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「阿呆船」の光と影――ロチェスター伯爵の生涯『リバティーン』(ジョニー・デップ主演)


リバティーン [DVD]リバティーン [DVD]
(2009/01/28)
ジョニー・デップ、サマンサ・モートン 他

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 『リバティーン』(The Libertine)は、2004年のイギリス製作映画。ジョン・マルコヴィッチ出演の舞台の映画化作品。
イギリスに実在した天才詩人、第2代ロチェスター伯爵ジョン・ウィルモットの生涯を描く。彼はすばらしい才能の持ち主だったが故に、酒とポルノに溺れていき33歳の若さでこの世を去る。この映画では、彼が唯一愛した女優エリザベス・バリーとの関係に視点を置いている。
 17世紀のイギリス。王政復古したイギリスは、技術、芸術様々な面で急速に発達していた。社会では、自由主義の風潮から性に対する考え方も大きく変わっていた。
詩人ロチェスターは3ヶ月前、国王の大切な宴で卑猥な詩を読み、国王の怒りを買い幽閉された。しかし今、国王の恩恵を受け、再び妻と共にロンドンに戻ることになる。ロンドンでは相変わらず、悪友と酒を酌み交わしていた。そんな彼の唯一の楽しみは、芝居小屋でお芝居を観ることだった。
ある日ロチェスターは、観客にブーイングを受ける一人の女優エリザベス・バリーを目にする。彼は、彼女の隠れた才能に気づき、個人指導を申し出る。初めのうちはロチェスターを警戒するエリザベスだったが、彼の熱意に押されていく。いつしか2人は、恋に落ちていた。
※出典:Wikipedia



 ロチェスター伯爵といえば、ヨーロッパの上流階級専用の秘密倶楽部として名高い「ヘルファイアー・クラブ」に関与していた放蕩貴族として既に本サイト掲載のこの書評でも言及している。1000を越える女性たちと1000を越える方法で快楽に耽ったという彼を演じるのはハリウッドでお馴染みのジョニー・デップだ。デップがロチェスターを演じてしまうことで醸し出されるある種の喜劇性が観る前の不安だったのだが、よく考えればロチェスターにもおそらくこの俳優に近い道化的な身振りがあったことは間違いないので、むしろ適任だったのかもしれない。
 舞台は1660年、チャールズ2世下で社会の風紀は荒廃している。ロチェスターの友人の一人の肥満漢はもしかするとヘルファイアー・クラブの常連だったダッシュウッドをモデルにしているのではないか(容貌が肖像画と酷似している)。貴族も庶民も酒と女を浴びるように貪っている、そんなソドムとゴモラの黄昏である。マルコビッチ演じる王から「私のシェイクスピアになれ」と言われるほど、一時期は詩人として才能を謳われたロチェスターだが、彼は時代の荒んだ気運に毒され易い気質だったのだろう。結局、他の宮廷芸術家たちのように刻苦して制作に勤しむことなどできず、「食しては交わり、交わりては食す」を繰り返す。そんなある日、劇場で出会った素人役者の娘リジー・バリーに恋をするのだが、映画では二人の恋愛関係が非常に見え辛い。稽古を通して二人の中に恋を越えた絆が芽生える、という物語の戦略だったはずだが、ドラマティックな展開に欠けている。
 映画中ではロチェスターが制作した戯曲も再現されている。王曰く「猥雑な宮廷批判」に過ぎないその作品は、バフチンのいう大地的/ファルス(笑劇)的なものを宇宙の原理として提示する「グロテスク」の概念に忠実であり、いわば一種の「阿呆劇」である。ロチェスターの戯曲ほど15世紀のドイツの作家セバスチャン・ブラントの『阿呆船』に通底する作品は他にないだろう。グロテスクなカーニヴァルは、大江健三郎の作品に見出され得るように、あくまでもメタファーとして効果的に用いると物語に比類なき衝迫力を与えるものにもなるのだが、彼はあくまで現実で女を抱き、情熱を芸術に注ぐことはできなかった。芸術家が女遊びと酒の虜になる例は古今東西枚挙に暇が無いが、彼もまた総じてこのような凡夫の系譜に名を連ねてしまったということだろう。

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1494年にバーゼルで刊行されたセバスチャン・ブラントの『阿呆船』カバー絵

1490–1500
ヒエロニムス・ボッス《阿呆船》(1490–1500)

 ロチェスターを「芸術家」の寓意として解釈することは常に可能だろう。例えば、ラクロが『危険な関係』を執筆している最中、実直な軍人生活を送っていたことがここで対照的な構図として浮かび上がる。作品に女遊びに夢中になる男を描くか(ラクロ)、実際に女遊びに夢中になるか(ロチェスター)――この二者択一を迫るような心性が、おそらくキリスト教の禁欲的道徳主義が生み出した一つの弊害であることを、映画は暗々裏に我々に示しているのではないだろうか。そこには悦ばしき中庸などなく、どちらか一つに埋没してしまう危険性がある。実際、ロチェスターの母は厳格なキリスト教徒であり、彼もまた「禁欲」の反転衝動として「快楽」に疾駆していたことを思えば、むしろこの時代は教会権力の生み出した負の産物とも言えるのではないだろうか。「詩作、飲酒、女遊びが現代人の三つの楽しみ」――これはロチェスターの台詞だが、欲望と芸術をめぐるこうしたテマティックは今日でも数多くの芸術家を呪縛し続けているだろう。
 アルコールと性病で廃人と化したロチェスターの姿は悲劇的である。特に、妻が戻ってきて泣くのを止め、失禁を隠そうとする場面は快楽の代償としての「苦悶」が滲み出ている。あらゆる物事は常に平衡を保とうとするのだから、美しかった彼が遊行によって悪魔的な姿に変貌していく様はむしろ自然である。あるいは、ロチェスターであればそのような悲惨な自分をあらかじめ予感し、悲劇に向かって直走っていたのかもしれない……。



 
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