† オペラ †

「死はこの上なく善きものなのだ、 もし私があの人のために死ぬことが許されるなら」/ヴェルディ《アイーダ》の鑑賞記録――ミラノ・スカラ座管弦楽団、グスターボ・ドゥダメル指揮(大阪フェスティバルホール)

 大阪フェスティバルホールでミラノ・スカラ座管弦楽団、グスターボ・ドゥダメル指揮によるヴェルディの《アイーダ》を鑑賞したので、その記録を残しておこう。まだ鑑賞されていない方が読んでも筋書きや見所がわかるように、できるだけ工夫してまとめることにしたい。


【グスターボ・ドゥダメルの指揮の魅力】


 《アイーダ》の「凱旋行進曲」(第二幕第二場)を指揮するドゥダメル――その姿は、まさに軍隊を統率する軍神マルスのそれである。彼の熱烈にして研ぎ澄まされた感情の宿った指揮のスタイルは、特にこの場面において最高形式に達する。私は劇場空間の上をマルスが大群を引き連れながら滑空する姿を初めて見た。それはこのオペラが、現実に属しながらも明らかに「古代」の時空間とも接続している魔術的効果に拠るものであろう。ドゥダメルにマルスが重なる瞬間――それは「戦闘」、「闘い」、「熱狂」においてであり、まさに彼は《アイーダ》の音楽を指揮する「司祭」であり、ラダメス、アイーダ、アムネリス、アモナスロら登場人物を統率する絶対的な「観察者」(神)であるかのようだ。ある時は、人物たちの烈しいやり取りを前にしてその存在感を空気のように霞ませ、またある時には舞台空間の「中心」として全てを支配する。彼は各人物の感情のダイナミズム(喜怒哀楽の幅)を「装飾」し、審美化する司祭である。ミラノ・スカラ座管弦楽団はまるで若きドゥダメルの情熱に協調し、互いに「憑依」され合ったかのようにしてオペラのダイナミズムを演出している。
 世界中から指揮者としての注目を一身に集めるこのベネズエラ出身、グスタフ・マーラー国際指揮者コンクールで優勝に輝いた貴公子の背中に、私はひとつの「芸術の希望」を垣間見た想いであった。芸術は単なる日常の余興ではなく、日常を根底から支える我々の「輝ける生」そのものである。「芸術、それは生きることである」――私はドゥダメルの肩が指揮の最中にそう何度も告げているのを耳にした。それは活力を失い、方向性と目的を喪失し、絶えず憂鬱と煩瑣な事柄に支配される我々現代人に、「生きている実感」を与え、この世界を愛する所作そのものを教える存在である。

【ストーリーと全四幕までの解説】

「概要」
 
 初演は1871年、エジプトのカイロでのクリスマス・イヴ(12月24日)である。これで成功を収めたヴェルディは、1872年2月8日のスカラ座公演でも好評価を獲得し、翌年11月にはニューヨークでも話題を攫う。この年には「演出教本」(俳優の動作や配置、衣裳デザインから舞台演出までの厳格なルール)が成立し、以後の公演はこれを踏襲するのが原則となる。最も重要な公演は、松浦寿輝氏が『平面論』で「近代」の開始地点として策定した1880年代の「パリ・オペラ座」公演(1880年3月)である。このパリ公演はそれまでに無い大成功を収め、ヴェルディのキャリアにおける不滅の殿堂が確立される。
 
「オペラの依頼者」

 ヴェルディにこのオペラを依頼したのは、エジプトのヨーロッパ化を企図し、スエズ運河を建設するなどの業績を残したエジプト太守イスマイル・パシャ(1830-95)である。彼は1869年にアフリカの地に最初で唯一の歌劇場を建設するなど、西洋文化に対して深い関心を抱いていた。ヴェルディの仕事は彼を満足させ、15万フランという莫大な報酬が与えられた。

「登場人物」

・ラダメス…エジプトの王子にして軍の司令官。アイーダを愛している。
・アイーダ…エチオピアの王女で、エジプト軍の奴隷にされている。ラダメスを愛している。
・アムネリス…ラダメスの許嫁で次期エジプト王妃。アイーダに惚れた許嫁のラダメスに愛憎入り交じった感情を抱く。
・国王…ラダメスの父でエジプト王
・アモナスロ…アイーダの父親でエチオピアの王。アイーダとラダメスの愛を利用して自国を守ろうと企図する。
・ランフィス…エジプトの司祭長。



「第一幕」 

 第一場〈王宮〉

 第一幕で印象的なのは、ラダメスにとってアイーダが「生命の輝き」と表現されている点である。二人が密かに許されない恋仲となっていることに気付いたアムネリスは激しい「嫉妬」を覚える。アイーダは祖国エチオピアが愛するラダメスの国エジプトと戦争状態にあることだけでなく、自らの「不幸な愛」のために絶えず嘆き悲しんでいる。エジプト勢の若き指揮官にはラダメスが抜擢されるが、対するエチオピア勢の司令官はアイーダの父親アモナスロに他ならない。いわば、アイーダは愛する「恋人」か、それとも祖国を代表する「父親」か――この葛藤を伴う二者択一を強いられているがゆえに苦悩に沈んでいるのだ。付記すると、既にこの段階でアイーダとラダメスが過去にプラトニックな恋愛関係を越えた肉体関係を結んでいたことが暗示されている。「太陽の光のように幸せにしれくれたこの愛情」(アイーダ)。アイーダは二人の間で板挟みの苦しみを味わいながら、絶えずその心は揺れ動いている。

第二場〈火の神の神殿〉

 司祭であるランフィスと司祭たちが登場して戦勝祈願。イシス神への讃歌は本作全篇において一貫して登場する。

「第二幕」

「第一場」〈アムネリスの広間〉

 アムネリスはエチオピアの王女にしてエジプト軍に捉えられた女奴隷アイーダに同情を寄せていたが、自分の恋敵であると知ったことで態度を変える。その不幸な身を顧慮しつつも、共にラダメスを愛する女同士として嫉妬の炎で燃え上がる。アイーダは他方、祖国を失った悲嘆とラダメスとの恋が成就せずに終わることを予感して、「私の命は砂漠のようです」と告げる。

「第二場」〈テーベの都の門〉

 エチオピアは敗戦国となり、アイーダの父親アモナスロは正体を隠している。血に餓えた司祭たちは「皆殺しにせよ」と声を揃える。ここで注目すべきなのは、民衆による歓喜の合唱「エジプトと聖なる地を守りしイシスの神に栄光あれ」と、戦士たちを導く「凱旋行進曲」である。特にエジプト軍の戦勝祈願を国民一同で願うセレモニーの行進曲は、ヴェルディが実は本作を「恋愛」ではなく、「闘う」ことへの熱烈な高揚と期待に第一の見せ場を置いたと感じさせるほど、まことに壮大で圧倒的である。本作の終幕が地下牢に幽閉され、ただ死を待つだけの二人のスタティックで悲劇的な最期であることを鑑みれば、ヴェルディが第二幕という「オペラの中間」部分(それはちょうど観客に休憩が与えられる直前である)にこのダイナミックな曲を挿入している点は極めて効果的であると言えるだろう。
 モーツァルトの《魔笛》についての論稿でも往々にして主張されることであるが、オペラにはいわば「陰」と「陽」が存在している。正確にいえば、明るく活動的でダイナミックな「陽」と、悲劇的で涙を誘いセンチメンタルな部分に急迫してくる「陰」が交互に展開されるのだ。《魔笛》では無論、「陰」に相当するのは伝統的なオペラ・セリアに属する「夜の女王のアリア」であり、「陽」は来るべき市民社会を象徴する「パパゲーノとパパゲーナ」の二重唱である。一方は悲劇的で格調高く、もう一方はそんな崇高な人物たちのアリアを嘲弄し、大地的なもの、あるいは滑稽で笑いを誘うものへと失墜させる。こうした対立する二つの重要な要素が交互に、あるいは溶け合って展開されたことで、モーツァルトの《魔笛》はしばしば「宇宙的統一」を遂げていると評されることがあるが、このようなオペラ特有の定式はヴェルディの《アイーダ》にも妥当する。つまり、「凱旋行進曲」はアイーダとラダメスの悲劇的な愛を棄却し、国家ぐるみで勝利を願い、祝宴をあげる熱烈な「闘い」への意志を表出しているのだ。これは「陽」に相当する。換言すれば、ヴェルディの《アイーダ》の前半はこの「凱旋」のためのパレードに向けて高揚していく国家的な扇情性としての「陽」が際立ち、後半はその「陰」に隠れて愛し合う二人の王族の許されぬ愛を演出しているのだ。《魔笛》における「陰陽」の統一が、《アイーダ》においてもやはり顕在化しているのである。
 このように、第二幕第二場は本作の「陽」の部分、すなわちダイナミックな「闘い」への意志(それは他国を征服し、支配しようとする男性的な原理である)を表現している。観客は「恋愛」だけでなく、本作にこうしたもう一つの「魅せ場」を与えられることで、最後まで飽きることなくオペラを満喫することができるのだ。そのように考えると、ヴェルディを含め、台本作者であるアントニオ・ギズランツォーニ(1824-93)がいかに観客を熱狂させ、あるいは悲劇的な調子に同情させる術を心得ていたかがよく判る。台本は間違いなく緻密に構成され、ヴェルディの音楽も飽きさせない緊密な「陰陽」の交替に富んでいる。
 音楽面について更に付記すると、ヴェルディは曲調が頂点にまで達して、いわば熱狂が極北に至るか至らないかの「瀬戸際」で、突如として全ての楽器を静止させるという手法を本作で何度か採用している。一気に盛り上がり、観客の感情もそれに合わせて高まっていくが、一瞬にして空間は静寂に包まれる。まるで何事もなかったかのように――砂漠に現れた砂嵐が突然消尽して、青空が広がるように――空間は「動」から「静」に回帰するのだ。それが新しい「動」への第二の開始地点になるのである。
 恋愛面については、この第二場でもアムネリスからすると恋敵が女奴隷の身分にあるということが次期女王として許せない、というプライドが伝わってくる。しかし、アムネリスが愛するラダメスは、「エジプトの王座もアイーダの心ほどの値打ちはない」と断言してしまうほど、彼女に魂を奪われているのだった。

「第三幕」〈ナイル河の岸辺〉

 イシス神が「情深き」、「尽きせぬ愛の御母」として崇拝されている。アイーダは迫り来る己の死を予感しており、それを《Del Nilo i cupi vortici(ナイルの暗く深い渦巻き)》というメタファーで表現する。一方、アイーダにとってエチオピアの故郷は楽園的な雰囲気を濃密に帯びて想起されており、「薫る森林」、「緑の丘」などと表現される。アイーダは戦乱を憎み、ラダメスとの純真無垢な「愛」のみを切実に希求してるのだ。
 アイーダの父親アモナスロは、彼女がエジプトの王子と恋仲にあることを利用しようと企図する。つまり、アイーダに説得させれば、あるいはエジプトがこれ以上エチオピアに侵攻するのを食い止められるのではないかと睨んだのだ。敵国の王族同士の若者が愛し合っていることを、まさに国家的な解決の糸口として利用しようというわけだ。
 一方、アイーダはラダメスともう一度二人で対面する機会を得る。ラダメスに対して、自分との愛の約束は「偽りの誓い」に過ぎないのではないかと問うが、彼はそれを完全に否定する。この時点で、アイーダにはラダメスと協力して、手下たちを引き連れつつアムネリスを暗殺するという危ういが可能性としてはあり得る道も用意されていたはずだが、彼女はあくまでも二人だけで逃亡することを迫るのだ。以下は、宗教的・民族的差異の彼方にある、無垢な愛のための楽園をアイーダがラダメスに暗示させる重要な台詞である。

アイーダ 

逃れましょう、暑く住みにくい
この不毛の土地を。
新しい故郷が
私たちの愛のために開かれてますわ……

かなた……処女林の間に、
花々は薫り、
恍惚のうちに
この世を忘れ去りましょう。(※1)



 国家間の闘争を逃れて、アイーダはラダメスとの「愛の国」を新天地に求める。これは、後の二人の最期を想定すると、まさに無垢で純真な清い言葉であるといわねばならない。アイーダは「愛」においてエジプトよりも自由な国エチオピアに彼を連れ出したい。他方、ラダメスは祖国エジプトの民衆を裏切ることになってしまうのを不安にしながらも、やはり彼女との「愛」を前にしては全てが敗北するのを実感する。まさに、第三幕は物語において二人の「愛の絆」が最も神聖な力をもって我々の胸を打つ重要な場面である。ラダメスは烈しい決断の眼差しを示しつつ、以下のようにアイーダの希望に応えている。

ラダメス

逃れよう!
よし、この城壁から逃れよう。
荒野にともに逃れよう。
そこには運命のみが支配し、
そこには愛の世界が開けている。
果てしなく続く砂漠が、
私たちの婚礼の床となろう。
私たちの上には星々が
澄み切った輝きで瞬く。

アイーダ

私たちの祖先たちの幸せな
土地では、空はそれを待ち受けています。
そこでは祭壇は薫りに満ち、
そこでは大地は芳香と花に溢れています。
爽やかな谷間や緑の平野が
私たちの婚礼の床となりましょう。
私たちの上には星々が
澄み切った輝きで瞬きます。(※2)


 このように、二人は「愛の逃避行」のために「砂漠」を越えることを企図する。それは、苦境が続くこのオペラにおいて最も甘美で神聖な場面であり、全ての相思相愛の情愛に捧げられた記念すべき二重唱である。しかし、アモナスロ、アムネリスらが二人の前に現れて、計画は散り散りになってしまう。

「第四幕」

「第一場」〈地下の処刑場に続く宮殿の間〉

 愛の逃避行の計画を知ったアムネリスは、愛するラダメスの裁き手となる。裁判官の声を代弁するように、彼女はラダメスの前に、さながら「慈悲深き裁きの女神」であるかのように登場する。この時点でアイーダの父親アモナスロは殺害され、アイーダは生きながらどこかに囚われている。ラダメスには次の二つの道しか最早開かれてはいない。つまり、アイーダを見殺しにしてアムネリスとエジプトを支配するか、あるいはアムネリスを捨ててアイーダとの愛をどこまでも貫き通すか、である。前者はラダメスにとってあり得ない選択だった。彼にはアイーダしか存在しないのだ。しかし、アイーダを選ぶと祭司たちによる裁判で有罪判決を受け、結果的に殺されることは眼に見えている。何故なら、ラダメスには祖国エジプトの司令官として戦線に勇敢に立たねばならないという使命が存在するからだ。これをたった一人の女のために投げ出した王は、末代まで呪詛の対象になるだろう。だが、ラダメスはどこまでもアイーダの愛に生きようとする。以下の彼の台詞は、不変不屈の「純愛」とは何かを如実に示唆している。

ラダメス

死はこの上なく善きものなのだ、
もし私があの人のために死ぬことが許されるなら。

最後の定めを受けることに
心は果てしない喜びを感じよう。(※3)



 司祭たちはラダメスの「国家叛逆」を断じて許せず、彼に死刑を宣告する。彼らは「野蛮」の寓意であり、ラダメスに「生き埋め」を命じる。司令官である時は国家を導く若き勇士として謳歌しておきながら、一度でも恋に現を抜かすとたちまち「死刑」を熱狂的に主張する彼らはまさに来るべき第二次世界大戦のナチス・ドイツの「野蛮」を象徴しているかのようだ。彼らに対し、アムネリスは「血で飾り立てたい卑しき虎よ…」と洩らしている。ラダメスを冥界へ導く最初の布告者となったアムネリスもまた、一人の女性として悲嘆しているのだ。一度は「死刑を」と、愛する者に言い渡しながらも、いざ実際にそれが事実として決定されると即座に取り消すこの感情のダイナミズムは、明らかに第二幕のあの圧倒的な凱旋行進曲の躍動感と通底している。本作では人物の感情の揺れ動きが、音楽と融合している。例えば、アムネリスが実はアイーダの父であるエチオピア王であると発覚する際の皆の衝撃や、アムネリスがラダメスに「死刑」を望む復讐の怒りの場面では、それと一致した激情性を感じさせる音楽が与えられている。台本の台詞と音楽が明らかに食い違い、そこに神秘的でもある「齟齬」を感じさせるモーツァルトの《魔笛》における「夜の女王」の第二番アリアとは異なり、基本的に《アイーダ》では台詞の感情の波が音楽の波と一致している。とはいえ、「凱旋行進曲」のように、アイーダとラダメスの悲恋を無視した民衆たちによる熱烈な魂を象徴した音楽も存在している。
 
「第二場」〈地下牢〉

 国家への叛逆罪で地下牢に閉ざされ、餓死することを待つのみとなったラダメス。しかし、その前に彼との「永遠の愛」を信じて忍び込んできたアイーダが姿を現す。アイーダはラダメスと一緒に死ぬことを欲しているのだ。この事実に衝迫されたラダメスは、以下のようにその天上的な至福を歌っている。

ラダメス

死ぬんだって! そんなに清く美しいのに!
私のために愛ゆえに死ぬんだって……
花のようなお前の年で、
この世を逃れて行くのだと!
天はお前を愛のために創り給うたのだ、
それなのにお前を愛したがために、私はお前を殺してしまうのだ!
いや、死んではいけない!
お前があまりにも好きだった……
お前はあまりにも美しい!
(※4)


 この場面は、男女の「純愛」の極致であると言って良いだろう。二人は《ロミオとジュリエット》のように、社会的な背景(シェイクスピアの場合は、対立する家柄)によってその愛を引き裂かれる。それを二人は自覚している。だからこそ、これ程までに彼らは愛に一途になれるのだろう。アイーダはそんなラダメスに以下のように返している。

アイーダ

見えて? ……死の天使が
眩いばかりに私たちに近付いてきますわ……
私たちを永遠の喜びへと導くために、
金色の翼に乗せて。

もう天が開けているのが見えますわ……
あそこではどんな苦しみもなくなり……
あそこでは不死の愛の
恍惚が始まるのだわ。
(※5)


 この後、二人は最後の命の火を燃え上がらせて合唱する。きっと、本当は抱き締め合いたかったはずだ。二人の抱擁を最後まで阻止しているのは、地下牢の冷たく重たい岩である――「おお、死の石よ!」(ラダメス)。

アイーダとラダメス

おお、大地よ、さらば、さらば、涙の谷(この世界)よ……
苦しみの中に消えゆきし喜びの夢……
私たちには天が開く、そして彷徨える二つの心は
永遠の陽の光へと飛び去る。
(※6)



 この最期の場面は、第三幕でのラダメスの以下の台詞「逃れよう!…荒野にともに逃れよう。そこには運命のみが支配し、そこには愛の世界が開けている。果てしなく続く砂漠が、私たちの婚礼の床となろう。私たちの上には星々が澄み切った輝きで瞬く」における、その「愛の世界」の天上での成就を意味している。二人は地上では「愛」を実際に果たすことができなかったが、その想いは天国において、「果てしなく続く砂漠」の果てにある楽園で実現されるのだ。地上で引き裂かれた愛が、天国で満たされ、至福に与る――これは舞台をエジプトにしているが、キリスト教的な文学的主題の一様態であると言えるだろう。

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 メゾ・ソプラノ歌手マリア・ヴァルトマン(1844−1920)
 彼女は《アイーダ》において「アムネリス」役で人気を博し、ヴェルディのお気に入りだったという。34歳でオペラ界を去り、イタリア人公爵と結婚したことで、ヴェルディを深く悲嘆させた。「復讐」と「嫉妬」に衝き動かされるアムネリス役としては、彼女の容貌は意外なほど優しげで慈愛を感じさせるほどである。実際、アムネリスは最終的に恋敵のアイーダの死を追悼する。写真の姿はアムネリス役の実際の衣裳。(※『ヴェルディ アイーダ (名作オペラブックス)』(音楽之友社)、p200)

※アムネリスは間違いなく《アイーダ》よりも出番の多い本作の主要人物であるが、1950年代終わりまではメゾ・ソプラノ歌手エベ・スティニャーニが世界的に有名。


【過去の《アイーダ》研究と、それからの展望】


 ワイマールで音楽史を教えているヴォルフガング・マルクグラーフは本作を「ヴェルディの活動の到達点にして、レイト・ワークの予兆」であると高く評価している。哲学者にして美学者であるテオドール・アドルノは、市民的オペラのあらゆる本質を理想的に体現したものとして《アイーダ》を位置付け、来るべき二十世紀の映画作品へと続く前奏曲としての役割を担ったオペラ群の中でも、本作をその究極形態であると解釈している。アドルノが指摘するように、確かに本作のストーリー、人物の感情のダイナミズム、舞台の壮大さ、テーマとしての「愛」の悲劇などは、後の数知れない映画におけるインスピレーションの源泉になっていると言えるだろう。より正確にいえば、ピーター・ブルックスがその『メロドラマ的想像力』で定式化したように、オペラの持つ本質的にロマン主義的な性格が、より形式化され「愛」をテーマに押し出したものして、二十世紀の古き良き「ラヴロマンス」映画を位置付けることができるだろう。この点で、バロック時代のオペラと二十世紀の映画は明らかに連続性を有するのだ。
 原案はエジプト学者であるマリエット・ベイが執筆し、アントニオ・ギズランツォーニが台本として完成させた。本作の舞台は当時のエジプトの史実的検証に基づいて考古学的に構成されたものではなく、あくまでも高度に主観的に、かつギズランツォーニ、ヴェルディによって自由にイメージされた「架空のエジプト」で繰り広げられる。当時のエジプト文化はイタリアで限定的に認知されているのみであり、書籍もあまり出回っていなかったので、本作は「エジプトを知らない天才的な素人によるエジプトの音楽化」と評されることもある。オペラ研究者として重要なアッティラ・チャンパイの見解によれば、《魔笛》はむしろエジプトを基調としたファンタジーに近いが、《アイーダ》はリアリティに満ちたエジプト(史実的要素の重視)を舞台にしているという。しかし、ヴェルディは人物の心理的なダイナミズムを描き出すオペラ・リアリズムの手法を採用しているので、史実的に本作を批判することは頓挫することを余儀なくされるだろう。公演史の中で印象的なのは、1981年フランクフルトで舞台をエジプトから「現代都市」にリメイクされた《アイーダ》が頗る不評であったという事実である。これは本作が史実に虚構を交えながらも、やはり「エジプト的なもの」無しでは成立しないことを如実に物語っている例だと言えるだろう。現代のオペラには、このような当時の舞台演出を大胆に現代版にアダプテーション(解釈を踏まえた翻案)することがしばしば見られるが、そこには無論上記の例のような批判も起こり易いのが実情であろう。
 周知のように《アイーダ》はシェイクスピアの《ロミオとジュリエット》との相関が指摘されている。ヴェルディはシェイクスピアを愛し、オペラには「機知と人間性」という二つの要素が必要であると考えていたが、本作では特にヴェルディが初期からテーマにしようと企図していた「互いの国が和解不能な敵対関係にある二人の〈愛〉」が前景化している。その際、《ロミオとジュリエット》のような家柄同士の対立から、国家的な対立へとスケールは拡大されている。運命を互いに翻弄される、血腥く無情な世界の中で「愛」が不成立であること――これが本作での重要な命題である。二人の愛を引き裂く象徴となるのは、国家の神聖な行事を司るランフィスを長とする司祭たちである。司祭たちは「野蛮」の寓意として批判的に描き出されている。ヴェルディにとって教会は「権力」のシンボルであり、司祭長ランフィスはいわば陰気な「枢機卿」としての機能を担っていると考えられている。
 マルクグラーフによれば、アイーダとラダメスの関係に見られる「愛の自由」(クライマックスでの「情死」)という永遠のテーマは、ヴェルディの同時代におけるリソルジメント(イタリア統一運動)の理念「自由」の象徴であるとも解釈されている。また、舞台がなぜ「エジプト」であるのかについて、ヴォルフガング・シュライバーはヴェルディの「諦念」の「隠喩」であると把捉している。当時の観客たちは、このオペラを「パリ万国博覧会」の隠喩として受け取った。
 方法としてヴェルディは、孤立したアリアの形式よりも二重唱による人物間の劇的な対立関係においてこそ、真の人間性が描き出されると考えていた。ヴェルディにとって、「人間」とはまず何よりも「〈情熱的〉に反応する存在者」であった。また、「合唱」も常に「空間的な拡がり」として捉えられている。アッティラ・チャンパイによれば、「空間的な拡がり」は本作がなぜこれ程壮大で圧倒的なダイナミズムに満ちているかを理解するためのキーワードである。チャンパイは「舞台の中」から「野外」へ出ていこうとするひとつの運動体としてこのオペラを捉えており、「仮象」と「現実」の境界線を抹消することがヴェルディによって暗に企図されていたと考えている。
 ヴォルフガング・シュライバーは、本作とワーグナーの《指輪》に共通する特徴について、以下のような極めて重要な見解を表明している。

嫉妬や嫉み、権力欲、戦争にその芽を摘まれ「不可能」と知りながらもひたすらに求め合う愛――事実、予想されるように、ワーグナーの《指輪》に、また前世紀の他の幾つかの激情芸術に似たものがここにはある。これらに共通して、個人と支配的な力との壮絶な衝突と闘いがあり、最期には破滅が来ると同時に、現実には破壊されてしまったものが音楽のオルフェウス的な力によって幻想的に美化される。ワーグナーは登場する神々や英雄、人間たちを、まさに理念の担い手として設定していたし、またワーグナーはひたすら抽象化することを心掛け、この世界の構成原理を宇宙論的にその根源まで遡り描こうとした。ヴェルディにとっては、行為し、悩み、歓喜し、歌う人間が唯一の、最も重要な要素である。とはいえ、彼の現実を見詰める眼差しや、人間性にも、個々の現象に見られるように、次第に過激化していく社会集団の本性がその兆しを見せている。だからこそ彼は、《アイーダ》の物語――つまり一つの悲劇に不可欠な二つの側面、「凱旋行進」と「情死」――を、権力に対する訴えと人間の理念の防衛の狼煙としてしっかりと手に握ったのであった。(※7)


 少し長くなったが、ここには「一つの悲劇に不可欠な側面」として、「凱旋行進」と「情死」の二つが挙げられている。シュライバーによれば、ワーグナーは「破壊されたもの」が最終的に幻想的な力で審美化される美的原理を採用していたが、これはまさに《アイーダ》における、戦争によって「破壊された愛」が、最終的に天上においては成就し、不滅の愛に至るという審美化のプロセスと一致している。シュライバーがヴェルディ、ワーグナーのオペラを論じながら、最後に「悲劇」に必要な二大原理を述べる点は、今後我々が何かオペラ作品を鑑賞する以外にも重要な示唆を与えるものになるだろう。実は彼のこの悲劇の定式は、私が実際に大阪フェスティバルホールでのグスターボ・ドゥダメル指揮による《アイーダ》を鑑賞した時に感じたものと、ほぼ一致しているからである。それは、判り易く言えば、オペラには「陰」(悲劇的なもの)と「陽」(喜劇的なもの)が交互に展開されるという原理が流れているのではないか、という考えである。これは既に述べたように、《魔笛》においては「宇宙的統一」を遂げているが、モーツァルトのこのオペラでは「喜劇」的な、明るい大団円を迎える。他方、ヴェルディの本作は「凱旋行進曲」のようなダイナミックで、喜劇的とは言わないまでも、明らかに「陽」の躍動に属する原理と、悲恋による悲劇的で鎮魂的な原理が同居している。終幕が悲劇的に終わる場合でも、「陽」が中盤で挿入されているというのが、まさに観客を飽きさせないヴェルディの戦略なのだ。そしてシュライバーは、この「陽」と「陰」を、いわば「凱旋行進」と「情死」に置き換えていると考えることができる。
 無論、「破壊された愛」を神話的なまでに美化するというワーグナー/ヴェルディ的な手法に当時のヨーロッパの知識人が皆共通して賛同したわけではない。例えばトーマス・マンは『魔の山』の中で、主人公ハンス・カストルプにレコードで《アイーダ》のフィナーレを聴かせている。ラダメスと死を共にし、永遠の愛を信じ合いながら絶命するアイーダの姿を、マンは以下のようにシニカルに表現している。

彼がそこに感じ、理解し、享受したものは、音楽、芸術そして人間の心情の理想化が勝ち取ったものであり、現実の卑近な醜悪さをこの上なく、また動かし難く美化したものであった。実際に起こることを、冷静に思い浮かべて見れば良いのだ。二人は生き埋めになる。…(※8)


 二十世紀という戦争の時代を生きて、マンの眼に映ったのは、このオペラが「現実の卑近な醜悪さ」を、恐ろしいまでに美化しているということだった。そこには、ナチスがワーグナーに対し親和性を持っていたということへの内省も色濃く反映されているだろう。しかし、我々二十一世紀を生きる世代にとって、オペラはまた新しい意味を持っている。本作でもし危険な「美の政治化」の徴候を見出さねばならないとすれば、それはむしろ流血を愛する虎としてアムネリスに批判された司祭たちに求められるはずだ。


【ヴェルディの《アイーダ》書簡】


 ヴェルディはオペラが巨額の資金が存在して初めて成立する「ビジネス」であることを熟知していた。彼はエジプト太守イスマイル・パシャとの橋渡しであるオペラ・マネージャーであるカミーユ・デュ・ロクル宛の書簡で以下のように述べている。

楽譜を引き渡し次第、報酬として総額15万フランをパリのロスチャイルド銀行に振り込むこと。まるで手形のように無味乾燥な手紙ですが、これはビジネスなのですし、親愛なるデュ・ロクルさんなら、今のとことはこれ以上述べなくても、御許しいただけるでしょう。どうか御許し下さい。敬具。(※9)


 台本作者アントニオ・ギズランツォーニ宛書簡では、妥協をけして許さない綿密な修正・遂行・訂正の提案を何度も持ちかけているが、こうしたところに彼の並々ならぬオペラへの情熱が迸っている。特にヴェルディが彼に注意を促しているのが、歌手に「動きの可能性」を与えない台詞を修正して欲しいという点である。「台詞」には常に観客を惹き付け、飽きさせない「動作」が必要であるという考えは、「観客の注意を惹く」という表現を強調するヴェルディの手紙のひとつの特徴である。(他の提案では、「この二重唱をレチタティーボにしても良いのでは?」のような細かい点も存在する)。
 特に注目すべきなのが、終幕への重要な注文である。これは、ヴェルディが《アイーダ》を最終的にどのような作品として考えていたかを如実に物語るエピソードであろう。

最後の部分では、私はありきたりの断末魔の苦しみの描写を避けたいし、「感覚が薄れていきます。あなたより先に逝きますわ。私を待ってくれ! 彼女は死んでしまった! 私はまだ生きている!」などといった台詞を使いたくないのです。何か甘美なもの、情熱的なもの、二人のための短い歌、生への別れの挨拶がここに欲しいのです。アイーダは穏やかにラダメスの腕の中に沈んでいくことでしょう。それと並行して、アムネリスは地下室の石の上に跪き、レクイエムを歌うのです。(※10)


 実際、完成版オペラではヴェルディのこの意志をギズンランツォーニが採用して、「甘美な死」に推敲している。こうした点に、ヴェルディの極めて完璧主義的で、台本も音楽も含め全てにおいて満足のいくものでなければ引き下がらない情熱が感じられる。彼は全身全霊で《アイーダ》を制作したのだ。フランコ・ファッチオ宛書簡では、彼の情熱がまさに表出している。

素晴らしい、まったく素晴らしい! 芸術に関する限り、躊躇したり、譲歩してはだめです。…恐れることはありません。断固とした行動を取れば、そしてそれが正しいものであれば、すれっからしの極みのような人々さえも、最後には必ず尊敬してくれるものです。良い知らせに感謝します。どんどんこういう知らせを送って、希望を与えて下さい。(※11)


 興味深いのは、ヴェルディ自身による「観客分析」である。彼は《アイーダ》に熱狂する劇場の客を見て、どこか冷ややかに以下のようにクラリーナ・マッフェイ宛に述べている。

《アイーダ》の成功は、ご承知のとおり、正真正銘で決定的であり、文句のつけどころのないもので、ワーグナー主義とか、未来音楽とか、無限旋律とかこうした類の身の毛もよだつ決まり文句を寄せ付けないものでした。観客は夢中になり、拍手喝采しました。それだけです。拍手喝采し、その熱狂する様には私も抵抗を感じました。しかし、結局――彼らは自由奔放に、躊躇うこともなく自分の感じたままを表現しただけなのです。何故だかお判りになりますか? それは、私には批判的な使徒がおらず、メンデルスゾーン、シューマン、ワーグナーを真似るより他に音楽について何も知らない作曲家たちという彗星の尾みたいな連中が私にはいなかったからです。理解できないものごとにも流行だからといって熱狂するような貴族主義的ディレッタンティズムは無かったからです。そしてこうした全ての結果が若者たちの彷徨と茫然自失です。それをもっと詳しく述べるべきでしょうか?(※12)


 この書簡は、ヴェルディが観客の熱狂とかなりの「距離」を取っている様子が窺えて特に印象的である。換言すれば、彼は「熱狂」させるために《アイーダ》を制作したわけではないのだ。また、ワーグナー主義というレッテルに対し、「身の毛もよだつ」と忌避している点はヴェルディのワーグナー観の一端が垣間見えて興味深い。ジュリオ・リコルディ宛の別の書簡では、やはり「ワーグナー主義」という悪評に対して、以下のように激昂した態度を見せている。「そしてさらに、ヴェルディはワーグナーの模倣者だ、というのです!!! けっこうなことです。35年経っても模倣者のままで終わらねばならないとは!!!」(※13)。ヴェルディにとってワーグナーは、乗り越えねばならない宿敵の一人だったのだろう。




「註」

※1)『ヴェルディ アイーダ (名作オペラブックス)』(音楽之友社)、p77
※2)p79
※3)p87
※4)p92
※5)p93
※6)同
※7)p30
※8)p258
※9)p144
※10)p169〜170
※11)p198
※12)p212
※13)p221








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