† メディア論 †

基礎情報学について �

ミュシャ


〈階層的オートポイエティック・システムについて〉

ヒトは、社会システムの環境であり、逆に社会はヒトという生命単位体の環境である。
これらは「相互浸透」しているとされる。
「相互浸透」とは、複数のシステムが作動を通じて互いに他を環境とするような事態である。特に一方のシステムの作動に連動するように別のシステムの作動が交叉しながら浸透している場合を指す。
「相互浸透」の概念においては、上位システムと下位システムの間に成立する「階層性」の概念は消滅している。
この概念は、オートポイエティック・システム理論を純化発展させようとしている河本英夫氏の『オートポイエーシス』に見受けられるものであるが、基礎情報学においては、「階層性」の視点を見逃すことはできない。基礎情報学においては、「観察者」の存在は必要不可欠なのである。

ある「複合システム」の中に、「要素システム」が内包されているとせよ。
この時、複合システムとしても自律性があり、要素システムとしても自律性がある場合、双方のシステムは、「階層的な自律システム」であると規定される。
この「階層的な自律システム」は、基礎情報学が定義するオートポイエティック・システムである。
最も重要な点は、「複合システムを観察している時、要素システムはアロポイエティック・システムのように見える」ということである。

 「オートポイエーシス単位体は、観察者がアロポイエティックなものとして記述するような仕方で、複合システムのコンテキストにおいて機能するのである。」 (マトゥラーナ&ヴァレラ)



この「階層的な自律システム」は、ヒト個体の生命ネットワークにも無論見出すことができる。
では、そもそも「階層性」とは詳密に何を意味するのか?
それは、「拘束binding」「制約restriction」の関係から述べることができる。
上位システムが下位システムの作動に制約を加える時に、階層性が成立するとされるのである。
例えば、「複合システム」Aが「要素システム」Bの上位にあるとせよ。
この時、「Aの観察者から見ると、Aの作動の中で、Bがアロポイエティック・システムとして一定の機能を果たしている」という関係が成立する。
重要なことは、BがAに拘束/制約されているにも関わらず、そのことはBの構成には影響を与えず、意識すらされないということである。
Bの受けている拘束/制約を認知するのは、Aの観察者のみなのである。

ミュシャ34536


もしも仮に、この世界がある上位世界の要素システムとして機能しているとすればどうであろうか?
要素システムからは、上位システムから拘束/制約されているという実感が持てない。
それを認知しているのは、上位システムから下位システムとしての我々の世界を眺めている「観察者」のみなのである。
この時、この「観察者」とは一体誰なのだろうか?
これはシステム理論の「階層性」概念を、神学的に変換した発想に基いている。
ネオ・プラニストたちがかつて思考した世界の「階層構造」の上位にある「英知界」などは、この我々の暮らす生活世界の上位システムとして位置付けられないだろうか?

上位システムAは、下位システムBにとって、つまりBの観察者にとっては、暗黙的かつ非明示的な存在に留まるのである。AはBに拘束されることはない。つまり、非シンメトリーな関係なのである。

〈ヒトの心は社会システムの機械的部品か?〉

基礎情報学によれば、「社会」とは、「コミュニケーションを構成素とするオートポイエティック・システム」である。「社会」は、「記述/解釈項の表現」を素材として形成される。したがって、「社会システム」の観察者から見ると、「心的システム」は、利用可能な素材を出力するアロポイエティック・システムとして社会システムの中に組み込まれるのである。
心的システムは、社会システムにとっては「機械的部品」なのである。
ヒトの心的システムは、社会システムというより上位のシステムの下位に位置する。
つまり、非シンメトリカルな関係なのである。
安定している作動している社会システムにおいて、そこに組み込まれた心的システムは、社会から課された「制約/拘束」のもとで、オートポイエテイックな思考の再生産を続けているのである。

例えば、XとYが「対話」しているとせよ。
この時、XとYという各々の生命単位体は、構造的にカップリングする。
しかし、基礎情報学的な視点に依拠すれば、二人のコミュニケーションを眺めるのは、上位システムとしての「社会システム」からなのである。
つまり、「観察者」の視点を、「階層的な自律システム」における上位システムに置くことができるのである。
ちなみに、「社会システム」の更に上位にあるのが、「マスメディア・システム」であると規定される。
すなわち、「マスメディア・システム→社会システム→心的システム」という階層性の順位が存在するとされる。

ミュシャ 452


〈第一章~第二章までの要旨〉

少し復習すると、これまでのまとめとして表明できることは、
情報は伝達されない」ということであった。
なぜなら、単位体同士が刺激に対応して「構造変化」するからである。
基礎情報学においては、「対話コミュニケーションによる合意の形成」に懐疑的な立場を取っている。
コミュニケーションとは、情報が共通なものになることであったが、これは「擬制(フィクション)のメカニズム」としても考えられる。
コミュニケーションにおいて浮上するのは、常に情報のpieceである。
人物XとYの対話において、彼らのコミュニケーションとは、常にa piece of infortmation(一片の情報)のやり取りであると規定できるだろう。
言語化していない無数の「情報の塊」が、彼らの心的システムの内部で渦巻いているからである。

そして、もう一つ重要なことは、「階層的オートポイエティック・システム」という概念の豊穣さである。
先のXとYの対話においては、双方は構造的にカップリングしている。
XとYのそれぞれには、各々の心的システムが存在するが、対話において選択されるのは常に先述したようにa piece of informationである。
すなわち、「心的システム」と「対話システム」という二つのシステム間においても、あの「階層性」の概念が生起しているわけである。
「対話システム」とは、「心的システム」の中から不必要な情報と、会話に価値のある情報を選択する、いわば上位システムである。

さて、ホフマイヤーは「生命情報(原―情報)」には、「規則性」が見られることが多いと述べていた。
例えば、全てのミツバチは、生まれてから死ぬまでの期間に、ミツを運ぶだろう。
これに対して、ミツを運ばないミツバチが登場するような場合も、進化史においては見受けられた。
つまり、「生命情報」がオートポイエティック・システムである以上、規則性から逸脱する突然変異的な出来事が発生するわけである。
こういった、ミツを運ばないミツバチ(それは最早ミツバチではないのだ)を、ホフマイヤーは「記号論的自由(脱ルール)」と定義していた。
生命情報には、「規則性」に従う側面と、そこから逸脱する「記号論的自由」の双方がシステムとして組み込まれているのである。
これを、構造変化の“非定型性”と呼ぶ。
そして、ホフマイヤーは、これこそを「進化」と定義するのである。
「進化」とは、個体の内部システムと環境システム、この相互の構造変化の結果、生命単位体に起きる出来事である。
つまり、「記号論的自由」こそが、生物進化の条件であると彼は規定したのであった。

ホフマイヤーの生命記号論では、生命圏の「階層的自律性」を、「階層的構造体」と呼ぶ。
高レヴェルのオートポイエティック・システムを観察している時、低レヴェルのオートポイエティック・システムは自律性を制約され、アロポイエティック・システムと化す。
例えば、腕の細胞単位に観察者の視座を設定すれば、それらが互いにネットワークを形成していることが解るだろう。
しかし、腕の筋肉に観察者を設定すれば、細胞システムよりも上位システムに変換されたわけだから、筋肉にとって細胞は、いわばパーツとしての役割を果たしているように見えるであろう。
けれども、細胞の一つ一つは、筋肉の運動に重要な役割を果たし、細胞システム(下位システム)と筋肉システム(上位システム)は相互に意味の伝達を行使しているわけである。
生命体の内部システムそのものが、階層的オートポイエティック・システムなのである。

ところで、基礎情報学における重要なコンセプトに、「原―情報」と「社会情報」の差異というフレームが存在することも、前回のプロトコルで述べている。
整理しておこう。


「原―情報」―――――――ヒトの心的システム――――――→「社会情報」
raw information  「認知/観察/記述」       social information



「原―情報」とは、「生命情報life information」である。
これは、ヒトの観察/記述を受けていない原型的な存在であり、プラトン的な意味を持たせれば情報の中の情報それ自体すなわちイデアである。

さて、「原―情報」はヒトの記述(メッセージ)を経て、「社会情報」へ変容する。
これは原―情報からヒトの心的システムが自由に選択した情報であり、既に多くの濾過を経ている結果としての情報である。
「社会情報」の中で、最も多くのヒトに受け入れられている情報は、「日常的情報popular information」などと呼ばれる。
これは、社会情報の中でも、とりわけ解釈項の外延が広い社会情報という意味内容である。
このように、「原―情報」が「社会情報」化する過程で、媒介項となるのはヒトの心的システムである。
ヒトの心的システムを通過すると、「擬制のメカニズム」によって、意味解釈のズレが小さくなる。
日常的情報となると、このズレは更に小さくなるだろう。
しかし、情報の伝達のプロセスは、これだけで終わるわけではない。
そもそも、何故本書が書かれたのか?
それはおそらく、Googleなどの躍進を見越した上で、サイバースペースの概念がいよいよ重要視されてきたからこそであろう。

記述された社会情報は、更に変容を遂げることができる。
それが、「機械情報mechanical information」である。
これは、社会情報の意味内容がデータとして「潜在」したもので、また社会情報化することが可能なのである。

ミュシャ4745



基礎情報学において、「社会」とは、コミュニケーションが新しいコミュニケーションを作り出していくシステムである。
「コミュニティ」とは、コミュニケーションの素材を提供する個人の集合であり、「社会」の基本形である。ソシュール言語学的に表現すれば、共通のlangue(言語体系)を持つ社会的集団に他ならない。
では、コミュニティは人類史の上でどのように進展してきたのであろうか?


環節的分化社会

農耕牧畜文明以前の一五〇名単位ほどの集落である。
音声中心主義的である。

成層的分化社会

超越的なコードとしての神の存在。
いわば観察者である。

想像のコミュニティ」=「近代:機能的分化社会

グーテンベルクによる書物の出現(出版メディアの誕生)。
非対面的なコミュニケーションの成立。


コミュニティ構成メンバーの心的システムから社会システムへの回路を開くのは「意味の社会的共有」という擬制であるが、この回路を可能にするものは、「メディア」である。
「メディア」は「情報の意味内容の共有」という擬制を作る。
それは一対多の「伝達作用transmission」を可能とする。

基礎情報学では、「社会システム=メディア」と規定される。
より正確に定義すれば、「メディア」とは、「情報を纏め上げるメカニズムであり、素材にフォルムを与えるもの」である。メディアなしには、社会の諸システムは存在しない。

〈メディアの分類〉

伝播メディア

TVや新聞、Webなど、コミュニケーションの伝播する物理的(空間的/時間的)な範囲を拡大する機能を持つメカニズム。

成果メディア

貨幣、真理、権力、愛など、主観的要素を排除し、共通性を伝播メディアに保証するメカニズムである。これはとりわけ、グーテンベルクによる印刷技術との結合によって発展した。

〈マスメディア・システムについて〉

社会システムとは、「機能的分化システム」である。
社会はまた、数多くのサブシステムの集合体である。
基礎情報学では、先述したように、「マスメディア・システム」を最上位に位置するシステムであると規定する。
「マスメディア・システム」の観察者は、あくまでヒトの心的システムである。
正確に「マスメディア・システム」を定義すると、それは「マス・コミュニケーションを構成素とするオートポイエティック・システムである」。
「マス・コミュニケーション」とは、各機能的分化システムと構造的カップリングした「社会観察者」の「記述」を素材として伝播メディア上で織り上げられるものである。
「マスメディア・システム」の特徴は、各下位システムの「観察・記述」を掬い上げて、それを更にニュースとして「観察・記述」に置き換えることである。
これは、一種の「メタ社会システム」とも考えることができる。
生起する各システムのコミュニケーションについてのコミュニケーション」であるマスメディア・システムは、それだけいっそう主観性が排除され、抽象性が高くなる。
マスメディア観察者」の視点に立つと、下位システムとしての心的システムは、アロポイエティック・システムとして上位システムであるマスメディア・システムに組み込まれるのである。

さて、マスメディア・システムはどのように下位システムからの「観察・記述」を掬い上げるのだろうか?
マスメディア・システムにおける二値コードは、あくまで「人気/不人気」に基いている。
ルーマンは、「マスメディア・システムとは、内部で情報を絶えず非情報に変換し続けながら、常に新しい情報を生み出すことで自らを再生産するシステムである」と規定している。

〈realityについて〉

「現実」とは何か?
現実(リアリティー)には、「潜在性」と「複数性」という二つの要素がある。
「潜在性」とは、顕在化していない別の現実があるということである。
「複数性」とは、各主体を取り巻き、経験として蓄積される環世界(世界観)を意味する。
基礎情報学における「現実」の定義とは、「社会システムが作り出し、心的システムに拘束を与えるもの」を意味する。

現実―像image reality

現実―像とは、マスメディアが与える擬似統合的イメージである。
TVや新聞が発信する現実は、徹頭徹尾、全て「現実―像」に過ぎない。
そのシステムの二値コードは「人気/不人気」である。
つまり、マスメディア・システムは、「現実―像」を生産し続けるものなのである。

マスメディアが現実を捏造している、といった通説は、しかしミステークである。
何故なら、そもそも基準となる「唯一の真なる現実」などがどこにも存在しないからである。
世界は多システム化しており、全ては主体が属する各システムに依拠した世界観が描き出す現実―像の戯れである。
その中で最も拘束力を持つ私的コミュニケーションを斉一化するのが、マスメディア・システムである。
マスメディア・システムはパッチワーク的な虚像=現実―像を常に産出する。

マスメディア・システムは不安定で、流動的であり、不動かつ同一ではない。
近代社会特有の「絶対的準拠点の喪失」は、「マスメディアの不安定性/非一貫性」という点と結びついている。


ミュシャ676

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