† ポール・ド・マン †

ポール・ド・マンの「アレゴリー」、「隠喩」の概念について――『読むことのアレゴリー』第二部の読解記録(七章、十章)

Francisco Lachowski by Massimo Pamparana | Hero
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【七章「隠喩」『人間不平等起源論』(第二論文)】

 ルソーのエクリチュールについて、アルチュセールはそのキーターム的な術語にさえ生じる「食い違い」を指摘している。自伝的テクスト以外の、政治論についての概念用語の背後にも常に「自己」への強迫観念を隠し持っていると解釈されている。ルソーが『人間不平等起源論』で用いる名高い「自然状態」という用語も、ド・マンは根本的に虚構的なものとして想定されていると指摘する。
 本書の中でルソーは「自由」について、「果てしない限界=障害を克服しようとする意志的な行為」と規定している。「自由」――それはまず何よりpower to will/willpower(意志する力)であり、これはニーチェのwill to power(力への意志)を先取りしたものとして評価されている。自由とは、いわば「変化への意志」なのだ。他方でルソーは「未開人」、「動物」は自由とは対照的に、「隷属状態」にあったと解釈している。ド・マンが『人間不平等起源論』の中で最も重要な鍵となるテクストして注目しているのは、以下である。

「その上、一般的な観念は語の助けを借りなければ精神の内に導き入れられることはないし、悟性は命題=提言に拠らなければ一般的な観念を把握できない。これが、動物がそのような観念を形成できず、それに依拠する完全性をけして手にできない理由の一つである」(p182)


 このテクストをめぐってこれまで様々な解釈が与えられてきたが、そこには共通してある「盲目」を指摘できるという。ルソー研究者として名高いジャン・スタロバンスキーの分析に伴う落とし穴について、ド・マンは以下のように言及している。

だが、スタロバンスキーほどの知性や鋭敏さを兼ね備えた批評家でも、ルソーが提供している手掛かりを故意に見過ごし、然るべき解釈が要請されているにも関わらず、示唆的な読みよりも口当たりの良い読みを優先させているのだ。というのも、ルソーの著作のどこを見渡しても、一般的な歴史的完全性から区別される特殊な言語的完全性といったものは露ほども見当たらないからである。『言語起源論』における言語の完全性――それは事実上、堕落を意味する――は、まさに『第二論文』における社会の完全性と同じように進化する。人がここまで骨抜きにしたいと考えるこの一文には、疑いなくある脅威が隠されているに違いない。(p185)


 未開人が別の部族の人間に出会った時の鮮烈な「驚き」を表現するために、ルソーは「巨人」という隠喩を用いている。実際にはそれほど背丈の変わらない相手でも、恐怖を感じている見ず知らずの部族の人間である場合、実際より巨大に見えるというのだ。あくまでも「比喩」として用いられているはずのこの「巨人」が、ルソーのテクストでは次第にコンスタティブな意味として策定されるに至る。つまり、書きながら閃いた類のパフォーマティブな修辞が、いつの間にか事実確認的な意味として位置付けられているのだ。「虚構と事実のあいだで宙吊りにされた指示的な状況(恐怖という仮定)を、字義的な事実に変換する代替的な文彩(「私は怖い」、「私は巨人だ」)で代替すること」(p192)――ここから、ド・マンはルソーにおけるエクリチュールの特徴の核心に迫る。それは本質においてパフォーマティブなものであるが、フェルマンがドン・ジュアンについて言及したように、常にコンスタティブを装う(=纏う、化粧する)ものとして機能している。これは同時に、ド・マンが規定する言語の本質たる「隠喩」の原理であり、ロマン主義精神の基底に存在するものである。すなわち、比喩的なものと字義的なもの、換言すればパフォーマティブとコンスタティブは互いに交換・代替が可能だということである。このように考えると、言語は常に「事物」それ自体ではなく、「それとは別のもの」を、要するに比喩的なメタ言語について語っているということが明らかになる。

命名については、字義的なのか、比喩的なのか、といった言明は不可能である。(p189)



言語とは、全て命名に関する言語、つまりは観念的・比喩的・隠喩的なメタ言語なのだ。こうした性格を有する言語は、隠喩が指示的な未確定性をある特定の意味単位に字義的に移し替える時、その隠喩の盲目性に加担することになる。言語のメタ言語的(あるいは観念的)な性質に関するこうした言明は、ルソーに直接由来する先の言明――それによれば、命名が形をなすには、差異という観念(あるいは考え)を仮定しなければならない――と同等の意味を備えている。(p194)



 ルソーにおける「人間」という観念は、それ自体が錯覚的=幻想的な「別の観念」によって作り出されている。ルソーが「人間」という言葉を用いる時、それは常に「別の何か」を意味している。こうした代替構造は彼の他の重要な術語についても妥当する。

つまり、政治的な命運は「情念」と呼ばれる盲目的な隠喩化と符合し、また、この隠喩化には意図的な行為性は認められない、ということである。このような事実は、我々の予想とは裏腹に、全ての言語形態――とりわけ修辞的自意識の濃厚な文学的な言語――に不可避的に付き纏う「政治的な」性質、更に正確に言えば「政治性」をいちだんと強化する。社会や政体が人間と言語のあいだの緊張から生み出されるとするなら、両者は自然的(人間と事物の関係)でも、倫理的(人間間の関係に基づく)でも、神学的でもないことになるだろう。というのも、言語は超越的な原理としてではなく、偶然的な誤謬の可能性として思念されているからである。…アルチュセールが考えるように、文学は政治的なものの抑圧ではなく、優れて政治的な言説形式であることを余儀なくされている。そうした言説と政治的な実践の関係を心理学的あるいは心理言語学的な観点から描写することは不可能である。それについて描写するなら、むしろ修辞的なモデル内に留まり、二つの意味領域――指示的な意味領域と比喩的な意味領域――の関係という観点から出発しなければならないだろう。(p198)


 こういうわけで、ルソーの政治学理論の本質は言語的な戦略(パフォーマティブな原理)として機能している、とド・マンは考える。

社会契約の観念的な言語は、小説の比喩的言説と指示的言説のあいだに見られる微妙な作用=戯れに酷似している。ルソーの小説『ジュリー』は、彼の最良の政治科学論でもある、としばしば指摘されてきた。『社会契約論』もまた彼の最良の小説である、と付言しなければならないだろう。だが、両者が依拠しているのは、一つの方法論的な前提、すなわち『人間不平等起源論』の礎とも言うべき修辞理論なのである。(p200)



【十章「読むことのアレゴリー」『サヴォワの助任司祭の信仰告白』】

 ド・マンによれば、『信仰告白』を口にしているのは、ルソー本人ではなく、テクストの構造的な虚構化された主体である。そしてこの本は、「テクストそれ自体の混乱を劇化している」(p308)ものとして解釈されている。そこでは道徳的判断の明らかな変則、ないし逸脱すら見受けられるが、それはルソーが用いる言語システムによる「修辞的な不確定性」から生じている。ルソーの思想の動きは、宗教的な「改宗」を目指している、とも考えられているが、矛盾する二つの価値をほとんど無自覚に定立するスタイルの点で、同時代の批判者からも「詭弁的」と称されることがあったという。

それは誤謬の余地、論理的緊張の残滓を残すことで、脱構築的言説の閉止を防ぎ、そうした言説の物語的・アレゴリー的な形式を明らかにする。こうしたプロセスが意志あるいは自由という言葉で述べられ、指示的なレベルに移し替えられると、示唆的な残渣は、それが今「現出している」ように見える一つの世界に作用し、まさにその世界を構成する経験的意識――精神、意識、自己――として不可避的に姿を現すことになるだろう。(p315)


 まさに、こうしたパフォーマティブなエクリチュールをルソーは自ら「自由」とみなしていたのである。ルソーによる行為遂行的な発話行為は、やがて実践的な「政治論」へと自然に結び付いていくことになる。ルソーのテクストが哲学的でありながら時に文学的で、『ジュリー』のように書簡体形式の文学の形式を採用しながら同時に哲学的でもあるという、「一つの領土」にけして限定されないエクリチュールを採用している点について、ド・マンは以下のように述べている。

「文学的」テクストの読みや解釈の方法を、「哲学的」あるいは論証的テクストのそれと不当に区別するのは――こうした区別の大半は美学的なカテゴリーの濫用から生じる様々なイデオロギーに由来している――、哲学的テクストの読みから、文学的な解釈に認められる基本的な精妙さを奪い去ってしまう。極めて逆説的だが、こうした事態は、より形式的・技術的な哲学者たちよりも、プラトン、ルソー、ニーチェといった自己の修辞を強く意識している書き手たちに、より鮮明に立ち現れているように思われる。(p297)


 ルソーはこの本の中で、人間の「自由」は「比較したり判断したりする能力」にあるという。『人間不平等起源論』では、「私が事物について下す判断に、〈自分のもの〉を持ち込むことが少なければ少ないほど、いっそう確実に〈真実〉に接近できる」と記されている。「判断」とはルソーにとって、「一つのものを別のものの上に重ねる」こと、すなわちreplier(折り畳む)こととして規定されている。それは彼にとって、同時にsentiment(感情)の別名でもある。「判断」――それは「対象指示の可能性を生み出すと同時に、それを無効にする」(p305)パフォーマティブなものであり、それ自体が「言語」を媒介にして構成されている。ド・マンの読解によれば、ルソーは「知覚」(知覚は言語に包摂されている)そのものも「隠喩」として構造化されていると考えていた。つまり、知覚もまたひとつの言語的対象として捉えることができるのである。ここから更に発展して、ド・マンは存在論の核心にも急迫している。「存在」とは、est(ある)という、この「語」以外の何ものでもない。「存在」という言葉には実はいかなる神秘も、奥深い超越的指示対象も存在してなどいない。それは単なる「語」に過ぎない。
 ルソーは「感覚である映像が、対象である実物と一致しないのはどうしてか」について、常に考察していた。ド・マンによれば、それは「表明された思考行為それ自体が、そもそも一つの歪曲だからである」(p304)。こうした考えは、『言語起源論』でも主題になっており、ルソーにとって最大の言語論的な研究課題であった。
 

『ジュリー、または新エロイーズ』の「序文」の「執筆者」にとって、文学テクストの意図性(「意図の統一性」unité d'intention)は、自分は著者だと確信できる作家が一人もいないほど決定不可能なものだったが、そのことを考慮するなら、こうした言明はそれと逆のことを言っているように見えるマラルメの一文(骰子の一擲はけして偶然を排除しないだろう)と実は非常によく似ていることが分かる。つまり、作家が自身のテクストに現前するのと同じ形で、〈神〉が自らの創造に現前するなら、神聖な知性に与えられる権威はほとんど皆無ということになる。…判断行為によって形式的一貫性のある構造を樹立するといった精神の力はけして否定されていないが、そこから生じる様々なシステム――例えばテクストのシステム――については、その存在論的ないし認識論的な権威=根拠を確定することは不可能である。(p309~310)


 ここでド・マンは驚くべき見解を表明している。「作家が自身のテクストに現前するのと同じ形で、〈神〉が自らの創造に現前するなら、神聖な知性に与えられる権威はほとんど皆無ということになる」――この箇所は、神の世界創造を、一人の作家が物語を創造するプロセスに擬えるかたちで、すなわち「書く行為」のアナロジーとして捉えている。だとすれば、人間の書く物語が常にパフォーマティブによってコンスタティブを「壊乱」することに本質を持つという、ド・マン及びフェルマンに共通する見解に基づいて、我々は神もまた同様のパフォーマティブを実演していると解釈しなければならない。神を主語にして始まる全てのテクストもやはり人間の産物である以上、行為遂行的に書かれていることは否めない。神が書かれた存在である以上、この神は常にパフォーマティブに世界を創造しているというのは、まさに神御自身の本質が「言語」に存するからである。
 『信仰告白』でも、「神」の概念は人間的な「判断」から引き出されている。それが「判断」である以上、「一つのものを別のものの上に重ねる」こと、すなわち認知構造におけるreplier(折り畳む)ことが必然的に伴うのである。「神」と「人間」は、「それぞれが相手の隠喩」になっており、聖書の記述においてヤハウェが「熱愛」するなどの情動性を有するように、互いに字義的な点においては「類似」している。
 かくして、ルソーにおいて「判断」とは言語的に構成されるものであり、「言語」とはその本質においてsentimentalなものである。重要なのは、ド・マンがこれをルソーという「特殊」なケースに限定されたものとして言及しているのではなく、言語「一般」の問題として把捉している点である。あらゆるテクストを支配しているのは、神秘主義者が往々にして夢想したように神を表す謎めいた一語ではなく、徹頭徹尾「修辞システム」なのであり、それを動かす下部構造にあるのはあくまでも人間的な生々しい「心的欲動」に他ならない。こうした感覚的次元を言語の本質として規定する見解は、moral sensitive(感性的道徳)が重視された18世紀という時代において、とりわけ浮世離れした思想というわけでもなかった点をド・マンは強調している。
 あらゆるテクストは、本質的に「読解不可能」なものである。全ての文学のみならず、厳密なロジックによって理論的に構成された論文テクストであれ、それが「言語」で記されている限り、そこにはパフォーマティブな側面が常に反映されている。一つのテクストは、けして「一つの解釈」に固定化されることがない。何故なら、批評テクストもまた、ショシャナ・フェルマンが述べたように本質においてパフォーマティブなものだからである。ド・マンにおける「アレゴリー」、オースティンにおける「パフォーマティブ」、そしてフェルマンにおける「ドン・ジュアン性」――これらは共通して、「読むことの不可能性」を我々に指示している。




「参考文献」



読むことのアレゴリー――ルソー、ニーチェ、リルケ、プルーストにおける比喩的言語読むことのアレゴリー――ルソー、ニーチェ、リルケ、プルーストにおける比喩的言語
(2012/12/22)
ポール・ド・マン

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