† ホルヘ・ルイス・ボルヘス †

世界中に根強い愛読者を持つアルゼンチンの巨匠、J・L・ボルヘスの代表的短編「神学者」の謎を読み解くーーポール・ド・マンの「アレゴリー」を媒介に

 ボルヘスは「この物語の結びは隠喩でしか語れない」(P60)と述べているが、ド・マンによれば言語の本質そのものが隠喩に他ならない。

「世界観」

 ドナウ川沿岸で活動する教祖エウフォルブスを首領とするモノトノス派(円環派)という新しい宗派がその邪教を広めつつあり、民衆や聖職者たちの間に動揺と不安が広がっている。

3-4世紀に描かれたウロボロスの蛇
「3-4世紀頃に描かれたと推定されるウロボロスの蛇」

 ボルヘスは直接「ウロボロス」という単語を用いていないが、以下の記述は明らかにその図像をイメージしていると考えられる。「山岳地方では、円環と蛇が十字架にとって代わるようになった。誰もが不安な思いを抱いていたが…」(p47)

「登場人物」

〈ヨハネス・デ・パンノイア〉

 『神の七番目の属性、すなわち永遠について』に関する論文で名高い神学者。ベルガモの宗教会議ではモノトノス派の誤謬を論駁する役目を与えられる。彼の文体の特徴は、「預言者を思わせる重々しい文章」(P48)。
 彼はエウフォルブスの邪教を論駁するために書いた『円環派論駁』の中で、プルタルコス、プリニウス、それに「ヘブル人への手紙」第九章などを解釈して、結論的に「魂もまたふたつと同じものはなく、もっとも下劣な罪人でさえ、その罪人のためにキリストが流した血と同じくかけがえのないものだと明言している」(P50)。
 エウフォルブスの火刑の後、やがて別の異端派である「ヒストリオン派」が地上を跋扈する。この宗派の命名者はヨハネスであり、宗派名は教団側も受け容れた。彼らについての報告文を作成したアウレリアヌスが、ヨハネスの『円環派論駁』のテクストを出典にして、「邪教の典拠」として技巧的かつパフォーマティブな修辞を駆使して「演出」したため、ヨハネスは邪教の流布した遠因として火刑に処される。


〈アウレリアヌス〉

 アキレイアの補佐司教。
 ヨハネスに対抗してモノトノス派の迷妄を論駁しようと企図する。その書物の中で、彼はオリゲネスのテクスト(「ユダが再び主を売り、パウロがエルサレムでふたたびステパノの殉教を目にするのではないか」(P49)や、キケロの『アカデメイア前書』のテクスト(「自分がルクルスと話している間に、無限にある同じ世界の中で、無限の数のべつのルクルスとキケロが同じ瞬間に、同じことを言っている」(P49)という夢想への嘲笑)を散りばめる。
 彼の文体の特徴は、多種多様な「修辞」を駆使すること。例えば、不信心者は「イクシオン」、「プロメテウスの肝臓」、「シューシュポス」、「二つの太陽を見たテーバイの王」、「どもり」、「オウム」、「鏡」、「こだま」、「井戸の水を汲むロバ」、「奇妙な三段論法」に擬えられる。
 エウフォルブスの火刑後、ヒストリオン派の異端的思想に関する報告文書を作成している際、「突然ペンが動かなくなる」(P56)という経験をする。それは「同一の瞬間は二つと存在しない」という「恐ろしい文章」(P56)を書こうとしている瞬間であった。ヨハネスはアウレリアヌスが告発した文書が発端となって火刑による死を遂げるが、後年アウレリアヌスも落雷によって飛び火した燃える樹木の中で焼死する。

〈エウフォルブス〉

 モノトノス派の教祖。
 直接の教えとしては、火刑に処される最期の瞬間に洩らした以下の言葉だけが知られている。「今回の出来事はふたたび繰り返されるだろう…お前たちは薪の山でなく、火の迷宮に火をつけたのだ。これまでに火あぶりにされたすべての人間が私とひとつに結びつけば、炎は地上にあふれ、天使は盲目になるだろう」(P51)。
 エウフォルブスの思想は「ヒストリオン派」の信徒たちに受け継がれる。彼らは「おそらくモノトノス派の思想に毒され」(P54)ている。ヒストリオン派の教説として特徴的な点は以下である。

・どのような人間にも同一の人間が二人いて、天上にいるもう一人の方が真の人間であるとする。
・我々の行為はもう一人の人間の行為を裏返しにしたものであり、我々が目覚めていればもう一人は眠っており、我々が交接すればもう一人は純潔を守り、我々が盗みを働けば、もう一人は惜しみなく物を与えると考えた。
・死後、我々は「もう一人の人間」と一体化する。



【『永遠の歴史』との相関性――エウフォルブスの系譜】

 エウフォルブスが火刑の直前に洩らす謎めいた台詞は、作者自身による本作についての解説として機能している重要な『永遠の歴史』(1936年発表の評論集で、「神学者」を収録した『アレフ』の刊行は1949年)所収の「循環説」における、アリストテレスの注解者、ロドスのエウデモス(紀元前三世紀頃)の以下のテクストに既に見出すことができる。「ピタゴラス学派を信じなければならないとするならば、同じことどもが周期的に回帰し、あなたがたはもう一度私といっしょになり、私はこの教義を繰り返し、私の手はこの棒切れをもてあそび、その他のことも再びそうなるであろう」(p106)。
 Plato's Year(プラトン年)にまつわるこのような神秘主義的な見解は、1616年にルチリオ・ヴァニーニが『自然の不思議な秘密について』で記した以下のテクストとして「円環的時間」でも言及されている。「新たにアキレウスがトロイアに赴き、すべての祭典と宗教は蘇り、人間の歴史は反復されるであろう。かつて存在したもので今存在しないものはなく、これまで存在したものはこれからも存在するであろう。しかしそれらはすべて一般的に言えこそすれ、(プラトンが断定したように)特定的に言えることはではない」(p120)。あるいはそれから三十年ほど経過した後のサー・トマス・ブラウンの『医師の宗教』第一部の注記に見られる以下のテクストも、これとエウフォルブスの最後の言葉にインスピレーションを与えたものとして解釈することができよう。「プラトン年は幾世紀という長い時の流れであり、それが経過した後にはあらゆる事物が以前の状態を回復し、プラトンがその学府において新たにこの教義を説くであろう」(p120)。おそらくエウフォルブスの教義の要諦項目を最も喚起的かつ明晰に語ったのは、他でもないマルクス・アウレリウスであったと考えられる。彼は『自省録』第二章で以下のように述べている。「なんぴとも過去や未来を失うことはない。なんぴとにとっても、自分の所有していないものを奪われることはあり得ないからである。万物は流転し、同じ軌道を繰り返し廻っているのであり、観者にとってはそれを百年見ていようと二百年見ていようと永遠に見ていようと同じであることを銘記せよ」(p124)。
 評論集『永遠の歴史』に収録されている二つの哲学的エッセイ「循環説」と「円環的時間」は、まさに短編小説「神学者」を小説化するための素材集として機能していることが、ここで透けて見えてくるだろう。より正確に言えば、ボルヘスは二つの評論テクストを小説テクストへ翻案しているわけだが、ド・マンが『読むことのアレゴリー』の中で、双方の境界線を策定すること自体無意味であると規定した以下のテクスト――「ルソーの小説『ジュリー』は、彼の最良の政治科学論でもある、としばしば指摘されてきた。『社会契約論』もまた彼の最良の小説である、と付言しなければならないだろう」(p200)――を思い起こせば、どちらも共にボルヘスの「思想の書」であると同時に、「小説」であり、「詩」でもあると述べることができるだろう。
 このような「円環的時間」の系譜に位置するエウフォルブスの言葉は、異端の遠因を招いたかどで告白されたヨハネスの火刑の場面の「原型」として機能している。「ヨハネス・デ・パンノイアはギリシア語で、次いでわけの分からない言葉で祈りを上げた。炎が彼を運び去ろうとしたとき、アウレリアヌスは思い切って顔を上げた。熱風が一瞬止まった。アウレリアヌスは憎みつづけてきた男の顔を見詰めたが、それが最初で最後になった。その顔を見て、見覚えのある人を思い出したが、それが誰だか思い出せなかった。その後、炎が彼を包み込んだ」(P59)。
 重要な点は、前回のエウフォルブスの火刑の際に、ヨハネスはエウフォルブスの最期の顔を見届けているという事実である。「獣のように吠え立てて」、「ほこりまみれの顔」などという共通した特徴が異なる顔を似て見せたという点もあろうが、間違いなくボルヘスは双方の「顔」を「同一」のものとして構想している。すなわち、かつてエウフォルブスとヨハネスに見られた「裁かれる者」と「裁く者」という関係が、次の形式ではヨハネスとアウレリアヌスに代理されて再現前している。これは、円環派の教義の核心に位置する循環論、すなわち「出来事はふたたび繰り返される」という反復の概念を行為遂行的に実演している。

※以下、参考資料としてエウフォルブス、あるいはヨハネス・デ・パンノイアと同じくその思想により火刑に処された人々の図像を紹介しておこう。

Robert Ferrar burned at the stake
「ロバート・フェラーの火刑」(ウェールズ地方の司教であったフェラーは、1555年にカーマーゼンで火刑に処された)

1
「カテリーナ・ヘノットの火刑」(カテリーナは黒魔術の実行に対して有罪と立証され、1627年にケルンで火刑に処された)


Illustration in Foxes Book of Martyrs of Rogers execution at Smithfield(1684)
「ジョン・ロジャースの火刑」(プロテスタントの牧師であったロジャースは、1555年にスミスフィールドで火刑に処された)


魔女狩りの火刑
「イギリスでの魔女狩りの様子」


【アウレリアヌス、あるいは「言語」のアレゴリー】

 アウレリアヌスが作成した報告文(実質的にこれが原因でヨハネス・デ・パンノイアは火刑台へ送られる)の内容は「隠喩的」なもので、「突然思い浮かんだ」、「喜び勇んで書きつけた」、「不安に襲われた」などという執筆過程の心象から、明らかに情動性に基づいてパフォーマティブなエクリチュールが採用されていたことが推測される。このように見ると、我々はアウレリアヌスを一人の補佐司教というよりも、むしろ「言語」それ自身のアレゴリーとしてみなすことができるだろう。いみじくもド・マンは、言語の本質をアウレリアヌスが好んで採用する「隠喩」にこそ見出している。

言語とは、全て命名に関する言語、つまりは観念的・比喩的・隠喩的なメタ言語なのだ。こうした性格を有する言語は、隠喩が指示的な未確定性をある特定の意味単位に字義的に移し替える時、その隠喩の盲目性に加担することになる。(p194)


全ての読みは常に意味作用と象徴化作用の選択を引き起こすが、そうした選択は、字義的なものと比喩的なものの区分不可能性を仮構した時、初めて実現可能となる。このような決定は恣意的ではない。というのも、それは様々なテクスト的・コンテクスト的な要因(文法、語彙論、伝統、慣用、調子、平叙文、弁別符号、等々)に支えられているからである。こうした決定の必然性=必要性をかいくぐることは不可能である。もしそれを回避するなら、言説の秩序がすっかり崩壊してしまうからである。このような状況は、比喩的言説が比喩的ではないような言語形式と常に対照的な形で理解されていることを示唆している。別言すれば、指示的意味の可能性が全言語のテロスとして仮構されているのだ。指示的意味の拘束から無造作に身を引き離すことができるというのは、確かに馬鹿げた考え方と言えるだろう。(p261)


 アウレリアヌスが常にヨハネスにジェラシーを感じながら書いたように、あるいはルソーの言語が常にそうであったように、あらゆる言語はその本質においてpassions(情念)の言語である。それはパフォーマティブなものであるが、常にコンスタティブな約束を装う(=纏う、化粧する)ものとして機能している。すなわちアウレリアヌスが「隠喩」を多用するという性格は、まさに彼を通してボルヘスが「言語」の本性を擬人化したものであると解釈することが可能なのだ(それはまた、ロマン主義精神の基底に存在するものである)。何故なら、アウレリアヌスはモノトノス派を論駁するように見せかけて、実は論敵であるヨハネス・デ・パンノイアを批判しようと企図しているからだ。彼は直接的にヨハネスに言及せず、常に「それとは別のもの」を批判するかたちで彼を婉曲的に攻撃している。この事実はすなわち、「比喩的なもの」(ここではヨハネス・デ・パンノイアへの攻撃を意味する)と「字義的なもの」(ここではモノトノス派への攻撃を意味する)、換言すればパフォーマティブとコンスタティブは互いに交換・代替が可能だということである。このように考えると、言語、あるいはアウレリアヌスは常に「事物」それ自体ではなく、「それとは別のもの」を、要するに比喩的なメタ言語について語っているということが明らかになる。
 では、『ブエノスアイレスの熱狂』(1923年、ボルヘス24歳の第一詩集)により詩人としてその文学的キャリアを開始したボルヘス(彼は作家、評論家である以前に己を詩人と規定していた)にとって、「言語」とは何であったのだろうか? ド・マンやフェルマンといったイェール学派の論客は、その本質をパフォーマティブにしてアレゴリカルな機制に支配された修辞に認めたわけであるが、ボルヘス自身の言語観が明瞭に伝わるテクストの一つが、以下に掲げる「羅針」と題された詩に他ならない。

羅針

万物は〈言語〉の単語であり、
それを用いて〈何者〉かが、あるいは〈何物〉かが、日夜、
世界史と呼ばれる無限の
たわごとを書き綴っている。
その奔流に
カルタゴが、わたしが、きみが、彼が、
了得しがたいわたしの生が運ばれていく。
生というこの不可解な謎、偶然、暗号、
バベルの不和、などなどの一切が。

名辞の背後には、名付け得ない何かが潜んでいる。
わたしは今日、その影がこの青く光る
軽い羅針に重くのしかかるのに気付いた。

羅針はひたすら海の涯てを指していたが、
しかしそれは、夢の中の時計を、
眠りながら身じろぎする小鳥を思わせるのだった。(p55)


 ボルヘスはこの印象的な詩の中で、世界を構成するのものは「言語」であり、あらゆる概念(名辞)の背後には「名付け得ない何か」が潜んでいる、と表現している。概念について、ド・マンはそれも一つの修辞であり、テクストの言語的機制から構成された一つの効果であると考えていたが、ボルヘスのこの詩でも「不可解な謎、偶然、暗号、バベルの不和」などといった表現から察せられるように、根源的には一つの単語に与えられる修辞の豊饒な多様性を指し示していると考えられる。一つの単語が、常に「別の何か」をイメージ的に喚起させるという見解は、実はクインティリアヌスが規定した「記号(シグヌム)」の定義でもある。彼によれば、“per quod alia res inteligitur”(それによって別のものが了解される)ことが「記号」の定義である。ここでaliaとは、「複数的な別のもの」であり、パース記号学における「解釈項」が無限に続くことと相関する。すなわち、「記号」はソシュール的な「シニフィアン/シニフィエ」という一対一関係では本質的に規定できないものなのだ。ド・マンの名高い「アレゴリー」の概念も、実は語源学的にクインティリアヌスの記号概念の条件を満たすものである。allegory(アレゴリー)は通常、「寓意」、「寓話」などと訳されるが、ギリシア語の原義は、allos(別のもの)、agoreuein(について語る)という言語機能それ自体の本性を意味しているのだ。
 ボルヘス、及びド・マンが述べるように、言葉は常に「それ自身とは別のもの」、あるいは「名付け得ない何か」を指し示すのであり、それは言語に備わる本質的・宿命的な機能なのである。したがって、主体的な意識によってこうした言語的機制を自由に制御できるものではないのだ。むしろ、作者の「意図」はauthorial impersonality(作者の非人称性)の内から生まれてくる、可視化されるものなのである。 

【顔の抹消――エウフォルブス、ヨハネス、アウレリアヌスの三者関係】

 ヨハネスは既に神学者として世に知られた存在として登場する。その頃に邪教を広めていたエウフォルブスを論駁する書を著したのがヨハネスであった。しかし、エウフォルブスの影響を受けたヒストリオン派は、おそらくこの特異な宗派名を彼から慣用していることからも推察されるように、ヨハネスの『円環派論駁』に散りばめられた「邪教の教義」から再構成されている。したがって、ヒストリオン派の生みの親は実質的には皮肉なことに正統派に属していたはずのヨハネスだということになる。この、「正統派が異端を糾弾する際に、彼らの思想を逆に流布させてしまうきっかけを作ってしまう」というパラドックスを利用したのがアウレリアヌスである。実はこの物語の冒頭で述べられている、聖アウグスティヌスの『神の国』第十二巻で言及されていたという、「プラトンがアテナイで、何世紀もたった後にあらゆるものは以前の状態を回復し、自分もまたアテナイでふたたび同じ聴衆を前にして、この教義を説くだろうと語った」(p46)という内容が、「プラトンの教義を取り上げたのは相手を完膚なきまでに叩きのめすためであった」(p46)ことを「忘れた」人々によって妄信されたという現象が、既にこの作品のテーマを先取って要約しているものであることは示唆的である。何故なら、「循環説」においてボルヘスは「聖アウグスティヌスは彼らの虚しい循環説を一笑に附して、こう断言する。イエスは真っ直ぐな道であり、そのような迷妄の円環的迷路から遁走することをわれわれに許すであろう、と」(p108)という注釈を施しているからだ。
 アウレリアヌスはヨハネスに常に近親憎悪を抱く司教であるが、その「顔」はおそらくヨハネスと著しく酷似している。双方の類似は「神学者」の随所に散りばめられており、列挙すれば以下のようになる。

「ヨハネス・デ・パンノイアとアウレリアヌスの共通点」

(1)コンスタンティノープルでの第二回宗教会議の破門制裁に反対。
(2)神の子の永遠の生成を否定するアリウス派を追及。
(3)地球はユダヤ教の幕屋のように四角い形をしていると説くコスマスの『キリスト教地誌』の正統性を証明。
(4)アウレリアヌスがヒストリオン派の異端的思想に関する報告文書を作成している際に、「突然思い浮かんだ」という「二十語からなるお祈りの言葉」(P57)が、数年前にヨハネスがモノトノス派論駁のために書いた『円環派論駁』の中の一節と完璧に一致する。
(5)ヨハネスはアウレリアヌスが告白した文書が発端となって火刑による死を遂げるが、アウレリアヌスも落雷によって飛び火した燃える樹木の中で焼死する。
(6)語り手の以下の言葉――「神は宗教的な相違点にまったく関心を示されないので、彼とヨハネス・デ・パンノイアを混同された」(P60)、あるいは「つまり、アウレリアヌスは天上で、はかりがたい神にとって自分とヨハネス・デ・パンノイア(正統と異端、憎むものと憎まれるもの、告発者と犠牲者)は、たった一人の人間に他ならないのだということに気がついたのだ」(P61)。そして、序盤でこの結語の伏線として機能している、( )で括られて見落としがちな以下の文章。「(懸念すべき異端というのは正統と見分けがつかないものなのだ。)」(p47)



 また、ヨハネスが火刑に処される際に、「その顔を見て、見覚えのある人を思い出したが、それが誰だか思い出せなかった」というアウレリアヌスの意見にもあるように、エウフォルブスの「顔」もまたヨハネスと酷似している。『永遠の歴史』の「循環説」には、こうした審美的ですらある一回性の体験について、以下のように記されている。「時として我々は、〈そのような瞬間を既に生きたことがある〉という感情に襲われて、物思いに沈んでしまうことがある」(p112)。このことから判るのは、無論以下の循環論的な物語の流れである。これは物語の序盤を、ストーリーが展開する論理から逆算して敷衍すれば自ずと導き出せるものである。すなわち、エウフォルブスは実は以前、高名な神学者であり、ある邪教の教祖(彼もまたかつて正統派に属していた)を告発するために論駁書を著した。この論駁書は批判対象である邪教のテクストを有機的に吸収しており、これに感化された信者たちがエウフォルブスを教祖として崇めることになったのではないだろうか。すなわち、ヨハネスが神学者からヒストリオン派の教義を招いた影の教祖(ボルヘスは実はこの教団の教祖の名前を意図的に言及していない)という役目を後天的に担わされたように、エウフォルブスにもまたこのような「誤算」が過去に存在したと想定することは、この物語の原理に対して忠実な読解であろう。
 この見解は「循環説」における以下のボルヘス自身の言及を重視したものでもある。「我々が始原の瞬間に立ち戻るならば、その瞬間がそれに先行する瞬間を必要とし、その先行する瞬間はさらにまたそれに先行する瞬間を必要とするというように、無限に遡っていくことに気付くであろう。そのような〈無限の退却〉を阻止するために聖アウグスティヌスは、時間の最初の瞬間は天地創造の最初の瞬間と一致するものと定める――non in tempore cum tempore incepit creatio.(時間においてではなく時間と共に創造は始まる)」(p114)。厳密に言うと、エウフォルブスの「役柄」を反復するヨハネスの存在は、「円環的時間」でボルヘスが述べた「永劫回帰の第三の解釈」に分類されるものであるだろう。すなわち、「同一のものの回帰ではなく〈類似〉のものの循環」(p123)という概念である。
 エウフォルブス、ヨハネス、アウレリアヌスの「顔」は、互いに同じ「言語身体」=「作者」が行うパフォーマティブな「三つの仮面」であり、三者の本質は常に同根のものなのである。ボルヘスは「民俗学者」という詩の中で、既に以下のようにこの「顔の抹消」という命題について触れている。「どんな物語にも、生者や死者、見える人や見えない人を含めて主人公は無数にいるが、この物語のそれは一人である」(p70)。〈多〉は〈一〉に包摂される。この見解は、我々が扱っている「神学者」における登場人物間においてこそ妥当するものである。「夢」という詩の中では、こうした「書かれた人物の匿名性」が更に夢幻的な調子で描写されている。

わたしは万人であるか何者でもないかであり、
それと知らずにわたしである他者であり、あの別の夢、
わたしの目覚めを見た者であるのだろう。彼はそれを、
諦めの微笑を浮かべながら裁いていくのだ。(p90)



 この詩は、文字通り物語の最後で異様な焼死を遂げることになるアウレリアヌス自身の告白として読むことが可能かもしれない。その場合、「それと知らずにわたしである他者」とは無論、アウレリアヌス自身が近親憎悪を抱き、火刑台へと送り込んだ神学者ヨハネス・デ・パンノイアである。異端審問官たちによって弾劾されたヨハネスは、アウレリアヌスが犯した「意図的な誤読」を天上において裁くことになるだろう。ボルヘスはまさに、この詩の最後でヨハネスの「諦めの微笑」について綴っているのではないだろうか。「彼はそれを、/諦めの微笑を浮かべながら裁いていくのだ」。
 では、ボルヘスの作品では何故「匿名性」のテーマが浮かび上がってくるのであろうか? それは一体どのような概念に基づいて作動しているのだろうか? この点について我々に示唆するアントワーヌ・コンパニョンは、そのボルヘス論を収録した大著『第二の手、または引用の作業』の中で、「神学者」で採用されているのはライプニッツの規定した「不可弁別者同一の原則(識別不能律)」に対する「侵犯」であると規定している。ライプニッツによれば、その原則とは「個々の二つの事物が完全に類似するということはありえず、それらは絶対に内的な質的差異を少なくともひとつは持っているというもの」である。「神学者」における、地上で異なるはずの人物が天上ではその差異を抹消するという不可思議なテーマは、まさにこの原理が抹消されるために起こったものである。
 この抹消は『伝奇集』の「トレーン、ウクバール、オルヴィス・テルティウス」の名高い原註でもパフォーマティブに表現されている。すなわち、「シェイクスピアを朗読する全ての人間はシェイクスピアその人である」という極めて衝迫力のあるテクストがそれだ。コンパニョンは、ボルヘス的「迷宮」の本質がこのような一つの方法論に基づいていたことを暴き出している。

迷宮は――このパラディグムはボルヘスの筆の下に絶えず出現する――(ディスクールの)宇宙であり、この宇宙は矛盾律と充足理由律には従っているものの、識別不能律には従っていないのである。そのような宇宙は、あらゆる瞬間とあらゆる場所の同時性である、というか、むしろそれは時間、空間の中に諸々の点を分離させるものを持たないのである。つまりそれは、<ここと今>というものが存在しない<永遠>なのだ。要約すると、『神学者』において固有に見られる引用の逸脱というのは、モノトナス派あるいは<円環派>の異端説が、その反駁者が死んだ後に、再び戻ってきたということなのである。それはつまり、識別不能律をお払い箱にしたということ、その結果として、迷宮に踏み入ったということに他ならない」(p494)


 同じ一本の樹でも、その葉は全て異なる――ボルヘスはこの原理を行為遂行的に侵犯する。「幸福」という詩の中でも、以下のように同様の原理が採用されている。「女を抱き締める者はアダムである。女はイヴである」(p118)。
 ボルヘスが「顔の抹消」を主題化するのは、常にアウレリアヌスがエクリチュールに携わっている時間においてである。いわば、「匿名性」の概念はアウレリアヌスにおいて、書く行為の中で必然的に作動する条件なのだ。このテーマについて、郷原佳以氏はその『文学のミニマル・イメージ――モーリス・ブランショ論』の中で、以下のように述べている。これは、ブランショだけでなくボルヘスのエクリチュールにおいても妥当する重要な見解である。

書くとは時間の不在の魅惑に身を委ねることである。…時間の不在とは純粋に否定的な様態ではない。それは何も始まらない時間、主導権がどこにもなく、肯定の前に既に肯定の回帰があるような時間である。…それは否定作用なき、決定なき時間、ここが同時にどこでもなく、あらゆるものがそのイメージのうちに引き下がり、我々であるところの「私」が顔なき「彼」の中性性に沈み込んだ己を見出すような時間である。時間の不在の時間には現在も現前もない。(p104)


【死に至る引用――ポール・ド・マンとの接続】

 先述したように、アウレリアヌスがヒストリオン派の異端的思想に関する報告文書を作成している際に、「突然思い浮かんだ」という「二十語からなるお祈りの言葉」(P57)が、数年前にヨハネスがモノトノス派論駁のために書いた『円環派論駁』の中の一節と完璧に一致する。おそらく、ヨハネスは邪教を批判するために、彼らの発言を多数引用していたと考えられる。そのテクストをアウレリアヌスが引用したことで、ヨハネスは「異端的な考えを表明したかどで告発された」(P58)。ここで浮上しているのは、「典拠の起源」をめぐるひとつの神話に他ならない。果たして、異端の教義を綴っていたのはモノトノス派なのか、それとも彼らを批判するためにそのテクストを引用してしまったヨハネスなのだろうか? 
 ここで参考になるのが、ド・マンのルソー読解である。ルソーは「第二序文」の中で、『ジュリー』を構成する書簡を綴ったのは自分であるのか、それとも真にジュリーであったのか、最早自分では定かではないと告白している。「どこで引用が終わり、どこから真実が始まるかを口にするのは不可能である」(p265)というド・マンの言及が示すように、引用元の「起源」を挙げることは不可能である。ルソーは『ジュリー』の中でペトラルカを引用しているが、ペトラルカ自身は『ヨハネによる福音書』を自由に解釈する形で引用している。そしてルソーもペトラルカのその変形されたテクストを恣意的に翻訳しているのである。ルソーのテクストに見られるこうした性質は、ヨハネス・デ・パンノイアが『円環派論駁』を記す際に陥ったであろうパフォーマティブな言語的苦境を如実に物語っていると言えるだろう。ヨハネスは異端の教義を「預言者を思わせる重々しい文章」(P48)で厳格に批判したであろうが、彼はその書く行為によって予想外の「読者」を得ることになる。それは彼の本を「意図的に誤読」しようと企図したアウレリアヌスという強力かつ唯一無比の批判者に他ならない。このような読者を想定していなかったところに、まさにヨハネス自身の「書くことの盲目」が存するのだ。いみじくもド・マンは以下のように述べている。「書くこともまた、読みの不可能性を示す」(p264)
 しかし、「ヨハネス・デ・パンノイアに対する手の込んだ告発文を思い出し、何度目か分らなかったが、あの判断は正しかったのだと自分に言い聞かせた」(P60)という文章からも察せられるように、アウレリアヌスはあたかも初めからヨハネスを告発するために報告文を作成したかのように振り返っている。すなわち元々パフォーマティブであったはずの彼の文書を、ボルヘス自身がいつの間にかコンスタティブな出来事として書き換え、アウレリアヌスに回想させている。ド・マンはこの点について、以下のように述べている。

どのエクリチュールに関しても、その修辞的な形式について問うことが可能なのである。このような事態が生じるたびに、最初は資料や証拠文書と思われていたものが一つのテクストと化し、その読解可能性が問題視されることになる。(p265)


 この物語では、アウレリアヌスがかつて読んだヨハネスの『円環派論駁』が、いわば「意図的に誤読」された状態で報告文として形を変えて、異端審問官たちに送付される。元を辿れば、ヨハネスが火刑に処される遠因は彼が自分自身で著したこの本にあったのであり、そこに批判対象であるモノトノス派の教義が言及されていたことが問題になるのだ。これはまさに、書くことが作者の「意図」を裏切り、予見できぬ壊乱を引き起こす現象を表現したものである。
 ここで想起すべきなのは、「アレゴリー」と相関して重要なド・マンの戦略素である「誤読」の概念である。これは元々ハロルド・ブルームの理論の要諦概念であり、「父」に対する「息子」の「アゴーン(闘争)」を意味している。ここで言う「父」とは、先行するテクスト、影響源である。ブルームの場合、「誤読」は一つの意図的かつ恣意的な戦略であったが、ド・マンの「誤読」の概念は言語自身の内的本性であり、デリダの「脱構築」とその実践方法において緊密に連動している。こうしたヨハネスの身に起きる想定外の不幸は、徹頭徹尾書かれたテクストに関する歪曲化された「引用」や、恣意的な省略、改竄などを用いたアウレリアヌスの「誤読」(それが意図的であれ、そうではないに関わらず)に端を発して引き起こされたものである限りで、ド・マンがlinguistic predicament(言語的な苦境)と呼ぶものの本質を捉えている。

読むことなしに書くことはありえない。だが、みずからの読解可能性を仮構するがゆえに、読むことはことごとく誤謬の中に置かれている。書かれたものは全て読まれなければならないし、全ての読みには論理的な検証を受け容れる余地がある。しかし、検証の必要性を確立する論理自体が検証不可能であるため、論理は真実を主張するための根拠を失ってしまうのである。(p262)


 こうした見解は、『盲目と洞察』においては以下のように表明されている。

解釈とは誤謬の可能性に他ならない以上、一定の〈盲目性〉がすべての文学の種別性をなすのだと主張することによって、我々がまた再確認することになるのは、解釈がテクストに、テクストが解釈に、絶対的に相互依存しているということなのである。(p241)

 
 このような「誤読」、あるいは読むことの「盲目性」がとりわけ生起し易いのは、ド・マンによれば、作家の元のテクストが批評的でありつつも詩的なレトリックを多用したりして、高度にアンビヴァレントである場合である。この特徴はまさにアウレリアヌスが「修辞」を多用するというそのエクリチュールの性質において見事に当て嵌まる。ルソーがその演劇的な身振り、文学性において論述にアレゴリーを導入したように、アウレリアヌスもヨハネスを憎悪するあまり、ルソーと同じく「passions(情念)のディスクール」に分類される諸条件を満たしているのだ。
 ナラティブ(語りの叙法)に着目すると、ボルヘスはアウレリアヌスを「映し手」視点にしてはいるが、特定人物に依存しない「作者の視点」によって語っている。最後に天上の神の眼が登場人物たちの「差異」を幻惑的に解消する機能を帯びているが、これはあくまでもボルヘスの作り出した「作者の視点」に過ぎない。神学体系を駆使して語られるためイリュージョニスティックな効果が濃密に働いているわけだが、これはエウフォルブスも、ヨハネスも、アウレリアヌスも、共にボルヘスの仮構する「作者」に収斂するという、物語の「主体」論に捧げられた一つの既に理論化されている定式の提示に他ならない。ド・マンによれば、テクスト内で言明され、テクストの表舞台に参入する「作者」は、「そもそも一人の主体ではなく、readability(読解不可能性)全般を指し示す隠喩なのだ」(p262)。あるいは、「作者」とは、書き手の「一つの意志、あるいは主体の隠喩と化している」(p262)と考えられる。







「参考文献」


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