† 文学 †

隠された「七つの大罪」の真相――初期ヘンリー・ジェイムズの代表作『ワシントン・スクエア』について


Washington Square (Signet Classics)Washington Square (Signet Classics)
(2013/06/04)
Henry James

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 結末まで読んだ感想になるが、非常に残酷な物語である。
 ここに描かれているのは美しい相思相愛などではない。初めて出会った時から最後まで、ヒロインであるキャサリンの「運命の男性」であるはずの美男子モリスは、キャサリンの父スローパーが見抜いたように、彼女をただ金蔓としか見ていないような軽薄な男であり続ける存在として描かれている。ただ一人、キャサリンだけが純真に、この欺瞞的な青年モリスと厳格で皮肉屋の父との間で葛藤し、思い悩む。これはジェイムズによって描かれた、「ロミオとジュリエット」的な恋愛神話に対する強烈なアンチテーゼである。読後感が私の愛するルキノ・ヴィスコンティの『夏の嵐』に近いのも、モリスとスローパーの描写が非常に人間臭く、時に愚かしく描かれているためだろう。この物語を読み終えた我々は、この世界に果たして無垢な「相思相愛」など存在し得るのかどうか、今一度考えてみなければならないだろう。ジェイムズはモリスとキャサリンの恋を一見清楚に、純情さの「仮面」を纏わせて描いているように見えるが、実はそれはキャサリンがただ他の女性よりも「考えなし」なところがあるだけで、実際にはこれはモリスという金に強欲な青年による「下心」を、不幸にも「恋心」として誤読した若い女性の悲劇に他ならない。最後まで「救い」が描かれず、かといってルソーの『ジュリー』のように「美徳」の重要性を説く人物が語りを展開するわけでもないこの小説は、徹頭徹尾シニカルにして教訓的である。我々は文学によって、最早夢見ることを許されていないのだろうか? ジェイムズは我々に、厳しく無慈悲な現実を挑戦的に突き付けているかのようだ。
 さて、名高い『ワシントン・スクエア』のストーリーのディテールを詳しく眺めてみることにしよう。この物語の語り手は「私」であり、彼は作中に登場するわけではないが、時々読者に語りかけることがある。登場人物は以下の通りだ。

『ワシントン・スクエア』の登場人物

キャサリン……母の遺産で一年に一万ドルの収入がある上流階級の令嬢。少し頭の回転が遅いところがあるものの、オペラ音楽ではベッリーニやドニゼッティを愛好するなど、教養がないわけでもない二十二歳の平凡な娘。

モリス……過度の自信家でナルシシストの美男子だが、その生活は貧しく職にも就いていない「怠惰」な青年(本人は無職であることに劣等感を感じてもいる)。歌を嗜んだり女性好みの華美な服装を愛するが、そうした背伸びがキャサリンの父スローパーから厳しい眼差しを向けられ、「紳士」ではないと糾弾される。若い頃は快楽に身を委ね、現在も内心では世界を動かすものはただ金だけだと確信している。

スローパー……キャサリンの壮年の父親で、名医にして上流階級の名高い紳士。頭の弱く内気な娘の相続金目当てでやって来るモリスのような青年を目の敵にしている。その性格は一見穏やかだが内面は冷酷かつ激し易く、一度持った自分の考えを訂正することはない自己中心的で猜疑心の強い気質の持ち主。

ペニマン夫人……スローパーの妹(キャサリンの叔母)。美男子モリスを気に入り、キャサリンと結び付けようと御節介を焼きたがる。オペラのように物事が劇的に運ぶのを好み、派手好き。スローパーとは仲が悪い。

アーモンド夫人……スローパーの妹(キャサリンの叔母)。兄と同じくモリスを警戒している。

モンゴメリー夫人……モリスの姉で、子沢山のため貧しく慎ましい暮らしをしている。モリスを家に居候させる代わりに、彼には子供たちにスペイン語を教えさせている。


 あらかじめ断っておくが、上記で示した登場人物の各説明は、あくまでも「結末」まで読んだ上で作成したものである。この物語の面白いところは、実は読みながら一人の人物に貼付されている「イメージ」が少しずつ変化していく点にこそある。ゆえに、最初から一人の人物が、ある固定化されたイメージによって読者の前に描き出されるわけではないことを付記しておこう。
 ストーリーを図式的に述べれば、これは一組の男女が社会的な「出自・地位・財産」などの差異をめぐって葛藤し、結局引き裂かれる物語である。ジェイムズのナラティブはヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』と同じく、キャサリンを中心としつつも「映し手」が微妙に変化するタイプである。ジェイムズが語りの手法において最も統一感が取れていると自負していた『大使たち』(この作品ではストレザーただ一人の内面描写を中軸にして世界が展開される)と比較すると、この前期の佳作は若干バランスを欠いている。また、傑作の誉れ高い『アスパンの恋文』のようにヴェネツィアの風景が叙情的に描かれるような描写もなく、本作はタイトルにもなっているはずの「ワシントン・スクエア」の風景描写が極めて少ない。『アスパンの恋文』が、まさに導入部から「謎を探る」探偵的なストーリーラインによって読者を導いたことと比較すると、本作は構造的にどこか従来の古典文学の「形式」に捕われてしまっている感もあり、会話文と地の文の比率もやや歪である。より正確に言えば、本作は会話文の心理的説明として地の文に登場人物の内面描写を導入しているが、実質的に会話文こそがストーリーを進行させているのである以上、この地の文はあくまでもジェイムズ的な実験・飾りに等しい。巧く会話と内面描写が溶け合っているのは、やはり『アスパンの恋文』の形式ではないだろうか。
 『ワシントン・スクエア』の地の文では、会話文の「装飾」として内面描写が丁寧に描き出されている。しかし、会話文に注目すると、実はこれもオペラの台本にやや近接したかのような独特な誇張法や装飾技法が見出される(これはジェイムズが尊敬していたバルザックでも同様)。いわば、喜怒哀楽を表現するための装飾であるが、これは人物の「心理」のディテールを描き出すことに卓越性を発揮したジェイムズの魅力の一つでもあるだろう。
 そもそも、なぜモリスはスローパーに嫌われているのだろうか? 実はこれはこれまで何千人と患者を観察してきた医師スローパーによる「印象」(人相学などの見識を緩用しているとはいえ)なのだが、それが最も判り易いかたちでモリスに伝えられるのは以下であろう。

"That has a harsh sound," said the Doctor, "but it is about the truth—speaking of you strictly as a son-in-law. Your absence of means, of a profession, of visible resources or prospects, places you in a category from which it would be imprudent for me to select a husband for my daughter, who is a weak young woman with a large fortune. In any other capacity I am perfectly prepared to like you. As a son-in-law, I abominate you!"

(それはまた、無慈悲な調子ですな、と医師は言った。けれども、真実であると言えないこともないです。娘の結婚相手という観点からのみ見た話ですが。君には収入も仕事もなく、持参している資産も今後得られるであろう見込みある財産も無いのだとすれば、私の娘の夫に君を選ぶのは無分別だと言わねばならないタイプに分類しても致し方ないでしょう。資産は豊かにあるとはいえ、私の娘は若くて気が弱いのでね。娘の結婚相手として考えるのでさえなかったら、私は君のことを好ましくないとは言いません。ただし、義理の息子としては断じてだめです!)


 モリスが「結婚相手」として失格している理由は、彼に「仕事」(収入)がないこと、そして「財産」も存在しないからである。つまり、スローパーはそれ以外のモリスが持つ特質(美しい容貌、優雅な身のこなし、キャサリンへの思い遣り)を評価しつつも、この一点を彼が備えていないために絶対に結婚させるわけにはいかないのである。これは、なにもスローパーによる若い男性への生理的嫌悪に由来しているのではなく、むしろ職のない男性と結婚させると娘は将来的に不幸になるという社会的常識の具現化であり、スローパーとはその象徴である。モリスが立派な職業に就かない限り、娘と結婚する権利はない――こう考えるスローパーにはシニカルで厳しい一面もあるものの、あくまでも「常識」を重視し、娘の将来を気遣う「徳」の持ち主としての父の姿が浮かび上がるわけである。
 スローパーは外面は紳士的で穏やかな口振りだが、内面には常にモリスへの怒りが渦巻いている。

"There is something I should greatly like—as a moral satisfaction. I should like to hear you say—'He is abominably selfish!'"

(わたしの道徳的な満足のために、あなたの口から御聞きしたい言葉があります。それは、“弟は酷く利己的です!”という言葉なのです)



 この場面は、どれ程モリスにキャサリンを奪われることに「静かな憤怒」を抱いているのかがよく伝わり、印象的である。ここを読んでいる時私は、こういう口調というものが存在するのか、というある種強烈な印象を抱いたのだった。モンゴメリ夫人に裏工作してまで、二人の仲を裂こうとするスローパーは、前半では恐ろしい醜悪な父として描き出される。しかし、中盤からこの物語の真の「悪」は実は父ではなく、もしかするとモリス自身なのではないかという疑念が浮かび上がるのも事実である。何故なら、モリスも、そして二人の結婚を待望するペニマン夫人も、本心ではキャサリンを愛していないからだ。モリスは彼女を「金蔓」として、ペニマン夫人は「ドラマのヒロイン」として劇化して勝手なイメージを投影しているのである。ペニマン夫人が二人にしつこく御節介を焼くのは、おそらくモリスへの横恋慕のためだろう。あるいは、ジェイムズが控えめに述べているように、美男子である彼の魅力に夢中になり、年増な自分にはあくまでも母性的な愛情表現が向いていると考え直したからかもしれない。
 ここで重要な図式は、モリス、キャサリン、そしてペニマン夫人という三者にとっては、スローパーはいわば人生の「壁」であり、「障害」であり、おそらくは「敵」でもあるということだ。したがって読者もジェイムズの描写に導かれながら、スローパーを「結婚を阻止する伝統的なタイプの権威ある父」のイメージとして捉えるように促される。しかし、本当にスローパーは二人の関係を裂いたのだろうか? むしろ、モリスという「悪魔」から娘を救ったただ一人の賢者として、スローパーを捉えることもまた可能ではないだろうか? 誰の立場に立つかによって、人物のイメージが二転三転すること、これは『ねじの回転』における解釈の多様性に繋がるジェイムズ文学の醍醐味である。
 スローパーはモリスを遠ざけるためにキャサリンを連れてヨーロッパ旅行に出かけるが、その直前に登場する「ヴェニスのイメージ」(キャサリンの声を通して語られる希望の場としての)は、後の『アスパンの恋文』におけるジェフリー・アスパンとジュリアーナのロマンスの舞台であるヴェニスに通じるものがある。

in some celebrated spot—in Italy, say, in the evening; in Venice, in a gondola, by moonlight

(どこか名の知れた場所で――例えばイタリアの宵、ヴェニスの月光に照らされたゴンドラの中で)


 旅行期間は一年であったが、若書きのためか、それとも単なる物語上必要な設定だったのか、アルプスの山の場面しか具体的に描いてはいない。明らかにキャサリンの気持ちが気になる場面において、この「空隙」はなんとも残念で物足りない印象である。その期間、モリスは本性を現している。《and, as a young man of luxurious tastes and scanty resources, he found the house a perfect castle of indolence.》(そして、豪奢な趣味と貧しい資産の持ち主である青年の眼に、この邸はまさに怠惰の城として映った)。
 キャサリンに心境変化が起きるのは、旅から帰還した直後である。彼女はそれまで言いなりになっていた父をはっきり憎むまでに至り、「悪い娘」になることを決意する。向かう先はただモリスの腕の中だけだったはずだが、この間彼と親密な仲になっていたペニマン夫人には苛立ち以上の軽蔑を向ける。おまけにモリスとペニマン夫人が交流していたのはスローパー邸であり、彼はなんと父の書斎で煙草を吸ったりしていたというのだ。この軽率な行為にキャサリンは静かな失望を抱く。また、モリスもこの一年で自分を変えようとしたのか、キャサリンが帰ってくるわずか一週間前に「仕事」を見つけているのだが、これがまた実に如何わしいものだ。モリス曰く、自分はトップに立って立派な仕事をしており、スローパーとも対等の立場にあるのだというが、これをキャサリンが哀しげにあしらうのは無理もない。何の仕事かもほとんど判らない仕事に就いてわずか一週間で、これ程思い上がった言葉を口に出せるモリスは、おそらく自らの出自への極端なコンプレックスに苛まれていた反転衝動に襲われたのだと言えるだろう。他方、娘と旅行中に仲違いしたスローパーの皮肉振りはますますその露悪さを帯びていく。
 ジェイムズは、まぜ読者に作為的だと思わせるような危険を冒してまで、キャサリンに一年間も旅行させたのだろうか? それまでのキャサリンは静かな受け身の性格であり、旅から帰還した彼女は父の権力の呪縛から逃れようとする動的な主体である。この「変身」のためには、父と娘が二人だけで決裂する場面が是非必要だとジェイムズは構想したに相違ない。そして、激しい感情が時に直観的な洞察を齎すように、キャサリンはそれまで暗闇に覆われて、ヴェールで包まれていたモリス、ペニマン夫人たちの本性に気付くのだ。モリスは優柔不断な男に過ぎず、ペニマン夫人はジャーナリスト顔負けの御節介に過ぎなかった、と。
 スローパーと仲違いしたキャサリンは、遺産を相続してもらえない身になる。それを知ったモリスも遂に本性を現し、唐突に彼女の元から行方を眩ますのだ。要するに、モリスはキャサリンが金蔓になり得ないと知ったのである。こうして、二人の婚約は滅茶苦茶なまでに解消させられる。わずか二年で、キャサリンは恐ろしく無慈悲な社会の一面を学ぶことになったである。

 キャサリンはそれからどうなったのだろうか? ジェイムズは後日談もしっかり描写している。モリス、そして父との決裂を境に、キャサリンは恋愛には極度に内気になり、求婚者にも見向きもしない寂しい女性になっていく。三十歳を越えたあたりから、これまであれ程結婚に口を挟んだスローパーが、今度は「早く結婚してくれ」と、花婿の条件を緩めるのは実に皮肉である。キャサリンがヨーロッパ旅行から帰還し、「眼が醒めた」状態でようやく愛を表明した相手モリスの突然の裏切りは、彼女にそれ以後もずっと傷跡となって満たされぬ空隙を生んでいたのだ。四十歳近くになると、キャサリンは社交界では優しい上品なオールド・ミスとして控えめにその存在感を発揮している。誰も、かつてこの物静かな女性に残酷な結末を迎えた悲恋があったなど知る由もない。
 スローパーは依然、娘の支配欲が強い男性であり続けた。最後までモリスを憎み続け、用意周到に娘の遺産を五分の一に減少させることで、いつかモリスが再びやって来た時に悔しがるよう手を打つなど、果てしなく抜け目の無い性格である。キャサリンはおそらく、モリスと結婚していても金銭的に不幸になっただろうが、結婚しなかった現在の彼女が父の下で果たして幸福であるのか、それは読者の想像にのみ委ねられている。スローパーは最後まで、「金と権力」の象徴として描かれる。
 年を取ったキャサリンは年配のペニマン夫人と旧スローパー邸で二人きりでひっそりを暮らし始める。オールド・ミスが立派な古い屋敷で暮らしているという設定は、どこか『アスパンの恋文』のミス・ティータとミス・ボルドローに通じる。彼女たちがここにまで至るには、やはりそれなりの過去のドラマが存在しているわけだ。
 そんな頃、ほぼ二十年ぶりにモリスがやって来る。社交界に通じているペニマン夫人の評によれば――《I am afraid he has not been very successful—that he has never got thoroughly established. I don't suppose he is sufficiently plodding, and that, after all, is what succeeds in this world.》(あれからあまり成功したとは言えなくて、安定した仕事についたことはないようよ。こつこつした努力が足りないんじゃないかしら。この世で成功しようと思えば、結局、ものをいうのはそれしかないもの)――だということだが、これはまさにスローパーの口からも成し得なかったモリス批判として最大のものであろう。長い年月を隔ててモリスと再会したキャサリンだが、そこには苦労の跡が、「見慣れぬ厳しさのある眼」があった。あれ程モリスを純真に愛していたキャサリンは、冷たく彼を追い返す。そして、モリスは最後の金蔓が自分を軽くあしらったことを軽快に皮肉る。
 物語には、最後まで「光」が描かれない。年月はキャサリンから恋する心を奪い取ってしまった。ラストの描写が、実に沈痛で物悲しく、そして涙を誘うほどに美しい。

Catherine, meanwhile, in the parlour, picking up her morsel of fancy work, had seated herself with it again—for life, as it were.

(そうしている内に、居間ではキャサリンが腰をおろし、先刻の刺繍を取り上げて針を運び始めていた――まるでそれが人生の仕事であるかのように)



【ジェイムズは本作で何を伝えたかったか?】

 最後のキャサリンの裁縫仕事は、ペニマン夫人の言うところのplodding(こつこつと働く)であり、モリスに往々にして用いられている表現であるindolence(怠惰)とは対照的である。近代以前まで西洋文明の精神史を実質的に支配してきたキリスト教的道徳律からすると、indolence(ラテン語はacedia)は「悪徳」の一つであり、特に仕事を持たないで自分に過度の自信を持つ「高慢(superbia)」は、以下に示すように「七つの大罪」にも数え上げられる。

「七つの大罪」

傲慢  superbia pride
嫉妬  invidia envy
憤怒  ira  wrath
怠惰  acedia sloth
強欲  avaritia greed
暴食  gula gluttony
色欲  luxuria lust

※ラテン語、英語の順


 ジェイムズは意図してか、モリスに「怠惰」と「高慢」の二つの悪徳を与えていることが判る。いみじくもマックス・ヴェーバーが『プロ倫』で述べたように、敬虔なキリスト者において仕事を持って忙しく汗水流して働くことで回避できるのは、モリスが支配されているindolenceであって、地上で富を積むことは悪徳の回避の賜物として解釈されてきたのだった。スローパーは医師という「仕事」を持ち、保守的で威圧的な性格ではあるものの、娘の未来を案じて危険を排除しようとしている。客観的に見た場合、彼のモリス批判は極めて説得的なのである。
 しかし、スローパーもやはり守銭奴として、金にあまりにも執着し過ぎている。彼もまた金銭において、そして娘までをも商品であるかのように所有する欲望において「高慢(superbia)」の罪に相当するだろう。キャサリンだけが無垢な娘としてこの二つの「欺瞞的な善」によって板挟みに曝されるが、ジェイムズは救済をまったく提示していないように見えて、実は彼女の「手」を通してそれを暗に示しているのではないか。すなわち、それは「怠惰」にならず、謙虚に、与えられた仕事に真面目に取り組み、ひたむきな努力を積み重ねて、けして何ものにも執着しないという所作である。こうした態度を「無垢」と呼称するなら、それはモリスにもスローパーにも欠損していた美徳である。すなわち、ジェイムズは実は本作で「善」の薄皮を纏っている社会全体の縮図を描いてみせたということになるのではないだろうか。善を纏うのは「悪」であり、モリスとスローパーはやはり「七つの大罪」のいずれかに触れてしまっているのだ(それとは気付かずに)。
 このように見ると、最後のキャサリンの「地味な、こつこつした手仕事」という素朴な裁縫の意味がより明晰なものとなる。ジェイムズは救いをまったく描いていないようでありながら、実は静かに受苦の態度を取るヒロインの姿を通じて、我々が生きる上で往々にして見失いがちなものを教えてくれていたのではなかったか。













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