† 文芸理論 †

「熱狂的に愛するか、苦悩によって死ぬか、そのどちらかしかありません」――18世紀恋愛小説の白眉『ジュリー(新エロイーズ)』の世界

Le premier baiser par Nicolas Monsiau 1761
    Le premier baiser par Nicolas Monsiau 1761

【ポール・ド・マンのルソー『ジュリー(新エロイーズ)』論】

 現代文学理論の旗手ポール・ド・マンは主著『読むことのアレゴリー』収録のルソー論(九章「アレゴリー」/『ジュリー』)で、ルソー唯一の長編恋愛小説『ジュリー』(Julie ou la Nouvelle Héloïse/1761)について鋭い分析を展開している。周知のように、『ジュリー』は書簡体形式の文学であり、今日でも「けして枯渇することのない泉のような」物語、あるいは「ルソーの最も壮大な物語」(p247)として高く評価されているだけでなく、ハズリットやスタンダールも本作のパロディとして物語を生産したことから、フランス文学史における「近代」の出発点を占めると解釈されている。本作はリチャードソンの『クラリッサ』、ルソーも読んでいたモンテスキューの『グニドスの神殿』などが同様の系譜に位置している。ラクロの『危険な関係』も同じく書簡体形式であり、テーマ的に比較することができるだろう。この作品では、比喩的な形式と倫理的なテーマが見事に結合しているだけでなく、ルソー自身の内的自己省察の書としても読み解くことができるだろう。ただし、ド・マンが指摘するところによれば、『ジュリー』には一部と二部で明らかな際立った差異が存在している。
 従来までの伝統的な『ジュリー』論の代表格として言及されているのが、18世紀の傑出した研究者でありオペラ論も刊行しているジャン・スタロバンスキーに他ならない。彼は「我々の眼に映るジャン=ジャックは、様々な両義性に捕われた不安な魂であって、テーゼやアンチテーゼを提起する思想家ではない。(p250)として、彼のエクリチュールが孕むアレゴリカルな言語的機制に既に気付いていたと、ド・マンに評価されている。しかし、彼はこの点に気付きながらも伝統的に採用されてきた二項対立的なコードを用意してルソーを読み解くという批評スタイルをあくまでも踏襲したのだった。彼は、ルソーのテクストを「透明性」と「障害」の緊張として読解している。


【テーマとしての「恋愛」】


 ルソーの言語は、往々にしてpassions(情念)の言語であると評される。
 ド・マンによれば、ルソーの文体には以下のような修辞的特徴が存在するという。一つはdoux modéle(快い模範)、あるいはsoave licor(甘美なリキュール)などと表現される「官能的甘美さ」である。もう一つは、その語りが「真実」なのか「虚偽」であるのか判断を宙吊りにしてしまう、âcres baisers(苦い口付け)とも表現される特徴である。この二つが重なり合ったものとして、ルソーの文学的テクストにおけるメタファーは位置付けられる。その文体は「かすかなむかつきを誘発する」、「必然的に不快なもの」でもある。
 ルソーにとって言語とは、常に「praxis(実践)の指示的な効力」として、すなわちアレゴリーとして己を表現する。彼の言語の下部構造には、病理学の体系とも接続する「needs(欲求)のシステム」が存在している。ルソーのpassionsの言語は、needsの「代補的な置き換え」として機能している。「欲求」がそれぞれの行為者によって個別具体的に生起するのに対して、ド・マンによれば「passionsのディスクール」は言語的な構造のシステムから弾き出される匿名的な機制である。
 ジュリーは美徳を「神」と呼称する。彼女の祈りは常に神的なoverself(超自己)に向けられており、クレールの全てを愛しているようでありつつ、実質的には彼の内部に存在する「神聖な美徳」をこそ愛し、信じているのである。 

「(恋)愛」とは、「人間」と同じく歪曲化=脱比喩化を引き起こす比喩であり、開かれた未決の意味構造に本来的な意味という幻想を譲り渡してしまうような隠喩である。そのため、愛情に関する素朴に指示的な言語では、(恋)愛は永遠に繰り返される空想――常に未来の反復に方向付けられた無分別の怪物――に成り果てている。(p257)


 『ジュリー』の「第二の序文」の中でド・マンが注目しているテクストは以下である。

恋愛は幻想に他なりません。恋愛はいわば、自らに別の〈宇宙〉を創り上げるのです。恋愛は、存在しないもの、もしくは恋愛のみが存在を与えたもので取り巻かれています。感情を全てイメージで表現するため、恋愛の言語は常に比喩的なのです。(p257)


今や、恋愛は、目隠しされたクピードーを陳腐に連想させるようなものとはかなりかけ離れた意味で、盲目的と称されねばならない(「盲目の愛」l'aveugle amour)。盲目性が真偽に関わる(否定的な)コンテクストで口にされていることを考えるなら、尚更である。「盲目の愛は正しいと思っていたのです……」(『ジュリー』)。情念の自己-破壊的な力は、外的な諸原因に帰されるのではなく、世界の一貫性に関する不当な仮構――そこでは外観の類似性が本質の親近性を保証することになるだろう――に根ざしている。(p274)


「私が知った愛は、相互的な適合と魂の合一からしか生まれようがありません。人は愛されなければ愛しません。少なくとも長くは愛しません」。相互性あるいは類似性は、内部と外部の類比によって顕在化される。そして、ジュリーはこうした類比のお陰で、サン=プルーの顔を見ただけで自身と彼の類似性を認められるようになる。だが、ジュリーは、このような図式を放棄した後、〈神〉という実体をただちに案出し、先に非難したことを再び反復しなければならなくなる。〈神〉は、その充足と遍在において彼女とは完全に異なる存在でなければならない。つまり、「実在する御方〈神〉」に寄らずには何ものも存在しない」ため、「感知できる存在の中には、〈神〉に擬えることのできる手本は一つもない」ということである。(p281~282)


 ジュリーにとって、クレールを「見ること」は、自分自身を「感じる」ことに他ならない。『ジュリー』における「顔」の体制について、ド・マンは以下のように表明している。すなわち、「魂(âme)の特徴」が外化したものが「顔(visage)の表情」であり、魂とは実は肉体と代替的関係にある、と。ジュリーが物憂さという「内面」に沈んでいる時、クレールはその内面を代替する行為として、ヴァレ地方の山々を孤独に彷徨する(外面)。二人は互いに分ち難く結合しており、ある種のヘルマフロディトスの双極的展開を見せているのだ。より正確に言えば、ジュリーとクレールは、共にルソーという一人の書き手の情動性を、女性/男性という二つの機能へと配分したものである。

弁証法の失敗は、おそらく『ジュリー』の失敗ではなく、反定立的なモデルが存在しないところにそれを定立することから生じる不可避的な結果なのだ。(p251)


サン=プルーがヴァレ地方からメーユリ、パリ、そして最後には文字通り世界の果てに赴いたり、そこから戻ったりし続けるのは、ピュグマリオンがアトリエの中で絶えず歩き回る姿を思い起こさせる。……代替が一方向的に生じる可能性はない。それサン=プルーからジュリーへ、そしてジュリーからサン=プルーへと双方向的に生じなければならないのだ。サン=プルーの地理的な彷徨は、ジュリーの精神状態を特徴付ける同様や物憂さに対応している。つまり、彼の「外部」と彼女の「内部」のあいだで、錯綜し、けして安定することのない相互交換作用が繰り広げられているのである。(p277)


 こうして、恋愛言語に見られる「自己/他者」の〈代替〉という重要なテーマが浮かび上がる。

Jean-Michel Moreau, illustration till La nouvelle Héloïse 1761
Jean-Michel Moreau, illustration till La nouvelle Héloïse 1761


※以下、引用は全て『ルソー全集』より。
第9巻
「新エロイーズ (上)」
第10巻
「新エロイーズ (下)」
「エドワード・ボムストン卿の恋物語」戸部松実訳
「道徳書簡」戸部松実



第二部「手紙13」(クレールからジュリーへ)の中での以下の文章が書簡集の成立に言及している。

…これまでの手紙をみんな集めて、書簡集を作ることにしました。もっとも、空で覚えていない手紙は一通もないのだけれど。…覚えてはいても、唯一僕を幸福にし得るあの懐かしい文字に再会するのですから、そのためだけでも絶えず読み返していたい。…この貴重な書簡集は生涯傍から離しません。それはこれから入っていく世間で僕の手引きとなりましょう。僕の過ちを予防し、あるいは訂正してくれるでしょう。僕が若いあいだは教育し、いつになっても僕を感化してくれて、そして思うにこれはこんな風に用いられた愛の手紙の最初のものになりましょう。(p264)


 この印象的なメタ・テクスト的言及からも明らかなように、本作はルソーにとって「愛の手紙」の集成に他ならない。

【『ジュリー』における恋愛言語――第一部より】


 「手紙10」(クレールからジュリー)での愛の表現。

 日ごとに強く感じるのですが、最大の幸福はあなたに愛されること。それに匹敵する幸福は存在しません、存在し得ないのです。
 あなたの心か、あなたを自分のものにすることか、そのどちらかを選ばなければならないのだったら、そうです、愛らしいジュリー、私は一瞬たりとも迷わないのです。(p45)



 「手紙12」(クレールからジュリー)、生得的観念としての善や美について。

読むものが少なければ、それだけ正しく選択しなければなりません。で、私の選択の根拠を申しましょう。勉強する人たちの大きな誤りは、今言いましたように、書物に頼り過ぎて、自分自身の内実から十分に引き出さないことです。詭弁を弄する者全てのうちで、我々を欺くことが最も少ないのは、たいていの場合我々自身の理性だということを、彼らは考えないのです。自分の内部に帰ろうとするや否や、誰もが何が善であるかを感じ、何が美であるかを識別するのです。だから善や美を知るために人に教えてもらう必要はありません。それにこの点で人が誤るのは、自ら誤ることを欲している場合だけなのです。しかし極めて高い善や美の範例はもっと稀少で知られていないのですから、それらは私たちから遠く離れたところへ探しに行かねばなりません。(p52)


 書物よりも自分の「感情」を大切にし、信じること。そして書物に書かれた恋愛物語よりも、我々は現実で実際に燃えるような恋愛をすべきであること。

 したがって、自分の内部でより確実に見出される原理や規範は、書物の中に求めないようにいたしましょう。幸福や美徳に関する哲学者たちの空虚な論議にはかまわないでおきましょう。彼らが人はいかにして善良で幸福になるべきかを詮議して失う時間を、私たちは自分がそうなるように使いましょう。空疎な学説に従うよりは、偉大な範例に倣うように努めようではありませんか。
 私はいつも、善は行為に移された美に他ならず、一方は他方と深く繋がり、両者は共に秩序立った自然の中に共通の源泉を持っている、と信じてきました。この見方から導き出されることは、趣味は知恵と同じ手段によって完成されること、美徳の魅力に深く感動する魂は、それと比例して、他のあらゆる種類の美についても敏感であるはずだということです。見ることと感じることとは、同じようにして鍛えられます。というよりも、優れた眼は、鋭敏で細やかな感情に他ならないのです。(p53)


 読書を有効にするためには数を制限しなければならないと私は信じています。それに魂に訴えないものは全て、あなたの心を占めるに値しないと日増しに強く想うのです。…ああ、ジュリー! 私たちの心は本よりもよく語っていて、書物の中の真似事の言葉は自ら燃え立っている者には実に冷ややかなのです。その上、そうした勉強は魂を柔弱にし、懶惰の中に投じ、その活発な働きを取り去ってしまうのです。これに反して、本当の愛は焼き尽す火であって、様々な感情に熱を与え、新たな活力を鼓舞するのです。それで恋は英雄を創るなどと言われるのですね。運命によって英雄足るべく定められ、かつジュリーを恋人に持つ者のありせば、その者は幸いなるかな!(p54~55)


 「手紙14」(クレールからジュリー)では、有名なクレールとジュリーのファーストキスについて書かれている。クレールは初めてジュリーの唇に触れて、稲妻のような感動を覚える。

 その一瞬のあと、ぼくはどうなったことか、ぼくが感じたとき……手が震えます……甘美な震え……薔薇の口が……ジュリーのが……ぼくのに重なり、押し付けられた、そしてぼくの体はあなたの腕にぎゅっと抱き締められた。そうです、稲妻といえども、あの一瞬ぼくを燃え立たせた火のようには激しくも速くもありません。体のあらゆる部分があの甘美な感触に集中していました。ぼくたちの燃える唇から溜息と共に火が飛び散り、ぼくの心臓が逸楽の重みにまさに死なんとした……その時、突然、あなたが蒼褪め、美しい眼を閉じ、従姉の君に寄りかかり、気を失って倒れるのを目にしたのです。そこで不安が快楽を消し去った。ぼくの幸福は束の間の閃光でした。
 あの致命的な瞬間からぼくに何が生じたのかよくわかりません。ぼくが受けた感じは深く、もう消えることはあり得ない。愛情のしるしだったのですか……恐ろしい責苦です……。(p60)


 「手紙23」(クレールからジュリー)における、ヴァレ山での登山体験(グランドツアーにも通じるが、クレールの場合は恋の苦悩を癒し、瞑想するための場として)人間の多種多様な感情の襞を、自然の持つ豊饒な多様性に擬えている印象的な場面。感情の劇的な変化をロマン主義的精神の基調と解すれば、ルソーにおいてその原点、範型となっているのは「自然」の四季変化、及びその局所的な多様性である。
 

 この不思議な土地に一風変わった対照の妙を与えているのは、人間の仕事だけではありません。自然もまた自らと相反することに興じているかのようでした。それほど同じ場所が多様な様相を呈していて、違ったふうに見えるのです。東には春の花々、南には秋の果実、北には冬の氷。自然は、同じ時にあらゆる季節を、同じ所にあらゆる風土を、同じ土地に相反する土壌を結び合わせ、他の何処でも見られない、平野の産物とアルプス山地の産物との調和を造り出していました。これに加えて、様々な眼の錯覚、多様に光を受けた山々の尖端、陽光と影の明暗、そしてその結果として朝夕に生じるあらゆる光の効果を考えてごらんなさい。わたしの感嘆してやまぬ不断の光景が何程かお判りでしょう。それはまこと舞台で見るようでした。というのも、山の眺望は垂直であって、まさに一時に、平野の眺望よりもはるかに強烈に眼を打つからです。平野の眺めは斜めにしか見えず、遠のいていき、一つ一つの物が他の物を隠しているのです。(p75)


「それはまこと舞台で見るようでした」とも、「一つ一つの物が他の物を隠しているのです」とも述べられている。
 同じ手紙には「山頂」における瞑想的気分、静寂、安らぎの境地が丁寧に綴られている。いわば激し易い感情の流れが自然の清澄さに触れて「凪」へと落ち着く、その穏やかな状態である。ここでクレールは恋の苦悩を癒すことができる。

ここでした。私が清澄な大気に包まれながら、自分の気分が変化し、あんなに長いこと失っていた内心の平和が回復した真の原因を明白に見て取ったのは。実際、空気が清浄で微細な高山にいますと、呼吸がより楽になり、体がより軽く、精神がより晴朗に感じられます。これは全ての人が注目しているわけではありませんが、みんな一様に感じ取る印象なのです。そこでは快楽は熱を減じ、情熱は穏やかになります。そこでは省察は、我々の眼を打つ周りの事物と釣り合った、何かしら偉大で崇高な性格を帯び、刺激的で官能的なところのいささかもない、何かしら静かな悦楽を帯びるのです。人間たちの住処から高く登ってゆく時、低劣な、地上的な感情は全てそこに打ち捨ててゆく思いがし、また天空の域に近付くにつれて、その変わることのない清浄な何ものかに魂が染まる思いがします。そこでは人は憂愁なくして重々しく、平穏にして無感動ではなく、存在すること、思考することに満足しています。激し過ぎる欲望は全て鈍くなるのです。(p76)


 同じ手紙では離れた場所にいるジュリーへの恋慕も表明される。いわば、遠距離恋愛の苦悩である。

 おお、我がジュリーよ、とぼくは感動を持って言いました。ぼくはなぜ我が日々をこの人知れぬ土地で、あなたと共に、幸福に、人間たちの視線によってではなく、ぼくたちの幸福によって幸福に過ごせぬのか! ここにいて我が魂の全てをジュリー一人のうちに結集し、またジュリーにとってはぼくがあなたの世界になる、なぜそうできないのか!(p82)


 「手紙24」(クレールからジュリー)では、社会的な「名誉」と、個人が持つ真の「美徳」の差異について語られている。

 私は名誉と呼ばれるものを、世間の通念に基づくものと自尊の心に由来するものに区別しています。前者は騒ぎ立つ波よりも更に揺らぎ易い空虚な偏見に存し、後者は道徳の永遠の真理の内に根拠を持っています。世間的名誉は立身出世のためには有利かもしれませんが、魂には浸透せず、真の幸福に対して何の影響も持ちません。これに反して、真の名誉は幸福の核心をなしています。何故なら、思考する存在を幸福にし得る唯一のもの、内心の満足というあの恒常的な感情は、その中にしか見出されないのですから。(p83~84)


 「手紙26」(クレールからジュリー)では、社会的地位の差異によって恋愛が引き裂かれる苦悩が前景化している。

 おお、盲いたる恋人よ! 貴女は僕たちが最早存在しない時のために幻想の幸福を求めている。貴女は遥か未来を見ている、そして僕たちが絶えず磨り減らし、僕たちの魂が恋と苦悩に力尽き、溶けて水にように流れるのを見ていないのだ。目覚めて欲しい、まだ遅過ぎはしない、ジュリー、その不幸な誤りから目覚めて欲しい。(p94)


 「手紙28」(クレールからジュリー)では、両親が勧める結婚相手とクレールの狭間で、魂を引き裂かれる恋の苦悩がジュリーの悲痛な調子で語られている。

 もうおしまい、おしまいだわ、危機が来ました。一日、一時間、一瞬でも、きっと……誰が自分の運命を避けられましょうか。おお、どんなところであたしが生き、あたしが死のうとも。どんな人知れぬ隠れ家に我が恥と絶望を引き摺っていようとも、クレール、貴方の友を覚えていて……。辛いこと、悲惨と恥辱は人の心を変えます……。ああ、もしいつかあたしの心が貴方を忘れるようなことがあれば、心が酷く変わってしまったのです!(p96)


 「手紙28」(クレールからジュリー)でも。

 あたしは呻きながらこの世に残された慰めを求めています。眼に映るのは貴方だけ、優しい人。御願いだから、そんな愛らしい救済者をあたしから取り上げないで。貴方の友情の温かさを取り上げないでちょうだい。あたしはそれを望む権利を無くしました。けれども今程それが必要な時はありません。(p98~99)


  「手紙33」(ジュリーからクレールへ)では、ジュリーの心象が「メランコリー」と「愛」という相反する力の共存として表現されている。これはジャン・スタロバンスキーの規定する「ロココ美学」の本質でもある。すなわち、ロココもまた繊細優美で軽妙な「愛」を志向しつつ、その内部に崩壊への意志を、いつかこの優雅でギャラントリーに溢れた時代が終幕してしまうのではないかという憂鬱が宿っているのである。

 また戻りましょう、あの孤独で穏やかな生活へ。あたしは本当に悪い時に貴方をそこから引き出してしまいました。あたしたちの愛の火は、あの生活の中で生まれ、育まれたのです。放漫な生き方をすればきっと弱まるでしょう。大きな情熱は全て孤独の中で創られます。社交界では一つ一つのことが深い印象を与える暇が無く、多種多様な趣味が感情の力を弱めてしまって、とてもそのような情熱は持てません。あの生き方はまたあたしのメランコリーにもいっそう適しています。あたしのメランコリーとあたしの愛は共に同じ糧で培われているのです。それは愛しい貴方の姿。そしてあたしは、人の集まる中で固くなって、ぼんやりしてらっしゃる貴方を見るよりは、あたしの心の奥底で、多感な優しい貴方を見ている方が好きなのです。(p109)


 「手紙34」(クレールからジュリー)では、クレールも「孤独」の中へと帰還していく。

 だからまたあの孤独な生活へ帰りましょう。僕は嫌々別れを告げたのです。そうです、世間のざわめきの中では心は奪われない。偽りの快楽は真の快楽の欠如をいっそう辛く心に感じさせます。心は空虚な償いよりは、自ら苦しむ方を好むのです。でもジュリー、歓びはあるのですよ、こんな拘束の中で生きていても、きっと確実な歓びはあり得るのです。ジュリーはそれを忘れているらしいのだ! 何ということだろう、こんな近くにいながら会いもせず、言葉も交わさずにまる二週間も過ごすとは! 恋に焼かれた心は、何世紀にも相当するそのあいだ、どうすればいいのでしょう。いっそ分かれている方がまだしも耐え易いでしょう。慎重にしすぎるくらい慎重にしていても、それで禍を避けるより禍を作り出しているのだから何の役に立ちましょう。生を責苦とともに長引かせてなんになろう。ただの一瞬会って、そして死ぬ方が百倍もいいのではないだろうか。(p112)


 「手紙35」(ジュリーからクレールへ)

 ねえ、あなた、あたしたちの魂の質、あたしたちの好みの共通した傾向からすれば、愛はあたしたちの生の最大事になりましょう。ひとたび愛があたしたちの受け取ったような深い刻印を与えてしまうと、愛はもう他のあらゆる情念を決してしまうか、吸収するかしかありません。少しでも心が冷えると、それはあたしたちには間もなく死の憔悴となりましょう。打ち克ち難い嫌悪、永遠の倦怠が、消えた愛にとって代わりましょう。あたしたちは、愛することをやめた後は長く生きることはできますまい。とくにあたしの場合、無我夢中の情熱だけがあたしの現状の恐ろしさをヴェールで覆ってくれますの。熱狂的に愛するか、苦悩によって死ぬか、そのどちらかしかありません。(p114)


 「手紙38」(クレールからジュリーへ)

 ぼくの愛は貴女の魅力とともに絶え間なく募り、大きくならざるを得ないのです。貴女は僕が思ってもみなかった新しい感情の尽きることない泉です。なんと思いもよらぬ夜の集い! 貴女は未知の歓喜をなんと沢山僕の心に味わわせてくれたことか! おお、心を魅了する悲しみよ! おお、感動した魂の憂いよ! そなたは騒ぎ立つ快楽や、浮かれた陽気さや、激しい享楽や、節度を欠いた情火が恋人たちの奔放な欲望にもたらすあらゆる熱狂に、どれ程勝っていることか! 穏やかな清い喜びよ、官能の逸楽の内には何一つそなたに及ぶものはない。けっして、けっして、胸に染み渡るそなたの想い出は我が心から消えないであろう。ああ、心を打つ美しいひと二人が優しく抱き合い、顔を今一人の胸に傾げ、甘美な涙が混ざり合って、天の露が爽やかに花開いた百合の花を潤すように、涙がその麗しい胸を浸すその様、なんとうっとりする光景、なんという陶酔でしょう! こんなに優しい友情に僕は嫉妬を覚えました。そこに恋にさえ勝る何かしら心惹かれるものを見ました。(p122)


 そうだ、この世の誰も貴女のことを知らないのです。貴女自身も知らない。僕の心だけが貴女を知り、貴女を感じる。貴女を正しい位置に置くことができる。僕のジュリー! もし貴女がただ崇拝されるだけだとしたら、貴女に対してどれだけ敬意を欠くことになるだろう! ああ、貴女がただ天使であるだけならば、貴女はどれほど貴女の価値を失うことだろうか!(p123)


 「手紙54」(クレールからジュリーへ)は、ジュリーの閨房(女性の居間)を目の当たりにしたクレールの歓び、その陶酔的で官能的な歓喜が克明に描写されている。

 この神秘の住まいは何と素晴らしいのだろう。全てのものが、僕を焼き尽す熱を煽り、育むのだ。おお、ジュリー! ここは貴女でいっぱいだ。僕の欲望の焔は貴女の残したあらゆるものの上に広がっていく。そう、僕の感覚が全て一斉に酔わされる。何か判らない、ほとんど感じられないくらいの薫り、薔薇よりも甘く、イチハツよりも軽い薫りが四方から立ち籠める。…この軽やかな被り物、豊かなブロンドの髪を覆うかに見えて、実はその髪で飾られているのだ。…着るひとの趣味をよくあらわしている、優美で簡素な部屋着。しなやかな足をゆったり包む、ほんとに可愛いスリッパ。ほっそりしたコルセット、これが触れているのだ、締め付けているのだ……なんとまあうっとりさせる体付き……前にはそっと二つの輪郭が……おお、逸楽の光景……コルセットの骨がぎゅっと締め付けられて撓んだ……その甘美なあと、僕は千度も接吻したい! ……ああ! どうなるだろう、これは、もし僕が……ああ、僕はもう幸福な手のもとにその優しい心臓の鼓動を感じているようだ! ジュリー! 僕の愛らしいジュリー! 僕は至るところに貴女を見て、貴女を感じる。ジュリーが呼吸した空気といっしょにジュリーを吸い込んでいる。ジュリーが僕の体の隅々まで滲み透ってくる。貴女の住まいはなんと僕には燃えるようで切々たることか! 待ち焦がれる心にはここは恐ろしい! おお、来て欲しい、飛んでおいで、でなければ、僕はだめだ。(p161)


 「手紙65」(ジュリーからクレールへ)の中で、「クレールの言葉」を引用する箇所。

 でもあの最後の胸打つ言葉、貴女の心でこそ言い得るような、“あたしたち離れていては長く生きてはいけないでしょう”という言葉に、あの人は泣き崩れました。手紙に接吻して、声をあげて言われたのだわ。そう、ジュリー、そうなんだ、ジュリー、離れていては長く生きてはいない。天は僕たちの運命をこの世で結び合わせてくれるだろう、さもなくば僕たちの心を永遠の住処で結び合わせてくれるだろう。(p209)




【『ジュリー』における恋愛言語――第二部より】
 

 「手紙11」(ジュリーからクレールへ)では、社交界の持つ俗物的な性質への警戒がジュリーの「美徳」によって伝えられる。

 官能や卑俗な快楽に負けて堕落なさる怖れは貴方にはありません。多感な心にとっては、それは危険な落とし穴ではありませんから、もっと繊細なものでないと。でも社交界の決まりや教訓は心配です。いつどこを見ても悪徳の見本ばかり、きっと恐ろしい力を持っているでしょう。それが怖い。悪徳が身に纏っている巧妙な詭弁が心配です。もう一つ、貴方の心が貴方を騙しはしないかということ。世人の評価などは、あたしたちが結ばれるのに役立つのでない限り貴方は軽んじることがおできでしょうが、それを手に入れる手段について安易になられはしまいか、ということです。(p258)


 あたしは父の同意が無ければけして貴方と結婚しません、しかし貴方の同意が無ければけして他の誰とも結婚しません。あたしはこれを貴方に誓います。この誓いは、何が起ころうとも、あたしにとって神聖です。人間の力を持ってしては、あたしをこれに背かせることはできません。…あたしの愛しい人、優しい愛の見守る中を愛に冠を授けるに相応しい運命を求めて行くのよ。あたしの運命は、あたしの力で貴方に委ね得るか義理において、貴方の手中にあります。貴方の同意がなければけして変わりません。(p260)


 「手紙12」(クレールからジュリーへ)で、クレールは以下のように返信している。

 けして、愛の絆も婚姻の絆も僕をジュリー・デタンジュ以外の女性に結び付けることはありません。僕はその人のために生き、存在している、死ぬときは一人であるか、その人の夫であるかです。(p262)


 「手紙14」(クレールからジュリーへ)では、パリの社交界の実態に触れて感じた印象が綴られる。優雅な社交性への確かな志向性を示しつつも、実際に参加して時間を過ごせばその通俗的で堕落した側面が垣間見えてくるという落胆の念は、卓越した社交界の観察者でもあったプルーストの批評眼にも現れている。

 僕は密かな恐怖を抱いて世間というこの宏大な砂漠に入りました。この混沌の中で僕が見出すのは、陰気な沈黙が支配する恐るべき孤独ばかりです。僕の逼塞(ひっそく:落ちぶれて世間から隠棲すること)した魂は世の中へ出て行こうと努めるのですが、至る所で固く閉ざされるのです。「私は一人でいる時ほど孤独でない時はない」と古人は言っていますが、僕も人の集まる中にいる時だけが孤独です。貴方にも、他の誰にも属してないのですから。僕の心は語りたいのです、でも聞いてもらえないと感じます。答えたいのですが、心にまで届くことを誰も何一つ言わないのです。僕はこの国の言葉が理解できないし、誰も僕の言葉を理解しません。(p266)


 ある人が喋る、その時意見を言っているのはその人間ではなく、言うなれば衣服が語っているのです。だから彼は立場が変わるごとにしょっちゅう平気で意見を変えるでしょう。彼に長い鬘と、軍服と、十字架を次々に与えてごらんなさい。法律と、専制政治と、宗教裁判が相継いで同じだけ熱意を込めて説かれるでしょう。(p268)


 これだけではありません。誰もが絶えず自己矛盾に陥っていながら、これはいけないと思ってみることさえしないのです。会話のための原則と実践のための原則は別個であって、両者が相反していても誰も憤慨しない、これらは相似ることなくして当然と思い込んでいるのです。本の著者にも、道徳家にさえも、自分の書物と同じように語ること、語ると同じように行動することを要求しません。著述と言説と行動とはそれぞれ別個のもので、これを無理に一致させなくともよろしい。要するに、全てが理不尽でありながら何一つ人を憤慨させないのです、慣れてしまっていますから。(p269)


 特にここは、イェール学派のショシャナ・フェルマンが『語る身体のパフォーマティブ』で展開した、ドン・ジュアンにおける「コンスタティブな約束をパフォーマティブに破棄する身振り」を想起させる。「話す内容」と、「書く内容」、そして「行動する内容」には一貫した共通の理念など初めから存在しないのだ。ルソーはこのようにクレールに社交界の本質を悲嘆させているが、実はこの特徴こそ、ド・マンがルソーの言語に見るパフォーマティブな性格に他ならない。ルソーの抱える「自己矛盾」は、クレールが社交界という分裂した「仮面の空間」に参入して初めて、自分自身のこととして自覚されるのである。

 さしあたりは、僕がこの人の群れを砂漠と呼ぶのは正しいかどうか判定して下さい。そして、絶えず変化して自壊していく感情と真実の空疎な外見しか見出せない孤独、一瞬眼を射るだけで捕えようとする途端に消えてしまう怨霊と亡霊しか眼に入らない孤独を、僕が恐れるのが正しいかどうかも。これまで沢山の仮面を見てきました。人間の顔を見るのはいつのことでしょうか。(p270)


 「手紙16」(クレールからジュリーへ)では、言語には「隠喩」が必然的に結び付いてしまうということが敏感に嗅ぎ取られ、自己批判的な様相を帯びている。

 少しでも頭の中が熱を帯びると、自分を理解させるためには隠喩や婉曲な表現が必要になります。貴女にそのつもりはなくとも、貴女の御手紙はこうしたもので溢れています。文彩なしで語れるものは幾何学者と馬鹿だけだと主張したい。実際、同じ一つの判断でもその訴える力には百もの段階があり得るのではないでしょうか。ある判断がそのうちのどの段階の力を持つことになるかは、それにどんな表現を与えるかによって決まることではありませんか。(p277)


 
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