† 文学 †

ジャック・デリダが『散種』で分析対象にした初期フィリップ・ソレルスの代表作『公園』の魅力

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Monica Bellucci by Norman Jean Roy

 デリダの『散種』の翻訳が遂に日本でも刊行され盛んに研究会などが開かれている模様たが、収録されている一篇にはフランスの作家フィリップ・ソレルスの初期作品『公園』についての論稿がある。該当する論稿の読解記録は既に本サイトでも掲載しているので、このページではソレルスの『公園』の訳出されたテクストに見られる興味深い特徴について考えたことをまとめておこう。本作についてまず概略を述べておこう。『公園』は1961年に第一回メディシス賞を受賞した若きソレルスの三番目の小説である。彼は既にこの頃、『挑戦』、『奇妙な孤独』でモーリアック、アラゴンらに賞賛を受けていた。しかし『公園』では二人はその前衛的な様式に沈黙してしまい、批評家からはロブ=グリエの『嫉妬』のエピゴーネンに過ぎないという指摘も提示された。ソレルス自身の弁明によれば、『公園』とは「様々な読み方のできる」作品であり、そこには従来の小説の制度に対するアンチテーゼの戦略が働いている。全54の断片から構成され、「彼」、「彼女」、そして二人を書いている「僕」という三つの人称を用いながら、テーマは一貫して「空間」の概念的な探索に向かっている。『公園』で採用された文体力学は、その後次作『ドラム』で極限形式に達したと評され今日に至っており、現代文学の比較的新しい「古典」の一つであることは間違いない。

【『公園』の文体の特徴】

(1)ナラティブの基本的な構造は、クロード・シモンの『三枚つづきの絵』のような「事象の客観的な細密描写」に、語り手「僕」の心理描写(意識の流れを、鼓動のリズムに合わせて更に精緻化した方法)が溶け合っている。この点で、ソレルスのエクリチュールの様式は二つの「森」を、あるいは森の中にもう一つの森を潜在させている。
(2)会話文は《 》で地文に埋め込まれている。
(3)(1)において、観察のディテールを( )を挿入して付け足すことが随所に見られる。
(4)他の作家からの引用、あるいは固有名詞付きの書物についての言及は存在しない。
(5)一つの段落は短くて一段、長くて三~四段のブロックで構成されており、次のブロックになる際に空行を設けている。(原稿用紙三~六枚ほどの断片を接続させているスタイル)
(6)幾つかの「映画(コンセプチュアル・ムービー)」――より正確に言うと、互いに異なる幾つかの「空間の流れ」――が同時並行して同じページに描かれている場面が存在する。それはタイトルの無い「架空の映画の断片」の挿入に近い。



 何よりも注目すべきなのは、何か一つの「空間」を綿密に、細部まで豊かに造形していくその言語的構成力である。プッサンの絵について論じたテクストが小説『公園』の「解説」として機能するとソレルス自身が述べているが、実際にこの作品は「何枚かの絵の連続」であり、その点でやはりシモンの文体に、ジェイムズ的な心理描写を断片的に挿入したような体裁である。読みながら感じたのは、「空間描写」と「心理描写」を上手く切断しつつ、それらを交互に描き出している作法なのだが、その際に場面は主観を交えずに客観性を志向して、綿密な観察を伴って描かれているという点である。ディテールへの驚嘆すべき執念と、この様式を忠実に最後まで守り抜こうとする作者の強靭な意志のようなものが相俟って、稀有な「癒し」を読者に齎すテクストになっている。
 また、主人公「僕」については社会的ステータス、人物設定などが一切説明されていない。おそらく、ソレルスは自分に近い存在としてこの「僕」を仮構しているのだろうが、無論作家と「語り手」は区別しなければならない。「僕」は「彼」という第三者を観察し、描写している。「彼」と「僕」は時おり交替するが、物語の階層性の上部に位置しているのは「僕」であろう。そして「僕」は「自室」(※1)から近隣の「公園」を絶えず観察してもいる。
 特色としての「細密主義」は、絵画におけるアンドリュー・ワイエスや、トマス・ジョーンズ、中期ターナー、あるいはフェルメールのディテールに与える情熱を髣髴とさせる。「神は細部に宿る」という理念をこの頃のソレルスは信じていただろうし、それがテクストにもたらす豊饒な「空間のリアリティ」を自覚していたと考えられる。読みながら思わずイメージしたことだが、例えば公園の樹木にある「一枚の葉」にすら、その若葉の最初の産声の瞬間から、地面に落ちて枯葉となり、土に養分として吸収されるまでの壮大な「ミクロコスモス=物語」が存在していることを、ソレルスはその文体において読者に教えている。一本の樹木について原稿用紙で三枚くらい費やす作家ならいるだろうが、さすがに五百枚をその葉一枚の生死に全力で費やす書き手はいないだろう。だが、このソレルスの文体であれば、それは可能になる。私はこの絵画的、あるいは「映画的」(動く絵という点において)なディテールへの徹底した観察眼に、美を感じた。(※2)
 例えば、少し長くなるが以下のテクストには本書の文体の特徴が明瞭に現れている。
 

ひとりの女が菩提樹やプラタナス(浅い緑と濃い緑)の下に隠れ、村の狭い道、緑色の鎧戸と乾いた石の壁の白い家に沿って、歩道もなく続いている道を歩く。彼女は車に乗り込んでスタートする、車はプラタナスの並木道を全速力で飛ばし、牧場を抜け、丈の低い葡萄の畑を通り、やがて海に出る。斜面になった牧場の尽きる辺り、右手に広がり、輝く海。車がまた別の村を通り抜ける時、村を貫く道の端に、青く光る四角形の海。白い壁の間に一瞬空と水とが見え、たちまち消える……空は晴れている。一日中晴れだろう。公園に面しているであろう僕の部屋から、眼を覚ました僕は、芝生やかたまって咲いているカンナとチューリップや、まわちはじめる水撒き器(遠いのでその音は聴こえない)を眺めるだろう、少人数のグループになって真中の小径を進み、陽の当たる中庭まで来て、やがて建物の中に入る朝の最初の訪問者たちの数をかぞえるだろう(僕に会いに来る人は一人もいない。一日中僕だけの時間であるだろう)。僕はすぐ傍のプラタナスの葉を眺めるだろう、その影がバルコニーの石の上を動く……何故なら、僕を街の外に移す必要があったのだろうから。その時、白い部屋に一人取り残されて、僕はより鈍い痛み――胸の真中の、今は麻酔で一時的に紛らわされている痛みを感じるだろう。呼吸が困難であるにも関わらず落ち着きを払って、顔を低いテーブルの方に向けているだろう、その上には、他の紙に混じって、僕の言いつけ通りに一緒に持って来られたオレンジ色のノート、まだ余白があるので今これを書き付けることのできるノートが置かれている。書くこと、そしてあの肉体、既にもうずっと前から放置されている死骸――今頃は分解の最終段階に入り、肉もほとんど完全に溶け落ちた骸骨を想像すること(いやまだ幾分は肉片が残っているかもしれない)、ある夏の朝、博物館のガラスケースの中に見た頭蓋骨と同じく、度外れて眼窩の大きな無名の髑髏。――その時僕たちが立ち並ぶミイラの間を歩いて行った長廊下には、高窓から日光が射し込んでいた……(p110~111)


 この箇所は特に場面が矢継ぎ早に変化しつつも、一つのファンタスマゴリーに映し出された映像のように滑らかに接続し合っており、非常に美しい。分解して読解してみると、最初の場面は見知らぬひとりの女性が車に乗り込み、やがて海に出るまでのシーンである。

ひとりの女が菩提樹やプラタナス(浅い緑と濃い緑)の下に隠れ、村の狭い道、緑色の鎧戸と乾いた石の壁の白い家に沿って、歩道もなく続いている道を歩く。彼女は車に乗り込んでスタートする、車はプラタナスの並木道を全速力で飛ばし、牧場を抜け、丈の低い葡萄の畑を通り、やがて海に出る。斜面になった牧場の尽きる辺り、右手に広がり、輝く海。車がまた別の村を通り抜ける時、村を貫く道の端に、青く光る四角形の海。白い壁の間に一瞬空と水とが見え、たちまち消える…[A]


 続いて、「晴れた空」を接続因子にして、「僕」が部屋から公園を観察している場面が描かれる。

…空は晴れている。一日中晴れだろう。公園に面しているであろう僕の部屋から、眼を覚ました僕は、芝生やかたまって咲いているカンナとチューリップや、まわちはじめる水撒き器(遠いのでその音は聴こえない)を眺めるだろう、少人数のグループになって真中の小径を進み、陽の当たる中庭まで来て、やがて建物の中に入る朝の最初の訪問者たちの数をかぞえるだろう(僕に会いに来る人は一人もいない。一日中僕だけの時間であるだろう)。僕はすぐ傍のプラタナスの葉を眺めるだろう、その影がバルコニーの石の上を動く……何故なら、僕を街の外に移す必要があったのだろうから。その時、白い部屋に一人取り残されて、僕はより鈍い痛み――胸の真中の、今は麻酔で一時的に紛らわされている痛みを感じるだろう。呼吸が困難であるにも関わらず落ち着きを払って、顔を低いテーブルの方に向けているだろう、その上には、他の紙に混じって、僕の言いつけ通りに一緒に持って来られたオレンジ色のノート、まだ余白があるので今これを書き付けることのできるノートが置かれている。書くこと、そしてあの肉体、既にもうずっと前から放置されている死骸――今頃は分解の最終段階に入り、肉もほとんど完全に溶け落ちた骸骨を想像すること(いやまだ幾分は肉片が残っているかもしれない)[B]


 自室で物思いに耽るうちに、ある夏に博物館で骸骨を見た記憶を回想するが、その際にもやはり「細部」まではっきりとイメージが復元されている。

ある夏の朝、博物館のガラスケースの中に見た頭蓋骨と同じく、度外れて眼窩の大きな無名の髑髏。――その時僕たちが立ち並ぶミイラの間を歩いて行った長廊下には、高窓から日光が射し込んでいた……[C]


 このように、ソレルスの文体は、全く異なる人物についての映像[A]が、本筋としての語り手の日常に唐突に挿入されたりするが[B]、語り手もまた回想によって記憶の細密な場面にまで帰っていく[C]ことになり、これらがある「語」を媒介にして滑らかに結合し、ひとつながりの「空間」を形成しているのである。
 別の箇所を拾って読んでみよう。

緑色のビロードのカーテンを僕は引き寄せる。戸棚を開ける。するとあれが起こるのだ。影と布の奥に、とうとう円筒形の見通しが開く。たった今絶対の裏側に口を開けた虚無、その中を攀じ登りながら、そこに生じたもの――幾世紀もの錯雑した塊、実際には何の音も聞き取れはしないのだが、その呟きが次第に強くなる塊――そこを立ち去り、逃れ去り、必然的に逃れ去るはずのもの――そして最も透徹した精神のみが達し得るまさにその場所から始まるもの(自分の中にあるもの以外に創り出すことはできず、事実、自分にはそれと判らぬながら、自分の欲するもの自分の本性から言って当然発見するはずのものを発見し、目的と手段と世界とを生み出し、究極的には全然誤りを犯すことがなく、しかも定義し得ない誤りを常に犯すもの)。そうだ、形もなく、暗闇と冷気の中を攀じ登りながら、見えるものを浸し、彼の中から立ち昇り、彼の外にまで溢れいで、突如として肯定され、或いは否認される何らかの物質によって自己の存在を際立たせる何か、があるのだ。最大限に押し広げられた限界をも文字通り包含する何か、世界の思考を絶する包装があるのだ。…――そして僕は、部屋の中、戸棚の瀬戸の把手に手をかけた僕のすぐ傍にいるらしいと推測される僕自身の中を覗いて、至る所でこの夜にたちまじる。(p135)


 読み難い、にもかかわらず何か研ぎ澄まされた濃密なauraの気配を感じてページを捲らせてしまう魔力――『公園』にはそんな言語の力が作動している。この作品の「僕」の心理描写は「意識の流れ」の手法を緩用しているが、それは「鼓動のリズム」と歩調を合わせるかのようにして細かく綿密に描かれている。事物観察における細密主義が、自己の内面観察においても採用されているのである。




「参考文献」


公園 (1966年)公園 (1966年)
(1966)
フィリップ・ソレルス

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「註」

※1)――以下のテクストは「自室」という閉ざされた空間で記されたものであろうが、この場からすると近くにありながらも常に観察対象として「遠さ」を与えられる「公園」という空間は、到達不可能な存在の故郷としてエリアーデのいう「世界の中心」の概念に近接しているだろう。自室にとって、公園とは常にひとつの、あるいは複数のミュトスの場なのだ。

「いつでも彼の人生そのものに思えていたあの馬鹿でかい部屋から、彼は物音一つ立てず、そっくり抜け出ることができたのか? これまで誰一人成し得なかったような一つの行為の基盤を固めるというのか? この極端さ、この充溢を向こう側で再び見出すというのか? 彼に優先する唯一の現実的なものに反抗して彼が同時に創りあげた幾つかの逸話は、いったい誰かによって知られるということがあるのだろうか?」(p93)


※2)――ソレルスの文体では物事の「断定」は巧妙に避けられ、以下のようなアモルフで捉え難い状態が常に持続している。

「表と裏、夜と昼――というよりも、蝶番のように、表と夜、裏と昼、そのどちらでもなく、しかも同時にその両者であるもの」(p147)













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