† 建築学 †

ヨーロッパ建築史において、「ナチズム様式」は実在したのか?ーー現代ドイツを代表する建築史家ヴィンフリート・ネルディンガー(ミュンヘン工科大教授)の名著『建築・権力・記憶――ナチズムとその周辺』について


建築・権力・記憶―ナチズムとその周辺建築・権力・記憶―ナチズムとその周辺
(2009/01)
ヴィンフリート ネルディンガー

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あらゆる社会と支配体制は、自分たちが計画し、作り出す建築や都市に自らを書き込む。(p16)


【政治的建築とは何か】

 今日でも、キリスト教の教会建築における「円盤」は、《サン・ピエトロ大聖堂》のそれを上回ってはならないという暗黙の掟が存在している。ここには既に「権力の象徴としての建築」という側面が見え隠れしている。ミュンヘン工科大学教授で、ハーバード大学客員教授などを歴任したドイツを代表する建築史家ヴィンフリート・ネルディンガーが本書で扱うテーマとは、建築における国家政治的な自己表現について、あるいは国民様式についての批判的分析である。その上で彼は、エルヴィン・パノフスキー、オットー・フォン・ジムソン、ハンス・ヤンツェンらに共通する「シンボルとメタファー」による建築解釈を従来までの伝統的な批評形式として距離を置いている。

彼らはゴシック建築の束ね柱をスコラ哲学の思考と並置し、宇宙や聖書に見られる数の関係性を平面・立面と比較対照し、ステンドグラスに覆われた教会の壁面を、神々しい透明画と較べてみたのである。しかし、そこでは建築形態そのものについては、ほとんど叙述されていない。というのも、シンボルとメタファーの本質とは、まったく別の領域への――おまけに多義的な――転写だからである。(p30)


 このテクストは、ある「思想」を建築形態の「アナロジー」として読み解こうとする批評的視座に対して、一定の喚起力を持っているだろう。というのも、ある建築をある「思想」の具現として、どこまで解釈しきれるのかというのは一つの解釈項からの見方に過ぎないからである。とはいえ、ディテールに権力表象が結び付くことも頻繁に見出される。例えばシャルル・ル・ブランはフランス王家のシンボルとして、オーダーに「ブルボン家の百合」を描くことで他のオーダーとの厳格な差異を際立たせている。政治的建築においては、「図・シンボル」などを通して政治的な内容を表明することがテーマとなるが、ネルディンガーによればこうした「語る建築」(「住める」だけでなく、その外観が直接何らかの理念を明示的に表象しているもの)が最初に体系化されたのはフランス革命期の代表的建築家――すなわち、ブレ、ルドゥー、ルクー――らによってである。「そこでは住宅の機能は、造形的かつ図解的に建築において読み取りができるようになる。すなわち、車輪製作者の家は車輪の形を持ち、売春宿はペニスの平面形となるのである」(p34)。
 建築において「権力」を持たせようとする場合、建築家たちは主として過去の重要な様式を復活させるという手法を採用する。特にリヴァイバル様式として重宝され、権力表現と結び付いたのが、「ゴシック」様式、そして「ルネサンス」様式である。こうした様式は、自国の伝統を尊重し、愛するというナショナル・ロマンティシズムを謳歌し、国民に知らしめるという機能も同時に兼ねている。ゴシック建築の「起源」をめぐって各国で見解が相違するのも、こうした国家的な威信が絡んでいる場合が見られる。既にゼンパーが述べたように、何らかの「理念」が込められていない建築というのは存在し得ない。二十世紀の近代建築においても、例えばオランダの重要な建築家ヘンドリック・ペトルス・ベルラーヘの《アムステルダム証券取引所》は、「社会主義」の理念を建築において宣言したものとして知られているし、フランク・ロイド・ライトですら、自然に結び付いた「アメリカン・デモクラシー」(ヨーロッパからアメリカを差異化する戦略としての)として、自身の「有機的建築」の理念を編み上げている。このように眺めると、最早何らかの「思想色」に染まっていない建築など、どこにも存在しないということが判然となる。言い換えれば、建築家は自身の作品に「解釈」を与えているわけだが、ナチズムの建築に対する批判的考証の歴史からも判るように、別の時代になると新たな「解釈」が用意され、同じ建築が全く別の見え方をするということは常に起こりうるということである。

【建築史において、「ナチズム様式」は実在したのか?】

 ネルディンガーによれば、ナチズム建築は1930年代の「internationalな新古典主義」のカテゴリーに分類することができる。様式的には「単純化された新古典主義」、あるいは「原初的な新古典主義」などとも表現され、そこに様々な過去のリヴァイバル運動が折衷主義的に導入される。形態要素として特筆される重要な点は、以下の三つである。

ナチズム建築の形態要素

(1)シンメトリー
(2)軸線
(3)記念碑性への追求



 ナチズム建築は、この三つの権力表現を全て満たし、ドイツ全土を覆い尽くそうと企図した。ネルディンガーはこの建築の暴力を「倒錯」などと表現している。ナチズム以後の建築家は、例えばアルヴァー・アールトに見られるように(1)~(3)の建築原理に全て対立する形で活動している。以下に、三つの具体的な特徴をネルディンガーの解説を元にして整理しておこう。

(1)「シンメトリー」

 この内、シンメトリーについてジンメルは「全ての専制的な社会形態」に見られるものと規定し、それは社会構造の上下階級のシンメトリーをアナロジカルに表現したものであるという。反対に、ジンメルは「自由主義的な国家は、アシンメトリーを好む」という興味深い考察も提示している。具体例としてネルディンガーが挙げている建築家は本書の中で数多いが、特にオットー・ヴァーグナーの「ウィーン都市計画」、あるいは、ルイージ・モレッティの《フィロ・ムッソリーニ》(1936)は完全にシンメトリカルな幾何学的秩序に基づいて構成されたものとして注目すべきである。とはいえ、シンメトリカルな構造を持つ都市が即座に「専制的な社会形態」を意味するわけでは毛頭ない。例えば1922年のル・コルビュジエの《現代都市》案は確かにシンメトリカルだが、どちらかというと管理社会的な印象を与えるものである。
 一方、アシンメトリーではノイエス・バウエンの建築理論が評価されている。バウエンはあくまでも機能と構造に従って建築の内部空間を構成すべきであり、外観のシンメトリーに執着すべきではないと考えた。このようなシンメトリー解消の建築運動は、フランク・ロイド・ライトの「有機的建築」や、オランダの「デ・ステイル」にも顕著に見出される。デ・ステイルでも特筆されるのは、ミース・ファン・デル・ローエのコンクリートの住宅案などである。「民主主義」の表現としても、アシンメトリーはフーゴ・ヘーリンクの《ベルリンの共和国広場》(1929)などに見出すことができる。この他、グロピウスの《バウハウス》や、ハンネス・マイヤーの建築においてもシンメトリーの拒絶が見出されることから、第二次世界大戦以後のヨーロッパ建築がいかに「新古典主義様式」をナチズムと結び付け、批判的になっていたかが自ずと伝わってくる。最も象徴的な例は、ヘルムート・シュトリッフラーの《ダッハウの和解教会》であり、ナチズム時代の建築の「トラウアーアルバイト(喪の作業)」であるこの教会が、アシンメトリーな構造を持っていることは示唆的である。
 
(2)「軸線」

 二十世紀のドイツ建築における「権力」の表象として、「軸線」は注目されるべき特徴の一つである。当時の理論家の中には軸線をバロック時代の「絶対王政」のシンボルとしてみなす者が存在した。南北に走る軸線が典型的な政治的権力の表象として機能している例が、ナチズム時代の代表的建築家の一人であるアルベルト・シュペーアの有名な《都市X》(1941-43)である。この都市案によれば、奥にはヒトラーの宮殿が存在しているのだが、これはオペラ空間の観客席における権力の位相関係と相関している。舞台空間に接近すればするほど観客席の値段も高くなる「ドーム型のオペラ空間」と同じように、シュペーアの都市案でも、ヒトラーの宮殿に近付くにつれて建築物に宿る権力の配分は高まるのである。

(3)「記念碑性への追求」

 ある一つの建物を一つの「都市的創成物」(アルド・ロッシ)として認知させるためには、歴史的な記念碑を利用するという手段が存在する。例えばファシズム時代のイタリアでは、古代ローマからファシズムまで連綿と続く「精神的な連続性」を主張するために、マクセンティウス帝のバシリカの真向かいにムッソリーニの拠点であった《リットリオ宮》を建てるという都市計画が構想された。この宮殿を設計した建築家であるジュゼッペ・テラーニとルイジ・ヴィエッティにとって、バルコニーに立っているムッソリーニは、彼らの実際の記録に表現されているように、「ローマの中心に立つ…神」そのものであった。テラーニはまた、ダンテ・アリギエーリ協会から依頼されて、《ダンテウム》という建物を計画しているが、ここにも記念碑的なものとして「帝国のシンボル」である鷲が用いられている。このようなナショナル・ロマンティシズムと結合した記念碑性への追求は、ジェファーソンがアメリカのデモクラシーを「共和制ローマ」の建築と結び付けたことにも現れているように、ヨーロッパ精神がどの時代に偉大な「原型」を見出しているのかといったことを我々に教えるだろう。ムッソリーニのファシズムも、本質的には古代ローマ建築のリヴァイバル運動を称揚するものだったのである。
 この他、実際に存在する歴史的建物の形態を直接的に模倣するという方法も存在している。例えば、ナチズム時代の建築家シュペーアの《ベルリンの大会堂》(1942)には奇妙にもキリスト教建築における「大聖堂」(《アヤ・ソフィア》などの)に類似した構造が見受けられる。権力の表象、あるいは記念碑という殿堂入りを果たすために、建物は天空に接近すると自ずと球形化するというパターンが見出されるのである。

【ドイツ・ナチズム時代の代表的建築家――アルベルト・シュペーアとパウル・ルートヴィヒ・トロースト】

シュペーア
ベルトルト・コンラート・ヘルマン・アルベルト・シュペーア(Berthold Konrad Hermann Albert Speer、1905年3月19日 - 1981年9月1日)


トロースト
パウル・ルートヴィヒ・トロースト(Paul Ludwig Troost、1878年8月17日-19834年1月21日)


 実はアメリカが独立し、首都に様々な重要施設を建造する際にも新古典主義様式が導入されている。例えばジョン・ラッセル・ポープの《ワシントンD.C.のナショナルギャラリー》もその一つだが、彼はしっかりとウィトルウィウスの建築理論の形態メカニズムの流れを汲む古典主義の伝統を意識し、それを範として新たに作り替えている。一方、ナチズム建築家の一人であり、その後「ナチズム建築」の基準を作り出したとされる、パウル・ルートヴィヒ・トローストの《ドイツ芸術の家》(ミュンヘン)は伝統から乖離し、形態も単純化されている。
 ネルディンガーがナチズム建築家として特筆しているのは、先のトローストと、ヒトラー直属の建築家として「ベルリン都市計画」や「ニュルンベルクの帝国党大会地区」の建設計画を作成したアルベルト・シュペーアである。とりわけシュペーアはナチス時代の代表的な建築家であり、彼をシンケル以降の最大の建築家として評価する向きも存在している。彼の建築として有名なのは、ベルリンに存在したヒトラーの「帝国」の権力中枢を担っていた《総統官邸》である。イタリアのファシズム体制下では、建築案の設計競技大会が市民にも可視化されていたのに対し、ナチスにおいては建築は秘密裡に計画され、市民に対しても不可視であったとされている。《総統官邸》の「鏡のギャラリー」はフランス・バロック期の傑作《ヴェルサイユ宮殿》をモデルにするなど、折衷的に過去の様式が踏襲されている。ネルディンガーによれば、ヒトラーは文化的に驚くほど無知な人間であり、ユダヤ人を迫害しながらティントレットの描いたモーセ(ユダヤ人の父祖)をテーマにした絵を堂々と壁に掲げていたのだという。

《総統官邸》主玄関
《総統官邸》「主玄関」
《総統官邸》「中庭の玄関」1940年頃
《総統官邸》「中庭の玄関」
《総統官邸》「庭側の正面」
《総統官邸》「庭側の正面」
《総統官邸》にあった「青銅の鷲」
《総統官邸》で発見された「青銅の鷲」

 シュペーアやトローストは共通して、構造的な骨組みへと還元された新古典主義にカテゴライズされるが、その系譜はネルディンガーによれば以下のように続いてきた。

まずはじめにフリードリヒ・ジリーに現れ、ペーター・ベーレンス、ハンス・ペルツィ、ヘルマン・ビリンクによる世紀転換期以降ヴィルヘルム二世時代の記念碑的な単純化された様式で広まり、最終的にメラー・ファン・デン・ブルックが「プロイセン様式」として宣伝したものである。ナチズム時代に「ゲルマンのテクトニーク(構造学)」として讃えられた、この厳格で初源的な新古典主義に、トローストは自らを結び付けようとしたのである。(p200~201)


 こうした系譜に位置するナチズム建築について、政治的批判も込めて「必要以上の大きさ、粗雑なプロポーション、重苦しさと抑圧」といった悪評が与えられることも多々ある。また、ネルディンガー自身も、ナチズムの建築家は皆三流で、構造的にも甚だしく稚拙で失敗していると考えている点は強調しておくべきであろう。ただし、「権力」表象としての「建築」というテーマでナチズム建築を捉えると、そこで我々は貴重な示唆を与えられることになるのもまた事実なのだ。その際、シュペーアのように実際にナチスの政治的理念を建築物として具体化しようとしていた建築家が存在しているとしても、以下の点は前提として共有されておかねばならない、とネルディンガーは注意を促している。

ただ、建築の一つ一つの形態が単独に政治的なプロパガンダを表すことは不可能であり、むしろ機能、内容、社会全体の規定の方が重要なのである。あるいはウィトゲンシュタインに倣えば、概念と言明は、ある時には完全に正しくても、別の時と文脈においては誤りであり、何の役にも立たないことがあるのだ。(p194)


 これは、ナチス時代に建てられた建築は全て呪わしいものであるという解釈の「過剰」に、改めて内省の機会を与える重要な見解である。ゴットフリート・ゼンパーは、建築は常に「支配的な宗教的、社会的、政治的システムのシンボル」として機能してきたと述べているが、これもまた一つの建築には常に多様な解釈のコードが存在することを表現したものであると解釈できるだろう。

【イタリア・ファシズム時代の代表的建築家――ジュゼッペ・テラーニ】

 イタリア合理主義の流れに位置するテラーニは、ムッソリーニの拠点《リットリオ宮》、《カサ・デル・ファッショ》などを設計し、「ファシズム革命展覧会」のためのインスタレーションを担当したことなどで広く知られている。1943年に死去するまで生涯をファシズムの理念を建築において具体化すること(すなわち「ファシズム」と「芸術」の結合を使命とする)に捧げ尽くしたその活動は、七十年代以来、アルド・ロッシ、ピーター・アイゼンマンらが再評価して今日に及んでいる。特に《カサ・デル・ファッショ》は、ファシズムにおける近代建築の頂点として注目されており、ムッソリーニがファシズムそのものを「あらゆる人が見ることのできるガラスの家」と表現したことを受けて、剥き出しのコンクリートとガラスによって構成されているという特異な建築である。テラーニは、建築家とその「責任」というテーマにおいて今日でもドラスティックな研究を誘発して止まない。

【damnatio memoriae(記憶の抹消)、あるいはナチズム建築の未来】

 ヒトラーはヴァイマール、ハイデルベルク、アウグスブルクなどの都市を限定的に「原ドイツ」とみなし、他の諸地方にもこれらの都市の伝統を強制的に中心原理として押し付けた。こうした、ある特定の都市を普遍化し、周縁地域を全て全体化するプロセスが持つ「暴力性」について、ネルディンガーは以下のように解説している。

したがってナチズム建築における地域主義とは、ドイツ全土で規格化された容器に住み、国家表象的な建造物が見せる原初的な新古典主義に心を動かされた従順な民族同胞のための広範囲に及ぶ装飾なのである。(p208)


 興味深いことに、これと同じプロセスが逆のベクトルで発生したのが、まさにナチス崩壊後の戦後ドイツであった。それは犠牲者たちに対する厳粛な「トラウアーアルバイト(喪の作業)」というよりも、むしろ記憶の「抑圧」に向かった、とネルディンガーは解釈している。例えば《ラーフェンスブリュック強制収容所》の跡地には平然とスーパーマーケットが建てられるという計画がアデナウアー時代には存在しており、ヒトラーユーゲント・ハイムはユースホステルに、《アドルフ・ヒトラー広場》は《カール・マルクス広場》になっている。ゲシュタポ本部が存在した《ヴィッテルスバッハ宮殿》やミュンヘンの《名誉の神殿》も、解体ないし爆破され、ほとんど発作的なほどの手早さで「非ナチ化」という名の「抑圧」が進んだ。元々ナチズムのモニュメントであった建造物から、それ固有の呪われた「記号」を剥ぎ取り、無化、あるいは「脱記念碑化」することで生じているのは死者のための鎮魂などでは毛頭なく、アドルノによればdamnatio memoriae(記憶の抹消)に他ならないと批判される。
 八十年代のドイツには、ナチスそのものを一つのファッション、偶像、エンターテイメントの要素として受容する風潮が現れ始める。日本を代表する表象文化論の研究者である田中純氏は『政治の美学』において、ハンス・ユルゲン・ジーパーベルクの映画に見られる「死のキッチュ」化されたイメージについて分析し、「政治の審美化」と「芸術の政治化」のプロセスを根源的に分析しているが、ネルディンガーもまた本書で同様の見解を述べている。

キッチュと死、覗き趣味と通俗化、エンターテイメントとコミックとしてのヒトラー、ショアー・ビジネス、ホロコースト博物館、そしてナチズムのシンボルの商品化、そういったものがこの展開を特徴付けている。かつてダヌンツィオやユンガーが試みた権力の美学化が、メディアの世界において危険な再来を祝っている。表向きにはそのメカニズムを経験に従って適正に「解体する」ためと言いつつ、魅力を再現するほどに華々しくナチズム美学へと「自らを投入すること」は、大量殺戮の因子のとてつもなく危険な商品化なのである。(p178)


 ナチズムという呪われた忌まわしい「悪霊」を払い除けること――「死のキッチュ化」とはそのための一つの手段である。やがて過去を封印するための「新しい歴史教科書」がドイツでも編集され問題になり、いつまでも自責の念に駆られる必要など無く、「アウシュヴィッツについては何も聞かない権利を持っている」(p222)と主張する新しい世代が登場する。こうした現状にあって、ネルディンガーの問いは極めて真摯で切実ですらある。どうすればナチスの建築を、批判的なかたちで過去に受け継がせていくことが可能であるか? 

「国家表象的なナチズムの建築は、加害者を讃美するために造られたものであり、単純に記念物保護の対象として扱うことはできない。むしろその建築は、背後にある非人間性が暴露されるようなコンテクストへと導かれる必要があるのだ。「加害者の場所」は、中立化されてはならないし、ロマン主義的な廃墟へと変貌させられてはならない。…そうではなく、加害者のことを人々に知らせるのに役立つように、民主主義的に「占拠」されなければならないのだ。(p224)


 このテクストは、ナチズム建築を後世に「負」の遺産として伝えていく上での困難さを如実に物語っている。それは我々に、涙をいかに流させるか、哀しませるかを考えさせることがいかに困難であるのかということと同じほど困難な課題であろう。加害者のために、かつてこれ程傲慢で恐ろしいものが建てられたという「訓戒的なモニュメント」、あるいは更にそれを再客観化する批判的考察をも受容した「継承の作法」を、ネルディンガーは模索して止まない。本書は「建築・権力」のテーマだけでなく、それらが結合することによって巻き起こした「災厄」についての「記憶の相続」の問題まで踏み込んだ論稿を収録した、現代思想を学ぶ全ての読者に開かれたラディカルな一級の書である。







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