† 表象文化論 †

「ニンファの落下」にみるmodernitéの地平から、ドゥルーズの「襞」の三つのアスペクトへ――表象文化論の基礎文献、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『ニンファ・モデルナ――包まれて落ちたものについて』の世界


ニンファ・モデルナ: 包まれて落ちたものについてニンファ・モデルナ: 包まれて落ちたものについて
(2013/06/24)
ジョルジュ ディディ=ユベルマン

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 このページでは、森元庸介氏の翻訳で刊行されて以来日本でも多大な注目を集めているフランスを代表する美術史家ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの『ニンファ・モデルナ――包まれて落ちたものについて』〔Ninfa Mederna: Essai sur le drapé tombé(Gallimard, 2002)〕の読解記録を残しておく。本書はベンヤミンの「近代」観における要諦概念であった名高い「アウラの凋落(Verfall)」をイメージ化して言い換えた戦略として、「ニンファの落下」というまことに驚くべきテーマが提示される。

【ニンファの落下、あるいはクリナーメン】

 そもそもヴァールブルクにとって「ニンファ」とは、「Nachleben(残存)の特性なきヒロイン」として位置付けられる。ディディ=ユベルマンにとって、ここでいうニンファはベンヤミンのaura(アウラ)の概念と重なるものである。現代のニンファについて把捉する上で重要な概念として、ディディ=ユベルマンはclinamen(クリナーメン)というラテン語の意味について解説している。それをまとめると以下のようになる。

clinamen(クリナーメン)

 語源はギリシア語のklinē(クリネー)で、これは「ベッド」、「褥(しとね:敷物、布団類)」、「神々の横たわるクッション」などを意味する。

(1)物体の傾斜、あるいは傾いて落下にいたる動きを意味し、絵画史においては「ニンファのゆるやかな、また優美な滑空の様」を指している。
(2)ルクレティウスの原子論では「運動の偏向」を意味する。



 以上から、ユベルマンは「ニンファの落下」をクリナーメンとして捉えている。すなわち、それは単なる「落下」ではなく、「考え得る様々な枝分かれが生じてゆく」(p14)ものであり、「微候的な構造」を形象として描きながら「迂回」するものである。一言で言えば、ニンファは「枝分かれしてゆく」ような力性に支えられて迂回的に落下するのだ。これが、ひとまず運動的なイメージとしての「ニンファの落下」である。ただし、ディディ=ユベルマンはここに以下のような重層的な意味を幾つか含ませている。

逃散するミューズ、落下するニンファ、そして凋落するアウラ。それらは同じひとつの事柄だ。しかし、落下や逃散、そして凋落は純然たる不在を生むわけではけしてない。不在はつねに不純である。不純であること、それは心的な強迫や物的な痕跡、幽霊や残骸に――豊かに――塗れてあるということだ。そして、それらはいつかどこか、街路の片隅や木陰に、布となり皺となり、襞となって現れる。(p167)


 我々はディディ=ユベルマンの「ニンファの落下」の概念を最初にまずしっかり把握しておかねばならない。これを理解することで、ドゥルーズの「襞」や谷川渥の「ヴェール(薄布)」の美学的な概念とこの概念がいかに深い親和性を持っているかが判明するからだ。例えば、以下のような例を提示しておこう。一人の画家が「妖精」の絵を描いている。この妖精は裸体であり、彼女の足下には脱ぎ捨てたばかりの「衣服」が転がっている。その衣服は無数の皺、襞を孕んでいる。妖精は官能的な裸体として描かれており、これがニンファである――そう我々は一般的に考えるだろう。だが、ディディ=ユベルマンによれば、この落下した「衣服」こそが、実は彼女の「身体」を表象=代理しているというのである。
 このような考えは、一体どのように生まれてくるのだろうか? そこで重要になるのが、ディディ=ユベルマンが本書の「ニンファについて、その落下について」で言及しているボッティチェッリ論である。既に我々はこのサイトで彼の『ヴィーナスを開く』における、その特異なボッティチェッリ論に触れているが、ここではまたその要諦が以下のように変奏されている。

ボッティチェッリの絵に描かれた人物たちは不可解なほど感情を欠いているが、そのパトスは実のところ、身体の端部という、「付随的」でありながら「運動する」要素、つまりは風に揺れる髪や布の襞へ転位されているのだ。そのようにして、表象された身体と、その身体の「運動する付随物」とが徴候を通じて枝分かれしてゆく。こうした現象はヴァールブルクの研究対象の至るとことに見受けられるけれど、私が今思い描いている「映画」、つまり少しずつ落ちてゆくニンファの映画においては次のような場面となって現れる。すなわち裸体を覆っていた布が、ごくゆっくり離れてゆき、ニンファを包む布ばかりがスローモーションの中で地面へ落ち、ぎりぎりまでニンファを裸にし、やがて彼女自身も地表へ達して、シーツのように広がった布に再び迎え入れられる、というような場面だ。(p15)


 このテクストが重要なのは、ディディ=ユベルマンが本書で我々に提示する「ニンファの落下」のイメージが、端的に「映画」的な、幾分イリュージョニスティックなイメージを伴って、架空の「映画」のワンシーンとして表現されているためである。それだけでなく、彼はヴァールブルクの視座を看取しつつ、ボッティチェッリの絵が有するスタティックで静謐な側面は、脱ぎ去った後のくしゃくしゃになった衣服の襞や揺れて乱れる髪の毛のダイナミズムに「転位」していると述べている。これは、穏やかな性格を画風から感じさせるこの画家の内面が、実は高度に揺れ動き、「迂回」を描きつつもそれをあくまでスタティックに描出していたという稀有な作風を我々に伝えるものであるだろう。その上でディディ=ユベルマンは、こうした内面のダイナミズムが直接的に「身体」の表情として露骨に描かれるのではなく、「衣服」のような残存物、末端物に「代理=表象」されている図式を浮かび上がらせているのである。ニンファが「衣服」を脱ぐこと――それは果たして何を意味しているのだろうか? 彼は以下のようにその特異な「布のイコノロジー」の要諦を説明している。

ボッティチェッリの横たわったヴィーナスからティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》、更にはそれ以降の同主題に基づく様々な作例まで。そうした全ての絵でドレスが落ちていることは容易く確かめられる。身体からヴェールが取り去られる。すると、肉と同じように布も視覚性の水準において自律し、固有の「生」を獲得する。このプロセスを通じて、布はイコノロジー的、そして現象学的な機能を新たにし、幾つかの点でそれ以前より強力なものとなる。それまでは、衣の襞が身体のパトスを包み、これを凝縮していた。いまやこれに代わって布が、横たわり、打ち捨てられ、差し出される身体のための場となる。(p17)


 ディディ=ユベルマンは「身体」という対象を「別の何か」で思考する。それは、「あるものを別の何かで表現する」ことが「記号」の定義であるとしたクインティリアヌスの記号概念を絵画的次元で満たす点で、極めてメタフォリカルであり、テクストの次元に還元すれば、「メタファー」、「メトニミー」に近い思考が垣間見える。欲望の対象が彼の視座においては、その「残存物」=脱ぎ捨てられた衣服に代理されるのだ。あたかも、彼女を愛するのではなく、彼女が着ている無数の襞を持つスカートを彼女「として」愛するかのように。
 ここにおいて、我々の前には日本を代表する卓越した美学者の一人である谷川渥の名高い「芸術の皮膚論」とも相関する、あるいはドゥルーズのバロック的原理の収斂する場であるところの「襞」を美学的な戦略素として活用した思考が展開されていることになる。「身体」とは、「布」によって代理される。コレッジョの描いたダナエは、ディディ=ユベルマンにとってヴェールの「襞」と性的に戯れていると解釈される。このヴェールは、それ自体で純白の皮膚を持つ何らかの小動物を想像させるものであるが、実はこのヴェールという「布」と同じ次元に、画家は神であるゼウスを、すなわち「白鳥」を、あたかも布のように描いているのである。ゼウスの本質とは「布」であり、それは無数の襞を持ってニンファと戯れるのである。こうした「身体」が「衣服」に、あるいは戯れを媒介にして「衣服」が「白鳥」へと自在に「転位」するプロセスを、国際的な再評価が高まり続け、ディディ=ユベルマンが本書で最大の敬意を払っているヴァールブルクは「力性に満ちた反転」と表現した。ここまでくれば、最早「ニンファ」の定義はただ、衣服を纏った女性という程度の意味しか持つべきではないことが明らかになるだろう。劇場で踊るオペラ女優も、白鳥に犯されるレダも、ウラノスの精液を暗示させる無数の泡だまりを背景にして微笑みを浮かべるヴィーナスも、共に「ニンファ」に他ならない。彼はこの言葉に、あえて特定の意味を与えているわけではないのだ。
 ティツィアーノの《バッカスとアリアドネ》においても、この酒神によって犯され、投げ捨てられたニンファは、「もみくちゃになったドレス」という「残存物」として表現されている。衣服が脱ぎ捨てられていること、それはいわば「欲望の痕跡」である。彼女はバッカスに犯されたのだ。だからこそ、彼女の衣服には無数の襞があり、投げ捨てられ天をただ茫然と仰いでいるのである。しかし、デリダがルーヴル美術館から依頼された絵画論『盲者の記憶』によれば、「起源に廃墟が到来する」のであるから、実は衣服とは「痕跡」でありながらも、欲望を生み出した親、その起源でもある。だとすれば、「衣服/裸体」、「オリジナル/コピー」、「内/外」といった二項対立(ディコトミー)式の思考の文法は脱構築され、「衣服」そのものをニンファとして把捉する視座が成立してもけして奇妙ではないだろう。この点を、ディディ=ユベルマンは印象深く以下のように述べている――「残存の形態は終わりを持たず、いつもどこか別の場所に宿る」。
 
【ステファノ・マデルノの《聖カエキリア》とドゥルーズの「バロック的な襞」】

 本書の「聖女について、その遺物について」では、谷川渥も『肉体の迷宮』で注目していたステファノ・マデルノの名高い《聖カエキリア》から思考が出発する。聖カエキリアはキリスト教において「音楽」の守護聖人である。中世に広く流行した聖人伝承の集大成である『黄金伝説』によれば、彼女はナザレのイエスに匹敵するようなおぞましい殉教を遂げたと伝えられている。マデルノの彫刻は白いのでよく判らないが、実はこの像は実際のところ「血」に塗れていなければならない。
 マデルノの本作には、ある偽の伝承がヴェールのように纏わりついている。そのデマによれば、1599年にこの聖女の亡骸が発見された時、世界から隠棲しただ孤独に内側から神に向かおうとしているかのようなこの特異な姿勢を保ったまま、彼女は永眠していたのだという。しかし、実際の発見者たちの記録によれば聖女が完全な姿で納棺されていたというのは事実無根であり、実際は襤褸布だけが箱の底の方に溜っていただけだったという。マデルノが聖女をこのような姿勢で制作したのは、底に溜っていた血の染み付いたガーゼや襤褸切れの形から、そこにおそらく血塗れの女性が俯せになっていたであろう「痕跡」を認めたためである。とはいえ、この死者が本当に聖女なのかという証拠はどこにもない。いずれにしても重要なのは、マデルノが「形なきもの」としての「布」から、それに包まれていた「形あるもの」としての「身体」を再現したということである。その上で彫刻家は、ヘレニズム期や古代ローマにおいてテーマにされた「死せるペルシア人」(これは頽れる身体と彼を覆う襞のモチーフを持つ彫刻の画題である)を形態的に採用している点も、ディディ=ユベルマンは指摘している。最初に発見された聖女の「聖遺物」について理解するためには、別の章の、ジェルメール・クリュルら二十世紀の写真家たちの掃き捨てられた路上の襤褸布の「残存」的性格を説明する際の以下の記述が参考になるだろう。

…「残存」において、物はいつでもより不純になり、また、より不純なものとして回帰する。それは、クリナーメンという運命的な運動を描き出しながら、ただ措定された――それは「下方へ過ぎってゆく」という意味である――ものとしてのみ、更にまた、常に解体へ向かうようなものとしてのみ存在している。果物は遠からず腐ってゆくだろう。街路の襤褸布は形なきものの方へ、おぞましい「汚れた瘡蓋」の方へ、絶えず下降してゆくだろう。(p106)


 《聖カエキリア》がドゥルーズの「バロック的な襞」における「三つの本質的なアスペクトに完璧に対応している」(p48)とされる点は特に注目すべきであろう。そのアスペクトを本作に照らし合わせてまとめると、以下のようになるだろう。

「ドゥルーズにおける〈襞〉の三つのアスペクト」

(1)〈拡張〉――「できる限り小さな面積にできる限り多くの質料」を詰め込むことである。これは「拡張」と呼ばれる。これは聖女の身体を覆うヴェールの持つ無数の襞として表現される。
(2)〈強度〉――「強度の賦与」である。それは「衣服の襞」の持つ自律的な広がりであり、宗教的な神聖さを強める効果を持っている。
(3)〈内属〉――「内属せしめる包み」としての性質。折られたものは、内包されるもの、内属するものである。「折られたものは潜勢的にのみあり、現勢態として存在するとすれば、それはただ包みのうち、己を包む何かの内においてのみ、ということになるはずだ」(ドゥルーズ)。


 こうした特徴は、内が外へと反転し、かと思えば急速に再度内部へと折り畳まれる生成的なダイナミズム、「生きたニューラルネットワーク」そのものである。マデルノの聖女は、このようなアスペクトの重層的な次元においては、「内臓という大掛かりな型取りを眼に見えるようにしたものに他ならぬ」(p48)、と解釈されている。ディディ=ユベルマンは明示しているわけではないが、ここで明らかに聖女の衣服的な「襞」を「内臓」という不可視の「襞」の表象=代理として捉えていることは、まず間違いない。すなわち、聖女がおそらく血塗れで身に纏わざるを得ないであろうこの衣服の「襞」は、彼女が殉教する際に何度も失敗を余儀なくされ、切断を免れてはいるがほとんど「落下」しそうになっている首の「切断面」における筋肉組織の無数の「襞」を、いわば神聖なる「受苦」のメルクマールとして外へ向かって表出したものとして解釈することが可能であろう。あるいは、これは実はマデルノの同作について谷川渥が展開した、やはりドゥルーズの「襞」を戦略にした「内生的襞」と「外生的襞」のキアスム(交叉)の考えへと、我々を一気に導くものでもあろう。その場合、ディディ=ユベルマンの言う聖女の「内臓」は、女らしさが最も端的に構造化されている身体組織としての「膣内」の無数の襞へと接続する。その時、我々が目にしているのは最早《聖カエキリア》という「包まれたニンファ」ではない。そうではなく、その外の襞が内の襞を表示しているものとしての、すなわち聖女のヴァギナを外へ反転させ、転位させたものとしての彫刻である。この表象の倒錯的次元において、我々は聖女の衣服の襞に彼女の現れざる内的な襞を見出すことが可能であろう。いずれにしても忘れるべきではない点は、「内」と「外」は実は二項対立的な概念ではなく、常に反転可能性を帯びた戯れ、螺旋、襞――ディディ=ユベルマンの表現を使えば、まさに「ニンファの落下」における無作為に滑らかな曲線を戯れとして描き出すクリナーメンそのものなのだ。

…それは、侵し難い聖女の身体を、純然たる形象上の潜勢態、まさに折り込まれ、皺くちゃのヴェールという形態をまとった潜勢態のうちに包み込む。…「力として潜勢しているものそれ自体が働きとして現勢している。そして、まさにそれこそが襞による現勢化の働きなのである」(ドゥルーズ)。(p50)


 ここには、谷川渥に学んだ作家諏訪哲史氏が『ロンバルディア遠景』で「世界の果て」と表現したものを解き明かす鍵があるだろう。世界の果て――それは端的に「僕の背中」なのである。あるいは、フロイトの名高い「イルマの夢」の表現を借用すれば、それは「極め付けの分泌物を放つ」肉体の秘奥である。何故なら、それらは我々の眼には普段見えない。「見えない」ということは、すなわち他の何かによってその特徴が余すところなく「表示」されていることを意味する(パラケルススの「特徴表示説」への接近)。「見えないこと」、すなわち「内部」であることの存在論は、常に「外部」への形態的な放出を孕んだ力動性として位置付けることが可能なのだ。かくして、「世界の果て」とは「僕の背中」だと、ドゥルーズ、谷川、ディディ=ユベルマンの視座からすれば言い得るわけである。あるいは、これは発見されなかった聖女の「身体」という「見えないもの」が、残存物である「見えるもの」としての「衣服」によって拡張されて表象=代理されていると考えることもできるだろう。いずれにしても、これらは極めてドラスティックな美学上のテーマを提供していると言える。

【ド・マンのモダニティ概念との接続】

 modernité(モデルニテ)とは何か? これはド・マンが『盲目と洞察』のジョルジュ・プーレ論で展開していた近代論とも相関する重要なテーマであるが、ボードレールによれば「現代的であるとは、一時的なものから永遠なものを抽出すること」だと解釈される。これは映画においては、ゴダールの名高い『はなればなれに』の中で冒頭の英語教師が黒板に書く言葉“classique=moderne”――「現代的であるとは、古典的であることに等しい」――としても我々の文化に垣間見えるものである。ベンヤミンもまた、モデルニテを「根本的に死に絶えてしまったものへの情熱的な関心」として本質的に把捉していた。共通するのは、実は「現代的」たろうとするならば、逆説的なことに「古典」に新たな息吹を吹き込ませるという真摯な所作なのである。こうした先行する見解を受けて、ディディ=ユベルマンも以下のようにモデルニテ、あるいは「モダンなもの」を定義している。

モダンなものは、死んだもの――流行遅れのもの、時代遅れのもの、古代的なもの、過ぎ去ったもの、死体じみたもの、太古のもの、残存するもの――を流行させるのだ。つまりモダンな芸術とは、記憶の技法をモードに持ち込み、流行遅れそれ自体を流行のうちで作動させる、宿命的にアナクロニズムめいた実践知なのだと言える。(p59)


 ここで我々は現代思想上から現在多大な注目を集めているド・マンの前掲書のモダニティの概念を振り返ってみよう。ド・マンが我々に作家たちの創造原理を通じて「モダニティ」が何であるかを説明している。それはまず、モダニティを自己体現しようとする欲望を通して生成する。しかし、いかなる作家もけして自らが望むモダニティを完全に実現し尽くすことはできない。ここで彼らが「古典」へと反転衝動のように立ち返り、文学そのものの遺産へと「折り返される」瞬間――まさにそれは、モダニティの概念が文学の歴史性と手を結ぶ瞬間――前衛たらんと意志する者は、この望むべき前衛を体現できないという「挫折」、「断念」を通して初めて文学史そのものの連続性、反復性を半ば苦渋に満ちた面持ちで受容せざるを得なくなるのであり、ここにこそ読者がその作家をして真に革新的であるとみなすテーマ、概念が前景化する。かくして、モダニティそのものは根本的に文学からの離脱であり歴史の拒否として規定できるが、それはまた文学に歴史性を与える根本原理としても作用する。すなわち、ド・マンにとってもやはりモデルニテは、ゴダールと同じく根源的に「古典的」、「歴史的」であることを意味するのである。
 マックス・ヴェーバーがその『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で鋭く指摘したように、現代の資本主義社会の基盤を用意したのは実はヨーロッパ社会におけるカルヴィニズムの「予定説」に見られるような「世俗内的禁欲」の精神であった。これを我々は、聖なるものへの信仰が、形を変えてこの世の原理である「資本」へと表象=代理していると捉えることも可能であろう。これを同じことが、ベンヤミンの「アウラ」、あるいはディディ=ユベルマンの「ニンファ」にも妥当するのである。前者はアウラの「凋落」を問題視し、後者もまたその「落下」を主題にしているわけだ。では、我々の著者の場合、かつてのニンファは今、いかなる芸術領域に、「何として」表現されているのだろうか?
 ディディ=ユベルマンの特異な思考は、この「ニンファの落下」というモデルニテのメタファーを、路上に放置され見捨てられているありふれた「襤褸布」に見出すのだ。思い出そう、モデルニテが高度に「古典」の体系をその内に残存させていたことを。これと同様に、襤褸布とは、まさに「〈かつて〉についての」、「最も内奥のイメージ」を我々に賦与してくれるものの記号なのだ。襤褸布には、まだそれが真新しい衣料であった頃の「過去」に想いを馳せさせる効果がある。その一枚の襤褸布には、いわば都市そのものの記憶が折り畳まれている。何故なら、襤褸布にもまた時間の堆積によって形成された無数の「襞」が存在するからだ――「押し広げ、包み込み、内側に取り込む襞」(p76)。これはまさに、「古典」的なものを再領土化した前衛的なるもの、すなわち「モデルニテ」のド・マン的な定義の極めて秀逸なメタファーとして機能している。同時に、ディディ=ユベルマンは例えばアジェの撮影した何気ない路上の襤褸布に、「布に包まれたニンファ」を見出している。それは幻視、空想ではなく、高度に「近代」論的なテマティスムを孕んだ弁証法として展開されている。襤褸布には、もうニンファは不在である。あたかも、現代は襤褸布がニンファの「残存」を表現しているかのように、この「落ちているもの」は、最早「包まれていたもの」を宿していない。そこにあるのは、ニンファ=アウラの「残存」であり、「痕跡」である。しかし、それは逆説的なことに、そして全ての斬新な新しい小説が往々にして古典を父とするように、これらの襤褸布もまた「ニンファ」を「不在」という様態によって「現出」させているのである。
 このように、ディディ=ユベルマンが一見ありふれて瑣末なものとしての、あるいは「視覚的なクリナーメン」としての「襤褸布」に視点を合わせるのは、その「残存」的性格をベンヤミン経由で「モデルニテ」の概念へと接続させるための戦略だからである。それだけでなく、襤褸布は「廃棄物」として、都市機能における「余分なもの」としての意味を帯びている。作家ユゴーによれば、実は廃棄物としての襤褸布も都市のめまぐるしい消費の循環システムにも、特別な「目的」や「考え」は何もないとされた。ただ下水が地下を静かに流れるように、ひたすら都市は「意味」を「生産」し、「蠢いている」だけだと考えられる。我々が常に何か「生きる意味」を持っていなければ居場所を失ってしまうのは、このような資本主義社会の都市機能に帰属した行為者であるからだ。ディディ=ユベルマンがこのような都市の虚無性の象徴として、排水溝やマンホールをダンテの『神曲』に代わる『人曲』の世界における「地下の王国への入口」として表現する点は印象的である。マンホールにひっそりと転がる襤褸布は、いわばこの地下王国の存在を知らせる「徴候」でもあるわけだ。この他に、彼は「メトロの入口」、「パサージュ(歩行者専用の商店街)」、「公衆トイレ」なども都市の暗部へと繋がる空間として捉えている。
 かくして、我々の前に「布」の美学的本質が開示される。ディディ=ユベルマンは以下のようにその哲学的な戦略としての重要性を指摘するだろう。

布。それは現にあって働くものと力として潜んでいるもの、有機的なものと非有機的なもののインターフェイスであり、中心と周縁、主要なものと付随的なもの、生きてあるものと腐ったものの絶えざるはためきとして、「かつて」を「いま」の内に、あるいは「いま」に沿って折り込む。形態の歴史をめぐるこの古い問題は既にギリシア美術全般に見受けられるわけだが、それはいかなるモデルニテによっても廃れることがなかった。(p148)


 このテクストは、本書のタイトルがなぜ「ニンファ」の後にmodernité(モデルニテ)と題されているのかの解明に寄与するだろう。すなわち、モデルニテとは布の持つ「襞」のように、「古典的なもの」を内に含みつつ、それを「今」に沿って折り込むものなのだ。換言すれば、モデルニテとは「今日的なもの」を内に含みつつ、それを「過去」によって包摂するものでもあるわけだ。こうした「内」と「外」の反転のダイナミズムこそ、まさにド・マンのモダニティの概念と深い親和性を示すものであるだろう。
 
【ニンファの落下とモデルニテ】

 本書の締め括りである「コーダ」において、ディディ=ユベルマンは以下のように美術史家としての信念を表明している。これは同時に、何か「物を眺める」こと、それについて考える上での重要な所作の一つでもある。

見ているもののすぐうしろ、あるいはすぐ傍らに、いつも別の観察すべき何かがあるのではなかろうか。それこそが見ているものをより良く理解させてくれるのではなかろうか。周りにあるものを見ずに何かを見ることはできない。(p152)


 既に触れてきたように、本書で著者が理論的に依拠する人物として筆頭に挙げられるのは、やはりヴァールブルクであろう。続いて、ベンヤミン、バタイユ(とりわけ本書では『ドキュマン』)、そしてボードレールである。ヴァールブルクの『ムネモシュネ・アトラス』は最近日本でも刊行され話題を集め始めているが、本書では特に「パネル77」に見られるような、ばらばらになったイメージ断片を同じパネルという同一のコンテクストに配置する特異な異種混淆性が注目されている。著者が「モデルニテ」の概念を「襤褸布」や「ニンファの落下」に見出すインスピレーションを与えたのも、もしかすると『ムネモシュネ・アトラス』だったのかもしれない、という想像の誘惑に駆られるほど汲み尽くし得ない魅力を感じている。例えば先のパネルでは、現代の女性ゴルファーの写真が、古代のニンファと同じコンテクストで配置されている。これによって、ゴルファーもまた「ニンファの残存」として把捉する新しい視座が生まれるのだ。イメージの歴史を読み解く作業に、読み手自身の個人的な「夢」を含ませること――ディディ=ユベルマンはこうした思考法をヴァールブルクという卓越した師から受け継いでいる。
 本書の最後で紹介されるロレンツォ・ロットの《眠るアポロン》(1545-49)は特に印象的な、なかなか一般に流布している美術書ではお目にかかれない代物だ。この絵には実に奇妙なアポロンが描かれている。パルナソス山の森の木陰で眠っているアポロンは瞼を閉じているが、彼の周りには沢山の衣服や本が散らばっている。まるで、ヴァールブルクの「パネル77」のように。それは16世紀に制作されていながら明らかに「近代的なイメージ」の介入を物語っており、また本書でテーマとなっている「残存」を感じさせる作品である。脱衣された衣服の主は、無論アポロンと縁のあるミューズたちのものだ。脱ぎ捨てられた衣服は、それを羽織っていたニンファの姿を我々に想像させる。この描かれていない「不在のニンファ」がアポロンの瞼の裏に描き出されていると解釈するディディ=ユベルマンの思考はボードレールと同じくポエティックな輝きを放っている。あるいは、少年じみた姿の彼の瞼には、ミューズたちの艶かしい裸身が映し出されているのかもしれない。
 本書はmodernité(モデルニテ)をテーマにした濃密な近代論である。ヴァールブルクの以下の日記のテクストが、モデルニテについて語ったものとして解釈されるのも、これまでのプロセスを経て初めて説得的になるだろう。

死の数ヶ月前、ヴァールブルクは日記で次のように打ち明けている。自分は西洋の文化の全てを、相矛盾しながら常に結び合わされたふたつの心的状態、その終わりなき揺れ動きの内で経験した、と。「一方には法悦の内にある(狂的な)ニンファ、他方には悲嘆の内に沈んだ(絶望する)河神…」。ミューズが見失われたまさにその刹那、アポロンは己のうちで欲望と悲嘆という相反する二つの状態を結び合わせ、その結合が私たちのモデルニテの特異なリズム、驚嘆すべき音楽を生み出したとは言えないだろうか。(p168)


 ミューズが失われ、不在となり、彼女たちの聖性を代理=表象するものとして「衣服」が地面に描かれる。「包まれているもの」は、「包んでいたもの」と分離する。このように、ベンヤミンのアウラの概念を相続したニンファは、現代社会にあって路上の襤褸布、あるいは脱ぎ捨てられた衣服として「残存」するばかりだ。しかし、「クリナーメン」の運動に着目することで、こうした「ニンファの落下」(あるいは「包まれて落ちたもの」)の、迂回を孕む謎めいた軌道そのものが、実はモデルニテの本質的な原理の高度なメタファーとしても機能することを、ディディ=ユベルマンは我々に示唆している。モデルニテの内部に、「古典的なもの」、ないしニンファ自身は折り畳まれているのだ。





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