† 美術/アート †

なぜこれほど「ギリシア人の悪習」は美しいのか?――男性同士の禁断の愛を描いた映画傑作選


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ヒュー・グラント、ジェームズ・ウィルビー 他

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 男性が女性ではなく男性を愛すること――それも、女性を愛さねばならないという社会的な「掟」を誰よりも自覚しながら、それでもなお男性にしか愛を抱けないという大いなる苦悩――E・M・フォースター原作、ジェームズ・アイヴォリー監督の代表作『モーリス』(1988)は、ルキノ・ヴィスコンティが少年への愛を神話的に映画化した『ヴェニスに死す』(トーマス・マン原作)や、やはり男性のパートナーを喪った大学教授の孤独を描いたトム・フォードの『シングル・マン』などに関心がある方であれば、間違いなく魂を奪われる一級の作品だろう。
 時代は二十世紀初頭の1909年、場所はイギリスの上流階級の男子たちが多く通うケンブリッジ大学。この頃のイギリスはアメリカとは異なり、ゲイ・レズビアニズム運動などが事実上社会から黙殺され、男色も「罪」として厳格に扱われていた時代である。大学で知り合ったモーリスとクライヴ(ヒュー・グラント)は、学業を越えて次第に親交を深めていく。クライヴは貴族階級に属する知性と美貌を兼ね揃えた黒髪の美しい青年で、ブロンドのモーリスはあくまでも親友として彼と親密に接している。しかし、モーリスの溢れるような優しさと友愛の絆を、「真実の愛」と誤読したクライヴはモーリスを抱き締め、唇を奪おうとする。当初はこのクライヴの繊細でありながら熱烈な愛を受け容れるのに戸惑っていたモーリスだが、次第に自分の魂に正直になり始める。二人は一緒に大学を抜け出して草原に戯れ、キスを交わし合う。二人とも、ヨーロッパで「男性同士の愛」が禁じられたものになってしまった原因の一つはキリスト教的な道徳律にあるという考えを共有している。何故なら、古代ギリシアの哲学者たちは男性同士の友愛を重視し、「美少年」に審美的な価値を認めることを徳としたからだ。ゼウスとガニュニメデスの挿話などが紹介されつつ、男性同士の愛を「ギリシア人の悪習」とみなす現代のヨーロッパ社会に二人は疑念を抱いている。孤立した、秘密の愛はそれだけで二人の欲望を掻き立てていく。次第に二人は離れられない恋人同士になり、禁断の日々を過ごす。
 クライヴの家は裕福な貴族の邸宅を幾つか所有しており、整形庭園の場面も見る目を奪うほどだ。美しい屋敷の中で誰からも悟られることなく、二人の青年は互いに仲良くネクタイを結び合って微笑み合う。そんな知性と美を体現したギリシア時代の美青年たちの「愛欲」の日々が、ヴィスコンティが観たら嫉妬するであろう美しく上質な映像美によって牧歌的に描き出される。それはかつてトーマス・マンが想いを馳せた、「ギリシア的」なるものへの神話的な回帰である。やがてクライヴは卒業して政治家になるための最初の足掛かりとしてまず弁護士になるのを目指す。一方モーリスは教授に反撥して大学は退学し、早くもビジネスに参加して株式売買人として利益を上げている。休日はボクシングに熱中し、身体を鍛えながらも、別々の仕事に就くクライヴを想い続けている。
 しかし、次第にクライヴは社会が自分たちの秘められた愛を許さないという現実を知り始める。政治家として活躍することを目指す彼にとって、最初のキャリアの段階で「傷」が付いていることは回避されねばならないのだ。名誉を守るために、クライヴはモーリスを「恋人」から「親友」に戻ってもらうように告げる。これに衝撃を受けたモーリスは動揺を隠すことができないが、次第に彼の言い分も頭では理解し始める。ここで対照的なのは、クライヴがすぐに女性と結婚して家庭を持てたことに対して、一度火がついてしまったモーリスにはそれができなかったという点であろう。彼は同性愛を病だと考えて深刻に悩み続け、カウンセリングを頻繁に受け続ける。しかし、クライヴ邸で出会った狩猟番の貧しい美青年スカダーと関係を持ってしまう。クライヴが自身の愛を矯正できたのに対し、モーリスは悲劇的にも「男色」を繰り返すことになってしまうのだ。言い換えれば、クライヴがいっそう世間体や風評といったものに敏感であるタイプなのに対して、モーリスはあくまでもプラトニックな秘め事をどこまでも貪欲に望んでいくタイプである。そこには彼らの社会的地位や付き合う男性たちのネットワークとしての社会関係資本の多寡も関与しているだろう。やがてモーリスは「ここは昔から人間の本性を受け容れない国だ」という確信を得る。男色を最早「グロテスクなもの」としか判断できないクライヴとのかつての愛を捨て去り、モーリスは新しい恋人スカダーと「新天地」をほのめかすのだった。
 この映画には、原作者フォースター(出版は1971年)が実際に同性愛で苦悩したという経緯が如実に反映されていると言われている。モーリスとクライヴの大学時代の「無垢な愛」は、観る者全てに愛の素晴らしい多様性と美を衝迫させるに十分である。私はこれを観ている時に、なぜ男性と女性の愛しか存在しなかったのか、ということを改めて考える機会を与えられた。彼らの愛のナイーブで傷付き易い脆弱さは、社会から孤立を深めるほどに輝きを増す。それはこの世界で人間が「いかに神話的に生きるか」、あるいは「愛するか」を考えた先に辿り着く一つのスタイルなのかもしれない。この映画で知性の輝きと少年のような繊細さを披露した美青年クライヴを演じたヒュー・グラントの演技には、間違いなくビョルン・アンドレセンに通じる神秘的な美と魔性が宿っている。




ヘンリー・スコット・テュークの世界

牧草地の中で
ヘンリー・スコット・テューク《牧草地の中で》

 アイヴォリーの『モーリス』で描かれた牧歌的なゲイの世界を絵画の世界で実現した最高峰として、我々はヘンリー・スコット・テュークの作品群を忘れるわけにはいかない。イギリス生まれの画家テュークは少年時代より素晴らしい画才を示し、1874年から1879年にかけてロンドンのスレード美術学校(Slade School of Art)で、1881年から1883年にかけてパリで絵画を学習した。彼の作品の多くは海辺を舞台にして若々しい力に溢れた青年、あるいは少年たちの友愛的な情景を美しく描出することで知られている。

Henry Scott Tuke 1926 緑の水路
ヘンリー・スコット・テューク《緑の水路》(1926)

 テュークの同性愛的にして力強い優れた作品は当時のイギリス社会からも認められた。彼は1900年にロイヤル・アカデミー準会員に、1904年には正会員に選出されている。第一世界大戦以後には一時的に人気が衰えたものの、1970年代になってゲイ・レズビアニズム運動が活発化していくことも相俟って再び注目を集め、現在に至っている。

水浴 1889
ヘンリー・スコット・テューク《水浴》(1889)


 天性の資質を有する優れた芸術家には同性愛者が多い。例えば、フランス文学ではマルセル・プルースト、オスカー・ワイルド、E・M・フォースター、イタリア映画ではルキノ・ヴィスコンティ、ファッションでもアレキサンダー・マックイーンなどが名高い。


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ダーク・ボガード、ビョルン・アンドレセン 他

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ヴィスコンティの『ベニスに死す』における、アンドレセン=アポロン的な関係

 美少年の話をしよう。美少年というのは、例えばルキノ・ヴィスコンティの『ベニスに死す』(1971)でタジオ役を演じたスウェーデン出身の俳優、歌手であるビョルン・アンドレセンのことだ。ナルキッソスがそうであったように、およそ美少年というものは常にニヒリスティックで物静かである。彼は眼差しを向けるだけで、ほとんど語りかけることはない。
 美少年に魅惑されるのはなにもうら若い乙女たちばかりではない。トーマス・マン原作のこの映画で彼の美貌に惑溺していく音楽家グスタフ・フォン・アシェンバッハを演じたイギリスの俳優ダーク・ボガードの「怪演」は、見事という他ないだろう。特に夜の噴水の傍で、少年を追いかける惨めな「窃視者」に過ぎない自分の愚昧さに気付き、苦悩のさ中で笑い始める演技は劇的であり、人間存在の愚かさ、弱さを如実に描いている。

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ビョルン・ヨーハン・アンドレセン(Björn Johan Andrésen、1955年1月26日 - )

 美少年とは、常に刈り取られる存在である。特に、美意識の高い人間にとってヘルマフロディトスを体現したような存在は関心の的なのだ。舞台であるベニスにはアジア・コレラが蔓延し始めていたが、実質的にいってアシェンバッハの魂のコレラとは、まさにアンドレセン=タジオなのだ。美少年に微笑みの眼差しを返されただけで、彼はまるで少年時代の初恋を想起するかのように有頂天になって笑顔を浮かべる。人間は自分に足りないものに対して往々にして敵対するが、それがあまりにも神聖である場合、むしろ崇敬するに至るのではないか。事実、美学の研鑽を積んだアシェンバッハ(グスタフ・マーラーがモデル)が、「美そのもの」であるかのような存在者を崇敬しても奇妙ではない。彼はあくまでも窃視的に愛し、まるで絵画を愛でるように影から美少年を眺めている。この映画ほど「眼差し」を先鋭化させた作品は他にないだろう。男は見つめ、美少年はそれに気付き、微笑を返す。男はそれに悦び、日を変えて再び美少年を見つめる、彼はそれにやはり微笑を返す――この滑稽なほどの稚拙で、かつ崇高な関係性は、どこか神話的ですらある。

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ヴィスコンティとアンドレセンの記念すべき一枚

 タジオ=アポロン、アシェンバッハ=マルシュアスという、谷川渥が『鏡と皮膚』で展開した構図をここで再度踏襲することは可能であろうか。というのは、ルネサンスの時代において、アルベルティは「芸術家」を神の如き存在として規定し、芸術に励む者が目指すべきはたた神のみであると考えていたからだ。アポロンに愚かにも勝負を挑むマルシュアスは、ギリシア神話が示唆している通り、全身の皮を剥がされる。ミケランジェロがシスティナ礼拝堂で描いたあの聖バルトロマイの皮とは、実は芸術家のアレゴリーとして解釈可能なのである。こうした解釈を踏まえると、まさにアシェンバッハはアポロンに魅せられたマルシュアスであると置き換えることはできないだろうか。彼はペストで死んだのではなく、霊的な次元ではやはりタジオへの悲恋の故に絶命したのだと。
 タジオの微笑みに、「そんな笑い方はよせ……愛している」と一人で囁く描写がある。それはアシェンバッハの近付きがたいタジオへの思いを表している。知己のアルフレッド(モデルはアルノルト・シェーンベルク)は、「邪悪は天才の食料だ」といって、敢然とアポロンに闘いを挑むことをけしかける。しかし、アシェンバッハはこの解釈に対して否定的だ。彼は穏やかさを求めている。だが、タジオへの片想いの熱が高まり続ける――そこには、愛娘を幼くして亡くしてしまったという喪失感もあるはずだ。
 舞台であるベニスの海辺の高級ホテルも、テーマ曲であるマーラーの交響曲第五番第四楽章も本当に素晴らしい。特に、ラストでアシェンバッハが波打ち際のタジオを眺めている描写は、どこかノスタルジックなまでの美しさが宿っている。接近する「死」と、神話的な美を維持して海辺の遠景と溶け合う美少年の姿――それはこの映画の最高のクライマックスであり、深い感銘を憶えずにはいられない。

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波打ち際のアンドレセン

 「同性愛」と「海辺の高級ホテル」、「芸術」、これら重要な三つのテーマを網羅的に描いていた作家として、おそらく誰もがイメージするであろうプルーストのことを、私は何故か思い出していた。二十代前半でこの長大な物語を全て集めて以来、少しずつ読んでそろそろ二周目になるところだが、ヴィスコンティの芸術にはプルーストと同じ貴族的な高貴さと優雅さが漂っている。まさに、芸術の玄人向けの傑作である。因みに、原作者のマンによれば、タジオのモデルは実在していたヴワディスワフ・モエス男爵の若かりし日の姿であったという。
 これは私だけが抱いた感想かもしれないが、どこか二人は「以心伝心」のように共鳴していたのではないか。例えば、あの「大衆娯楽」へのヴィスコンティ的な侮蔑を表現した、サーカス一座に対する二人の態度だ。アシェンバッハもタジオも、俗物的で大衆的な、キッチュな「娯楽」になど見向きもしていない。およそ映画の中で、あれ程露骨にキッチュな文化を唾棄してみせた映画監督など、イタリアの名門に出自を持つこのヴィスコンティの他に存在するのだろうか。
 いずれにしても、妙な「郷愁」を感じさせる映画だ。タジオが男友達と海辺で戯れている様子は、どこか牧歌的な無邪気さがあって悦ばしい。若く輝かしい美少年と、老いぼれた孤独な苦悩する作曲家。その二人が、「眼差し」の関係によって不思議な「語りえぬ友愛関係」を結ぶのである。アンドレセンのファンにはいうまでもないが、アシェンバッハに入り込んでいるダーク・ボガードの卓越した演技力にも唸らされる、けして色褪せない美しい名作である。




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トーマス・マン

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コリン・ファース、ジュリアン・ムーア 他

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 才能のある人間は自分の持っている資本種を別の〈界〉に交換することに長けているようだ。トム・フォード――私も彼のブランドの洋服を何着か持っているが、丈夫で長持ちすることはいうまでもなく、紳士的な威厳を湛えたそのエレガントなスタイルには年を重ねた男性たちからもコアな顧客が多いはずだ。今回、私はトム・フォードが制作したコリン・ファース主演の映画『シングルマン』(2009)を観た。
 舞台は1962年のロサンゼルスである。主人公は大学教授で同性愛者として男性の恋人を持っていた。しかし冒頭から彼の痛ましくも美しい死が描かれ、彼は最愛の人を喪失した心の空隙を満たすことができない。「この一日を生き抜け」――そんな憂鬱な朝を迎える毎日である。偏在する自殺の徴候を持つ彼は、出勤時の鞄には書物とピストルを携帯している。ファッションスタイルはフォーマルで無駄がなく、常に洗練されている。小指にはシュヴァリエール(貴族が左手の小指にする家紋入りの金の指輪)らしきものをはめているので、ロンドンからやって来たという彼はおそらくブルジョワ階級かそれ以上の出自であることが推察される。
 同性愛者特有の繊細な描写は随所に挿入されている。例えば、事務員のきっちりした華やかな若い女性を褒めるエピソード。ここは異性愛の男性の場合、明らかに彼女に好意を寄せて褒めるところだが、彼の場合、そこには女性の外見に対する「嫉妬」を読み取ることができる。それは自分のもう一人の分身であるかのような愛する少年が、平凡な少女と恋愛しているという事実を知って、激しく苦悩し悲嘆したありし日の「痕跡」を我々に想像させる。さり気ない場面に、複雑な心象が醸し出されている。
 この映画のもう一人の美しい主役、それは言うまでもなく、主人公を密かに敬愛する美青年ポッター君(ニコラス・ホルト)だ。彼が控えめに教授と接点を持とうとする繊細な心理は本当に素晴らしい。簡素なバーで主人公がポッター君と親密な深い話をする場面は、観ている私に大きな安らぎと穏やかな感覚を与えるに十分だった。ポッター君は「人間は常に一人で、孤独だと思います」と告げる。しかし、二人はその後、夜の海を裸体で泳ぎ合う。年を隔てて二人の男が「友愛」の絆に結ばれて無邪気に戯れ合う光景――私はここに何か非常に古典主義的で研ぎ澄まされた「美」を見出すのである。思い出そう、かのヴィスコンティ家の血筋を引くルキノの名作『ヴェニスに死す』を、あるいはその原作者であるマンを。彼らに私が作家の中でボルヘスに匹敵するほど敬愛しているマルセル・プルーストも含めれば、ここに一つのファンタン=ラトゥール的な「同性愛的集団肖像画」が描き出されるのではなかろうか。トム・フォード、プルースト、ヴィスコンティ、そしてマン――彼らは時空を隔てて互いに「友愛」の絆で結ばれている。彼らは「少年」であり、女友達と話したり親密になることはあるものの、基本的にギリシア的な恋愛論を信奉している。

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アンリ・ファンタン=ラトゥール《ドラクロワへのオマージュ》

 映画で二人がベッドで愛し合うことはなかった。だが、二人は夜の海で裸で笑いながら戯れ合ったのである。やがてかつての最愛の恋人の姿をした「死」が主人公の前に訪れる。このラストといい、海の舞台といい、教授と青年の友愛的関係といい、我々はトム・フォードに対するヴィスコンティの明らかな影響関係を読み取ることができるだろう。カナダの文芸理論家であるリンダ・ハッチオンがそのラディカルな書物の中で述べたように、イタリアの古典的映画として最早殿堂入りしているルキノの諸作品を、もしかするとトム・フォードはアメリカ的にadaptation(解釈を踏まえた翻案)したのかもしれない。だとすれば、ルキノがマンの原作を忠実に再現しようとして描き出すことはできなかった、「アシェンバッハとタージオの会話」を、我々は数十年の時を隔ててトム・フォードの手によって目にすることができたということである。この意義はとても大きく深い。二人はやはりどこかで「孤独」を共有しているのである。
 デリダはかつて『友愛のポリティクス』の中で、アリストテレスの以下の名言を引用していた。「おお友よ! わたしには友がいない!」――彼らはマイノリティであり、常に男性の伴侶を求めている。それは「兄」、あるいは「弟」の面影なのかもしれない。あるいは「父」の、「祖父」の。この映画には他にも、「アメリカ的なもの」と「イギリス的なもの」の共存というヘンリー・ジェイムズ的な要素を見出すこともできる。主人公はロサンゼルスの素朴な人々の中で、やはりどこかイギリス上流階級的な「孤高」を感じさせるわけである。
 映画の質はファッションデザイナーだけあって、極めて静謐かつスタイリッシュである。私がトム・フォードというブランドに対して抱いてきたイメージは、この映画によって正統文化的なレベルにまで昇華された。ゲイ文化に関心のない女性たちにも、是非一度観ていただきたい作品の一つといえるだろう。











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