに辿り着くために、この窓ガラスに額をつけて暗紅色の窓掛けを背景に花咲いているあの繊細な顔を眺めるために、今日という一日を過ごした。すべてが停止した。(p92)

周囲を私は不安気に眺めた。現在だけだ。現在以外の何ものもなかった。現在という殻に覆われた軽くてしっかりした家具類、机やベッドや鏡つき洋服簞笥――そして私自身。(p156)


 サルトルが1960年代のフランスの若い知識人たちから高く評価され、この時期の学生たちがハイデッガーの存在論に特に深い関心を示していたことは、ブルデューが学生時代の同年代のノルマリアンたちの志向性を分析した『自己分析』にも詳密に綴られている。我々は無論、ロカンタンを「存在論」を考察する上での格好の演劇的主体としてみなすこともまた可能であろう。だが、社会科学的な見地からすれば、この男がなぜ絶えず「不安」に駆り立てられなければならないのかの根本原因は、ただ一つしかないことが判然とするだろう。すなわち、この男性は知的な職を持つが、ほぼ「無職」に近い状態であるということである。誰からも強制されることなく、場末の酒場と図書館とアニーの部屋だけを往復する日常――ここには、「貴族」ですらも「絶え間なく働け」と説いたバクスターのようなピューリタニズム(つまりは初期資本主義へと繋がる性向)が入り込む余地はどこにもない。敬虔派の教えでは、「自己の恣意を殲滅するのに役立つ」行為として、「労働」が積極的に肯定されているが、もしもロカンタンがこうした教義に忠実であったならば、「現在」の捉え方はよりいっそうシビアにして苛酷、かつ美しいものであっただろう。シモーヌ・ヴェイユは『前キリスト教的直観』の中で、「労働」に伴う「苦」を審美的次元で以下のように把捉している。

見習い修行をしている人が怪我をすると、仕事が身体のうちに入ったのだ、と言われる。このことを理解するならば、同様に、あらゆる苦しみについても、美の本体が身体のうちに入ったのだ、と考えることができよう。美の本体は神の〈子〉である。というのも、神の〈子〉は、〈父〉のイマージュであり、美は善のイマージュであるからである。(p41)


 ロカンタンが我々にとって醜悪奇怪であるのは、彼の鏡面に映し出される顔が「醜い」からではない。そうではなく、彼が「労働」に伴う「苦」から絶え間なく逃走し続けているからである。ヴェイユ的に言い換えれば、それはまさに「美の本体」が身体の内に入ることに対する明晰な「拒絶」に他ならない。
 ピューリタンや敬虔派に見出される、こうした「労働への意志」は、美学上の古典である初期エドマンド・バークの『崇高と美の観念の起源』における、以下のテクストによってまさに、ロカンタンの日常がなぜ「吐き気」を伴うものであるかの解明に寄与している。

「休息と不活発の状態はたとえそれがどれ程我々の怠惰の情を探ろうとも所詮は様々な不便を世の中に生み出す結果となって、我々はこの種の混乱から抜け出すために是非もなく自分が最小限満足すべき人生を送る上で絶対不可欠な方便としての<労働>に赴かざるを得なくなるのは、天の配剤に他ならない。というのは、休息の本性は我々の身体の全ての部分を弛緩状態に落ち込ませることであり、その結果各器官は自らの固有の機能を果たす能力を喪失するのみならず、自然必然的な分泌作用の遂行に不可欠な繊維の活力までを消耗せしめることとなる。それと同時にこの倦い不活発な状態で神経は、それが充分引き締まって強化されている時に比して極度に怖ろしい痙攣にずっとかかり易い状態にある。憂鬱、落胆、絶望そして往々にして自殺までが、このような身体の弛緩状態での我々の悲観的な物事の見方の結果なのである」(p145-6)


 バークによれば、仕事とは基本的に何らかの「困難」、「苦」の感覚の体験に他ならない。例えば、長時間の労働、残業によって心身ともに疲弊し尽した状態では、我々は帰宅してから眠ることしかできないであろう。だが、バークにとってはまさにこの精神的、及び肉体的な巨大な「苦」こそが、仕事の「恵」であり、美学的にいえば「崇高」に他ならない。そもそもバークの家系はアイルランド国教会に属しており、この宗派は宗教改革の際にカルヴァン派の教えへの転換が図られ、ピューリタンの労働観と深い親和性を持っていた。我々はこのように、バクスターの宗教的な労働概念を、美学的に再現したものとして、バークの労働観を改めて解釈し直すことができるだろう。
 このようなわけで、バクスターにとって、労働力を持ちながらもそれを行使しない人間は「恩恵の地位を喪失したしるし」として規定される。更にヴェーバーはこの牧師の以下の言葉を引用している。

確定した職業でない場合は、労働は一定しない臨時労働に過ぎず、人々は労働よりも怠惰に時間を費やすことが多い。(p308)


 こうしたピューリニズムの職業倫理をヴェーバーは以下のように解釈している。

「天職である職業を持たない者」の生活には、既に見たように、世俗内的禁欲が要求する組織的・方法的な性格がまさしく欠けている。クエイカー派の倫理の場合も、人間の職業生活は不断の禁欲的な徳性の錬磨であって、天職としての職業に従事する際の配慮と方法のうちに現れてくる、その両親的態度によって、自分が恩恵の地位にあることを確証せねばならない。(p309)


 非正規雇用での労働を余儀なくされている二十代~三十代の若者が多い現代日本にあって、かつてバクスターが「確定した職業でない」労働を、むしろ「怠惰」な時間に過ぎず、別の箇所では「好ましからぬ中間状態」であると規定していたことは示唆的である。また、ヴェーバーは原註でやはりバクスターの以下のテクストに触れている。

バクスターは、「のろのろした、不精な、肉慾の強い、怠け癖のある人々」を「雇人」として使わず、「信仰の厚い」雇人を抜擢するよう勧めている。それは、「信仰のない」雇人は「裏表のある雇人」だというだけでなく、とりわけ、「真に信仰の厚い雇人は、神御自身が命じ給うたかのように、神への従順をもって、君の全ての仕事をする」からだ。が、「信仰のない」雇人は、「それを重要な良心の事柄とは考えない」。逆から言えば、労働者の場合、彼らの救いの目印は外側の信仰告白などではなくて、「義務を果たそうとする良心」なのだ、と。(p358、原註3)


 一見些細な原註で紹介されているこのバクスターの採用条件への戒めこそ、まさに来るべき資本主義社会における「企業家」の、労働こそを神への従順と同一視する認識へと接続する最良のテクストである。バクスターの教えに触れて、初めて我々はヴェーバーがプロテスタンティズムの倫理が資本主義社会の精神と明らかな繋がりを持ち、むしろそれを準備していたということを理解するに至るのだ。
 転職する際にも、バクスターは「神にいっそう喜ばれる天職」、すなわちいっそう万人にとって最善であり有益な職業を選択せよ、と考えている。自分にとって何が「天職」であるかを判定する基準は、ヴェーバーの解釈によれば、(1)道徳的基準、(2)common best(公共の福祉、ないし全体への貢献度)(3)その人自身の収益性の三つであるが、いずれにしても抑えておかねばならないのは、彼らが「仕事」を合理化することを、「万人にとって最善」の行為であると確信していた点である。
 厳格なキリスト者が、社会でも極めて富裕な金満家に至るということ――この社会的なメカニズムの解明のために、ヴェーバーは更にバクスターの以下の言葉を引用している。

もしも神があなたがたに、自分の霊魂も他人の霊魂も害うことなく、律法にかなったやり方で、しかも、他の方法によるいっそう多くを利得し得るような方法を示し給うた場合、もしそれを斥けて利得の少ない方法を選ぶとすれば、あなたがたは自分に対するコーリング(召命)の目的の一つに逆らい、神の管理人としてその賜物を受け取り、神の求め給う時に彼のためにそれを用いることを拒む、ということになる。もちろん肉の欲や罪のためではなくて、神のためにあなたがたが労働し、富裕になるというのはよいことなのだ」(p310)


 この箇所に及ぶと、ヴェーバーがプロテスタンティズム(実質的にはイギリスのピューリタンの職業倫理)の中でも、特にバクスターの教えに注目せざるを得ない理由が明らかになるだろう。この貴重な説教で開示されているのは、まさにカトリック的な「清貧」への強烈なアンチテーゼである。カトリックでは、宝は地上ではなく天にこそ積め、と教える。たとえ我々が貧しくても、それは「清さ」の現れである、とする。しかし、バクスターは「富裕になること」こそが、実は神のために「善い」こと、すなわち禁欲的な「清さ」の現れであり、「恵み」であるとみなすのである。ヴェーバーは以下のようにこの説教にほとんど同調しつつ解釈している。

貧しいことを願うのは、しばしば論じられているように、病気になることを願うのと同じで、行為主義として排斥すべきことだし、神の栄光を害うものだとされた。それのみでなく、労働能力のある者が乞食をするのは、怠惰として罪悪であるばかりか、使徒の語に照らしても、隣人愛に反する事柄だった。(p311)


 原註の中で更にヴェーバーは、トリエントの宗教会議に提示されたヴェルテンベルク侯クリストフ(ルター派)にも見られる「清貧」というカトリック的な義務感への反対表明を紹介している。

自分の身分ゆえに貧乏な者は、それを耐え忍ばねばならない。しかし、いつまでも貧乏でいることを誓ったという場合、いつまでも病気のままでいるとか、いつまでも悪評を受けたままでいる、と誓ったのとまったく同じだ。(p317、原註14)


 実はハイエクも言及していたことだが、資本主義社会の精神はカトリックのイエズス会と深い繋がりを持っているという点についてヴェーバーはp315の原註12で軽く触れてはいる。しかし、ヴェーバー自身は上流階級のプロテスタントに出自を持っているので、どうしてもカトリックの方に資本主義との親和性を見出すような論調を採用することはできない。彼は以下のようにカトリックとプロテスタントの差異を印象付けている。

すなわち、プロテスタンティズムの天職倫理が禁欲生活のまさしく最も真面目な信奉者たちを、結果において資本主義的営利生活に奉仕させることになったのとは正反対に、カトリシズムにおけるこの自由派的見解は、まさしく、最も真面目で厳格な信徒たちが近付かない、つまり、教会の権威によって承認されていないような、独自の弛緩した倫理学説の産物だった。カトリシズムでは条件付きで許容され得た事柄が、プロテスタンティズムでは積極的に道徳的に善いこととなったのだ。(p316、原註12)


 この箇所を、ヴェーバーの単なる護教論的な自説の補強として解釈しないようにしよう。むしろ、カトリックであれプロテスタントであれ、キリスト教における「禁欲」概念は、容易に資本主義システムにおける「資本」の増加のプロセスへ反転し、その最高の条件付けとして機能し得るということをヴェーバーは力説しているのである。既にカルヴァンは「物乞い」を厳禁し、チャールズ1世治世下のピューリタンの合言葉は、Giving alms is no charity(施しは慈善に非ず)であった。

【資本主義の精神の成立】

 ヴェーバーは「旧約の神」への信頼を中心にした「形式的合法性」としての諸行為が、プロテスタンティズムの労働観を形成していると考えている。それゆえ、彼はピューリタンを特に「イギリスのヘブライズム」と呼ぶ識者の見解に肯定的である。ピューリタニズムに見られる「合理的禁欲」の最大の敵が、仕事や信仰を忘却させるほどの「衝動的な快楽」であるという点は、カトリックの禁欲主義とそれ程大きな違いがあるわけではない。ヴェーバーはピューリタニズムの文化観についても言及しており、特にバクスターに従えば文学やその他の「感覚芸術」を「学問」に非ず、特に「小説」の類はwaste times(時間の無駄遣い)になるから「読むべきではない」と規定された。更にピューリタンたちは劇場を排斥し、エロティシズムを主題にしたような裸体表象を徹底的に回避したのだが、こうした極端にヒステリックな反応はシェイクスピアから軽蔑の目を向けられもしている。彼らは「文化財の悦楽」については、けして「何の支出もしてはならない」を信条にしていたが、ここには仕事に支障を来すような文化財に現を抜かすべきではないという堅固な合理的禁欲主義の思想が垣間見える。ヴェーバーは彼らのビジネスを優先し、芸術を堕落として捉えるような態度を「営利機械」(p339)とも表現するが、これはけして皮肉ではない。
 ピューリタンのバクスターだけでなく、クエイカー派のバークリーもやはり非合理的な消費を斥けるよう人々に説いていた。彼らにとって、富のみを目的としてひたすら追求するような拝金主義は聖書的に罪であるが、禁欲のために行う労働の結果、自然に蓄積されていく富はむしろ穢れなく無垢な資本であり、これは「神の恩恵」に相当するという。ここに、まさに「禁欲における資本形成」、すなわち「貯蓄」の倫理的なメカニズムが図式として浮かび上がる。禁欲にも実直に仕事をして、無味乾燥で一過性の救済感覚しか与えてくれない文化物一般に資本を投資することなく、神のみを信じて働き家族を守って生活していれば、その人は神の恩寵としての「資本」に恵まれるのである。こうして、「巨大な富を持ちながらも極めて簡素な生活」を送っていたピューリタンの資本家たちが登場してきたのだと、ヴェーバーは説明している。実はこうしたヴェーバーの考察は既にジョン・ウェズリーの説教の中で示唆されているものであった。以下のウェズリーのテクストは、ヴェーバーの本書における最良の「要諦」として機能するだろう。すなわち、

我々は全てのキリスト者に、できる限り利得すると共に、できる限り節約することを勧めねばならない。が、これは結果において、富裕になることを意味する。(p353)


 この一文に示されているようなプロテスタンティズムの倫理観が、まさに資本主義の精神を予兆しているのである。御気付きのように、ヴェーバーは本書でカルヴィニズムというよりも、実は「イギリスのカルヴィニズム」たる「ピューリタニズム」にこそ焦点を当てている。それが結果的には、イギリス国民の本質を知るための手掛かりになるからだ。彼は以下のようにその「国民性」に言及している。

17世紀以来、「ありし日の楽しきイギリス」の代表者であるスクワイヤラーキー(準貴族地主層)と、社会的勢力の著しい変転はあっても、ピュウリタン諸層(ヨウマン〔独立自営農民〕やファーマー〔借地農民〕)との軋轢は、当時のイギリス社会を縦に貫いてみられたが、この二つの性格、すなわち、ありのままの素朴な人生の喜びを味わおうとする性格と、厳密な規律と自制によって自己を統御し、形式的な倫理的規制に身を委ねようとする性格、この両者は、イギリスの「国民性」の中に今もなお併存している。(p346)


 ここに、「イギリスの資本主義社会」の比較宗教学的なアプローチというヴェーバーの方法論が可視化する。そして現代にあって、ヴェーバーは「我々は天職人たらざるをえない」(p364)と述べている。つまり、我々は何らかの「仕事」を持って、その職場の中の合理主義に身を染める必要があるのだ。日本ではヨーロッパの資本主義システムが導入されたため、伝統的なキリスト教の倫理という下部構造を持たない経済原理が生まれているが、日本人が「禁欲としての資本形成」という宗教意識を持っているかという点は、ヴェーバーの考察の枠外に位置している。本書の要諦として重要なのは、プロテスタンティズムの倫理概念が資本主義の行為者の合理主義的性向を準備したという点にあるが、ヴェーバーは同時代の特徴として、ここに今や「禁欲」としての性格が抜け去りつつあることを認めている。いわば、プロテスタンティズムの倫理が脱落し、今はただ資本主義のシステムだけが構造として既にある状態である――「鉄の檻から抜け出してしまった」(p365)状態としての現代社会。ヴェーバーはこうした禁欲精神の抜け落ちた資本主義社会の拝金主義に、いわば警鐘を鳴らしているとも考えられる。




「参考文献」



プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)
(1989/01/17)
マックス ヴェーバー

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