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永遠の夏はどこにあるのか?――テオ・アンゲロプロスが『永遠と一日』(カンヌ国際映画祭パルムドール受賞)に込めたメッセージ


永遠と一日 Blu-ray永遠と一日 Blu-ray
(2012/04/28)
ブルーノ・ガンツ、イザベル・ルノー 他

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 時間とは何だろうか? テオ・アンゲロプロスはカンヌ国際映画祭でパルムドールに輝いた『永遠と一日』(1998)の冒頭で、少年に以下のような台詞を与えている――「砂浜でお手玉遊びをする子供、それが〈時〉だってさ」。私は以前からこのギリシア出身のヨーロッパを代表する二十世紀の巨匠の作品を一度観てみたいと思っていたのだが、今回その代表作を観て改めて質の高い映画とはどういうものであるかを学ぶことができた。主人公のアレクサンドレ(ブルーノ・ガンツ)はギリシアで名高い作家、詩人であり、十九世紀の詩人ソロモスの詩作研究をレイト・ワークの一貫にしている。妻アンナ(イザベル・ルノー)には既に先立たれており、かつて暮らしていた海辺の家も現在は競売に出されている。娘カテリーナも成人しており、アレクサンドレは老いた家政婦と一匹の相棒のような犬と孤独に暮らしている。
 この映画では随所に「永遠の夏」を象徴する、アンナが娘を生んだばかりのとある一日が回想形式で随所に挿入されている。回想といっても、登場するアレクサンドレは現在の老人の姿のままなので、彼の個人的な「イメージ」の投影なのか、それとも忠実な過去の再現なのか、境界線は高度に曖昧化されている。ギリシアの都市の様子は冬のためか閑散としており、食堂には軍人がいたりする。この冬らしい冷たくブルーがかった「現在の一日」は、アンナがまだ若かった頃の「夏の一日」(1937年のある一日)と色彩的なコントラストが際立っており、非常に印象的だった。
 持病のために明日にも入院を覚悟している彼は、「最後の一日」を過ごすためにカテリーナの家を訪れることにするのだった。その途中で、アルバニア系難民の少年が人身売買のブローカーに捕まえられている現場を救出することになり、この少年と次第に親交を深めていく。ブローカーらがいた現場は車道沿いの大きな廃墟のような施設であり、背景音など一切流れないところがいっそうどこか不気味さを掻き立てている。少年の村は兵士たちによる銃殺でほぼ全滅に近い状態になっており、命からがらギリシアに逃亡してきたのだった。言葉がなかなか通じないこの少年と老いたる詩人はどこか魂の奥深くで、年齢差を越えて通じ合うところがある。
 港に到着した二人は、そこで見知らぬ若い男女の婚礼の祝宴を目にする。アレクサンドレはそこにいた老婦人に犬を預けるのだが、この場面では寒い冬の中でも明るく陽気に振る舞う若く新しい世代と、アレクサンドレのように既に晩年にさしかかって孤独に沈んでいる個人の差異が際立っている。遠景で老婦人に犬を預ける一人の老人――結婚式に突然現れた見知らぬ主人公の姿は、まさにアルバニア系の少年と同じく、その存在者としての根本的な情動性は「クセニテイス(亡命者)」のそれである。
 アレクサンドレが若い頃は陽気であったのかといえば、必ずしもそうではない。むしろ文筆に魂を注ぐ彼は妻の眼からすれば一人の孤独な夫であり、仲違いやすれ違いも絶えなかったようだ。過去のイメージの中でも、アレクサンドレは孤立を深めている。現在の一日に、過去の一日が重ねられるが、想い出される内容はやはり今の感情に大きな影響を受けているようだ。「どこへ行っても余所者」である哀しみ、孤独、それゆえの「強靭」さ。そういった哀しみにも近い切実な感覚が、孤独な老詩人と難民の少年の姿を通して濃密に描き出されている。
 一つだけ確かなこと――それは、アレクサンドレにとって甘美で清々しい想い出が、かつて海辺に存在したあの一軒家を舞台にしているということである。我々の日常は流れ去り、時に絶望的な孤独の最中で震えながら夜を過ごすこともあろうが、それでも詩人にとってしがみつくべき最後の「居場所」は、過去の記憶に、つまり「永遠の夏」にあるのだ。「永遠」とはこの限りで、ある掛け替えの無く美しい一回性限りの「一日」と同じなのだ。永遠とは、ある美しい一日の中に存在するのである。アンゲロプロスはこういった時間論的な奥深い命題を通して、我々に「日常」が、実は常に「永遠」に抱き締められていることを暗に示唆しているのではないだろうか。
 港では同じくアルバニア系の少年の仲間の一人が溺死するという不運な自己が突発的に起きる。少年たちは彼を喪ったことで追悼を捧げるのだが、この時火を前にした少年の涙する顔は、まるでバターを塗られたように光り輝いていたのが実に印象的であった。彼らは居場所を追われ、安穏の地を求めている点で同胞であり、家族なのだ。その絆は、まだ幼い少年にもしっかりと認識されている。
 娘の家を訪れ、港へ向かい、アレクサンドレはやがて病室にいる母親へ挨拶しに行く。この高齢の母は既に認知症が進んでいる。アレクサンドレは横になっている母親を前にして、「なぜ私は一生余所者なのか」、と自問自答する。自分の言葉を取り戻す時だけ、その時だけかろうじて言葉の内に「居場所」を感じられる彼の感性はどこまでも詩人のそれである。やがて母親が窓辺で過去を想い出し、突然「アレクサンドレ!」と叫んだことから、彼は「今行きます!」と返す。この「永遠」への突然の合言葉がきっかけとなり、アレクサンドレの意識は再び海辺で急に雨が降り始めたあの一日へと接続される。その日も、母親が海辺で彼の名を呼んでいたのだ。私はこの場面を観ている時、アンゲロプロスの並外れた映像センスに思わず頬に涙が伝った。この病室自体にはいかなる変化も起きていない。カメラはアレクサンドレが窓辺に近付いた様を、角度の違う部屋に置かれた棚の鏡を通して映し出している。しかし、母の呼び声で「過去」と「現在」が結合するこの瞬間を、鏡に映ったアレクサンドレの断片的な姿を捉えつつ展開するこの場面には、何か稀有な、名状し難い「美」が宿っている。それは私を襲った。
 どんな一日も必ず過ぎ去るように、やがて少年との別れの時がやって来る。その前に彼はバスの中で、「イメージ」の中で詩人ソロモスに出会っている。それは現実には存在しない人間の姿であり、アレクサンドレの意識が織り成している虚構としての大詩人の姿である。ソロモスは以下のように「永遠」とは何かを知るための謎を我々に投げかけている。

朝露に濡れた明けの明星が
 
輝かしい太陽の到来を告げて
 
晴れ渡った空を乱すものは
 
霞も影も一つもない
 
やさしい風が吹き渡り
 
見上げる顔を愛撫する
 
魂の奥へささやくように
 
人生は美しい
 
そう、人生は美しい


 しかし、ソロモスは「明日の時の長さは?」という問いには答えてくれない。その答えを持っているのは、実はあの夏の一日にいた妻アンナである。彼女は言うだろう――それは「永遠と一日」であると。
 この最後の印象的な海を眼前にしたアレクサンドレの姿は、ソフィ・カルの「海と盲目」をテーマにした個展の持つ静謐でリリシズム溢れた作品群とも通じていた。一度観れば忘れられない、映画の中の「純文学」がここに結晶化している。


 

 









 
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