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† オペラ †

「世の中のどんな眼が、 君の燃える黒い眼と較べられるだろうか?」――トリノ王立歌劇場によるジャコモ・プッチーニの代表作《トスカ》公演の記録(東京文化会館)

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【ロマン主義的な愛の魅力と、それを引き裂く悪の力】

 プッチーニの《トスカ》、それは生きているうちに絶対に一度は観ておかなければならない芸術の殿堂の一つとして名高い。今回、ジャナンドレア・ノセダ率いるトリノ王立歌劇場のメンバーが東京文化会館に来日したことは本当に素晴らしい記念碑的な出来事だった。どれ程、私はこの日を待ち侘びていたことだろう。初めて新国立劇場でモーツァルトの《魔笛》を観て以来、私にはある確信が芽生え、それは私の現在の幸福の核心に位置している。オペラこそがあらゆる芸術の至高の形式であり、その総合的な完成形態であるという確信である。今回の公演も本当に輝かしいほどの拍手喝采に包まれた最高の祝祭だった。オペラをDVDやスクリーン上で観て知ったつもりになっている人が稀にいるが、真の芸術愛好者はそんな稚拙で下卑た趣味を持つことなど自分の美学が許さないはずだ。オペラは伝統的にヨーロッパの貴族階級が社会関係資本の維持やアバンチュールの一端として訪れるイベントであり、初めから「劇場」という空間性と一体化した芸術である。「自室でオペラ」などあり得ない。オペラは空間芸術であり、同時に音楽であり、台本というテクストを下部構造に持ち、舞台上で役者が歌い、演じる。そして最後には彼らが手を繋いで壇上に現れて我々観客に笑顔で観てくれたことへの深い感謝と愛を表明する――全ては繋がっており、ここでは観客も実は拍手や「ブラヴォー!」のコールによって舞台の面々と直接「参加」しているのだ。オペラは実際に足を運ばない限り、語ることのできない神聖な芸術なのである。
 さて、オペラ通には当たり前の前置きはこれくらいにして、やはり彼のことから語り始めることにしよう。そう、カヴァラドッシ役のテノール、マルセロ・アルバレスのことだ。彼の情熱的な歌声には特に劇場の拍手喝采が鳴り響いていた。彼ほど観客の魂に訴えかけるように熱心に歌う歌手が他にいるのかという程、その歌声は素晴らしく男性的で力強く、しかも美しかった。無論、彼の存在が一際輝くのは、日本でもその美貌から根強いファンを獲得しているトスカ役のパトリシア・ラセットの存在があってこそである。第一幕でのカヴァラドッシとトスカの甘い、あの心をとろけさせ、思わず微笑みさえ浮かべてしまう優しい相思相愛のやり取りは実に素晴らしい。大半のオペラの台本は多くのオペラ解説書にも記載されているように、基本的に筋書きは「メロドラマ」のストーリーラインを採用する。無論、《トスカ》も典型的な「悲劇」を基礎に持つメロドラマ形式の台本である。メロドラマの中心原理とは何であろうか? それこそが、カヴァラドッシとトスカに見出せるような甘く情熱的な、人を酔わせる「恋愛」なのだ。恋愛こそがオペラの最高のテーマであり、既にトスカ論のレジュメでもまとめたように、愛し合う男女二人に、それを邪魔する悪という三人物形式がいわばメロドラマの人物構成における最小単位として機能している。二人のやり取りで最も耽美的なのは以下のトスカのレチタティーヴォにもはっきり表明されている。

トスカ

緑の中にすっぽり隠れて待っている
私たちの家に行きたくないの?
世の中にまったく知られず、
愛と神秘に満ちた神聖な巣に?
貴方の傍らで
星の鏤められた
沈黙の暗闇を通して
万物の声が立ち昇ってくるのを聞くんだわ。
森から茨の地から、
燃える草から
麝香草の薫る
荒れた墓地の底から、
夜、小さな愛の神たちの
囁きが洩れ、
人の心を弱くする
不実な忠告が聞こえるの。
花を咲かせておくれ、ああ宏大な野よ。
月の光にときめいておくれ、海のそよ風よ。
逸楽を雨と降らせておくれ、星の輝く空よ。
トスカの血には気違いじみた愛が燃えているの。(※1)


 台本を読んでいると判然とするが、なんとロマン主義的で牧歌的な恋愛表現だろう! ここではトスカの愛が自然をメタファーにして表現されている。「小さな愛の神たちの囁き」や、「愛と神秘に満ちた神聖な巣」などという表現はどこかロココ的なプットーの絵を思わせるほどだ。カヴァラドッシの返し方も歌声と相俟って素晴らしい。

カヴァラドッシ

世の中のどんな眼が、
君の燃える黒い眼と較べられるだろうか?
僕の全身全霊が集中しているのはここだ。
愛すれば甘く、怒れば尊大な眼よ。
世の中の他のどの眼が、
君の燃える黒い眼と較べられるだろうか?(※2)



 燃えるような黒い眼……それは、トスカを演じた歴代に名を連ねるプリマドンナのマリア・カラスを想像させる。あるいは、台本作者のサルドゥが愛していたサラ・ベルナールに捧げられたレトリックなのかもしれない。いずれにしても、言葉は踊り、歌声はそれを越えて空間を愛で包み込む。
 トスカという女性は非常に嫉妬し易く喜怒哀楽に富んでいる。感情の「極」から「極」へと常に急激に変化するのは、無論オペラの機能上のゆえであるが、観ている分には常に好奇の的になり得る女性だ。特に重要なモチーフになっているのが、トスカの「マリア・マグダレナへのジェラシー」に他ならない。カヴァラドッシがマグダラのマリアの絵を美しく描いただけで、彼女はその女性にモデルがいるのではないかと心配になる。画家は心配するなと慰めるが(実際には活動仲間のアンジェロッティの妹がモデル)、トスカはもっと大きな愛を求める。私は劇場でこの場面を観ている時、マリア・マグダレナという聖女の存在がトスカほどの女性にも嫉妬を与えるある種の魅力のシンボルになっていることを漠然と感じていた。逆に言えば、トスカほど若くしてプリマドンナになった輝かしい女性になってくれば、この天上的でありながらイエスに出会う前はサロメ的なファム・ファタルとして生きていた聖女しか、ライバルは存在し得ないのだろう。トスカの嫉妬し易さ……それはこのオペラの重要なテーマの一つだ。
 第一幕で印象的な点を他に挙げると、やはり教会の堂守と小さな牧童(少年修道士)たちだろう。彼らのような敬虔なキリスト教信仰の持ち主がいることで、逆にカヴァラドッシの「自由主義思想家」としての危うい立場が引き立つわけだ。実際、カヴァラドッシは活動仲間のアンジェロッティと同じく、常にどこか不安定で追われている身にある。この、「追われる身」であることと「女性への愛」は何か関係があるのではないだろうか。つまり、男は集団に命を追われれば追われるほど、子孫を残そうとするというあの動物的な本能の問題である。それゆえ、他のトスカ研究者が二人の愛を「不倫」的などと評していた点は実際とは微妙に食い違っていると批判せなばならない。何故なら、カヴァラドッシは警視総監である恐ろしいスカルピアとその部下らにいつでも捕縛される危険性を持った男性であるからだ。そういう男性の愛し方は、必然的に情熱的で激しくならざるを得ないのではないか。つまり、女性の気に入ることを最優先させ、恋よりも官能を、官能の果てに安穏を求めるというあの志向性である。
 やがて強烈な個性を持った悪役スカルピアが登場する。カヴァラドッシを匿ってもいた教会に属する少年修道士や修道女たちの目を見張るような合唱に、突然亀裂が入るのだ。突然の「中断」と不穏さの介入は、アッティラ・チャンパイがトスカ論で述べていたように、このオペラの方法論の一つだ。スカルピアの登場は、まさにこの教会勢力さえもを唐突に終わらせ、突如支配者として君臨するという不穏さにある。彼は音楽を中断させる点でも、異様な存在なのだ。スカルピアについては、既に多くの言及が存在している。例えば、彼を二十世紀のファシズムの完全な象徴として捉える研究者もいるし、悪魔的なサド崇拝者とか、性倒錯的な異常者として精神分析学的に扱う学者も存在する。だが、二十一世紀の現代のトリノ王立歌劇場が選んだラド・アタネリによる「スカルピア像」は、それらとはどこか趣を異にしている。ラド・アタネリはグルジア出身の貴族的な容貌の歌手で、他の歌手と同じく世界的に名を知られている。私が感じたアタネリによるスカルピア像は、もっと現実の社会空間に近い男性の一典型を成していた。つまり、惹かれた女性を手に入れるためには金、策略、狡智、あるいは卑怯な手段を使ってでも必ず成し遂げるというタイプだ。こういうタイプの男性は、実は日本にもけっこういるのではないだろうか。トスカは社会的ステータスの高い男性から求婚を迫られてもおかしくない立場にいるわけだし、こういう男性が迫ってくるのは別段おかしなことではない。そういう点では、ヨーロッパの他のオペラ学者たちがスカルピアを往々にしてネガティブな悪魔的存在として捉え過ぎている点はどこか一方的に過ぎるのではないか。少なくとも私には、この男には別の魅力があるような気がした。甘い言葉よりも力を、愛よりも快楽を、誘惑よりも強奪を重視するスカルピアは、実際には社会的な「淘汰」のメカニズムを具現化しているのであり、神聖な愛に対して、不実な愛、恐るべき愛、残酷な愛といった強度の力動性をその情念の核に持っているのである。
 アタネリが演じたためか、スカルピアはトスカにそれなりに上品に振る舞ってもいるようにも感じられた。無論、彼はトスカの肉体を求めているのだが、それだけでは拒絶されることを知っているのか、女性に対する一定の礼儀作法を習得している。例えば、以下の台詞がそれだ。

スカルピア

君はあまりにも美しい、トスカ、
あまりにも人を愛している。
私は譲ろう。
端金で、君は私にひとつの命を求め、
私は君にひと時を求める。(※3)



 この辺りの私の台本による最初のイメージと、アタネリのスカルピア像のある種の「ずれ」はまことに微妙な問題である。私には彼がそこまで悪魔的な人物には見えなかった。実際、トスカはナイフで彼を刺し殺して最高の制裁を加えているし、逸脱的な倒錯を感じるほどでもない。むしろ、多くの美しい女性を所有する心理と、権力欲は一人の男性の内部で結合しており、それが一つのパトスフォルメルとして具現化した存在こそがスカルピアであるのかもしれない。いずれにしても、彼は強烈な印象を残す点では、カヴァラドッシをはるかに凌駕する。
 スカルピアはトスカに刺されて絶命する。それも、最初の一刺しではなく、トスカは何度も彼を刺している。劇場での字幕では若干微妙に翻訳が違っているが、台本作者サルドゥのオリジナル版には「これがトスカのキスよ!」という衝撃的な言葉がある。まさに死の接吻によってスカルピアは自滅するのだ。彼のこれまでの、おそらくは淫猥な蛮行の数々を想像すると、この死に様はまさに彼らしい末路ではないだろうか。むしろ、それは本望なのかもしれない。エロスを欲する男は、同時にどこかで常に己の死を願っているものである。パトリシア・ラセット演じるトスカが一人の男を殺害した直後の表情には、何か鬼気迫るものがあった。これは私が倍率×10のオペラグラスでその都度ディテールを丁寧に確認していたからこそ知り得たものかもしれない。ちなみに、私は一階の八列目にいたが、ここからでも歌手の顔まではっきり確認するのは裸眼では難しい。やはりオペラグラスという「覗き穴」が必要になってくるし、これを携帯している愛好者はいうまでもなく数多い。
 公演が終わり、まだ記憶が新しいうちにこれを書き留めていて思うのだが、舞台上であれ程劇的に一人の男性が女性の手で殺される場面を観る機会もなかなかないものである。それも、舞台は演劇ではなくオペラなのだ。歌声もさることながら、ラセットの殺害直後の表情の演技力は迫真であるよりもむしろ「憑依的」ですらあり、実際にそこで人を殺してしまったプリマドンナの悲劇を目の当たりにしているような途轍も無い霊感が漂っていた。私は今、まさに「霊感」と表現したが、優れた芸術にはこうした名状し難い霊的な力が働くものである。嵐のような怒りの演出、支配からの解放、稲妻のように力強く躍動する人間ドラマ……。
 ここまで、第二幕までの流れを私なりの印象に基づいて再構成してきたが、第三幕の初まりが実に印象的であった。一人の牧童が(サルドゥの台本では「羊飼いの少年」とあるが、ノセダの公演では「少年の天使」)物音しない暗い宇宙のような空間で、静かに歌いながらやって来るのである。彼は言う。

風が動かす
木の葉ほど
多くの溜息を
貴女に送る。
貴女は私を軽蔑し
私をそれを悲しむ。
金のランプよ、
お前は私を殺す!(※4)


 
 私が実際に聞いた時の台本は、こういう内容ではなかった。むしろ、物語全てを知っている観察者(まさに神の使者)が、トスカの内面について注釈したというかのような印象の謎めいた台詞だったのである。私はそこにも、何かオペラを作動させる上での効果的な力を感じた。明らかに「異質な要素」だが、これを小説に置き直せば、例えば各章ごとの前に綴られたパラテクストの類になるのではないだろうか。引用とか、クンデラの小説に見られるような思弁的な語りを中心にした物語外からの視点である。
 第三幕は、急激に物語が進む。やはりカヴァラドッシのテノールが素晴らしい。本来ならば、傷付いたカヴァラドッシは見せかけの処刑を終えた後、トスカと「愛の教えを広めるために街を出航して海を越える」はずであった。だが、実際には処刑は冷酷に完遂されてしまう。衝撃を受けたトスカは、スカルピア殺害の容疑者として狙われる最中に、サン・タンジェロ城の高所から飛び降りる。つまり、物語は牧歌的な幸せを掴む形で終わるのではなく、悲劇的に終わるのだ。愛、嫉妬、苦悩、死……まさにトスカの感情は全てを経験する。
 

【総評】

 オペラ《トスカ》とは結局、何であるのか? 
 私にとってそれは、やはり人間の生の縮図だと感じられる。願っていたものが手に入ることもあるが、厳しい世の中は往々にしてそれとは別のものを与えたり、あるいは奪うこともある。トスカの身に起きた不幸は、現代に起きてもやはり衝撃的な事件の一つであろう。有名な女優が高圧的で恐ろしい政界の実力者に狙われ、彼を反動で殺してしまうが、恋人をその手下によって結局殺されてしまい、自分も身投げするという展開は、まさに「死」の連鎖である。これは痛ましく凄惨な事件をオペラ化しているわけだが、そこにロマン主義的な美しく格調高い恋愛表現と音楽を結合させ、一つの芸術に完成させたものである。
 一人の女性としてのトスカについてよく伝える台詞がある。彼女は貧しい出身で、少女時代は修道院に御世話になっていた。以下は、その頃の面影を感じさせる貴重な箇所である。

私は歌に生き、恋に生き、
人にけっして悪いことをしませんでした。
惨めな人たちと知れば
そっと手を差し伸べて助けました。
いつも誠の信仰を込めた
私の祈りは聖壇に昇り、
いつも誠の信仰を込めて
(立ち上がって)
私は祭壇に花を捧げました。
苦しみの時に、
どうして、どうして、主よ、
どうして私にこのような報いを御与えになるのですか?
私は聖母様のマントに宝石を捧げましたし、
星々に歌を捧げれば、星々は
天上で一層美しく微笑みました。
苦しみの時に、
どうして、どうして、主よ、
どうして私にこのような報いを御与えになるのですか?
(啜り泣きながら)(※5)


 まことに憐憫を誘う悲劇的な訴えである。トスカの持つ不幸は、デッソワーの美的範疇論の見地からすると、「悲愴」の最高形式に他ならない。まさに、彼女はオペラそのもののアレゴリーであり、自らの生でオペラを演じているオペラ歌手という、二重性を帯びた象徴的プリマドンナなのである。
 ところで、《トスカ》はモーツァルトの《魔笛》と比較すると単線的な印象も受ける。《魔笛》では悪だと思っていた勢力が味方になったり、逆に味方だと思っていた勢力が悪として退けられたりしながらも、喜劇と悲劇が混じり合い、宇宙的な統一を遂げている。プッチーニのこのオペラに「笑劇」的な側面はほとんど無い。あるとすれば、カヴァラドッシとトスカの仲睦まじさが誘う微笑みだろう。このオペラは基本的に、冷たく恐ろしい力によって男女の愛が引き裂かれる過程を描いている。その点では、「裂開」と「死」を深い主題として抱えている。演出家によってオペラは色合いをまた変えるので、また異なる解釈も今後生まれるだろう。





「原註」

※1)『名作オペラブックス4 トスカ』(音楽之友社)p53
※2)同書、p55
※3)同書、p99
※4)同書、p107
※5)同書、p99





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