† 展覧会 †

モダニズムの考古学的装置としてのブロータース――《映画をめぐる美術――マルセル・ブロータースから始める》展を松浦寿輝『波打ち際に生きる』から読み解く


マルセル・ブロータース《北海の航海》

 このページでは、近年国際的な再評価が集まっている映像作家マルセル・ブロータース(Marcel Broodthaers 1924-1976)についてまとめておく。
 南カリフォルニア大学映画学科学科長で、『原子の光』で美学系の研究者に多大な注目を集めたリピット水田堯氏はブロータース論「無メディウム――映像アート」の中で、この特異な映像詩人の作品に見られる特徴について、ロザリンド・クラウスを参照しながら以下のように述べている。

ひとつのメディウムの統一性、諸メディウムの統一性は、クラウスによれば虚構である。あらゆるメディウムは既に諸メディウム、複数形で、(自己)差異化している。たまたまそこにいる場所、それが生起しているように見える場所から常に遠ざかり続けるような永続的な運動のうちにあるのだ。※1


 ブロータースの作品に言及する際、リピット水田氏はimmdesium(無メディウム)的メディウム、a mediacy(ひとつの媒介性)、amediacy(没媒介性)などといった表現を多用している。これはブロータースの映像をどのようにジャンル付けるかの困難さを端的に示唆したものであるが、彼の作品が映画「ではない」とすれば、一体何であるのか? ブロータース、ソフィ・カルから、マシュー・バーニー、ダグラス・ゴードン、ピエール・ユイグまでの映像作品群を、本論では「映画」でも単なる「映像」でもなく、moving image art(運動するイメージの芸術)と表現している。
 また、ライデン大学映画写真学科准教授エリック・デ・ブロインは「マルセル・ブロータース:シネマ・モデル」と題された論稿の中で、フーコーが規定した意味で、ブロータースの方法は「モダニズムの考古学」と表現できるという。彼のコンセプチュアル・フィルムは、「芸術作品が本質的に縛られている物象化のプロセスに抵抗する」。その上でブロインはブロータースの映像方法を以下のような図式化している。

(1)シネマ的なイメージは
(2)発話の形象(figure)として示されており、
(3)その発話の主体は常に不安定なままである。


 特に重要なのが、「彼の映画は物質的で歴史的な雑種性の残余と痕跡を保持し続けている」という解釈である。実際、京都国立近代美術館で開催された《映画をめぐる美術――マルセル・ブロータースから始める》の館内にて映し出されていた彼の作品群は、今日映画館で観られる他のどの「映画」とも異質であり、むしろノイズで霞み、ある映画から断片を切り取ってきたような「摩損」と「痕跡」を感じさせた。現在YouTubeでも視聴可能な《北海の航海》でも、映像を断片的に、テクストを添えて細切れに、あたかも古代の遺跡群から最近発掘されたフィルムであるかのような独特な「地層的効果」が、全てにおいて流れている。それは、ブロイン氏が述べるように、19世紀初期の「網膜残像」研究や、光学現象への生理学的欲求を再現前させたものでもあるだろう。いずれにしても、ブロータースは映画が生まれる以前の「映画」を制作していた。それは先の企画展では上映されなかった彼の《ワーテルローの戦い》にも引き継がれている方法論のようだ。「《ワーテルローの戦い》は十分に物語的な出来事としてまとまっておらず、断片化と脱統合のたゆまぬプロセスに支配されている」。
 ブロータースについて考察する上で重要な論稿の一つに、松浦寿輝氏の最終講義「時間と近代」が挙げられるだろう。松浦氏はそこで、『不思議の国のアリス』に描かれる「二つの時間意識」について言及している。一つ目は、近代的な進歩史観に支配された、スケジュールによって管理され計量化可能な「近代的時間」である。これは常に真っ直ぐ進み、腕時計やiPhoneでチェックすることが可能な時間の形態である。基本的に全ての映画はこれに属し、アリスもこうした時間観念を身体化している。二つ目は、ナンセンスで機能しない時計に代表される時間であり、これは近代的時間のように真っ直ぐ進まない。昨日の後に今日が来るのではなく、三日前に戻ったり、あるいはより過去の時間に遡及したりする。近代的時間が端的に「映画」において表象されていたとすれば、「壊れた時計」はむしろ時間を静止させ、凝固させる「写真」の表象と相関している。
 写真とは、時間を凝固させる機械であり、近代的時間の中の結節点である。一方、マレーの「クロノフォトグラフィ」から、リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」へと進化していく映像のテクノロジーは、「運動する映像」のプロセスを表現しており、映画には常にこうした時間の「流れ」が映し出される。映画内でたとえ時間軸が錯綜し、迷宮化していたとしても、全ての映画は館内で二、三時間もすれば終わる。これが「近代的時間システム」そのものの本質であると、松浦氏は考察している。
 それでは、ブロータースのコンセプチュアル・フィルムは一体何であるのか? 彼の作品にも、やはり「映画」に代表される「近代的時間」からの脱出が企図されている。彼は断片化したフィルムを映すことで、まず映画の表象の常套手段そのものを破壊し、化石化する。しかし、これは同時に映画的文法を緩用することで実現しているため、彼は同時に近代的時間を利用し、戦略として提示してもいる。にも関わらず、マレー時代の「写真的なもの」へ回帰する志向性が、特に《北海の航海》には顕著に見出すことができる。要するに、ブロータースにおいては、「映画」と「写真」の持つ二つの異質な「時間」層が同時に再現されているのだ。それは流れを持ちながら静止しており、静止しているかと思えば、実はゆっくり動いている。リピット水田氏がカテゴライズすることの困難について考察していたように、まさに彼は「写真」でありながら「映画」であり、そのどちらでもない「テクスト」でもあるのだ。
 最後に、ブロータース自身の以下の貴重なインタビュー記録を引用しよう。

私にとってフィルムとは、言語の拡張です。私は詩の創作から出発しました。次に視覚芸術、そしてこうした幾つかの異なる芸術的要素をまとめるシネマへと辿り着いたのです。著述=詩、オブジェ=視覚芸術、イメージ=フィルム、というように。難しいのは、当然のことながら、こうした要素の調和を図ることです。※2

 




「註」

※1――『《映画をめぐる美術――マルセル・ブロータースから始める》公式カタログ』(2013)p27
※2――同書、p42

「参考文献」



波打ち際に生きる波打ち際に生きる
(2013/05/23)
松浦 寿輝

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