† オペラ †

オペラ劇場におけるスコピック・レジーム(視の制度)について――多木浩二『眼の隠喩』収録「人形の家」読解


眼の隠喩―視線の現象学 (ちくま学芸文庫)眼の隠喩―視線の現象学 (ちくま学芸文庫)
(2008/12/10)
多木 浩二

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 美学系の必読書リストに入っている多木浩二氏の『眼の隠喩』所収の論稿「人形の家」は、オペラ劇場におけるスコピック・レジーム(視の制度)について分析したテクストとして解釈することができる。

【劇場空間のスコピック・レジーム】

 リカちゃん人形やシルバニアファミリーなどは、小さい女の子のための遊びとして日本でも広く名が知られている。それらに共通しているのは、我々が暮らすこの「家」の縮尺を小さくし、俯瞰でき、かつ場合によっては携帯可能なほどのミニアチュールにしているという図式である。子供は自分の好きな人形に自らを投影し、代理させることでこのミニチュア化されたミクロコスモス(実際の家の模型として)の内部を自由自在に歩き回り、空想的なドラマを展開することができる。少年少女の時代に我々がよく夢中になったこうした遊びの舞台を総称して「人形の家」(あるいはミニチュアサイズのメルヘンチックな城、館、洞窟でも良い)と呼称することが可能だろう。
 「人形の家」には歴史があるのだろうか? 多木氏によれば、キャビネット型の人形の家は1600年頃のイギリスにおいて既に見出されるという。とりわけ興味深い例は、シュヴァルツブルク・ゴータのドロテア公夫人が18世紀に、自分の生活の忠実な「人形化」を命じたというケースであろうか。17、18世紀において、こうしたミニアチュールとしての小さな家の模型は、模範的な上流階級の生活を伝える教育的意味が既に含意されていた。いわば、人々は貴族たちの生活を「人形の家」として観察していたわけであり、そこには制度化された宮廷生活の範型が認められるのである。
 バシェラールの『空間の詩学』を敷衍しつつ、多木氏はミニアチュールを「世界を隠喩化する視線あるいはその痕跡」(p54)と定義している。我々は常に何らかの解釈をしつつ生きているが、「人形の家」はこうした物事を手に収まる範囲で再現/表象する最初の契機に他ならない。
 興味深いのは、絵画史において、実は子供が遊ぶ「人形の家」のような空間の配置を実践していた時代が存在するという事実である。ジョット、ドウッチョ、ロレンツェッティなどのイタリア・トレチェントの画家は、空間表象においてまさに「人形の家」(パノフスキー)を想起させる形式を採用した。要するに、人物をあたかも人形のように、箱入りされたものとして描く手法である。この視座はルネサンスにおいて遠近法が確立される以前の方法論として、G・H・リュケによって「透明画法」と呼称された。なぜ、「透明画法」と呼ばれるのかと言うと、建物の壁の一面を透かして、人形の家を観察しているかのように部屋の間取りが描かれているためである。こうした描き方は、なにも後期中世にのみ見出される様式ではない。実は、面白いことにこの描き方が多く観られるのは幼年時代の子供のお絵かきである。子供は家を間取り図のように、あるいは透視的に描き出し、そこに縮尺の出鱈目な人物を描き出すことがある。これは特に4歳~9歳の児童に多く観られる特徴である。しかし、多木氏は、遠近法を「青年」、透明画法を「少年」のように捉え、絵画史においても「眼」の進化史が存在しているという考えは、遠近法を成熟したものとみなすリアリズム中心主義的な見解であるとして批判的に扱っている。
 ここから多木氏はイプセンの戯曲『人形の家』における演劇空間の「人形性」について考察を展開している。この作品では登場人物が「妻という人形」、「子供という人形」などの家庭的役割に押し込められている状況が重要なモチーフになっている。舞台はあくまでもリアリスティックに演出されるが、劇場という一種の「箱」で上演されることが、逆説的に俳優たちをあたかも本当の「人形」のように感じさせるという奇怪なパラドックスを孕んでいる点が注目されている。劇場の舞台では、観客はいわば「人形(役者)」を通じて代理的にドラマを体験することが可能である。「舞台と観客の関係は、人形の家と遊び手の関係に似ており、観客の演劇的体験は心理的に舞台上の出来事に同一化すること、感情移入することにほかならなかった」(p79)。『人形の家』とはまさにこの二重化された再現=表象の場なのだ。多木氏は控えめに言及するに留めているが、これは無論「オペラ劇場」におけるスコピック・レジームについて分析した論稿として解釈することもできるだろう。
 「人形の家=舞台」、「遊び手=観客」という図式を採用すると、まさに我々観客が位置するオーディトリウムに対して、背後だけ閉じられた舞台空間は人形の家、ないし「箱」として考えることができる。多木氏は興味深いことに、この「人形の家とリアリズムの舞台のアナロジー」こそが、人間の空間認識の本質(あるいは、「経験」そのものの秩序)であると規定している。これは、「認識は常にイリュージョニスティックに構成されている」と規定したフッサールや、現象学的な考察の点で彼に接近していたニーチェの見解を髣髴とさせる。認識するために、我々にはいわば「認識の鋳型」(箱)が必要なのであり、劇場でドラマを演じる俳優を意識の裡で「追体験」する構造は、まさにこの優れたメタファーになっているというわけだ。スティグレールが『技術と時間』第三巻で、人間の意識そのものが本質において「映画的」であると述べる時、それは多木氏が認識を「人形の家」でのイリュージョニズムに見出す視座と本質的に同一であると考えられる。多木氏は更にこれを歴史概念にまで拡大しており、「革命」とはいわば歴史の「瞬間的劇場化」(都市空間はその舞台となる)であると述べている。
 ここまでの多木氏の考察の流れを振り返ってみよう。彼によれば、スコピック・レジームは以下のようなプロセスを経て二次元から三次元化している。

(1)透明画法(子供の絵に見られる「人形の家」)
(2)線遠近法
(3)バロック的劇場(二次元的な遠近法の空間化)



 これらのプロセスは寸断されているのではなく、連続している。つまり、15世紀の線遠近法は16世紀になって、イタリア中心の劇場空間へと「侵入」しているというのが、多木氏の見解である。その際、劇場の背景を描く画家たちは観客席からいかにしてダイナミックに空間を演出するかを課題にした。また、劇場空間そのものもルネサンスにおけるセルリオ、パラディオ、スカモッティらによる建築学的な遠近法を採用している。「オペラ空間」そのものが、いわばルネサンス的な視の制度の産物であり、その空間化された場なのである。
 多木氏の以上の見解を踏まえると、我々はルネサンス、マニエリスム、バロックという美術史の流れを、概念的に「遠近法の空間化のプロセス」として把捉する視座を獲得する。バロック絵画がなぜかくも幻想的であり、ロココの天使たちが中空を舞うのかを根源的に考察するためには、遠近法というシステムそのものの「外部」に湧出しようとする人間の欲望を視野に入れておく必要があるだろう。確立された美の規範からの「逸脱の快」としてのバロック――それは奇妙にも、線遠近法以前の透明画法に驚くほど接近した原理を採用している。

 
 






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