† ヨーロッパ庭園学 †

「愛の園」を中心とするヨーロッパ庭園史

【「愛の園」を中心とする庭園史】

【ヨーロッパ庭園の原型としてのparadise(楽園)】

 ヨーロッパ庭園の神話的な起源は伝統的に以下の島々と結び付けれてきた。すなわち、プルタルコスが『英雄伝』でラテン世界における神話的な楽園として言及した「幸せの島」(フォルトゥナータ・インシュラ)、古代ギリシア人の夢想した西方の楽園「ヘスペリア」(「宵の明星の娘たち」を意味するヘルペルースに由来)、ホメロスの『オデュッセイア』に登場する「カリュプソの洞窟」のあるニンファたちの島「オギュギア」などである。これらの共通点は、共に大陸からは切り離された海の上に浮かぶ楽園であるという点であり、心理的にはその時代の人々の秘められた「母胎復帰願望」の具象化であると解釈されてきた。
 garden(庭)の起源はparadise(楽園)に求められる。元々、paradiseの語源は古代ペルシア語の「パイリ(周り)」+「ダエーザ(囲われた土地)」を意味しており、これは「周囲を建物で囲われた中庭」を意味するcourt(宮廷の庭園、すなわち「宮廷」である)に繋がるからである。gardenは類語としてcourtと表記される場合があるが、「コート」は特に王侯貴族の宮廷社会における「秩序空間」としての「庭」を意味している。つまり、庶民階級の人間では近寄れない権力の宿った空間が、本来的な意味で「庭」(garden)の本質なのだ。興味深いことに、こうした語源学的な解釈は、「庭園」の本質をイギリスの「風景主義庭園」以前の「整形庭園」(古典主義庭園)に結び付ける。つまり、人間の手で整形され、一定のスペースに厳密に囲われた庭こそが、実はparadiseの元の意味にいっそう近いわけである。
 カエサルの『ガリア戦記』以来、ヨーロッパ大陸ではブリテン島が「幸せの島」と同一視されるという伝承が生まれる。現在のイギリスのみが大陸から切り離されているという地理的な特殊性が、次第に神聖視を生んだのだ。これはバロック時代ですら顕著であり、この頃の詩人たちはイングランドを未だに「妖精の島」というメタファーで表現してもいた。古くからイギリスの美称として「アルビオン」という語が用いられたが、これはギリシア語で「幸せ」を意味する「オルビオン」に、航海中の人々がブリテン島の断崖の白さに驚嘆して「アルブス(白)」と呼んだことが含意されている。イギリスはこうして「世界の楽園」として想像されるようになるが、これは後にアメリカの「西部」への憧憬として再現前化する楽園意識でもある。今日、庭園史を紐解く場合、風景主義庭園がイギリスで成立したことから、「イギリス庭園史」を中軸に据えた書物が一般的に多く見られる。その際、「楽園イメージ」がイギリスの島そのものに結び付けられていたということ(すなわちイギリスそのものが一つの楽園=庭園だという神話)は念頭に置いておかねばならない。
 ヨーロッパの人々は伝統的に「楽園」を「同心円構造」の空間としてイメージしてきた。これは理想的な「恋愛の聖域」として夢見られたアンドレアス・カペルラヌスの名高い『宮廷風恋愛の作法』でも、「恋の宮廷」が同心円構造を持つことなどにも反映されている。また、イギリス経験論の父祖フランシス・ベイコンは自邸の庭園の池の中に、別荘付きの島を築いたことでも知られている。庭園の内部に自分の精神的な居場所となる島を設けるという行為自体が、いわばミニアチュールの快楽、あるいは西洋文明の原初的な楽園願望のイメージを喚起する。島はこうして、「宇宙」のミクロコスモスを反映するものとして解釈されてきた。
 
【中世庭園】

 ヨーロッパ中世において、既に「愛の木」の下で肉体的な愛に耽るというイメージが見出される。この時代に使われた「木は愛のしとね」という表現から窺えるように、下品な印象を与えないために庭園の植物をメタファーとして用いる技法が愛好された(註1)。この時代の文学では、庭園という空間そのものが「女性」、あるいは「恋愛」を象徴していると考えられている。例えば中世ドイツの宮廷抒情詩人ハルトマン・フォン・アウエが書いた『愁訴の歌』に登場する庭園は「神の植物園」と考えられており、そこには「愛の魔法」をもたらすと伝えられる「薬草」が生えていたという。薬草はそれぞれ「寛大」、「男らしさ」、「上品なふるまい」、「謙遜」、「誠実」、「不変」、「純潔と羞恥」などの、騎士が獲得すべき宮廷の美徳を象徴していた。その中でも愛の欲求において大切なのは、自分の熱愛する女性を「神の如く崇拝する」という一種の信仰心であり、こうした考え方が中世においては美徳として宮廷社会で受け容れられていたのである。

シュテファン・ロッホナー《薔薇の園亭の聖母子》(1448)
シュテファン・ロッホナー《薔薇の園亭の聖母子》(1448)

 ニーダーマイヤーの解釈によれば、中世の造園術が興隆した時期は、「ミンネザング(中世騎士階級の恋愛歌)」と宮廷騎士文学の最盛期と一致するという。それは同時に、十字軍遠征、ロマネスクからゴシックへの様式的な移行、次第に力を持っていく都市の商人たちの時代とも重なっている。
 この時代の庭園を知る上で不可欠の文献となるのが、以下の二冊である。

(1)ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク『トリスタンとイゾルデ』

 この作品では、オリーブの木がエデンの園の「善悪の知識の木」と関連付けられている。庭園は主として果樹園、花園、あるいは楽園のイメージで表現された。その中でもやはり重要なのが、女性を「生きている楽園」と考えた当時の美意識である。ここにはしかしアンビバレントな意味が含まれており、女性は「マリア」であると同時に誘惑に唆された「エヴァ」としての側面も併せ持った存在だとされた。こうした女性的なイメージが庭園にも重ねられ、「パラディスス・アモーリス(愛の園)」は本作において、夫の眼を盗んで愛人と密会できる空間としての意味を持つようになった。また、この作品は「愛の洞窟」が存在する極めて美しい谷について言及している。ニーダーマイヤーの解釈に拠れば、この洞窟は古代から一種のヴィーナス神殿として用いられてきたという。ここも「愛の園」と同じく、愛し合う男女が愛の交わりに耽るための「ロークス・アモエヌス(悦楽境)」と表現されている。

(2)ギヨーム・ド・ロリス、ジャン・ド・マン『薔薇物語』

 日本でも美しい装丁で既に文庫化されて話題を集めているが、本作はギヨーム・ド・ロリスの未完の作品を、四十年後に聖職者ジャン・ド・マンが完成させた作品である。本作はヨーロッパ中世文学において「エデンの園」を新しく再現した作品として古典的な価値を帯びて現在に至っている。ルネサンス、バロック時代には、『薔薇物語』に登場する「ナルキッソスの泉と噴水」が、庭園におけるエロティックな装飾として実際に造園された。テーマとしては、キリスト教的道徳律のシンボルであるアレゴリー「理性」と、ヴィーナスの娘である「愛の神」の敵対関係が構造として重要である。本作の「愛の園」は理想化された宮廷社会のシンボルであり、エロスの祝福さえ受ければどんな出自の人間でもそこに出入りできるという願望が反映されている。

【ルネサンス庭園】


《プリマヴェーラ》
サンドロ・ボッティチェッリ《プリマヴェーラ》(1482頃)


ルカス・クラナッハ《若返りの泉》
ルカス・クラナッハ《若返りの泉》(1546)


クラナッハ《黄金時代》
ルカス・クラナッハ《黄金時代》(1530)


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スファエラ手稿本出典のイタリアの細密画(15世紀)モデナ、エステ図書館
 ルネサンスの時代になると、「愛の園」の浴槽に男女が二人でいっしょに浸かるモチーフが多用されるようになる。ボッティチェッリの《プリマヴェーラ》は15世紀の「愛の園」表象の系譜に属した代表例の一つである。16世紀の庭園表象として他に重要な画家は、クラーナハ(父)、ボス、マンテーニャなどである。

「ルネサンス庭園の三区分」

 イングランドのルネサンス庭園(1450年頃~1600年頃)は主として以下の三つの時代に区分される。

(1)人文主義庭園
(2)盛期ルネサンス庭園
(3)マニエリスム庭園



 まず、初期の人文主義庭園は古代のヴィッラがモデルにされた。プリニウスによれば、古代のヴィッラには「整形の幾何学的形状」(後の古典主義庭園)と「自然の飾らない美」(後のイギリス自然主義風景庭園)という二つの異なる美的原理を有するスペースが共存していたという。そして、ヴィッラにおいてはこの二つの領域が共に重視された。1452年にアルベルティが著した名高い『建築論』によれば、庭園には「ラビリンス(迷宮)」を設け、全体的にはシンメトリカルになるようにせよと記されている。前時代までの庭園とルネサンス庭園を分ける大きな要素の一つは、「アルス・トピアリア(装飾的剪定術)」の復興である。例えばトピアリーにおいては、「猿」、「羊」、「巨人」、「ハルピュイア」、「哲学者」などが好んで制作され始めた。初期人文主義庭園の代表例とされるのは、フランチェスコ・コロンナ『ポリフィルス狂恋夢』(1499)で言及されている、「ジョルダン・ダモール(愛の園)」が存在する庭園である。この書物はヴェネツィアで刊行され、百年あまりの歳月を隔てて英訳版も刊行されている。
 盛期ルネサンス庭園の造園家として重要なのが、かのブラマンテである。彼はヴァチカン宮殿とベルヴェデーレのヴィッラを連結する形で造園したことが現在も高く評価されている。ブラマンテの仕事はその後のヨーロッパ庭園に決定的な影響を与えた。

「ルネサンス期の庭園文学――フランチェスコ・コロンナ『ポリフィルス狂恋夢』」


 庭園を舞台にしたルネサンス文学として極めて重要なのが、十五世紀のドミニコ会司祭フランチェスコ・コロンナの『ポリフィルス狂恋夢』(1499)である。特に興味深いのがルネサンス期に流行し、本作でも描かれている(バロック時代には実際に造園術に取り込まれた)「円形庭園」である。「ディスコロ・ラビリント(円形迷宮)」とも表現されるこの庭園について、ニーダーマイヤーは以下のように解説している。

円形は自然の豊かさと調和を象徴している。第一の庭はすべてガラスでできていて、ブナとイトスギが入り混じった樹々の葉もガラスで、幹は金である。この庭園の内部空間はガラスの壁によって囲われている。高い監視所から〈理性〉が見下ろしているのは第二の庭園(ラテン語で「庭」を意味するホルトゥス)で、人生の七つの時期を象徴する蛇行する運河が掘られた複雑なディスコロ・ラビリント(円形迷宮)からできている。この庭園は銀の壁で囲われている。運河は螺旋状に渦巻きながら内に向かって流れていって、ボートは人生の一時期に差し掛かると、そのつど城門を潜らなければならず、遂には中心で死に到達するのだ。円形の迷宮庭園は、やはりルネサンス期に非常に好まれた。(※1)


 庭園、迷宮といったキーワードがいかにもボルヘスの傑作「八岐の園」や「円環の廃墟」を髣髴とさせるが、実はコロンナ以前にも、例えばボッカッチョの『愛の迷宮』(1354-55)、セルバンテスの『愛の迷宮』(1615)でもやはり「円形迷路庭園」について描写されているという。庭園を円形にし、かつ複雑に迷宮化するというスタイルは十八世紀の文学の舞台でも取り入れられており、例えばドイツの作家ヨーハン・ゴットフリート・シュナーベルの『愛の迷宮庭園でさまよう騎士』(1738)がそうである。迷宮の中心には「園亭」や「生命の木」が飾られており、これは愛の園がやはり「楽園」に起源を持つことを示唆しているという。ニーダーマイヤーが他に列挙している円形迷路庭園には、以下が挙げられる。

〈実在する円形迷路庭園〉

・パドワの植物園
・カスティーリャ邸の庭園内(中心には魅力的なニンフの泉が存在した)
・ブリュッセル大公の庭園の「愛の迷宮」
・ハイデルベルク城の庭園の迷路

〈絵画に描かれた円形迷路庭園〉

・ルーカス・フォン・ファルケンボルフ(16世紀フランドル派の画家)の《春の風景》(1587)
・ヨーハン・フレーデマン・デ・フリース(16世紀オランダの画家、建築家)の作品など



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『ポリフィルス狂恋夢』の木版画(1499)ヴェネツィア
 生贄としての驢馬と、田舎の庭園神プリアポスの彫像。

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 庭園の神プリアポスを描いた木版画(1490頃)

 また、『ポリフィルス狂恋夢』にはヨーロッパ庭園史において「庭園の守護神」として崇敬された二人の神が登場する。一人は、プラクシテレス(紀元前4世紀のギリシア彫刻家)のヴィーナス像に匹敵するほどエロティックな姿のヴィーナス。そしてもう一人は、生殖と豊饒を司る田舎神プリアポス(アトリビュートは草刈り鎌と、ポンペイの壁画に見られるような巨大なペニス)である。
 この物語の主人公ポリフィルスとポリアは、「愛」の目的を果たすために愛し合う男女のための神秘的な島である「キュテラ島」へと船出する。この愛の島もやはり起源はエデンの園にある。ニーダーマイヤーはこの島の具体的な特徴について、以下のように説明している。

キュテラ島の直径はほぼ1・5キロあって、島全体が厳密な計算のもとで豊かな菜園、果樹園、遊園、養樹園に分割されている。円形の遊園では、垣、泉、日除け、技巧を凝らして剪定された樹々、アラベスク模様の柱列、アドニスの技芸を凝らした墓碑やその他沢山の事物が、詳細に描写および解説される。最後には、この島の中心にあるモノプテロス(列柱神殿)、すなわち惑星を具現する七本の柱で支えられているテンピエット(小神殿)の中で、破瓜の儀式と愛し合う二人の契りが象徴的に執り行われる。ポリフィルスは、二本の柱のあいだに張り渡された、意味深にも「処女幕」という名前を持つ幕を一本の矢で破り抜くのである。すると突然ヴィーナス(愛の神)が水浴している泉が現れる。続いて、その息子のキューピッドが愛し合う二人を矢で貫くと、二人は溶け合って一つの両性具有の肉体へと変化する。(※2)


【マニエリスム庭園】

 ルネサンス盛期が過ぎると、庭園自体が以前より巨大化し(1600~1620年頃に大規模な幾何学式庭園が流行した)、王の神格をシンボリックに表現した庭園が出現し始める。こうした特徴を持つ「マニエリスム庭園」はジェイムズ一世からチャールズ一世までの時代の庭を指しており、幾つかの重要例が知られている。一つ目は、ニッコロ・トリーボロとベネデット・ヴァルキが1540年代に草案した《ヴィッラ・メディチ》であり、二つ目はピッロ・リゴーリオの《ヴィッラ・デステ》である。特にティヴォリに存在する《ヴィッラ・デステ》は1670年代まで名声の高まりを見せていた傑作の一つとされる。他には奇想で知られる《ボマルツォ奇苑》、バニャイアにある《ヴィッラ・ランテ》などが挙げられるが、特筆される人物はサロモン・ド・コー、そしてベルナルド・ブオンタレンティである。

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ハイデルベルク城内庭園「ホルトゥス・パラティヌス」のグロッタ(サロモン・ド・コー設計)――薔薇十字的な記号が散りばめられている。

 マニエリスム庭園の代表的な造園家として重要なのが、サロモン・ド・コーである。彼の庭園はシェイクスピアの『テンペスト』の設定にも影響を与えた可能性があると指摘されている。彼の庭園技法の特徴は以下の四つにまとめることができる。これらの特徴は、そのまま後期ルネサンス時代の「魔術的庭園」(マニエリスム庭園)のスタイルでもある。

「マニエリスム庭園の特徴」

(1)オートマータ(魔術的機械仕掛けの庭)
(2)ウォーター・パルテール(水の装飾花壇)
(3)グロット(人工洞窟)
(4)オランジェリー(オレンジ栽培温室)



 特に特筆されるのは(1)である。オートマータとは「自動機械装置」の意味であり、アレクサンドリアのフィロンの『気学』の中で既に空気のメカニズムを応用するその作動過程が記されている。『気学』には現代に通じる「自動ドア」構想も見出される点で注目される。この時代の自動ドアは、灯を灯すと扉が自動的に開く仕組みのものである。ド・コーは『気学』を深く読解し、自身も機械論『動力の原理』を刊行した。主として彼の構想した機械はマニエリスム庭園の要諦原理の一つである「グロット(人工洞窟)」の中に設置されていた。
 ド・コーの作品として知られている庭園は、アン・オブ・デンマークのための《サマセット・ハウス》、《グリニッジ宮殿庭園》、《ハットフィールド・ハウス》、《ホルトゥス・パラティヌス》などである。この内、ロバート・セシルのための《ハットフィールド・ハウス》はネオ・ゴシック風のロマン主義的な様式で知られ、イングランドのルネサンス庭園の中でも最も偉大な庭園の一つとして評価されている。謎の多い《リッチモンド庭園》がド・コーによるのか、イタリア人の造園家コンスタンティーノ・デ・セルヴィによるのかは未だに曖昧である。ただ、この庭園に存在する名高い「エッペンニーノ巨人像」の原案となる絵はド・コーの書物に既に描かれており、庭園の大部分は彼の手によるものが多い可能性がある。
 ド・コーの手以外による庭園としては、マニエリスム庭園の白眉である《プラトリーノの庭園》が重要である。この庭園はフランチェスコ・デ・メディチが依頼してベルナルド・ブオンタレンティが設計し、「地上の楽園」として構想された。また、アンリ4世とマリー・ド・メディシスが依頼したフランチーニ兄弟(トンマーゾとアレッサンドロ)とクロード・モレによる《フォンテーヌブロー宮殿庭園》も代表例の一つである。

「マニエリスム庭園の代表例――ヴィチーノ・オルシーニの《ボマルツォの怪物庭園》」

 日本では「怪物庭園」と称されているが、造園主であるヴィチーノは元々この庭園が存在する空間を「聖なる森」としてイメージしていた。この庭園は16世紀後半におけるイタリア・マニエリスム庭園の中でも際立って個性的な作品である。ヴィチーノはメディチ家、ファルネーゼ家などのイタリア貴族と並ぶ名門の出で、政治家、軍人として知られていた。1550年代の終わりに小さな森のある田舎の別荘に移住し、ここにエピクロスの思想にエロティシズムを導入した芸術の王国を建立しようと企図した。1563年7月4日に枢機卿へ宛てた手紙の中で、ヴィチーノは「わたしの四十歳の年が終わるので、今日では有り難いことに、何人もの下女を持つことができるのですから。…(略)…毎日、そこでぼんやり過ごすために、売春宿である私の森の泉を修繕したいのです」(p182)などと述べている。彼はこの庭園の中において、自分自身を「スープを舐めているサテュロス」(パン、プリアポスとも相関)に見立てている。食欲旺盛なサテュロスは、pesce(魚)、porco(豚)、pasta(パスタ)を美味しそうに貪るというが、ヴィチーノはこの三つお食べ物の頭文字「P」を全てエロティックなものとして象徴的に解釈しており、Potta(おまんこ)、Potta(おまんこ)、Potta(おまんこ)としてイメージしていたと伝えられる。いわば、女性器がヘスペリデス(ギリシア神話で黄金の林檎の樹の番をしている娘たち)の林檎と友人からの果物の贈り物とに掛け合わせられており、三つのPは「マルメロ(西洋花梨)」のジャムと林檎よりも甘いものとして夢想されていたわけである。
 こうした点からも判るように、ヴィチーノは極度に女好きな女陰崇拝者であった。何故、村の若い娘たちの女陰が「ジャム」に喩えられているかといえば、ニーダーマイヤーが言及している文献にあるように、「自分の歯がもう無くなったとしても、舐めることにすればいい」からである。こうしたエロティックな信仰の具現化された王国として、ヴィチーノは庭園を構想した。それは、「…よりいっそう神を敬うようになるでしょう」という彼の確信によって裏付けられている。エロスには常に恐怖が伴うように、この庭園にも数知れない化け物たちが存在している。ニーダーマイヤーの優れた解釈によれば、この「架空の世界劇場」は官能への彼の探究心と同時に、性欲を乱費することへの不安を両面価値的に造形したものである。
 怪物庭園に存在する有名な「オルランドとアマゾネス」の像は、これまでオルランドが好戦的なアマゾネスの女を捕え、逆さまにして離さないようにしている場面を象ったものであると解釈されてきた。しかし、最近の解釈ではこれはむしろヴィチーノが好んだ「激越な性の悦び」を、豪快かつアクロバティックな性交として描いたものであるという。だとすれば、逆立ちになっているアマゾネスの女は、ヴィチーノが館に囲っていた数知れない女たちの一人ということになろう。また、森に設けられた銘板には、「まんなかの道をうまく進む者たちは幸福である」という謎めいた言葉が刻まれている。これは一般的には「ヴィーナスへと続く道」に繋がっているとされているが、ニーダーマイヤーが暗示しているように、女性の左右の太腿を道とみなした時、その「まんなか」を突き進むこと(すなわち性行為の暗喩)こそが、「幸福」に至ることを意味しているとされる。中世庭園からの伝統によれば、庭園という空間そのものが「女性」の肉体を象徴しているからである。

【バロック庭園】

 バロック時代に入ると、ルネサンス、マニエリスム庭園で密かに愛好されていた「愛の迷路園」が普及を見せる。愛の迷宮はバロックの宮廷社会の隠喩として読み解くことも可能である。イギリス経験論哲学の祖フランシス・ベーコンは『随想集』(1597)の中で、造園は「人間の精神にとって最大の気晴らし」であると評している。造園術はミクロコスモスを具現化した諸学の王、いわば総合芸術として神聖視されていた。
 ベーコンが庭園について言及する際に想定していたのは、前時代のイタリア・ルネサンス庭園であった。バロックは、まだ幾何学的なフォーマルガーデン(整形庭園)が主流である。中でもイギリスでは刺繍花壇とトピアリー(オランダ庭園の影響)が流行した。イギリス庭園で重要な庭師は、ル・ノートルの弟子ジョージ・ロンドンとヘンリー・ワイズ(二人ともアン女王やジョージ一世の宮廷専属庭師である)による代表作《ブロンプトン・パーク苗木庭》(1681)である。この庭園は「フランコ=ダッチ様式」と呼称され、フランス庭園とオランダ庭園のそれぞれの特質を融合している。また、十七世紀のイギリスの植物学者ジョン・パーキンソンは『地上の楽園』(1629)の中で、庭園に気品を与えるのはペルシア産のヨウラクユリであると述べている。

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ヒエロニムス・シュペルリングがオウィディウスの『変身物語』のために描いた銅版画挿絵《恋する男は誤りに取り囲まれている》(ベルリン国立博物館)

 さて、バロックの「愛の迷路園」について知るために重要な図像は、ニーダーマイヤーの『エロスの庭』のカバー絵にも起用されている、ヒエロニムス・シュペルリングによる銅版画挿絵《恋する男は誤りに取り囲まれている》である。これはオウィディウスの『変身物語』に使われていたものだが、ニーダーマイヤーはバロックの「愛の迷路園」の本質を開示した挿絵として重視している。彼は以下のように解説している。

この図の生け垣で仕切られた迷路庭園の中心にはアモルの像が置かれているのが判る。目隠しをされた別のアモルが、この迷路の中を彷徨っていて、再び目が見えるようになると、このアモルは茂みを抜け出そうとするが、茨の藪に阻まれる。この銅版画のバロック時代らしさを思わせる格子細工には、左側にはヴィーナスの胸像、右側には目隠しをされたアモルの胸像が飾られている。そして、画中の生け垣の迷宮の前には、鳩の噴水がある。この版画には、オウィディウスの『変身物語』出典の銘文「恋する男は誤りに取り囲まれている」が掲げられている。…とどのつまり、(恋の)力を理性によって制御することを学ばなければならないのだ。(※3)


 ここには、恋する男性の全てがメタフォリカルに表象されていると言っても過言ではない。
 さて、バロック庭園の代表例と言えば、やはり《ヴェルサイユ宮殿庭園》である。ここにはモリエールの『エリード姫』等を上演していた王侯貴族御用達の劇場が付設されており、その庭には「プリアポス」像も置かれていたという。

【ロココ庭園】

 建築史では一般的に、「豪華絢爛なバロック」に対して、同じ17世紀でも晩期バロックであるロココ様式は「軽妙洒脱なロココ」(註2)などと表現されることがある。ロココ庭園の中心的な像はアモールとヴィーナスである。画家ヴァトーのエッチング《シテール島の庭園》にみられるように、ここではヴィーナス像は人間たちと同じように動き出しており、プットーたちも宙を舞っている。ドイツにおけるロココ文化の守護者であったプロイセンのフリードリヒ二世は、ヴァトーのこの「アルカディア風」の甘美な世界をこよなく愛した。ドイツではフリードリヒ二世のヴァトー熱により、この画家の描いた庭が庭園の最良のモデルとして規定された。ヴァトーだけでなく、ドイツではロココ画家のシャルル・ファン・ロー、ジャン=バティスト・パテル、ニコラ・ランクレらが人気を博した。

サンスーシ宮殿庭園正面図(1747)
サンスーシ宮殿庭園正面図(1747)

サンスーシ
サンスーシ宮殿庭園

 フリードリヒ二世は自身のロココへの愛を表明するための最高の場として、ロココ庭園の代表作《サンスーシ宮殿庭園》(サンスーシは「憂い無し」の意)を造園させたが、ニーダーマイヤーが注目しているのは庭園に配置された彫像たちである。制作した彫刻家はフリードリヒ・クリスティアン・グルーメとフランソワ・ガスパール・アダムらであり、彼らの彫像作品はロココ文化が持つエロティックな美点を具現化している。象られた神々のリストを以下に挙げておこう。

《サンスーシ宮殿庭園》における彫像プログラムの諸テーマ

・パリスとヘレネ
・プルートーとプロセルピナ
・バッカスとアリアドネ
・ディアナの水浴
・フローラとゼフュロス



 ニーダーマイヤーによれば、ロココ時代の色恋の冒険者たるカサノヴァは、バロック庭園《アルドブランディーニ荘》の庭園内に存在する芝生を、性行為用のベッドにして女性たちと愉しんだという。この時代には、実際に庭園の中に性愛のための寝室を密かに設ける者たちも存在した。 

【18世紀 「イギリス風景主義庭園」の確立】

 18世紀は庭園史において「変革の世紀」である。それまでのformal garden(整形庭園)はinformal garden(非整形庭園)と呼ばれる様式に変わる。これは「閉じられた庭」から、より自然の庭に近い「開かれた庭」へのシフトとしても表現されることがある。それまでの古典主義庭園に対し、この時代になるとイギリスで「風景主義庭園」が確立するわけだが、そもそも何故このタイプの庭園が生まれてきたのだろうか?
 遠山茂樹氏は『森と庭園の英国史』の中で、風景主義庭園が生まれた要因の一つに17世紀イタリア風景画(特にロラン、プッサン)の影響力を挙げている。例えばこの時代の代表作である《スタウアヘッド》庭園は、ロランの風景画の「生き写し」と称されることがしばしばある。また、18世紀はエドマンド・バークの『崇高と美の観念の起源』などにみられる「崇高」の概念が、美学的に前衛的な命題として活溌な議論を呼んだ時代でもある。庭園評論家としても活躍していたホレイス・ウォルポールは『近代庭園史』(1780)などを著した人物であるが、彼は当時貴族階級のあいだで流行していたグランドツアー(登山体験)で、現実の自然が持つ峻厳さ、崇高さをその目で目の当たりにしている。ジャーナリストとして健筆を揮ったジョゼフ・アディソンも従来のフォーマルガーデンを批判し、グランドツアーで体験できるような大自然本来が持つ「崇高」の美学を庭園にも導入するべきだと考えていた。その特徴を一つ挙げれば、まず「廃墟」を美的要素として再評価した点にあるだろう。特に現在ユネスコの世界遺産にも登録されている《スタッドリー・ロイヤル庭園》には、廃墟化した修道院があえて庭園に取り込まれている。「廃墟の美学」は最後のロココ画家であったフラゴナールの後期の風景画から、この画家と共にイタリア留学をした「廃墟の画家」ユベール・ロベールの作品群などにも見出すことが可能である。こうした思想上の論調が、いわばそれまでの庭園のあり方を大きく変革したわけである。この時、特に批判の槍玉となったのは草を刈り込んで動物の形にしたりするトピアリーであった。人工の秩序付けられた幾何学的世界よりも、18世紀の人々は自然の荒々しさの方に真の美を見出したのである。高名な詩人アレグザンダー・ポウプも、こうした論調に一躍買った。
 今日では一般的に、イギリス風景主義庭園が確立される以前は、人間が自然を「支配」する整形庭園が主流であると考えられてきた。様式的にはこれは正しいが、実は風景主義庭園以前に、「自然そのものがシンメトリーや多様性を重視している」と考える思想が存在していたことにも注意しておかねばならない。整形された庭園から、より自然に近い「崇高」を求めるという形で18世紀に突如として風景主義庭園が出現したのではなく、こうしたありのままの野性的な自然を庭園に採用する考え方は既に17世紀においても見出すことが可能なのである。例えば、ルイ13世治世下の宮廷庭園監督ジャック・ボワゾー・ド・ラ・バロードリーは『造園論』(1638)の中で、まさに自然それ自体がシンメトリカルを好む性格があることを発見している。庭園は人間が自然を支配し、管理下に置いた技術の産物ではなく、むしろ自然界の秩序・原理の具現化として構想されていたのである。また、17世紀の外交官、教育者でもあったヘンリー・ウォットン(彼が庭園史において最初にnatural gardenという表現を用いたとされる)は『建築の諸要素』(1624)の中で、既に庭園は「不規則」を採用すべきであると提言していた。この際に彼が模範にしていたのがイタリア庭園である。つまり、イタリア絵画が本格に紹介される以前に、既に「風景主義庭園」の萌芽は存在していたと考えなければならない。
 要約すれば、イギリスで確立された「風景主義庭園」は、それまでの伝統的なフランス、オランダ庭園様式を採用した「整形庭園」に対する批判から生まれた。その上で範となった光景こそが、ロラン、プッサンらに代表される「崇高」な風景画であった。しかし、自然の風景を「模倣」することで一つの様式であると自己主張するこの風景主義庭園は、実は整形庭園と同じく根源的には「自然の再所有化」の一様態である。自然を忠実に模倣しようと企図すればするほど、我々はそこに模倣という名の作為性を嗅ぎ取ってしまうわけだ。この点に気付いている人々は、実は同時代にも存在した。
 
「ウィリアム・ケントの《ストウ庭園》」

ストウ庭園2
ストウ庭園

ストウ庭園
ストウ庭園

 庭園史、特にイギリス庭園史における改革者として極めて重要な存在がウィリアム・ケントである。最初、この傑出した造園家は無名の画家であった。元はペンキ塗りとして細々と生きていたとも言われている。光るものを持ちながらも浮かばれない日々を送っているそんな彼を第三代バーリントン伯爵リチャード・ボイルが拾い、部屋を与えて活躍の機会を与えたのである。伯爵はパラディオ様式の支持者で、共和制期のローマを範とした急進的ホイッグ党に属していた。いわば、根っからのイタリア寄りの人物である。そんな彼の下で仕事を与えられたケントが、当時「崇高」の美学の高まりと共に注目されていたイタリア庭園やイタリア風景画の魅力に乗じないわけがなかった。いわば、ケントは時代の申し子として、庭園史において初めて「非整形庭園」を具体的に「実践」(理論だけでなく造園にまで踏み込んだのは彼が最初である)した人物として重要なのである。この庭園こそが、後にランスロット・ブラウンが仕事を引き継ぐことになる《ストウ庭園》であった。この庭園にはイギリス革命の名士たちの胸像も飾られていたので、ポリティカル・シンボリズムの代表例としても言及されることが多い。
 ケントの弟子ランスロット・ブラウンは英国王室付庭園師として実に多くの造園を手掛けている。代表作は《チャッツワース》、《ブレニム・パレス》、《ロングリート》、《ペットワース》(画家ターナーの愛した庭園)など数多いが、彼の様式は18世紀にあってなお貴族的な旧来の「閉じられた庭」の持つ特徴を温存していると言われる。庭園史的な評価からすると独創性はケントよりも低いとされ、特に整形庭園を非整形庭園に作り替えたことで、かつての貴重な庭園の姿を失わせてしまった流儀が批判されることも多いようだ。ブラウンはかつての古典主義庭園を消し去った中心人物の一人でもある。

【19世紀 ヴィクトリア朝様式 「整形庭園の再評価」】

 19世紀はそれまで沈黙を続けていた庭園における「花」が、一斉にその存在を主張する時代である。産業革命期に造園家ハンフリー・レプトンが中小地主層のために、テラス、花壇、温室といった「花」のある要素を重視したのが発端であった。レプトンの様式を引き継ぎ、ジョン・クローディアス・ラウドンもまた色彩豊かな庭園を重視し、18世紀には批判対象でしかなかった「整形庭園」を改めて再評価するに至る。こうして、18世紀の「ピクチャレスク(picturesque)」な庭園から、19世紀は「ガードネスク(gardenesque:庭らしい庭)」へとシフトするのである。因みに、同時代のラファエル前派の影響も相俟って、イギリスでは花壇に模様を描く「カーペット・ベッディング」と呼ばれる手法が流行した。

【19世紀後半~20世紀半 エドワード朝様式 「そして現代のコテッジ・ガーデン(田舎家風の庭)へ」】

 現在TVやカタログで紹介されているイギリス庭園の形に最も近い様式を確立したのが、アーツ・アンド・クラフト運動にも影響を受けた女流画家ガートルード・ジークルと年下の建築家エドウィン・ラチェンスの二人組に他ならない。特にジークルはウィリアム・モリスの庭園や美術評論家ジョン・ラスキンを高く評価しており、彼らから学んだ理論を庭園において実践しようと構想していた。二人は、大きな一つの庭に趣の異なる小庭園を作る技法や、壁に沿って植え込まれたボーダーなど、当時は斬新な庭園技法を駆使して実に七十にも及ぶ造園に関わったといわれている。しかし、現存する《ヘスタークーム》のような貴重な例を除いて、それらの庭園はほとんど現存していない。二人は二十世紀の庭園様式に決定的な影響を与えた。
 



「参考文献」


エロスの庭―愛の園の文化史エロスの庭―愛の園の文化史
(2013/02)
ミヒャエル ニーダーマイヤー

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イングランドのルネサンス庭園イングランドのルネサンス庭園
(2003/10)
ロイ ストロング、Roy Strong 他

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森と庭園の英国史 (文春新書)森と庭園の英国史 (文春新書)
(2002/08)
遠山 茂樹

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楽園

楽園と庭―イギリス市民社会の成立 (中公新書 (723))
 



※1)――ニーダーマイヤーp173
※2)――p179
※3)――p192~193

註1――中世ドイツの詩人ナイトハルト・フォン・ロイエンタールが女性のヴァギナを「青い花」と表現したのはその好例である。他に、「花を摘む」が「処女を奪う」の隠語であるなど、ドイツ語源における性的な意味が成立したのもこの時代の文学の影響であるとされる。

註2――ロココ時代には誘惑的な官能文学が流行した。以下の作家、あるいは作品には共通して「色恋」と「教会への風刺」という大きな二つの主題が見出される。

・クレビヨン・フィス
・ラクロ『危険な関係』
・モンテスキュー『ペルシア人の手紙』(ハーレムについて言及)
・ミラボー
・レチフ『ムッシュー・ニコラ』
・サド








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