† ポール・ド・マン †

なぜ、ヘンリー・ジェイムズの幽霊譚「ねじの回転」は現代思想においてラディカルなのか?ーード・マンの高弟ショシャナ・フェルマン『狂気と文学的事象』のジェイムズ論

Kristen McMenamy by Paolo Roversi
Kristen McMenamy by Paolo Roversi


 ショシャナ・フェルマンはヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』における「幽霊」について、それをまず「線消しにされたシニフィエ」、あるいはnobody(何者でもない者)と規定する。幽霊、それはまず何よりもnon-chose(非-事物)であり、かつnon-corps(非-肉体)なのだ。フェルマンの分析によれば、興味深いことに『ねじの回転』ではヒロインが「手紙(=他者の知)を読む」行為によって、幽霊が出現するような事態が導かれているとされる。しかし、ヒロインの家庭教師は自分が幻想に憑かれた狂人であることをけして認めない。そればかりか、彼女からすればこれは教え子たちの度を越した悪戯として位置付けられることになる。ここで起きている己の内なる「狂気」を他者に転化することで、自身を「理性」の薄いヴェールで纏うという身振りについて、フェルマンは以下のように言及している。


他者の狂気を指し示す仕草は、微妙にも、己自身の狂気を否認するという――決定的な――仕草を内包しているのである。かくして、他者の狂気は、己自身の健全さと良識とを保証するものとなる。(p514)


 周知のように、『ねじの回転』は1934年にエドマンド・ウィルソンによって分析された。彼はそこで後に批判を招くことになる「フロイト的な文学分析」を試みて、この家庭教師の幻視体験は、過度の「ヒステリー」に基づく幻影的な投影そのものであると結論付ける。しかし、ウィルソンのこのヒステリー分析には論証過程で、この家庭教師の不安や性急さをあたかも批評テクストによってなぞるかのように、一方通行的でありそれ以外の考察の地平を許さないものであった。ウィルソンはヒロインを「狂気」によって分析し、「幽霊」の存在を精神分析学的に解体してしまおうと企図したのである。
 これに対して、ロバート・ハイルマンはウィルソンのこの強権的ですらある「精神分析批評」に疑義を唱える。彼によれば、ウィルソンは家庭教師の性的な欲求不満にのみ「幽霊」を幻視してしまう原因を位置付けることで、逆に本作でジェイムズが意図していたであろう「想像的な直観力」という大きなテーマを手酷く疎外してしまっている。フェルマンもこのハイルマンの見解に賛同しており、ウィルソンは批評することで、ジェイムズの謎めいたこの物語の「登場人物」の一人に有機的に吸収されてしまったのだ、とアイロニカルに批判している。ウィルソンの読みは、まるで物語の中の家庭教師を診断した分析医のような「役柄」を自然に帯びてしまっており、これによって彼の批評テクストそのものが「劇化」されてしまっているのである。批評する者が、批評されている作品世界の中に還元されてしまう――このそれ自体でどこかイリュージョニスティックな現象について、フェルマンは適切に以下のように述べている。

批評的な読みはテクストを解き明かすだけに留まらず、テクストを反復し、知らず知らずのうちに、テクストに与してしまうのである。テクストはいわば、まさにその読みによって「行為(舞台)に付され」、劇化されるのだ。ここに読みの不思議な効果が存在する。読み手がそこにどんな形で身を置こうとも、彼はテクストに捕えられる以外にない。すなわち、テクストを反復することで、テクストを遂行することしかできないのだ。(p394)


 ウィルソンの精神分析学的なアプローチは、「幽霊」にまつわる全ての現象一般を常にこうした視座から解体しようとする、ほとんど情念定型(パトスフォルメル)化された欲望を表している。それは、幽霊を見た狂人を分析することで、そのような非科学的な存在をけして信じるべきではない「理性」的な自己を診断過程(=批評過程)で再導入するための仕掛けになっているのだ。ここに、フェルマンが自称「フロイト派」の批評家の代表として挙げるウィルソン的なアプローチの「盲目」が摘出される。

ウィルソン称する「フロイト派の」批評家は、解答を提示するよう迫られる。語りの問題、つまりは、謎の有する省略的で不完全な構造に対しては、彼はそれを補完することで、すなわち、主人に対する女家庭教師の無意識的欲望の内に「謎の答え」、ミステリーの解決を突き止めることで、答えようとする。奇異な幻想性というテーマ的問題に対しては、診断という概念によって応答する。すなわち、問題とされているのは性的な欲求不満、病的な抑圧に発する異常徴候だというわけである。(p399)


 人は他者を「狂人」とみなすことで、自己を「狂気」から差異化する。『狂気の歴史』を書いたフーコーが狂人ではあり得ない理性的なエクリチュールに身を委ねている点を指摘したデリダと同じ論点が、フェルマンのジェイムズ論にも見出されるのだ。しかし、他者の無意識の領野に執拗に分け入り、そこに「狂気」の種子を見出して権威的に「精神分析学」的なアプローチを掲げながら分析するスタイルは、逆にそうしなければまるで自分自身が本来的な同種の「狂気」に支配されてしまうことを怖れているかのようである。これは、魔女狩りを躍起になって行う、中世ドイツにおける凄惨な魔女狩りにおける、異端審問官たちの一方通行的な「魔女」幻想とも通底しているだろう。換言すれば、彼らは「異端」、「狂気」が何であるかを策定することによって初めて、「正統」、「正常」のカノンを構成するのだ。何らかの正統的な教義が最初に存在したのではなく、「異端」が存在して初めて「正統」が仮構されるのである。フェルマンは、こうした「理性中心主義」が孕む権力/暴力的な側面について、以下のように分析している。

盲点を占めるとは、自分が迷妄を暴こうとする盲目さの内部そのものに身を置いていることに気付かないことであり、自分が狂気の内にいること、つまり、必然的に文学の内にいることに気付かないことである。また、それは自分が外部に――文学の、無意識の、あるいは狂気の罠の外部――身を置き得ると信じ込むことである。ジェイムズの罠、それはしたがって、読み手がまさにその罠から逃れようとするように誘うことであり、罠には外部があると信じ込むよう誘うことなのである。…罠から逃げようとすること、それはまさに罠に嵌り込むこと、罠に捕えられることなのだ。「無意識は、」とラカンは言っている。「事実=行為の上に捕えられる時ほど、けして効果的に人を惑わすことはありません。これこそまさに、ジェイムズが『ねじの回転』で言っていることなのである。(p518~519)

 
 狂気を必死で抑圧する身振りには、実はそうした「必死さ」の身振りの内に、反転した狂気が存在する――フェルマンが分析しているのは、まさにこの「狂気」を暴力的に抑圧する過程で生じる「抑圧されものの回帰」(フロイト)なのだ。抑圧され、喪失されたものは、必ず次の形式において「別の何か」として再現前する。デリダが『マルクスの亡霊たち』で展開した名高い「憑在論」的なパースペクティブをここで導入すれば、まさに幽霊は「悪魔払い」されることによってこそ痕跡化して再感染するのだ。ウィルソンは家庭教師が幻視した「幽霊」を精神分析学という「祈禱書」によって懸命に「悪魔払い」するが、実はこの儀式それ自体が「幽霊」の存在をパラドクシカルに証明し、それらに拘束されてしまっている証左に他ならない。すなわち、「狂気」を外部化し、内部を「理性」に位置付けることは、逆に「狂気」を仲立ちにすることでしか存立し得ない理性の「脆弱さ」を露見することになるのである。いわば、「理性」による狂気の抑圧は、狂気に「包摂」されることを意味するのだ。フェルマンはこの重要な命題を、以下のように述べている。

ジェイムズの言葉自体にあるように、もしも迷妄化作用が「甘美な」ものであるとするなら、それはまさに迷妄化作用が快楽の源泉だからである。迷妄化の作用をcomprendre(解する)とは、その作用にêtre compris(包摂される)ことなのだ。換言するなら、担ぐことは、担がれることなのである。(p522)


 かくして、狂気とは理性の中に再領土化されたものである。あるいは、ニーチェに従って言い直せば、理性こそが狂気の一様態に過ぎないのだ。「狂気にも確実に保証された外部はない」とフェルマンが述べる時、ここには単なる一文芸作品の批評を越えた狂気分析における重要命題が表明されていると考えられる。理性と狂気は互いに二項対立的な関係にある概念ではなく、双方はキアスム状になっており、内が外になり、また急速に外が内へと折り畳まれる「襞」そのものである。フェルマンはホフマンの『砂男』も、ジェイムズの『ねじの回転』も、共にその狂気はけして「位置付けられない」ものであり、そうであるからこそ、「読みの空間そのもの」を表現していると述べている。自称フロイト派の批評家は、実はこうした見解を既に理解していた始祖フロイトを誤読していることになる。フェルマンはフロイト派とフロイト個人の功績を厳格に分別した上で、以下のように評している。

文学には外部がないこと、また、狂気にも確実に保証された外部などないこと、つまり、そこから狂気の迷妄を暴き出し、自らは影響されることなく狂気を〈他者〉の内に位置付け得る外部などないこと、フロイトは彼のテクストの最良の瞬間において、絶えずこうしたことを主張し続けている。(p519~520)

 
 全てをリビドーに還元してしまう「フロイト派」に対するフロイト自身からの批判としてフェルマンが注目しているのは、彼の以下の見解である。

精神分析が、神経的な症候は二力間の葛藤――リビドー(概して過剰となる)と、セクシュアリティの拒絶、もしくはあまりにも厳しいものとなり過ぎた抑圧――から生じると言う時、それの教えるものはあまりにも複雑過ぎるとして隠蔽してしまうべきなのでしょうか。重要性においては少しも副次的なものではない、こうした第二の要因を思い起こすなら、性的な満足がただそれだけで、神経症者の苦しみの特効薬足り得ると考えることはけしてできないでしょう。(p407)


 このように、フェルマンの本論は精神分析批評への根源的な批判として、あるいは「読む行為」を更に「読む」ことの重要性について(ブルデューが『パスカル的省察』で述べた「客観化する行為を再客観化する思考」)我々に豊穣な示唆を与えるものである。テクストを読む行為は、そのテクストに意味賦与された様々な「解釈」を一度篩いにかけ、真偽の程を判断する行為をも内在するだろう。ド・マンの文学作品への読解方法について土田知則氏も述べていたように、フェルマンも含め彼らはまずその作品についての先行研究に見られる共通するパターンや図式を取り上げ、それらに脱落している点――すなわち見落とされている「盲目」性――を暴き出すわけだが、その上で本文の「字義性」を重視する。字義性とは、フェルマンによれば「文学」そのものであり、いかなる「解釈」という「衣服」もまだ着衣していないものでありつつ、多種多様な解釈を生み出していくエクリチュール/レクチュールの根源的場である。

すなわち、文学とは〈主人〉の死、〈主人〉が幽霊へと変じることであり、それこそがまさに、字義性を規定するものである。字義性とは、換言するなら、解釈に対し不透過であり続けるもの、文字通りle reste(残り物)そのものなのだ。「残り物は全て文学である」と、ヴェルレーヌは言っている。「残りは芸術の狂気である」と、ジェイムズは書いている。残り物、あるいは字義性、それは我々を永久に欺く力を持ち、己を知ることも、我々の知でも統合できないその知は、我々から我々の支配力と同時に、我々の〈主人〉をも奪い去るものなのである。「すべてのテクストは、」とラカンは書いている、「まさにテクストと真実との対決が予想させるものが優位を占めていくにつれ、その字義性が増殖するのを目にすることになります。これこそ、フロイトの発見がその構造の理由を明らかにしていることなのです」。(p528)


 前掲のフロイトからの引用箇所にもあるように、この精神分析学の始祖は「リビドー」について、「こうした第二の要因を思い起こすなら、性的な満足がただそれだけで、神経症者の苦しみの特効薬足り得ると考えることはけしてできないでしょう」と述べていた。これは、フロイト自身がリビドーをあくまでも「第二の要因」であり、性的な側面からのみの単線的な分析に対して批判的であったことを明かすものである。『ねじの回転』のヒロインである家庭教師は女性である。そして、ウィルソンらは彼女のヒステリーを幽霊が見えてしまったことの原因として「劇化」したのだった。フェルマンはこれらを受けて、セクシュアリティについて以下のように自身の見解を表明している。

セクシュアリティが単純な字義通りの意味ではなく、錯綜し相矛盾する異質な要因、複数の拮抗する諸力を指し示すとするなら、そしてまた、セクシュアリティの意味がそれ自体の分裂との矛盾であるとするなら、こうした意味は単一的でも一義的でもあり得ず、必然的に曖昧なものとなる。セクシュアリティを偽り、押し隠してしまうのはレトリックではない。セクシュアリティ、それこそが曖昧なもの――動的に拮抗する意味の共存体――なのだ。セクシュアリティ、それは意味の分裂であり、そうした分裂としての意味である。それは意味の対立、対立としての意味なのだ。(p409)


意味の衝突を通じ、衝突としての意味をテクスト内に劇化しているセクシュアリティは、「テクストの意味」ではなく、それとはまったく逆に、テクストの意味を挫折させるものである。すなわち、解釈の衝突を引き起こすこしかできないもの、換言するなら、ここに激しい論戦的議論が示しているような、批評的反目そのものなのである。「もしも精神分析的な言説が…意味は性的なものであるということを示唆しているとしたら、それはおそらく、そうした言説の限界を説明するものに過ぎないでしょう。最後の言葉(最終的決定)などどこにもないのです。…意味が示唆しているのは、それが挫折してしまうような方向なのです」と、ラカンは書いている。(p410)


 本論の最後で、フェルマンは『ねじの回転』という作品に込められたジェイムズの意図を読み取ろうとしている。そもそも、ジェイムズは以下のように自注を付けていた。「『ねじの回転』は、どうしようもないほどに一つの作用であって、そうでないとしたら、それは無に等しかった」と。この「作用」とは、本論をまとめていえば、まさにテクストの中の登場人物だけでなく、それを「読む者」までも世界観の中に折り畳む、その回転運動にこそ見出されるものであることが明らかになる。

登場人物たちばかりでなく、批評家たちもまた、かかるテクスト的な作用の作用主であり、関与者なのである。つまり、オースティンの概念を借りるなら、批評はここにおいてテクストのコンスタティブではなく、パフォーマティブな機能を有しているのである。批評はテクストの複数的意味を確認することではなく、それを実演(行為)に移すことなのだ。批評がテクストを包み込むというより、むしろ批評自体がテクストに包み込まれる。批評を包摂し、自らの読みに現れる批評の不協和を自らの裂開のパフォーマンス、遂行として編成するのはテクストなのである。別の文脈でバルトが述べているように、「批評家の身にはそれゆえ、ただちに以下の如きアイロニーが突き付けられる。すなわち批評家は、真実を見るのではなく、カフカの言葉に従うなら、真実に成る」わけである。(p413)


 この重要なテクストで、フェルマンは「批評がテクストを包み込むというより、むしろ批評自体がテクストに包み込まれる」と述べている。この批評する読み手側が、読まれる作品が持つ不可視の構造にいつの間にか足を取られ、その「内部」に折り込まれること――ジェイムズはまさにこのような読み手、書き手、演じ手を巻き込む壮大な「作用」を、タイトルにしたのであった。





「参考文献」

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狂気と文学的事象



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