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現代の『ヨブ記』に見る、耐え抜く男の生き様――マッツ・ミケルセン主演『偽りなき者』(第65回カンヌ国際映画祭男優賞)


偽りなき者 [DVD]偽りなき者 [DVD]
(2013/10/04)
マッツ・ミケルセン、トマス・ボー・ラ―セン 他

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 何度も観る価値のある映画というものがある。私にとってマッツ・ミケルセン主演の本作はそのような稀有な作品だった。
 ストーリーを簡潔に紹介しておこう。主人公のルーカスは教師をしていたが、学校が閉鎖されたことで児童養護施設で働くことになった男性である。妻とは調停中で「電話しない」と約束しているが、息子のマルクスは父親との生活を望んでいる。ある日、施設にいる少女クララがルーカスに性的な行為を受けたことをほのめかし、施設全体で問題になるという事件が起きる。しかし、ルーカス自身は何もしておらず、これはクララの兄が閲覧していた卑猥な画像を見てショックを受けた彼女が、信頼していたルーカスにも同じような男性的な欲望が働いているのではないかという不安から生じた「嘘」である。映画はこのように、無実な男性が突如として人々の批判に曝され、職はおろか社会的名誉も著しく傷付けられる様を克明に描いている。
 何の罪もない男性がある日不条理な仕打ちを受けるという出来事――しかも男性はひたすら「受苦」の姿勢を取る――これはどこか旧約の『ヨブ記』のテマティックに我々を案内するだろう。ヨブはルーカスと同じように、ある日突然家族、財産はおろか、自分の肉体の健康さえ失ってしまう。これによってヨブはおよそ文学史上他に類例を見ないほど切実極まる悲劇的な調子で、神の意志を糾弾するのである。友人たちとの絶え間ない話し合いと自問自答の末に、ヨブは再び神を信じようと決意する。すると神は彼に損なったもの全てを返し、それ以上の恩寵で彼を満たすのである。つまりヨブはアブラハムがイサクを献身させたことで、この男がどれ程自らを信頼しているのかを確認し、最愛の息子の命だけでなく、神との信頼関係それ自体をも贈与したわけである。ヨブにとっての試練もまた神のクリプト化された贈与なのであり、およそいかなる苦節も神学的には神の愛であると規定することができるだろう。
 この映画でも、ルーカスは見覚えのない罪で街の多くの人々から白い眼で見られ、侮蔑され、攻撃される。それは純真な預言者と彼の恐ろしい迫害者の構図に近いだろう。買い物するためにスーパーに行けば追い出され、飼っていた愛犬は無惨に殺されてしまう。一人の少女の作った「嘘」が、人生を半分以上生きた年齢の男性の生活環境を激変させてしまったわけだ。しかし、ルーカスはひたすら静かに耐え続ける。この忍耐が遂に「憤怒」となって露わになる教会での苦渋に満ちたミケルセンの演技は素晴らしい。教会で神を敵に回してでも彼は手を振り上げなければならなかった……その無念さ、その孤絶された感覚を、彼の無実を知る慈悲深き神は赦すだろう。そしてルーカスはヨブのように再び人々の信頼を快復する。彼らはこの男が無実であることに気付いたのだ。
 だが、映画のラストではルーカスにまだ陰湿な暴力を加える人が存在することを暗示する。そこでこの映画が終わるところに、旧約にはない現代社会からの新たな意味付けを感じるのである。これは人間が一度弱者として認めた者に加える暴力の執拗さを表現しているとも解釈できるが、むしろ私には「神」の不在のテーマを感じるのだ。実際、ルーカスを究極的な孤絶の最中で救い出したのは信仰ではなく、むしろ神の愛を代理する最愛の息子マルクスとの親子愛を通してである。この限りで、この映画の主人公は反教会的であり、聖域に居場所を見出すことができない。何故なら、教会を居場所としているのは彼に暴力をふるう信徒たちだからだ。それでも、何人かは彼の無実を信じている善良な人々も存在する。「教会」は、いわば「善きサマリア人」たちが集う集会所において再現前しているのだ。
 ミケルセンの演技には何か形而上学的な「意志」の力を感じる。彼の貴族的な容貌は意志の強さ、信念の堅固さ、そして孤独の中でもけして死を選ばずに生き抜く圧倒的な「執念」を感じさせる。この映画はミケルセンなくして成り立たない恐るべき作品であり、我々は彼の必死で生き延びようとする姿勢を通して、改めて「生きる」ことの輪郭を取り戻すのである。






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