† 美学 †

日本人特有の美意識を学ぶための基本図書ーー佐々木健一『日本的感性――触覚とずらしの構造』の魅力


日本的感性―触覚とずらしの構造 (中公新書)日本的感性―触覚とずらしの構造 (中公新書)
(2010/09)
佐々木 健一

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〈1〉日本的感性を知るためのキーワード

【桜月夜】

 清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき (与謝野晶子『みだれ髪』)

その桜が名所である円山公園であることは明らかである。彼女の歩いている祇園に桜はない。桜の美は、桜の花にとどまることなく、周囲へと拡散し、人々を包み込む。そのことを、歌人は「桜月夜」という造語によって掬い取ったのである。美は、存在の充実によるものである以上、世界を美しくする。(p33)


 美が空間に拡散し、花に囲まれるイメージを佐々木氏は端的に「桜を見る」タイプの視線と結び付けている。

 花の色にあまぎる霞たちまよひ空さへにほふ山桜哉 (『新古今和歌集』一〇三番 藤原長家)

 霞は実体、霧は様態を表現する。長家の「天霧る(あまぎる)」とは、美が宇宙的に空間全域へと拡散していくイメージを持つ表現である。

【月の光と河の音】

 この二つは清らかなものを表現する。ヨーロッパではロマン主義の精神と相関する。

月夜よし河音清(さや)けしいざここに行くも去かぬも遊びて帰(ゆ)かん (『万葉集』五七一番 大伴四綱)

うち渡す宇治の渡りの夜深きに川おと澄みて月ぞかすめる (『風雅集』一二二番 京極為兼)

【面影(おもかげ)】

 鴨長明の歌論『無名抄』で美学的概念として重視された歌学的用語である。面影には以下の意味がある。

(1)「イマージュ」(ポエジーの含まれた詩語)

 「面」+「影」。面とは顔、面差し、風景をも含む。影はイメージである。特に昔の恋人の顔や個人の記憶に見られるような、「思い出されて立ち現れてきたひとの面差しや情景」を意味する。面影というからには、心を象るほどに深く浸透している記憶像が含意されている。その際、対象は外部ではなく、私の身体に定位されており、身体の一部となり、浸透同化している。

 思ひやる心やかねてながむらんまだ見ぬ花の面影に立つ (『風雅集』一四二番 鴨長明)

 ここでいう「面影に立つ」は、「眼の前に姿が浮かぶ」の意味であり、全体としては「私が花の面影の只中に立つ」である。

 うゑて見し籬は野へと荒れはてて浅茅にまじる床夏の花 (『風雅集』一五二八番 藤原隆信)

 かつて愛し合ったおんなと家をもち、庭の境にまがきを植えて、眺めては愉しんだものだった。いつしか二人は疎遠となり、草木の手入れをするもののなくなった庭は荒れ果てた。まがきも崩れ、一面にただ草の茫々と茂るところとなってしまった。その浅茅のなかに、おんなの面影さながら、深紅の床夏の花が点在している。うたわれているのは、こんな情景である。(p38)


 ここには面影、残像の美学が存在する。残像の美は、あることを「想起」することで醸し出される意識である。

(2)「イリュージョン」(新たな現実の創出、虚構としての像)

 筆のうちに多くの春を立ててみれば書きつくるままに面影になる (「立春百首」九五番 京極為兼)

 為兼はここで虚構の創り出す「面影」を歌っている。心の強い想いが「新しい現実」を創出するという意味での使用法である。面影は実体の変容、あるいは実体にまがうものと規定される。

【名残(なごり)】

 名残は粘着性の感性であり、「拡がりと、儚いものの停留」を意味する。面影と同じく、日本的な「痕跡の美学」に含まれる。元は「余波」を意味する「波残(なごり)」と書かれ、「波が砂の上に残した痕跡」を意味していた。名残は現実に物象化したものの痕跡であり、面影のようなイメージを伴う概念とは区別される。代表例は極めて美しく官能的な以下の歌である。

 夕されば君きまさむと待ちし夜のなごりぞ今も寝ねかてにする (詠み人知らず 『万葉集』二五八八番)

男はもう女のもとを訪ねてくることをしなくなっている。それでも、かつて、夕方になると、あなたの訪れを待っていた、そのときの「なごり」に相違ない、今も寝つかれずにいる、という趣旨である。(p52)


 いかがせんまだ夜ぞ深き鐘の音に名残つきせぬ暁の空 (『新千載集』一四〇七番 京極為兼)

恋の一夜は長く、いつまでも続くように思っているのに、暁を報せる鐘の音が聞こえる。別れ難い想い(名残つきせぬ)をどうしたら良いか、という歌意であろう。いまや「名残」は、イメージが何かに付着して残っている、というようなものですらなく、恋人に執着するわたしの想いに過ぎない。砂の上の波紋の痕跡や余波から、この恋人に寄せる執着心まで、相当に変化した多彩な意味を通して、なお一貫するものは、過ぎ去るべきものが何かに依って留まることであり、言わば時間を空間に転換することへの感性である。(p55)


【懐かしさ】

 名残の姉妹概念。「馴れ」+「付く」から、「心に懐いた情」を意味する。
 
 かたばかりその名残とてありはらのむかしの跡をみるもなつかし (『玉葉集』二六〇六番 京極為子)

 これは廃墟の美学であり、ロマン主義的な精神に通底している。時間の浸蝕による事物の「褪色・変形」の情を詠うのが「廃墟・痕跡の美学」である。

 去年(こぞ)見てし秋の月夜は照らせども相見し妹はいや年さかる (『万葉集』二一一番 柿本人麻呂)

 人麻呂は妻が死んでからの過ぎ去った時間と、けして変わらない月の永遠性を対比している。

 いにしへの人に我あれや楽浪の古き京(みやこ)を見れば悲しき (『万葉集』三二番 高市古人)

 これも廃都の情を詠んでいる。

 ささなみの志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも (『万葉集』三一番 柿本人麻呂)

 ここでは、「いにしへの人」の再来が想像されている。これは廃墟になる前にその空間に住んでいた人々の「幽霊」の情趣に他ならない。廃墟、痕跡、幽霊は共に佐々木氏が日本的感性の構造として挙げる「触覚性」に含まれる。ヨーロッパでこうした廃墟の美学が興隆したのはロマン主義の時代であるが(崇高の美学と相関)、日本では既に八世紀初頭に人麻呂、黒人らが詠っていた点が注目される。

【そこはかとなし】

「其処は彼と」+「無く」。つまり、「どこかに場所を定めずあちこちと」の意味である。はっきり言えない情念、いわば「なんとなく~」の感覚である。例えば、冬になるとそこはかとなく物悲しい。冬の木を眺めていて生じる寂寥感は、今の自分の感覚をいわば外的な対象に転化しているために生起する。こうした、「物に想いを託して心情を綴る」方法を「寄物陳思」といい、この概念を採用した歌は非常に多い。寄物陳思の思想は、以下に記述する「ずらし」と呼ばれる歌学的概念とも相関している。

【なにとなく】

 何となし。これは意味の宙吊り、不確定性であり、「そこはかとなし」と同じく「なんとなく~」の感覚的様態である。「奥が見通せないこと」の意味では「あはれ」とも相関する。

【さだめなし】

 これもはっきりしない「曖昧性」に根を持つ日本的感性である。「降ったり降らなかったりはっきりしない雨」は、まさにさだめなしの感覚である。以下のような使用法もある。

 定なき身は浮雲によそへつつはてはそれにぞ成りはてぬべき (『千載集』一二〇三番 藤原公任)

時雨が降ることや、恋人が訪れてくるかどうか、という具体的なことについて「定めなし」と言うのではなく、自己の実存が「さだめなし」と言っている。これは既に世界観である。(p88)


 いわば、世界も、物も、心も、一切は実体がなく、あやふやで、「定めなし」だとされる存在論的な感覚様態である。

【たゆたひ】

「揺蕩」と書くが、水面の浮華の意であり、「なんとなく」の情感に近接している。広義には「海、雲の動き」、「波の運動」であるが、転じて心理的に「迷い、心変わり、揺れる思い」を意味するようになった。松尾芭蕉の「漂白の美学」とも相関する。

【梅の移り香】

 香りの時間意識として重要な概念。プルーストの「プチット・マドレーヌ」の味覚、嗅覚による想起に見られる「無意志的記憶」とも相関している。「コンブレーⅠ」では、マドレーヌの味覚が視覚的回想へと連結し、いわば、洋菓子の「匂いと味」が想起の媒介項になっている。そもそも、日本の宮廷社会では男性は「橘の花」、女性は「梅の花」を袖に入れて香をたきしめた。ここから梅は官能的連想を伴う定型表現となる。平安時代になると「桜」が花の代表的存在になるが、それまでは「梅」が重視された。「にをひ」、「かぐわしさ」の美学に繋がっている。「男の匂い」を詠んだ歌には以下がある。

 橘のにほふあたりのうたたねは夢も昔の袖の香ぞする (『新古今集』二四五番 俊成女[俊成の孫娘])

 また、以下の歌も興味深い。

 帰りこぬ昔をいまと思ひねの夢の枕ににほふたち花 (『新古今集』二四〇番 式子内親王)
 

 これはプルーストと逆パターンの想起であり、過去を思い返しながら寝たところ、枕元に花橘の香が立ったのだという。
 
【老いの揺曳】

「老いのいのりのたゆたひ」、いわば老いの美意識である。現代歌人の玉城徹の例が挙げられる。

 立ちあがり野ばらの花を去らむとき老いのいのりのたゆたふあはれ (玉城徹「老人の夢」)

〈2〉日本的感性を支える重要概念

A「ずらしの原理(隠喩的交感)」

 ずらしの原理とは、「心に染み付いたイメージや情念を他の対象にずらす」方法である。いわば、「思い遣る」という言葉の綴り自体が意味しているように、「想い」をどこか遠くへ「遣る」わけだ。逆に、「想い出」とは「想い」の「出来」である。
 ここで重要なのは、そもそも「うたのこころ」の主体は誰かという問題である。寂寥感が事物に転化される場合、最初に存在するのは歌人の意識であろう。だが、厳密に言えばそうではない。実は「うたのこころ」とは、うたのテクストが表現している「こころ」であって、歌い手のこころとは本質において区別される、という見解を佐々木は前提として採用している。いわば、「こころ」もまたテクストから仮構される産物なのである。

 とまるべき宿をば月にあくがれてあすの道ゆく夜はの旅人 (『玉葉集』一一四二番 京極為兼)

歌人は、おそらく非常に美しい月夜の中にいて、その感動をどのようにしたら一首に込めることができるかを思案し、風流な旅人を考え出したのである。月影とともに、夜は想像力を刺激する。(p193)


 見ればげに心もそれになりぞ行くかれのの薄有明の月 (『西行法師家集』五五五番 西行)

 枯野にはすすきが拡がり、空には有明の月がかかっている。つまり、空に白っぽい月を残して夜が明けた、そんな時刻であろう。その情景を見つめていると、心もすすきと化し、有明の月のようになってゆく、というのである。(p132)


 これは「われの染めあげ」と呼ばれる情趣と相関する。これは心が世界に一体化、染み込んでいくことを意味する。いわば、見ている対象(情景)と、心が融即、同化するのである。ここから、日本的感性においては「情景」が「心」の隠喩として機能している構造が見えてくる。心は「世界を映し出す鏡」であり、同様にして、対象は心の有り様を映し出す存在となるのである。心を外的事物に浸透化させる点で、「われの染めあげ」もまた「ずらしの原理」である。
 先述したように、冬の木を眺めていて生じる寂寥感は、今の自分の感覚をいわば外的な対象に転化しているために生起する。こうした、「物に想いを託して心情を綴る」方法を「寄物陳思」というわけだが、鈴木日出男氏は「心物対応構造」と呼称している。この方法論こそが古代和歌の基本的構造であると解釈される。では、心が先にあるのか、それとも事物が心に何かを与えるのか、という問題が生じるが、佐々木氏は「心そのものは虚無」であると規定する。何故なら、「うた」(テクスト)こそが「心」を形成する主体であるからだ。ゆえに、心が先立って世界に意味を仮託しているというよりも、本質的には「テクスト」の隠喩的構造が歌い手の「心」を産出するのである。この点で、歌の「心」もまた審美的な言語的産物としてのイリュージョンに他ならない。
 藤原俊成は「人の心を種としてよろづの言の葉となりにければ」と表現したが、これは「心は種、万物はその葉」という意味であり、先の考察と相関している。重要なのは、俊成がだからこそ「歌の心」を準備せよ、と考えていた点である。これは「心は歌によってこそ造形されるものであり、それ自体は無である」という彼の歌論の中核をなしている。表現するからこそ感情が芽生えるのであり、先に何か情念が存在したとしても、それは常にテクストの修辞的構造によって改変を受けるというわけである。
 心がブルーなら晴れていても雨降りのように感じられることがある。つまり、心の像として世界が存在しているというフッサール現象学の理論的帰結が一方で存在している。しかし、西行は「心=虚無」という図式を前提にし、世界像が心理的要因であるという癒合したこの回路そのものを問題にしていない。重要なのは、日本的感性においては「心即世界」が浮き彫りになる点である。身体と精神はあくまでも媒介項として退隠、透明化しており、心そのものは「水鏡」のような静で満たされ、常に曇りなく静寂であるというこの思想は、ある種の「悟りの境地」を基礎にしている。
 上記の点について、佐々木氏は以下のように解説している。

そこに映る世界の像の他に心があるわけではない。その意味で、心は虚無なのである。このような心においては、世界の像を受け止める感性的経験だけが、その現実となる。(p136)


 外が晴れなら心もその晴天を吸い込み、曇りなら曇天特有の情趣を歌にする美学。しかし、心を「無」にすることは果たして可能であろうか? より正確に言うと、歌を詠む(テクストを書く)上で、最初からイメージを「ゼロ」にしておくことなど可能であろうか? この点について、フッサールは「意識」とは、常に「〜についての意識」という指示性をそれ自体で含んでいると規定した。また、モーリス・ブランショ論『文学のミニマル・イメージ』の中で郷原佳以氏は、どのようなエクリチュールにも常に最小限度のミニマル・イメージが到来すると述べている。心を「無」にしようとして「水鏡」をイメージすること自体が、実は「水鏡についてのイメージ」なのであり、意識はこの点で「像」を完全に捨象することができないと考えられる。また、もし自然の対象が心の中にその都度入り込み、心を映し出す鏡になるのだとすれば、欲望を喚起したり邪悪さを伴う光景もそのまま心で掴み取ってしまうことを意味する。やはり、そこには何らかの理性的な概念的装置による制御が必要ではないか、というのが私が本書を読解していて考えたことである。
 西行の言語観はヨーロッパ思想における象徴の体系と比較すると興味深い。例えば彼は「月」を「心を清くするもの」と考えたが、西洋では迷信、狂気、魔女などの悪しき意味を帯びている。同じ対象でも文化によって意味賦与の質が異なる点も重要なテーマだろう。日本的感性では、「月光」、「水の流れの音」が、「清(さや)けし」、「さやか」なるものとして重視された。
 
(1)「隠喩型の〈ずらしの原理〉としての〈寄物陳思〉」

 けふあけて昨日ににぬは見る人の心に春のたちぬべらなる (『貫之集』四一一番 紀貫之)
 

新年を迎えた朝の、昨日とは一変した世界の佇まいを詠ったもので、その新鮮さは、我々も年ごとに経験している。貫之は世界のその変化に注目し、それは人々が心の中で新春になったと思っていることによるものに相違ない、と詠ったのである。(p211)


 佐々木氏のこの解説に端的に表明されているが、「世界」が特別に変わったのではなく、「私の心」が変化したからこそ、世界が変わったように見えるのである。いわば変化しているのは世界「観」であり、世界それ自体の本質は常に同じである。あるいは、世界はそれぞれの人の「解釈」によって無限に存在するという解釈学的な視座とも相関する。〈寄物陳思〉は、心中にある何らかの情念を対象に仮託して表現する。ゆえに本質的にこれは「隠喩」型である。

(2)「直喩型の〈ずらしの原理〉としての〈見立て〉」

 例えば、「春雨」を「涙」として見立てる時、ここに「見立て」の手法が存在する。〈寄物陳思〉よりはわざとらしいが、二重写しの面白みが存在する「直喩」型である。

B「触覚性」

 これは日本的感性の基礎、常数であり、「ずらしの原理」における〈寄物陳思〉の思想と関係している。先述したように、この考えでは心が物に転化されて表現される。この対象に心理的な解釈を持たせる転化、粘着性、寄物性のことを、佐々木氏は「触覚性」の概念でまとめている。ゆえに、日本的感性は「ずらし」と「触覚性」にあるというより、「ずらしの原理」の「隠喩」型の表現方法の下部に位置している考え方が「触覚性」だと言えるだろう。廃墟を見て今の寂寥感を具現化していると感じたり、晴天を眺めて明るい未来と希望を思い描いたりする情感は、「世界」と「心」を結び付ける/接着させる、この「触覚性」の操作に拠っている。これが基礎に存在することで、初めて「隠喩的交感」としての自由な「ずらし」が生起し得るのだ。
 佐々木氏は本書の最後で、「想像力」を厳密に概念規定することに成功している。それは日本的感性としての「ずらしの原理」からの説明であり、「眼の前のものを、余所へとずらすことである」(p289)とされる。この定義は明らかにクインティリアヌスの記号の定義「それによって別のものを表現すること」や、ポール・ド・マンの「アレゴリー」の概念とも相関しているだろう。

清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき (与謝野晶子『みだれ髪』)

 晶子のこの歌にあるように、美しい空間の内に「包摂」される感覚である。それは桜の花見に代表される「花に埋もれる」意識である。歌にする場合、自分を包み込んでくる美しい空間に集中するタイプの表現と、自分の意識の反映として詠うタイプの二種類がある。図式化すると以下になる。

(1)外的世界を詠う

 世界に集中する表現である。そこでは大気的な拡散、花に包み込まれるイメージが描かれる。これが自然界の生々流転に結び付くと、「さだめなし」、「なにとなし」などの日本的感性の様態を取る。

(2)内的世界を詠う

 自己の意識に集中する場合、当然「想起」によって外的対象を心象の譬喩として用いる表現になる。つまり、「ずらし」(隠喩)か、「見立て」(直喩)になる。これは「残像」、「名残」、「面影」、「なつかし」などの日本的感性の様態を取る。



 因みに、この二つは互いに混じり合い、交叉的に表現されることもある。ちなみに、(1)でも、自然現象のある一瞬の把捉を詠った歌も存在している。

 よひのまのむら雲づたひかげ見えて山のはめぐる秋の稲妻 (『玉葉集』六二八番 伏見院)

 これは絵画的な歌で、「秋の稲妻」の瞬間を再構成している。ある瞬間の再現は、その時間の支配、凍結、カメラ的な凝固に接続する。佐々木氏によれば、一点集中型の近代的な視座の萌芽であり、目と対象を切り結ぶ西洋的な視点とも相関する。「桜を見る」視座に対して、こちらは「薔薇を見る」視座である。


 

付記

※佐々木氏は『新古今和歌集』の第一人者として久保田淳氏を挙げている。

※「見立て」の修辞的概念については、尼ケ崎彬氏の『日本のレトリック』が詳しい。












 

  








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~ Comment ~

日本の感性には、やはり馴染み深い気がいたします。
自然の移ろいに心を被せる、あるいは、歌の世界に自分を投影すると申しましょうか。ずらしという表現方法、若干の曖昧さともいえる潤滑のための水分を含ませることによって、露にも霞にも、言の葉の育みにもなるんだなぁ〜と、楽しみながら拝読いたしました。
私も、万葉集や歳時記、色々な歌集や詩集など…好きだった時期がありました。
瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
今も昔も、私の好きな歌です。
夜もすがら月を三室戸わけゆけば宇治の川瀬に立つは白波
こちらは直球ぽいですが、最近、御詠歌巡りをされた親戚からのお土産です。私にとっては、その思いの込められた歌なのです。
晩秋ちょっぴりしみじみさせていただきました… by M(笑)


[2013/11/22 20:13]  サマースノー  URL  [ 編集 ]

コメントありがとうございます*

サマースノー様へ

お久し振りです。
御返事が遅くなりまして申し訳ございませんでした。
サマースノー様が添えてくださった歌、とても印象的ですね。
どちらも情趣があり、風情を感じます。
西洋ではなく、私たちのこの日本の「美学」があるとすれば、それは何かがずっと気になっていました。
洋の東西を問わずに、美に触れるのは愉しいことですよね。
これからも宜しく御願いします♬



[2013/11/26 18:48]  TOMOHISA  URL  [ 編集 ]















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