† 表象文化論 †

『明治の表象空間』で新たに注目を浴びる松浦寿輝はいかにして創られたか?ーー東京大学退官記念講演『波打ち際に生きる』における「創造の秘密」


波打ち際に生きる波打ち際に生きる
(2013/05/23)
松浦 寿輝

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 海辺で寄せては返す、あの波立ちとは何であるか?
 松浦寿輝は『波打ち際に生きる』収録の東大退官記念講演の中で、毎度の折り返しそれ自体を一つ一つの「出来事」として解釈している。興味深いのは、彼が波打ち際において我々は常に「何か」(無意識にであれ)を拾っていると述べている点だ。

わたしが実人生の波打ち際で、また精神の波打ち際で出会った、いとおしい何か。それは言葉であったりオブジェであったりイメージであったり、さまざまなかたちを取るわけですが、そんな出会いを契機として自分のなかに喚起されたものを、自分なりの言葉に置き換えてみようとした種々の試みが、あるときには論文となり、あるときには詩となり、あるときには小説になっていったのではないかと思うわけです。(p10~11)


 松浦氏によれば、波打ち際には独特な「憐憫」の情が漂っている。彼にとって、そこは自分のこれまで書いてきた作品を要約するエンブレムに繋がる場、すなわち「記号への憐憫」を誘発する場と規定される。そこは「いとおしさ」だけでなく、津波のような災厄を呼び寄せる「いとわしさ」も宿しており、本質的にアンビバレントな意味のあいだに位置している。松浦氏は波打ち際に以下のように主として四つの重要な意味付けを試みている。

「波打ち際」の詩的イメージ

(1)海と陸の境界領域としての「不確定さ、不分明さ、不安定さ」
(2)海に曝されている「緊張」と、陸には護られているという「安息」のアンビバレント
(3)未知なるもの(他者)を迎え入れる場(あるいは、予感・畏怖・誘発の場)
(4)映画館の「スクリーン」(「イメージと音響の波」が押し寄せる場)


 (3)について、松浦氏は3.11に繋がる「荒々しさ」、時に存在を引き裂く「セイレーン的なもの」を出現させもする場としての意味も強調している。重要なの詩的喚起力を持つのは、むしろ(4)ではないだろうか。すなわち、プロジェクション(投射)のシステムによって映し出されたスクリーンを彼が「波打ち際」として規定している点である。何故、映画は彼にとって「いとおしい」ものなのだろうか? この点について、松浦氏は3Dのヴァーチャル体験(『アバター』など)にはそれが感じられない点を指摘している。ここで言及されているのは、マルセル・ブロータースの断片的なコンセプチュアル・シネマに見出されるような一種の「欠損」感覚ではないだろうか。すなわち、3Dでは現実に限りなく接近してしまうため、想像的に補完するイメージの場が抹消されるのである。反面、全ての映画は常に何らかの「損壊」、ないし「断片」によって成り立っている。この不足の感覚にこそ、彼はある種の前近代から連続するauraを嗅ぎ取っているのではないだろうか。夢を与えられるためには、常に「心細さ」が必要であると彼は言う。
 以下に、松浦氏の思考形成において重要な土壌となった「波打ち際の思索者」たちをリスト化しておこう。彼は自身について、「幾つかの固有名詞に取り憑かれるようにして生きてきた人間」と自己規定している点も印象的である。

「波打ち際の思索者」(本書で言及された書名を併記)

(a)ポール・ヴァレリー
彼は「知」と「エロス」の葛藤の劇を生きた思索者として評価される(社交と沈思のはざま)。
「覚書と余談」、「人と貝殻」、『若きパルク』、詩「海辺の墓地」

(b)ロラン・バルト
「最も豊饒な参照軸」、インスピレーションの発火源。
『彼自身によるロラン・バルト』、『恋愛のディスクール』

(c)折口信夫
折口は日本という島国を「波打ち際」、すなわち「海やまのあひだ」と規定していた。
歌集『海やまのあひだ』、霊的他者についての論稿「まれびと」論

(d)アンドレ・ブルトン

(e)ミシェル・フーコー

彼は『言葉と物』の最終節で、「いつか人間は、波打ち際に描かれた砂の表情のように消滅するだろう」と述べた。

(f)ギュスターヴ・エッフェル
松浦寿輝『エッフェル塔試論』に詳しい。

(g)エティエンヌ=ジュール・マレー
松浦寿輝『表象と倒錯』、『平面論』に詳しい。

(h)アルフレッド・ヒッチコック
松浦氏にとっての「特権的シネアスト」。
特に『海外特派員』のディテールについて、ルドゥーの《ブゲンソン街を見下ろす眼》に相関した「外」と「内」の倒錯的構造が垣間見られる。映画的次元での「表象の倒錯」への言及として重要である。

ヒッチコックは、馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しいトリックを仕掛けていました。厚みのないぺらぺらの「平面」であるスクリーンの後ろ側から、その「平面」を破って、本物の水の奔流がコクピットのセット内にどっと侵入し、どこもかしこも水浸しにしてしまうのです。偽の奥行きであったはずのものがいきなり本物の深さそのものと化し、本物の水が逆巻く波となって打ち寄せてきたわけです。単なる水の映像であったはずのものが、不意に背景を備えた現実の水の量塊となって、まるで映画館の顧客の姿勢と身振りを模倣するかのようにじっと操縦席の窓を見つめていた登場人物たちに襲い掛かり、彼らを溺れさせにかかったわけです。(p32)


 映画を語る際の形式として、注目したディテールを概念的に考察するという点での、これは良い模範であろう。

(i)萩原朔太郎
詩集『月に吠える』

(j)ジャン=リュック・ゴダール

(k)中江兆民

(l)ジル・ドゥルーズ

特に松浦氏はドゥルーズの「潜勢力」、「特異性」、「出来事」の三つの概念に注目している。



 この内、エッフェル論(f)、及びマレー論(g)、そして『平面論』は松浦氏が1880年代を「近代」の開始地点に規定するトリロジーを形成する。この他、波打ち際を美しく描いたヴァージニア・ウルフ『波』、プルーストの「土地・土地の名」篇なども言及されている。
 また、小説『不可能』について、彼は以下のように自注を挿入している。これは松浦氏が三島由紀夫という人物をどのように評価しているかを如実に物語っているものとして印象的である。

…わたしは最近、『不可能』という長編小説を書き、そこでは傘寿を超えた一人の老人を主人公にしました。この作品はもし三島由紀夫が生き延びて老人になっていたら、という設定で一種のパラレルワールドを構築してみたものでしが、ただ、わたしは別に三島由紀夫などどうでもよかったのです。あまり興味の持てる作家でもありませんし……。(p45〜46)






 





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