† 美学 †

「家」の詩的解剖学、あるいは「詩」の本質への急迫――ガストン・バシェラール『空間の詩学』読解(2)


空間の詩学 (ちくま学芸文庫)空間の詩学 (ちくま学芸文庫)
(2002/10)
ガストン バシュラール

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【家の詩的解剖学】

(a)「半ば開いた戸」

 現代人は神を喪失している、あるいは不在として神は現前している、などと言われているが、実質的に言えば神は我々の身近に――例えば「部屋の扉」に――現存している。現在のローマ・カトリック教会の神学大系の骨格を築いた聖トマス・アクィナスの師であるアルベルトゥス・マグヌスによれば、「扉」とはそれ自体で高度に神秘的な場である。マグヌスは言う、「ドイツに双生児がいた。そのひとりは戸を右手で開け、もうひとりは戸を左手で閉めた」。ここで重要な点は、双子の人生は生まれた日が同じでも常に異なった歩み方をするという点だけではない。この謎めいた教訓は、扉を右手、左手のどちらで開けるかによって、開かれる「世界」そのものが既に差異化することを物語っていると解釈することができる。バシェラールにとって、そもそも戸とは「しきいの小さな神の具現」する場である。「半ば開いた戸」は、こちら側の世界に異なる世界の光が射し込むシグナルである。それは人間の意識にとって夢想の根源そのものであり、原初的イメージなのである。向こう側が見えない扉を「左手」が開くか、あるいは「右手」で開くかについて考察する上で重要なのは、キリスト教神学においては「右」は聖なる側に属し、「左」はイスカリオテのユダ、あるいは恐ろしい龍を象徴するという図式であろう。カトリックである私は、もちろん「右」で扉を、すなわち新しい「世界」を開く必要がある。だが、時に私は「左」でドアのノブを回してみたくなるだろう。その時に現前するのは、既に全く異なる別の朝なのだ……。

(b)「部屋」

 扉は確かに神秘的である。だが、いっそう深く考えてみれば、実は我々が日々慣れ親しんでいるこの「部屋」こそ、実は哲学的な考察を与えるべき最大のテーマだったのではないだろうか? 部屋とは何であるか? これは即座に、我々を「内面的な部屋」、「こころの部屋」へと誘う。バシェラールは物理的な空間としての部屋と、誰にも覗かれることのない「こころの部屋」を厳密に区別している。「部屋は我々の中にある」(p377)。あるいは、ブランショは以下のように、この内なる部屋について言及している。「ぼくは既にこの部屋に侵入していた。ぼくはこの部屋をぼくの内部に担い、これに生命を与えていた。それは生命一般ではない生命であり、生命一般より強く、世界のいかなる力も征服できぬ一つの生命である」(p381)。
 家はバシェラールにとって精神的な拠り所であるが、彼の存在論はハイデッガーの存在論的な調子に歩を合わせてシビアに解釈されてもいる。「多くの場合、〈存在〉はその中心において彷徨なのである」(p361)と彼が述べる時、ここで明言されているのは現存在が「存在」と対峙する際の根本的な情動性である「不安」に他ならない。「不安は外部からはやって来ない。それはまた古い想い出で作られるものでもない。それは過去を持たない。また生理学も持たない。息を呑む恐怖の哲学とも何の共通点もない。この場合の不安は存在そのものなのである」(p365)。存在が本源的に「不安」であるからこそ、我々には精神的な聖域が、すなわち「こころの部屋」が必要不可欠とされるのだ。しかし、ここで注意したいのは、バシェラールが「不安」を「人間」の存在の本質だと規定する時、この「人間」とは間違いなく「人間の〈形をしている〉存在」を含意している。つまり、「不安」は人間の〈形をしている〉ことの限界性として、ここで逆説的に立ち現れるのである。換言すれば、我々が常に不安なのは、我々がこの脳に、この身体に、この皮膚に、この絶えず運動させねば心が閉塞化してしまうあり方に依存しているからである。「かたち」の存在論という視座を導入することは、貝殻や巣、ミニアチュールといった「かたち」に注視するバシェラールの理論にとって基礎をなす考え方である。「不安」は「人間」というよりも、この我々の現在の「かたち」から生まれているのだ。
 しかし、ハイデッガーの名高い「故郷喪失」の概念を、リルケならば何と心得るだろうか? 詩人は以下のようにクラーラ・リルケ宛書簡で表明している。「芸術作品は常に危険に直面したところから生まれ、経験の果に達し、人間には最早進むことのできぬところにまで達したところから、生まれるのです。遠くに進めば進む程体験は個性的になり独自なものとなるのです」(p368)。あるいは、「この極限がいわば個人の狂気として作品の中に入ってこなければなりません」(p369)とも綴られている。バシェラールがリルケのこの「こころの部屋」を意図的に破壊するほどのテクストをあえて引用している点を忘れないようにしよう。居場所が無い状態が、いわば芸術創造の起源に到来するのだ。言い換えれば、芸術は何らかの形式で「こころの部屋」を独自に創出することでもある。
 部屋の片隅は、家の「胚種」とも表現される。詩人ミロシュのテクストによれば、部屋の片隅は端的に「古い古いランプ」をイメージさせるものである。「ランプを思い起こせ。遠くからお前の想いを窓越しに、昔日の太陽に完全に焼け焦げた窓越しに挨拶した古い古いランプを思い起こせ」(p249)。この詩人のテクストを受けて、バシェラールは以下のようにイマジネーションを膨らませている。「夢見る人は彼の片隅の奥に、再びもっと古い家、別の国の家をみ、これによって生家と夢の家の総合を果たす」(p250)。

(c)「屋根裏部屋」

 屋根裏について言及されたテクストの中で特に興味深いのは以下であろう。「我々は夜毎の夢でそこに還ってゆく。この隠れ処は〈貝殻〉の価値を持つ」。(p54)

(d)「地下室」

 バシェラールが高く評価していた小説家アンリ・ボスコのテクストのイメージを借りて、彼は以下のような神秘的なイメージを抱いている。それはどこかタルコフスキーの『ストーカー』における「ゾーン」の世界とも通底するイメージだが、「地下の水の彼方に階段を発見する」というテーマである。この表現自体におそらく二重、三重の重層的意味が存在する。そもそも、「地下の水」とは何なのかいう問題がある。それが目に見えない全ての水を意味するのであれば、我々は「家の持つ母性」から判断して、これを「羊水」としてイメージすることも可能であろう。では、その彼方に存在する「階段」とは何なのか? それは「家の母性」が天上的な世界へと接続していることを含意しているのだろうか? あるいは、水中という地下世界に「階段」が存在するという点は、やはり暗闇の中にもわずかに光が届いているという人間の「希望」や「兆し」を象徴しているのであろうか? いずれにせよ、「地下室」、「水」、「階段」といった空間的イメージは、我々に様々な意味を絶えず喚起して止まない。
 水があるべき空間に、実は水がないと考えることは突飛であろうか? 例えば一滴の水も存在しないプールの水槽で泳ぐ幻影的な遊泳者の姿。湯の張られていないバスタブに浸かる毎日忙しいOL。こういった「矛盾」を孕む詩的表現には想像力を喚起する力がある。その決定的なものが、バシェラールの以下のテクストであろう。「パリは真夜中になると、波打つ潮の絶えざる囁きを聴かせると、しばしば言われてきた」(p80)。別の詩人は同じパリの夜に、「空ろな貝殻のざわめき」を聴いたと述べている。これは「詩想」の本質を我々に告知している。パリは広大な海ではない。だが、そこに「貝殻のざわめき」がすると述べる瞬間、一つの都市空間に別の豊饒な意味がパリンプセスト(重ね書き)されるのである。

(e)「小屋」

 バシェラールにとって小屋とは、「住むことの直根」、あるいは「隠者の小屋」と表現される。彼はおそらくレンブラントの描いた《聖ヒエロニムスの書斎》や、この聖人を描いた数多くの系譜を意識しつつ、以下のように小屋の本質を述べている。「我々は極限の孤独に達する。隠者はひとり神の前にある。隠者の小屋は僧院とは逆のところにある。この中心に向かって凝縮した孤独の周りには、瞑想し、祈る宇宙、宇宙の外の宇宙が放射する。小屋はこの世界から何の富も得られない。そこには強烈な貧しさの幸福がある。隠者の小屋は貧しさの栄光なのである」(p86)。これは明らかに、原始キリスト教の信者たちが暮らした慎ましいバラック風の集会所や、聖フランチェスコの「清貧」の精神とも連なる考え方である。

(f)「古い壁」

 レオナルド・ダ・ヴィンチは弟子たちに「夢想する目で古い壁の割れ目を凝視することを勧めた」という。バシェラールはこの画家の謎めいた教訓を受けて、以下のように考察している。「古い壁に時間が描いた線の中に世界の見取り図が無いだろうか。天井に現れた何本かの線の中に新大陸の地図を見たものはなかったか。詩人はこれを皆知っているのだ。…彼は片隅を見出し、このひび割れた天井の世界に留まる」(p252)。

(g)「空想の家」

 家、それは赤子にとって「我々の最初の宇宙」である。そこには「我々が住もうと夢見た全ての家(可能性の家の群れ)」のイメージも重ね合わされている。家とは、まさにこうした夢が重なる集合イメージに他ならない。家はまた同時に「巣」、あるいは「貝殻」でもある。バシェラールはいみじくも、どんな住居にも「胚種としての貝殻」が存在すると述べている。物理的な家ではなく、「空想の家」とは何であろうか? それはやはり「心の隠れ場所」であり、「避難所」であり、夢の次元に属しているのだ。バシェラールは本書『空間の詩学』の随所で同時代のハイデッガーを意識しており、現存在は世界に投げ出される(被投)の前に、まず「家の揺籃(家の母性とも表現される)」の中に、その安らぎの内に護られていると述べている。これは「貝殻」や「巣」の章でも論じられた命題であり、バシェラールが生きた二十世紀が暴力と不安の気配に絶えず見つめられた時代であったことを考えると、いよいよ示唆深いものである。

 では、「空想の家」に住むためにはどうすれば良いのだろうか? 言い換えれば、「イメージの中に住む」ために必要な所作とは何であろうか? バシェラールは我々二十一世紀の読者に、それは安易に「ひとが叙述したがるもの」を吸収せず、むしろ遠ざけることであると述べている。彼にとって「夢想する力」こそ、現存在に本源的に備わった力能である。詩と寄り添い合いながら思考が展開されるのも、彼が詩においてこそ我々にとっての「夢想」の材料が与えられると確信しているためである。「夢によって生家に住むこと、これには想い出によって生家に住む以上の意味がある」(p63)。



【「詩」の定義の獲得】

 バシェラールによる家の詩的解剖学を学ぶことで、我々は「詩」とは何であるかの本質を知ることができる。それはある単語、言葉が喚起する幾多のイメージを素朴に、けして恥じることなく勇敢に叙述することである。バシェラールはこの最小単位の良例として、「曲線」からイメージできる全てのものを抽出しようと企図している。これは「詩想」の訓練法と言っても過言ではない。

「曲線の詩的イメージ」

・直線よりも「暖かい」(角は冷たい)。
・ベルクソンによれば、曲線は「優雅」だが、直線は硬直してしまっている。
・それは我々を「歓迎」するが、鋭い角は我々を「放逐」する。
・それは女性であり、角は男性である。



 これは建築において柱廊に「男性的」、「女性的」という表現が適用されていた事実とも相関している。一般的に建築史においては、ロココ文化は優雅で軽妙洒脱、かつ女性的であるとされ、それを一掃した新古典主義様式や二十世紀の機能主義建築などは男性的であるとされる。前者はロカイユ模様を代表とする左右非対称な曲線美を特徴とするが、新古典主義はむしろシンメトリーを好む傾向がある(これは全体主義建築についても妥当する)。バークの『崇高と美の観念の起源』の定式を緩用すれば、「曲線」、あるいは蛇状曲線などはヴィーナスの腰の耽美的なくびれをイメージさせるが、角や直線は質実剛健さ、すなわち偉大で巨大、かつ恐るべきものとしての「崇高」を暗示させる。「直線」か「曲線」かという単純な差異だけで、我々はより数知れない詩的イメージを引き出すことが可能であろう。
 単に「曲線」とだけ表現してもそこに詩情はない。バシェラールは一つの言葉には「家」があり、階層性を持っていると述べている。

ことばは――わたくしはしばしば想像しているのだが――地下室も屋根裏部屋もある小さな家である。常識は一階に留まり、常に「外との交際」の用意を整え、他の人たち、けして夢想することのない通りすがりの人と同一平面にいる。ことばの家の階段をのぼること、それは一段一段と捨象することである。地下室へ降りること、それは夢想すること、不確かな語源の遠い廊下に消え去ること、ことばの中に未発見の宝を探しも止めることである。ことばそのものの内部で、のぼること、おりること、それが詩人の生である。あまりにも高くのぼること、あまりにも低くおりること、これは大地的なものと空気的なものとを結び付ける詩人に許される」(p257)


 ここまで読解を進めると、我々はバシェラールが「家の詩的解剖学」によって、実はひとつの「ことば」の奥行き、地下空間、隠し部屋などについて暗示させていたことを理解できるだろう。詩人は彼が言うように、ある言葉の地下に続く階段への通路を知っていなければならない。それを開拓し、そこに「巣」を見出さねばならないだろう。













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